はじめてのおふろ(名雪編)
あれは6歳の冬、わたしの誕生日の出来事だった。
初めておかあさんにプレゼントをねだった誕生日だからよく覚えている。
おかあさんは仕事が忙しくて大変なんだから何かをねだるのはいけないことだ、と幼心にいつも思っていた。
だからこそ、あんなに積極的に何かを要求したのはあの時が初めてだった。
でも、よりにもよってあんなものを欲しがるなんて……無知ってのは怖い。
わたしがケーキを食べてるときに、おかあさんがカメラを構えた。
私がとても小さい頃のおかあさんの思い出は、カメラと共にある。
わたしと一緒に過ごす時間を、おかあさんは何よりも大切に考えていた。
だからこそ、その瞬間を形にしていつでもどこでも見られるようにしたかったんだと思う。
でも、あのころのわたしはそんなこと判らなかった。
カメラをいじってる時間がもったいない。その時間でもっともっとお母さんとお話をしたい、いろいろな事をしたいと思っていた。
フラッシュの光が眩しくて見えなくなっていた目が元に戻る。
さて、と目をケーキに戻すと……無い。
半分近く食べて今にも倒れそうなケーキの上に乗ってたイチゴ。
おかあさんと猫さんの次に大好きだから最後の楽しみに取っておいたイチゴ。
そして目の前の祐一は澄ました顔で紅茶を飲んでいた。
祐一のお皿に乗ったケーキはクリームやイチゴが乗った部分は無くなり、スポンジが少し残ってるだけ。そしてその脇にはイチゴのへたが二つ。
なのに祐一は知らないとすっとぼけた。さらに追求したら隠したと言った。
でもどこに隠したか教えてくれない。
そして祐一は相変わらずすました顔で紅茶を飲んでいる。
昔から祐一は意地悪で自分勝手なところがあった。三つ子の魂百まで、その点は今でも変わっていない。
とうとう頭にきてわたしは祐一に飛び掛った。
掴み合い、転げまわる。
やけになり、切り分けてない残りのケーキに載ったイチゴを全部食べ、更にスポンジの間にあるスライスされたイチゴも食べた。おまけに、祐一に取られないようにスポンジを投げつけて追い払っていた。
とても行儀悪い事をしているという自覚はあった。だけど、色々と積み重ねてきた我慢のタガがこの一件で外れ、爆発したんだと思う。
おかあさんのためによい子でいたストレスを祐一に八つ当たりして晴らしていたのかもしれない。
さすがに疲れてお互いに脱力していた。
その時、急にわたしは宙に舞い上がった。
視線はこれまでよりずっと高い位置にある。
スカートが体に食い込んで痛い。
そしてどこかへ移動してゆく。
隣には祐一が同じ高さにいて、青ざめていた。
祐一のトレーナーは背中をほっそりとしたお母さんの手で掴み上げられていて……!?
「ふふふ……ふたりとも元気ですね」
おかあさんの声が後ろから聞こえてきた。声はいつものように優しい感じだったけど、何かが違った。背中から禍々しい気配がひしひしと伝わり、どうしても振り向けない。
そしてお風呂の前で下ろされる。
「体、奇麗にしなさいね」
口調はいつもどおりの優しい感じでそう言った後、おかあさんの足音は遠のいていった。
後ろから伝わっていた禍々しい気配による硬直がとけ、互いに顔を見合わせる。
お互い、顔といい体といいクリームまみれだった。
「名雪……どっち先に入る?」
「うーん……」
トイレとかお風呂屋さんは男と女で分かれてるんだから一緒には入らないんだよね。
お母さんはお仕事が忙しくて疲れてるんだからひとりでゆっくり入ってもらおうと考え、わたしもひとりでお風呂に入る習慣がついていた。
だから誰かと一緒に入るということに抵抗があった。
そのとき横から手が伸び、反対側にあった棚から雑巾を引っ張り出した。
「ふたりともさっさと入って寝てしまいなさい、夜更かしはいけませんよ?」
「「う……うん」」
ふたりともおかあさんに顔を向けることもなく返事する。またも禍々しい気配が渦巻き、お互い息をするのも忘れたかのように硬直していた。
その気配の主が去ることでようやく呪縛から解放され、大きく息を吐く。
「……入るか」
「……うん」
順番に入っていたらおかあさんが入るのはかなり遅くなるだろう。仕方ない、一緒に入ろう。
そう思い服を脱いでいると、祐一はなぜか横の方を見ていた。何かいるのかな? 猫さん?
