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               −第6章−

30.

 放課後、倉田さんがひとりで僕の教室までやってきた。ニコニコ笑いながら、いきなり話を持ちかけてくる。
「舞にプレゼントをあげようと思うんです」
 倉田さんは、すこし思考が飛んでいるような感じがする時がある。
「学校に来られなくて退屈でしょうし、寂しいんじゃないかと思いますから」
「謹慎の記念品なんて、僕ならいらないけどね」
「すぐに戻ってこられるんですから、元気を出してもらいたいんですよ〜」
 そんな会話から放課後買い物に行くことになり、倉田さんと僕は商店街へ向かった。病院に詰めてくれている叔母からはまだ連絡がない。ひとりで気を揉むのは耐えられなかった。倉田さんの笑顔に、なぜか救われたような気持ちになる。

 校庭を抜ける時、妙な叫びが聞こえた。
「オレのマイチャリがー!」
「どうした北川?」
「相沢、見てくれよコレ。鍵がぶっ壊されてやがる。それに何だこの紙切れ!」
「なんだそれ?」
「”ごめん”って、何様のつもりだっ!」
 悪かった、書いたのは僕だ。
「北川、裏にも何か書いてあるぞ」
「うん?」
 裏? 確か使ったのは天野君が書いたレポートの反故紙だったと思うが。

 ”ご迷惑をお掛けしたことは承知していますが、何卒ご寛容の……”

「綺麗な字だな」
「……もしかして可愛い女の子かな、相沢?」
「さあ?」
「相沢、さっそく自転車屋に向かうぞ」
「犯人探さないのか?」
「罪を憎んで人を憎まずってヤツだ」
「まあ、お前が納得してるなら良いけど……」
 怒ってはいないようだが、やはりきちんと謝っておかなくてはなるまい。修理代を弁償する必要もあるだろう。
「君が自転車の持ち主だったのか。その張り紙のことだが……」
「あ、この前の……。お前は書いた人を知ってるのか?」
 それは、本人だからな。
「彼女に伝えてくれ……」
「は?」
 何を勘違いしているのだろうか、この男は。その生徒はやけに爽やかな笑顔をつくって、親指を突き立ててみせる。
「オレの心は全部美坂に捧げているが、体の半分くらいは貸してやっても良いぞって」
「…………」
「彼女には何かよくよくの事情があったんだろう。いや、そうに違いない! 困り果てた女の子を責めるなんて、オレに出来る訳がないっ。何かあれば、いつでもオレの胸を貸してやるから相談に来いってな」
 ありがたいような、気持ち悪いような……。
「じゃ、頼んだぞ。心の狭いことを言っちゃあ、男が廃るってもんだ! 相沢、商店街でコーヒーでも飲んで行こうぜ。オレの奢りだ」
「北川、お前に奢ってもらうなんて初めてだな」
「はははははー」

 ……今度会った時には、きちんと理由を説明して謝らせてもらうよ。青っぽい制服の背中を見送りながら、そう思う。




31.

 商店街へ来たものの、何を贈れば喜ばれるだろう。相手は川澄さんだ。
「倉田さん、女性への贈り物なんて僕には何がいいのかわからないよ」
「何でもいいんですよ、去年の誕生日にはオルゴールをあげて喜んでもらえました。小さな豚さんがたくさん飛んでるオルゴールなんですよ〜」
「豚?」
「はい、天使の豚さんです」
 さらに訳がわからなくなってくる。そんな物が売っていることすら知らない。可愛いとは、ウサギとかネコまでではないだろうか。
「定番だけど、花などはどうだろう」
 父にも花を買って……いや、あの男には似合わないか。
「舞は佐祐理の誕生日に、山ほどの花を抱えて持ってきてくれました。本当にたくさんで、前が見えなくて何度か電信柱にぶつかったそうです」
 まあ、それはそれで川澄さんらしい一面だ。

