ドアを開けた。
 清潔すぎて健康なものを受けつけない、白い病室が視界に広がる。
 窓から病室に射し込む光にも、神秘的な清潔さを感じる。
 光は病室の中心に射し込んでいる。
 光の中には真っ白なベッド。
 ベッドの中にはユキが眠っている。
 安らかな顔で眠っている。
 光の中に浮かび上がるその表情は、笑顔。
「ユキ…」
 わたしは、息が詰まってしまう。
 しかし、わたしはユキのいるところに、行かないわけにはいかない。
 一歩ずつ、一歩ずつ、ユキのもとへ。
「どうしてです?」
 そして、ユキのベッドの横にたどりつく。
「約束、忘れたのですか?」
 目の前に来てやっと、はっきり認識する。
 このベッドで寝ている人がユキであることを。
 ユキは、何かに満足したような表情で眠っている。
 すべてをやり終えて満足したというのことなのだろうか。
 わたしは、まだたくさんのことをしてほしい。
「ユキ」
「おう」
 むくっと、起き上がるユキ。

「…………………………………………………」

「おーい、大丈夫か」
「……大丈夫です。目を覚ましたか」
 心臓が止まるかと思った。
「良かった、ユキが死んでいなくて」
「いや、お前の方が死にそうだったような…」
「すみません、ユキ。死んでいると思っていました」
「ひどい、ひどすぎる。しくしく」
 悲しいと、泣きまねをするユキ。
 いつものように、ふざけているように見える。
 だけど、無理をしている。
 ユキは、明らかに無理をして話している。
 声が少しかすれている。
 顔色も青白い。
 しっかりしていた体が、今はこころなしか細くなっている。
「無理をしないで下さい、ユキ」
「無理なんてしてないぞ」
 その声がかすれていて、無理がかえって痛々しい。
「寝ていて下さい」
 わたしは強く言う。
 ユキがあまり言うことを聞いてくれなさそうだったからだ。
「そうさせてもらうよ」
 強く言ったのが幸いしてか、ユキはすぐに横になってくれた。
「不幸というのは突然やってくると言うが、本当だな」
「何が不幸なものですか」
「これからしばらく、病院のまずい食事を食わなければいけない。
 十分な不幸じゃあないか」
「そうかも知れませんね。
 食事がおいしくないのは、不幸かも知れませんね」
「また弁当を作ってくれ」
 懐かしい。
 前にも、お弁当を作っていた。
「あのときよりも、もっと腕によりをかけて作りますね」
「楽しみにしているよ」
「では、さっそく今日から作りますね」
「ずいぶん、気が早いな」
「実は前々から、食べてほしかった料理があるんです」
 用意があるので、わたしは席を立つ。
 お弁当を作る前に、まずは病院の先生から許可を頂かなければならない。
「すぐに戻ってきます」
 とりあえず、ユキを診ている先生を探そう。
 そしてわたしは、ベッドに背中を向けて、ドアに向かって歩く。
 病室から出ようとして、ドアのノブに手を伸ばした。
 そのとき、後ろから声をかけられる。
 一瞬、誰の声かと思ったが、この病室にはわたしとユキしかいない。
「おなかの子供は、順調か?」
 …?
「順調ですよ」
「そうか、それならいい」




 わたしがこの日、再びユキのいる病室に戻ってきたのは、時計の短い針が半分回ってからだった。
 先生と話し込んだけれど、材料を買って、それからお弁当を作っても、夕飯の時間には間に合った。
 再び、ユキの病室のドアを開く。
 わたしは驚いてしまった。
「凄い数の本ですね」
 ベッドの横にある棚の上に、山のように本が積んである。
 育児書、保育書、教育書、家庭の健康学書、各種雑誌。
 子供に関する本ばかりだ。
「勉強してるんですね」
「当然」
 ユキがぱらぱらと本をめくる。
「俺は父親になるのだからな」
 わたしのおなかを見ながら言う。
「何かあったときに、何もしてしてやれない父親では、子供がかわいそうだから」
 ユキは責任感が強い。
 子供のことが加わると、さらにそれに拍車がかかるらしい。
「頼りにしてます」
「ここを退院する頃には、博士になってるよ」
 ユキが、ベッドの脇にある棚の扉を開ける。
 棚の中には、もっとたくさんの育児書があった。
「これなら六人分の面倒もみられそうですね」
「うーん」
 ユキは、なぜか少し黙り込んでいる。
「とりあえずは、こいつだ」
 ユキが、わたしのおなかを見つめる。
「とりあえず、こいつのために全力を尽くす。
 目の前の目標に全力を尽くす」
 ユキは、ベッドで横になりながらも背伸びをして、
「さあ、おなかの子供のためにも、早く治すぞ。
 ということで、飯」
「はい」
 わたしは、食事の仕度をする。
「うん。相変わらず、うまいな」
 ユキは幸せそうに、わたしのお弁当を食べている。
「ありがとうございます」
 わたしは持ってきたポットから、湯呑みにお茶を煎れる。
「ごちそうさま。
 おなかの子供は幸せだな。
 何か行事があるたびに、こんなにうまいものを食べられるのだから。
 友達にも自慢できるし」
「ありがとう、ユキ」
 山のような育児書に隠すように、ひっそりと置かれたお弁当箱に、わたしは気付いた。
 おいしいと言って、食べていたお弁当は少し残されていた。
 今までユキは、食べ物を残したことなどない。
 なのに、残されていた。