「祐一、どうしたの?」
「ど、どうしたって……」
なんで戸惑ってるんだろう?
「へんなの」
よく判らないけど寒いからさっさとお風呂に入ろう。
かけ湯を済ませ湯船に入る。
いつもはアヒルのオモチャで遊んでたけど、祐一に見られたらきっと隠されたりからかわれたりするから今日は我慢しておこう。
それにしても、祐一はなんであんなに長くかけ湯をしてるんだろう?
さっさとからだ全体にかけて湯船に入ればいいのに、足の付け根の辺りにシャワー当ててじっとしてる。
なんだか痛そうな顔をしていた。怪我しててしみるのかな? だったら我慢しないで適当に済ませればいいのに。
あれ? なんか小さな出っ張りがついてる。わたしにはあんなのないのに。
わたしの足の付け根を見るがやっぱりない。お湯の中だとよく見えないので湯船から上がってもう一度見る。やっぱりない。
一体なんなんだろう? おできかな? 水に当たってぷらぷら揺れたり曲がったりするくらい出っ張る事ってあるんだろうか?
「祐一、なにそれ?」
「じ、じろじろ見るなよ。チンコにきまってるだろ」
「チンコ?」
「おちんちんだよ」
「あ、それがそうなんだ」
おちんちんってのがついてるのが男の子だと聞いたことがある。チンコって呼び方もあるんだ。
シャワーが止まるとお湯でよく見えなかったおちんちんの姿が目に飛び込んでくる。
親指を太くして先のほうを少し丸く膨らませたような形。
あんなのついてたらパンツはいたりおしっこして拭くとき邪魔になったりしないんだろうか?
「あの、触ってみていい、かな?」
「な……?」
「だめ?」
どんな感触なんだろう? 触ってみたいな。
祐一はしばらく悩んでたけど、コク、と頷いて腰を突き出してきた。
「ありがと」
早速触ってみる。
「う……」
祐一は体を震わせた。湯船で温まってないから寒いのかな?
でも顔は赤らんでてむしろ暑そうだ。どうしたんだろう?
とりあえず大丈夫そうなので感触を楽しむ。
「ふうん、こんなふうになってるんだ。ぷよぷよして面白い」
摘んだり捻ったりしていた先端を上に上げてみると、おちんちんの根元に小さな袋みたいのが付いていた。
口が小さいわたしでも食べやすいようにおかあさんが作ってくれた小さめのおいなりさんみたいな袋。
触ってみたら弾力のある塊がふたつ入っていた。
「わ、ウズラの卵みたいのがあるよ」
「ふぐっ!?」
目を見開いた祐一はお腹を押さえて顔をしかめた。
体が冷えておなか壊したのかな?
「そ、そこダメ。男の急所だ」
「きゅうしょ?」
「き、金玉って言って、そこを攻撃されると痛くて動けなくなるんだ」
「……そうなんだ」
手を引っ込めた。
骨は体を支えたり大事な部分を守るためにある、だから硬いんだと本に書いてあった。
それなら金玉ってのも骨で守ればいいのに、なんでむき出しになってるんだろう?
「でも、これはか弱き女を守るために神様が取り付けた安全装置だ。もし知らないおじさんに変なことされそうになったら容赦なく蹴飛ばしてやれ」
なるほど。だからむき出しなんだ。よくできてる。
だけど、変なことってどんなことだろう? 祐一がわたしにするような事かな?
だったらこれからは祐一のこれを蹴飛ばすのかな?