 とりとめのない話をしているだけで、心が落ち着いてくる。女性向けの可愛い店に入るのは気が引けたが、倉田さんに引っ張られて品定めを手伝った。いや、正直なところは何も役に立っていないのだけど。数店回ってみたが、なかなか倉田さんは決めようとしない。こうしていろいろと眺めて歩くのが好きなのだろうか。それとも簡単に決めてしまいたくないのか。
「はえ?」
 隣を歩く倉田さんが急に立ち止まった。
「うん?」
「大きなぬいぐるみですね〜」
 確かに大きい。小柄な人間くらいはある。
「バクかな」
「バク?」
「夢を食べると言われる生き物だよ。悪夢を食べてもらおうという考えから、ヨーロッパの方では結構いろいろな物のモチーフにされてる」
「夢を食べちゃうなんて、怖い動物さんですねー」
「もっと恐い言い伝えもあるけどね。でもこの色は変だな、マレーバクでもないし体つきも実物と違うような……」
 こんな物が売れるのだろうか。店も骨董品やら玩具がごちゃ混ぜにおいてあって非常に怪しい。

「バクではない!」
 突然、後ろから声をかけられた。
「これはアリクイじゃ。なかでも1.5メートルの図体を誇るオオアリクイの原寸ぬいぐるみじゃ」
 小柄な老人は、きっとここの店主なのだろう。
「大きな爪でアリの巣を掘り起こし、長い舌でアリをぺろぺろむしゃむしゃ食べよる生き物でな……」
「可愛くないな」
「儂もそう思う」
「じゃあ、どうしてそんな物を売ろうとするんだ」
「儂もそう思う」

「久瀬さん、コレにしましょう」
 爺さんの話も、倉田さんの思考も、僕の想像を超えている。
「舞なら、この子も可愛がってくれますよ」
「そうかな?」
「おお、買ってくれるかお嬢ちゃん」
「僕は止めた方がいいと思うな」
「……可哀想に、この子を誰も買ってくれんのか。来週には粗大ゴミでかたされるのが定めなのかもしれんのう。やれやれ、可哀想な事じゃ。ああ、可哀想な子じゃ」
「お爺さん、お幾らでしょうか」
「3万1,500円、税込みじゃ」
「定価で売る気なのか、あんたがゴミに出そうとしているコイツを」
「…………」
「倉田さん、こんな店で買い物しない方が良いよ」
「それで結構です」
「え?」
「毎度あり。お嬢ちゃんは、この男とは比べもんにならんほど優しいのう」
「僕も半分出す約束なんだけどね」
「ほ、おんしも性格はひねくれとるが優しいのじゃな」
「大きなお世話だよ」

「あの、お爺さん……」
「なんじゃ」
「この子は、夢を食べちゃったりしませんよね?」
「ほ?」
「ですから、思い出とかを食べちゃったりは……」
「わはは、心配するでないお嬢ちゃん。この子はそんなことせんのじゃ」
「あはははーっ、そ、そうですよね〜」
「この子はお嬢ちゃんの夢を叶えてくれる、優しい子じゃ〜」
 結局、倉田さんは不気味なぬいぐるみを言い値で買ってしまった。騙されていると思う。しかし、どちらかを選ぶなら騙すよりも騙される方が楽だろう。楽な生き方なんだろう。ぬいぐるみを背負った倉田さんは、そのまま川澄さんへ渡しに行くという。

 僕は、会えるかどうかわからないが病院へ向かうことにした。




32.

 病院へ向かう途中で、叔母から電話があった。目を醒ましたという。ロビーで待っていてくれた叔母と一緒に、病室へ入った。

 あまり病室らしくない個室。大きく開け放った窓に、夕焼けが広がる。赤い光を受けて、父親の顔は元気そうに見えた。寝込んでいるのかと思ったが、きちんとかたづけられたベッドに腰掛けている。
「なんだ、お前まで来たのか……」
「来ない訳にはいかないでしょう」
「何をこんな時に意地を張ってるのよ、二人とも。昨日の夜は、本当に……今朝になってこんな元気になるなんて、先生も不思議がってたくらいなんですよ!」
「僕には普段通りに見えるけど」
「もう……それで、日用品は持ってきてくれたの?」
「ああ、袋に纏めて持ってきたよ」
「すまんな」
「それと、これも持ってきた」
「…………」
「あら、それなに?」
「写真……書斎に飾ってあった」
 父は、黙って写真を眺めた。そして暫く目を閉じて、何かを探すように眉間に皺を寄せる。

「昨晩、久しぶりに母さんに会った気がする……」
「え?」
「出会った頃のな。まあ、病気のせいで見た夢のようなものだろう。……母さんに会えるなら、たまに倒れるのも悪くないかもしれん」
「何を言ってるんですか、あたしは心配で胃に穴が空きそうでしたよ!」
「ははは、すまない」
「……前から聞いてみたかったんだけど、その頃の母さんと父さんはどんな生活をしていたんだ?」
 セピア色に変色した写真の向こうにいる父と母の姿を、知りたかった。
「うん?」
「僕が生まれる前、知らない母はどんな人だった?」