 時が進み、ユキとの普通の日常が、病院での日常へとすり替わっていく。
 病気でもユキは、日々、子供のための勉強を怠らなかった。
 怠るどころか、その勉強量は増えていく一方だ。
 睡眠時間を削ってまで、勉強をしようとしていて、止めたこともある。
 そんなことが最近の日常。
 今日の面会も日常になっている。
「ごちそうさま」
「お粗末さまです」
 わたしは、ユキが食べられる量に合わせて、お弁当を作っている。
「冬も近いな」
「はい」
「なあ、秋子」
「なんですか?」
「今、建築中の家ができて、子供も六人、無事に産まれたらどうする」
「そうですね……冬はわたしたちは家の中にいて、子供達は外で雪合戦」
「子供は元気だからな」
「あと、子供達が作ったかまくらの中でお餅を食べてみたいです。
 子供達はお菓子を買ってきて、お菓子の食べ過ぎで、夕飯が食べられなくて」
「そのときはダイニングで叱るのか」
「どうしましょう」
「春は?」
「みんなでお花見に行きましょう。
 わたしたちは桜の花を観て、子供達は出店にわくわくしている」
「そうだな」
 家を出るときに、玄関で子供達がわたしたちを急かしているのが思い浮かぶ。
「場所取りも子供達は喜んでやるんだろうな。
 夏は花火かな?」
「子供達は駄菓子屋さんで花火を買ってきて、夜を楽しみに待っていて、
 花火が終わったら、みんな疲れて家に帰ってきて、すぐに寝てしまう。
 でも、寝顔はまだ遊び足りないのでしょうね」
「秋は?」
「そうですね」
 あれこれと思い浮かび、考え込んでしまう。
「落ち葉を集めて焼き芋でも作ってみるか。
 でも、俺、作ったことないんだよな」
「難しいと聞いてますよ」
「練習しておかないとな」
 賑やかな家族の想像。
 ユキとわたしと子供達がいる未来。
「そうか、そんな家族にしたいのか、秋子は」
「ユキは、どんな家族が良いのですか」
「俺も、そんな家族が最高だよ」
 ユキはそう言ってから、棚の上に置いてある読みかけの本でまた勉強を始めた。




 一日、一日と入院日が延びていく。
 ユキの勉強も、日を追って熱が入っていく。
 わたしは、ユキにとって明らかに体に悪いであろうその行為を、止めることをしなくなっていた。
 どうしてかと言うと、
 わたしがいくらやめて下さいと言っても、ユキは勉強をやめないのと、
 勉強を続けることを本人が、何よりも望んでいたからだ。
 一生懸命に勉強に打ちこむユキの姿を見ているうちに、いつしかわたしは手助けするようになっていた。
 なぜそんなに一生懸命なのか尋ねると、
「当然だろ」
 という、答えが返ってきた。
 おなかの子供とわたしと将来の子供のために、当然のこととして勉強をするユキ。
 自分のことを顧みず将来の家族のために頑張るユキの姿は、わたしを勇気づけた。
 しかし、そんな心の元気さとは関係なく、ユキの体は細くなり続けていた。