でも、あの痛がり方を考えると、とてもできない。
祐一は確かに意地悪するけど、そんなに嫌じゃないから蹴飛ばすのはやめておこう。
でもぷらぷら揺れるのが面白いからもう少し触ってみる。
「あれ? 何か赤いのがある」
「え? 赤いの?」
先端の穴が広がり、そこに赤いものが見えた。
周りの部分を引っ張って広げてみる。
「あーっ! さっきのイチゴそんな所に隠してるー!」
「イチゴ?」
「返してよっ!」
イチゴを覆っている皮に力を込める。
「ひぎっ!?」
皮を押し下げるとイチゴが露出する。
「えっと、こうすればいいのかな?」
潰さないように力加減をして根元のあたりを摘み、クイクイと引っ張ってみる。
取れない。
もうちょっと力を入れてグイグイっと引っぱってみる。
やっぱり取れない。
「か……はっ、うぐ」
祐一は取られまいとそこを押さえ体をよじって抵抗する。
「う〜、取れないよ〜」
これ以上力を込めたらイチゴが潰れてしまうかもしれない。こうなったら直接食べちゃおう。
「ぎ、や、やめ……」
腰を抜かしている祐一のおちんちんに顔を近づけ、口を大きく開ける。
だけど祐一の声を聞いたおかあさんが血相を変えて駆け込んできて止められた。
それから祐一を部屋まで運んでいき、イチゴのあたりを包帯でぐるぐる巻きにしてしまった。
やっぱりケガしてたからシャワー当てるとき痛がっていたみたい。
だけど包帯巻く前にイチゴは取り返しておいて欲しかった。
一旦部屋を出され、おかあさんから色々と説明をされたが、おかあさんはなんだか動転しているらしく早口で一気にまくし立てたためよく判らない。
そういうことはまだ早いとか、まだ痛いだけだとか大人になってからにしなさいとか言われたが意味がよく判らない。
何で子供のうちはイチゴを取り返してはいけないんだろう? 大人になる頃には腐っちゃうと思うんだけど。
それに痛いだけって、触ったのはイチゴの部分だから痛くないと思うし、もし痛いんだとしたら大人になったら何か変わるんだろうか?
まだ後片付けが終わっていないので、おかあさんは下に下りていった。
わざとじゃないけど祐一に痛い思いをさせてしまったみたいだからちゃんと謝ろう。それに聞きたい事がある。
ドアを開け中を覗く。祐一はベッドの上で脚を動かしては痛みに顔をしかめていた。
「……祐一、ごめん」
「いいよ、もとはと言えば俺が悪かったんだから」
祐一の脚の動きが止まった。
しばらく沈黙が続く。
たしかにこの一連の騒ぎは祐一がわたしのイチゴを取ったのが発端だった。
でも、それからあんなに暴れてクリームまみれにしてしまったのはわたしが悪い。祐一を責めるのはお門違いだった。
済んだ事は仕方ない。問題はこれからのことだ。
「もうイチゴはいいから、隠し方教えて」
そう言ってパジャマのズボンとパンツを下ろす。
「え? え?」
少し足を広げて、祐一がおちんちんを触らせてくれたときみたいに腰を突き出した。
祐一がお風呂から運ばれたあと、祐一だったらおちんちんがついていた辺りを手鏡でみてみたら、そこにはぴたっと合わさった割れ目があって指で広げてみると穴になっていた。
「この秘密のポケットに何か入れたら、さっきの祐一みたいに出っ張りができるんでしょ?」
そうやって何かを隠してる状態が男の子なんだろう。
「え? ひ、秘密のポケット!?」
「ここにそんなのがあるなんて知らなかったよ。ねえ祐一、意地悪しないで教えて」
そう言って更に腰を突き出す。
「ポケット、ねえ……」
ケーキのときみたいにとぼけた態度だった。
「うん、ここを広げるとあるでしょ?」
割れ目に指を当てて広げようとした、まさに、その瞬間。
「……!? うぎゃー!!」
祐一は目を硬く瞑り、痛がり始めた。
「ど、どうしたの?」
金玉ってのを蹴ったりしてないのにどうして?
「名雪のせいだ! バイキン入って腫れちゃったじゃないか!」
え? さっきのケガにバイキンが入っちゃったの?
祐一はおちんちんに手を当てて苦しんでいる。
どうしよう? 祐一はこのままだったら死んじゃうの!?
でもわたしにはどうしていいかわからない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
どんなに考えても何も方法が浮かばない。ついには、もうイチゴなんていらないから祐一を助けてと神様に必死で祈っていた。
それからおかあさんが駆け込んできた。
おかあさんが祐一の包帯をほどくと、イチゴがはまったままのおちんちんが空間に突き立っていた。本当に酷く腫れている。あんなにも痛がるわけだ。
おかあさんが傷薬を塗る。無理に取ろうとしたらおちんちんをよけいに傷つけてしまうのかイチゴはそのままで、そこにも薬を塗っていた。
やっぱりしみるのか祐一は激しく顔をしかめ、体をよじっている。
それからわたしはおかあさんと下に降りた。
不安だけど、祐一は落ち着いてじっとしてれば治るらしい。
おかあさんが秘密のポケットについて説明してるけど、やっぱり動転してて早口なためよく判らない。
どうにか判った事は、ポケットにはむやみやたらと物を入れてはいけないし、何かを入れたらおちんちんが生えるわけでもないらしい。
だったらどうしたら男の子になるんだろう?