「……私と母さんには、何も共通するところなどなかった」
 空を見上げながら、父が静かに話しだした。
「大学では、母さんは音楽科の繊細な女性。私は建築科の男たちと遊び回る放埒な学生だった。お前と同じように、私は親の会社を継ぐことが決まっていた。だからそのころの私は傲慢で、他人の意見など全く耳を貸さない男だったよ」
「今でもそうなのだろう」
「今以上だったよ。自分の力でできないことなど無いと考えていた」
「呆れた人だ」
「これっ、お父さんに向かって口を慎みなさい」
「良いんだ、話を続けさせてくれ。いつかこいつに話したいと思っていたのだ」
「…………」

「それで、母さんも最初はそんな風に私を見ていたらしい。私のようながさつ者が発表会へ出かけたのは単なる偶然だった。確か学園のイベントだったろう。音楽などに興味のない私は、観客席で酒を飲みながら仲間たちと騒いでいた」
「救いようのない人だ、あなたは」
 そう言いながら、何故か僕は笑いがこみ上げた。父も、それに応えて”にやっ”と笑う。
「しかし私たちが騒いでいても、母さんは微笑みながらピアノを弾き続けた。初めはなんて嫌な意地っ張りの女なのだろうと思った。だが母さんは楽しそうに弾き続けた。こんな私にさえピアノを聞かせようとな。それは突然だった。私の頭の中に新しい考えかが浮かんできたのは……。信じてもらえるかはわからんが、音楽が私に語りかけてきたのだよ。強さというのものの本質、内面から直接心へ訴える人の強さを感じた。そして私は自分が恥ずかしくなった」
「…………」
「その時から、母さんに興味を持った。幾度となく弾いてもらううちに、私は母さんのピアノが好きになった。その旋律は私に足りない物を与えてくれた。母さんは、いつか大きなホールで演奏することを夢見ていたよ。体の弱かった母さんにとって、それは叶うかどうかわからない夢だった……。母さんは私を信頼してくれた。だから私は、いつか実現するその時まで母さんを精一杯支えてやろうと思っていた……そして、私を支えてほしかった」
「あなたにしては、謙虚過ぎる態度だな……」

「社内で妬みや悪意から辛い思いをしていた私にとって、母さんは、母さんのピアノは安らぎだった。それに解っていたのだよ。いつか終わることが。だが、それでも私たちは一緒にいることを選んだ。反対も多かったがね」
「……母さんのどこが好きだったんだ」
「とりわけ何もない。母さんは、ごく普通の女性だったから」
「…………」
「しかし、だ。私は、母さんがいてくれれば後ろを気にせず堂々と生きていけるような気がしたのだ。確かに私は汚い手を使ったし、強引な方法で会社を運営した。多くの人間が私を嫌い、離れていったが、母さんだけは私を理解し、庇ってくれた。どんなに批判されても、正しいと思うことを私がしたなら、それは間違いじゃないと励ましてくれた。私を護ってくれたのだ」
「……笑わせてくれる」
「私は本気だ。人を好きになる理由と責任が、お前にはまだ判らないのだろう。一緒にいるのが楽しい、笑い合える、趣味や好みが合う、そんな物は一面だけの形だ。それが全てではない。私が最後まで信頼できる人だったのだよ、絶対に信じることができる人だったのだよ、母さんは」
「……それなら、どうして?」
「数千人の社員の生活を守る責任があったからだ。あの時期、私の会社は深刻な状況にあったのだ。そのことは、それだけは母さんにすまない事をしたと思っている。お前にもな……」

 話し終わった父が、がくりと肩を落とす。苦悩する人のように眉間の皺を深くし、口元の筋肉を緊張させている。話の内容は、初めて聞いたことだった。僕は全く知らなかった。知らずに父を責めていた。どうしてなのだろう、父は今まで弁解めいたことを一切語ったことがない。教えてもらえれば、憎むことなど無かったはずだ。
 つまりは、父も苦しんでいたのだろう……。過去の記憶に。僕と同じように。

 ふと枕元のキャビネットを見ると、綺麗な花が飾ってあった。
「この花は叔母さんが?」
「え? あたしじゃないですよ」
「起きた時にはもうあったが、誰が持ってきたのだろう。そうだ、夢の中の母さんは、こんな花がたくさん咲いている野原に立っていた……」




33.