 病院にいる間に、季節はすっかり変わってしまった。
 木々からは葉が落ち、その姿を見ただけでも寒さを実感できる。
 ユキの体は小さくなってしまったように見える。
 この頃から、ユキは勉強の合間に少し無理なことを言い出すようになっていた。
 もともと、冗談で無茶なことを言う人だけど、最近は本気だ。
「外はすっかり寒くなりましたよ」
 病院にいる間に、ずいぶん時が経ってしまった。
「よし、水泳だ」
「やっぱり、本気ですか」
「本気だ」
 止めなければならない。
 こちらも本気で。
 でなければ、この人は本当にこの寒い中を室外のプールにでも泳ぎに行ってしまうだろう。
「絶対にやめて下さい」
 かなりきつめに言う。
 でも、やはりやりたいらしい。
「でもなあ、泳げないのはまずい気がする」
 今までの通り、おそらく子供のことを考えて言っているのだろう。
「体に悪過ぎます」
 今のユキの体の状態でそんなことをしたら、ただでは済まないだろう。
「大体、誰が泳げる場所に連れて行ってくれるんですか」
 ユキは、体力が低下していて一人で行動できる範囲がほとんどなくなっていた。
「わたしは、連れて行きませんよ。それに」
 わたしは喉を湿らして言う。
「家に帰ってからでも出来ます」
 ユキは何やら思案して、
「よし。じゃあ、ベッドの上でならいいだろう」
 それでは、泳げるようにはならないだろう。
 しかし、
「一生懸命ですね」
 わたしはユキが、無理をして頑張っていると思っていた。
 でも最近、それがユキの自然体なんだと気が付いた。
 無理をして頑張っているユキが、そのままのユキなんだと気が付いた。
 ユキが、ベッドの上でばたばたしている。
 なんだか、だだをこねている子供のようだ。
 それを見ていたわたしは、思わず笑顔になる。

 そんなことが、数限りなくあった。
 なわとび。
 裁縫。
 コンピューター。
 空手。
 とびばこ。
 果ては、登山とまで言い出した。

 言うことに一貫性がなく、正直、ユキが何をしたいのかがわからなかった。
 だけど、わたしは一緒に頑張らなければいけない。
 そう思った。


 冬はだんだん深まっていく。
 ユキの体が悪くなっていく毎日。
 わたしは、見ていることしか出来ない。
 昔にもっと勉強をしていれば良かったと、わたしは少しだけ後悔した。
 声も体重も、身体のすべてが悪くなっていくように感じられた。
 しかし毎日見るその目だけは、まるで生気を失っていなかった。




 地面に霜が降りるようになり、本格的な冬が到来したことがわかる。
 季節は変わっていくけれど、わたしとユキは変わらず病院にいる。
 わたしの目の前で、細い寝息をたてながら眠っているユキは、ずいぶん変わってしまった。
 なんて姿なんだろう。
 これがユキなのだろうか?
 思わず、そんなことが一瞬、頭によぎってしまうくらいに衰弱を感じさせる。
 最近は階段の上り下りも出来なくなってきている。
 握力もなくなってきていた。
 しかしユキは、
「気合いでカバーだ」
 と言って、勉強をやめることはなかった。
 相変わらず、無理も言う。
 でも、いくら頑張っても、容易に出来ることなど一つもなくなっていた。
 わたしのお弁当を食べることも、ほとんど出来なくなっていた。
 思えば、ユキが病気になって一番悲しんでいたのは、わたしの料理を食べられなくなったことだった。
 わたしは、ユキに出来るだけのことをした。
 本を読むときも、歩くときも、食事をとるときも、いつも一緒にいた。
 今、ユキはわたしの目の前で寝ている。
 暖房の音だけが聞こえてくる部屋の中で寝ている。
 突然、ユキが布団を跳ね除けた。
 そして、かすれた声で叫ぶ。

「子供はどうした」

 その声は小さかったが、緊張していることがわかる。
 わたしは極力、冷静に対応する。
「どうしたんですか、ユキ」
「……いや、夢だった」
 額にかいている汗から、よっぽどのことだったとわかる。
「どんな夢だったんですか?」
 ユキは、自分の跳ね除けた布団を見ている。
 そしてそのまま、夢の内容を話し出した。
「俺とお前で、家を見に行ったんだ。先生には内緒で。
 二人で歩いて見に行った家は、完成していて最高の出来だった。
 抜けるような青空を背景にした家は、本当に綺麗だったよ。
 俺は、大喜びしてな。
 その俺の姿を見て、秋子も喜んでいた。
 ここで俺と秋子と子供で住むんだって。
 でも、そのとき……
 空から一本の大きな角材が落ちてきた。
 秋子に向かって、大きな角材が落ちてきたんだ。
 俺は秋子に覆い被さって、守ろうとしたんだけど……
 俺は意識を失ってしまって、真っ暗になってしまったんだ。
 怖かった。
 秋子もおなかの子供も、守れなかったかもしれないことが怖かった。
 俺は、夢の中で守れたのかな」
 そうか。
 夢の中でまでユキは…。
「きっと大丈夫ですよ。
 夢の中でわたしもおなかの子供も、怪我ひとつありませんよ」
 ユキは息を吸い込んでから、その息を吐き出すように、
「そうか」
 と言った。
「秋子、ノートと本をとってくれ」
 そして、震える手で勉強を始める。




 また、時が過ぎていく。
 過ぎていく、初冬。
 これからも、しばらく病院で生活をするのかと思っていた。
 だけど。
 ユキが入院してからずっと、ずっとぎりぎりでやってきたけれど、
 でも、その日はやってきた。








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