この前、祐一は近所の男の子と遊んでいた。
仲間に入れて欲しかったが「女は仲間に入れてやらない」と意地悪言って、わたしに背中を向けてふたり並んで何かをしていて、それからどこかに行ってしまった。
そこを見てみると、真っ白な雪の中に黄色い線で絵が描かれていた。
後で聞いてみると、おしっこで描いたそうだ。
わたしも後でまねしてこっそりやってみたけど、どうしても絵なんて描けなかった。
男の子のおしっこはおちんちんから出るそうだ。
確かに、あのぷらぷらした出っ張りならホースで庭に水まくみたいに飛ばす方向を自由自在に変えられるだろう。
わたしにもおちんちんがついていれば、男の子の仲間入りをして同じ遊びができる。そして、もっと祐一と一緒にいられるだろう。
そう考えていた。
だからポケットの説明がひと段落して、
「ごめんなさいね、仕事が忙しくてプレゼント用意できなかったの。明日にでも買いに行こうと思うんだけど何が欲しいかしら?」とおかあさんが聞いてきたとき、わたしはひとこと、
「おちんちん」と言った。
おかあさんは絶句していた。
無理もない。これまで何かをねだることがなかったから言い方がぶしつけすぎた。言い直さないと。
前に見たマンガに、ものをねだるうまいやり方が載っていた。
にこやかな言い方で、上目遣いで相手を見て、なおかつ自分がいかにそれを欲してるかを盛り込むといいらしい。
だから……、
「うふ、うふふ。ちょうだい、ねぇ、ちょうだいよ。おちんちん、頂戴。わたしもう我慢できないの。ねぇ、いいでしょ? ほしいのよ。おちんちんが。おちんちん! おちんちんがほしいの!」
更に『つけて、ねぇ、つけてよぉ! つるつるで、ぴたっと合わさったわたしのあそこに、おちんちんつけてよー!』と、続けようとしたのだが、おかあさんはわたしの口を塞いだ。
誕生日とはいえ、おかあさんは大変なんだから何かをねだるのはやっぱりよくないことだった。
おかあさんは、あの日のわたしがとった滅茶苦茶な行動と、トドメにあんな物を欲しがった事に非常にショックを受けていた。
仕事にかまけてわたしをあまり構ってあげられなかった影響なのかと非常に悩んでいたようだ。
おかあさんの本棚には心理学をはじめとする様々な医学書や育児書があり、それらには大量の付箋やアンダーラインが見受けられた。
色々と調べ、悩み、あの騒ぎは親からの愛情不足を性的行為で代償していたと考えたらしい。
しまいには、今で言う性不同一性障害を疑っていたようだ。
当時はまだまだ一般には認知されておらず、ストレスがそういった逃避行動に駆り立てるという説もあったようだ。
だからだろうか?
どうしてもプレゼントするわけにはいかないおちんちんの代わりに、ぬいぐるみだけではなく男の子が好むようなプラモデルやミニカー、しまいには木刀まで買ってきたのは。
わたしが男の子向けのマンガではなく少女マンガ、プラモデルやミニカーではなくぬいぐるみを選び、喜んで遊んでいたことにおかあさんは心底安堵していたのを覚えている。
それからだと思う。おかあさんが仕事を早く切り上げて帰ってきて、わたしと一緒にいる時間を少しでも長く取るようになったのは。
そして、あの乱闘の写真を境にアルバムの写真が増えるペースは下がっていた。
お風呂にも一緒に入るようになった。
もう頭もからだも自分で洗えるけど、それでもおかあさんに洗ってもらうのは嬉しかった。
ただ、わたしの足の付け根を真剣な顔で見つめる事があった。
最近になって知った事だけど、世の中には半陰陽といって本来の性別とは逆、または男女の中間の状態で生まれてくる人がいるそうだ。
もしかしたらおかあさんはその可能性も疑っていたのかもしれない。
わたしが初潮を迎えたとき人一倍喜んでいたのはそのためなのだろうか。
まあ、とにかく……ものすごい経緯だけど、それでもおかあさんが一緒にいてくれるようになったのは、あの一件がきっかけだった。
だから祐一にはどんなに感謝してもしきれない。
それに、恥ずかしいところを見せ合った仲だからこそふたりの距離が縮まったんだと思う。
とんでもない内容だが、それでもわたし達にとってはかけがえのない思い出だった。
祐一も思うことは同じみたい。
「そうだよな? 名雪?」
「うん、祐一」
『はじめてのおふろ(祐一編)』へ
SSTOPへ戻る