 その後も少し話したが、回診の時間になって病室を出た。体の具合は心配したほどのことではなかったようだ。病院内をうろついていると、ナースステーションの看護婦たちがひそひそと話しているのが聞こえた。気にもとめずに通り過ぎようとしたとき、良く知った名前が耳に飛び込んできた。

 ”……あれは川澄って子よ”

 陰に隠れて聞き耳を立てる。川澄さん? 彼女がここへ来たのか?

 ”でも、テレビでは小さな女の子だったじゃない”
 ”もう何年も前だから、今なら高校生くらいよ”
 ”だけどあれ、トリックだったんでしょ”
 ”そうじゃないわ、ホントに死にかけた人が治っちゃったのよ”
 ”ウチのドクターも信じられないって、驚いてたんだから”
 ”超能力少女?”
 ”あれから色々あって、その子も母親も姿を消しちゃったのよね”
 ”だって、そんなの気味が悪いわ”
 ”そう、マスコミに祭り上げられて結構叩かれてたわねぇ”

 看護婦たちが話しているテレビは、僕も見たことがある。そんな物はインチキに違いないと、気にもとめていなかったが……。あれが川澄さんだったというのか?

 ”そんな子が何をしに来たのかしらね”
 ”それは……”
 ”なによ、知ってるなら、話しなさいよ”
 ”でも、確かなことじゃないし”

 何だ、川澄さんが何をしたと言うんだ。

 ”昨日の夜搬送されてきた、516号室の久瀬さんって居るでしょう……”

 僕は、その言葉に心臓を掴まれる思いがした。

 ”意識不明のまま運ばれたから、当直の先生の指示でCTに回されたのよ”
 ”それで?”
 ”念のためだったんだけど、その時撮った画像にね……”
 ”もう、イライラするわね!”
 ”深刻なほどの影が出ていたのよ”

 そんな……しかし……。

 ”でもあの患者さんって……”
 ”そう、今朝一番で撮り直したら……何もなかったのよ”
 ”嘘でしょ!”
 ”あのGE製の機械は先月入れたばかりだから、多分初期不良か設定の問題だ
  ってドクターは言うけど……”
 ”気持ち悪いわね〜”

 川澄さんは人の運命を変えられると言うのか。馬鹿な! 僕は信じない、絶対に。そんなことがあってはならない。どんなに願っても、人間がそんな力を持ってはならないはずだ……。




34.

 夜。戸惑ったが、やはり川澄さんへ会いに行くことにした。彼女の中には、何が秘められているのだろう。彼女は何も語らない。もしかして、いや、そんなことがあるはずないんだ。川澄さん、僕はあなたを信じるよ……。どんなことがあっても。

 あなたは、僕にとってただの人であって欲しい。あの妙なプレゼントをもらって、どんな顔をする? まさか歓喜して大げさに喜んでみせるなんて、あなたの場合は考えられない。”……ありがとう”そんな一言を、ぼそっと呟いて終わりか。
 僕は、そんなあなたの姿を見たいんだよ。それで良いんだ。あなたは謙虚すぎる。装飾がない。自分の感情を出すことにかけては拙な部類の人間だ。だから誤解される。理解して欲しくないとでも言うように、関与を拒む。決して自分の心の中には誰も入れようとしない。そして誰かの心へ踏み込もうともしない。いつも一人で夜の校舎で佇んでいる。誰か、そう、誰かを待ち続けている。
 倉田さんや僕の存在など、ただの脇役に過ぎないのかな。あなたを支えられるのは、その誰か”しか”いないのか。だけど、受け入れて欲しい。倉田さんや僕があなたを案じている気持ちを。気付いて欲しい。
 僕は、あなたの本心の姿を見たい。

 薄暗い校舎の廊下に、川澄さんが立っていた。いつも通り……。いや、おかしい。後ろを向いた川澄さんの背中が震えている。どうしたのだろう。

 崩れるように川澄さんの体が揺らぐ。その奥には、大きなアリクイが転がっていた。つぶせに倒れている女性は壁からずり落ち、床にうずくまって全く動こうとしない。
「どうして……」
「……倉田さんだとわからなかったのか」
「どうしてこんな所に佐祐理が……」
「何を突っ立っているっ、早く倉田さんを運ぶんだ!」
「佐祐理……」
「川澄さん、今は倉田さんを病院へ連れて行くのが先だろう!」
「どうして、私なんかに……」
「邪魔だ、川澄さん。そこを退けっ」
 慌てて駆け寄り、倉田さんの首に指を宛てる。大丈夫だ、脈はある。瞳孔も異常はない。髪の毛掻き分けて頭部を見る。幸いなことに頭に外傷はなかった。しかし肩を叩いて問いかけても返事がない。浅い呼吸が感じられるが出血が酷い。肩口から滲み出て床に溜まった血が、気味悪く月明かりに反射する。
「川澄さん、それを貸せ」
 無理矢理に川澄さんのリボンを解いて、片面をライターで炙る。そして殺菌した面を静かに傷口に宛てて応急の止血をした。
「ここを押さえるんだ、思いきり」
「嫌……怖い……」
「いいからやるんだ!」
 惨状を見たくないかのように顔を背ける川澄さんの腕を取って、出血部分を圧迫させる。
「救急車を呼んで、校舎の外で待つ。運ぶのを手伝え」
「怖い……」
「倉田さんを助けたくないのか!」
 こんなに弱い彼女が……どうしてそんな力を……。

 今度は軽傷ではすまなかった。ストレッチャーに乗せられる倉田さんを見送り、真夜中の住宅街を照らす赤色灯が走り去るのを眺める。
「大丈夫、きっと元気になる」
「……佐祐理」
「それと、さっきは申し訳なかった。荒っぽい言葉を使ってしまって……」
「…………」
「川澄さん、あなたはこれからどうする気だ」

「……学校」




35.

 薄暗い校内に戻り、川澄さんの後を追って旧校舎へ向かった。川澄さんは音楽室に入ると窓際の机に腰掛けて月を見上げる。青白い光に照らされて、幻想的に見える。しかし後悔と悲しみから横顔が寂しそうに俯く。
「傍に来て……」
 言われるまま、窓際へ歩み寄る。
「座って」
 川澄さんの頬に、涙が伝っていた。川澄さんと一緒に見上げる夜空。木立を掠める低い空に、天から落ちかけて赤く輝く星が見える。

「アンタレス、サソリの心臓だね」
「…………」
「その隣が射手座。いて座はね、隣のサソリが悪いことをしないように矢で見張っているんだ」
「サソリさんは悪い事をしたの?」
「そう。でも、優しい星だよ」
 あなたのようにね、川澄さん……。
「…………」
 川澄さんが小声で呟く。
「……私のせい」
「そうだな」
「そして、自分だけ傷つかないでいる」
「それはどうかな」
「だから……」
「川澄さん、そんな物はあなたの自己満足じゃないか」
「違う……」
「いや、違わない。本当はあなただって気が付いているはずだ。……今日、僕は病院であなたのこと聞いたよ。あの花は、あなたが持ってきてくれたのだろう」
「…………」
「知ってしまったよ。子供の頃のあなたがどんな人だったか」
「…………」
「どうして僕の父に?」
「元気になって欲しかったから……そうなって欲しかったから……」
「僕はあなたの力など信じない。それを認める事なんてできない。……だけど、ありがとう。嬉しいよ、あなたの気持ちは」
「……(こくっ)」
 机から降りた川澄さんが、僕を見つめた。
「……弾いて」

 ピアノに向かう僕の隣に川澄さんが座り、肩に頭を載せた。
「どうしていいのかわからない……」
「解る人などいないのかもしれない」
 僕は静かに鍵盤へ指を乗せる。
「そうだ、川澄さんも弾いてみないかい」
「えっ……」
「大丈夫、僕と同じように指を動かせばいいんだよ」
「…………」
 暫く黙っていた川澄さんは、躊躇うように人差し指で一つの鍵盤を押した。そう、そんなに怖がることなどない。一つ、また一つと川澄さんが奏でる音が旋律を作っていく。彼女の気持ちが旋律に置き換わっていく。
 そして僕と川澄さんの旋律が一つになって、暗い教室に響いていく。
「でも……」
 そう言いかけて、川澄さんはすくっと立ち上がった。
「……決着をつけないと」

 ……決着、か。

『――膨張する宇宙がこの先どのような運命を辿るかは、考えられている宇宙モデルによって異なる。一様等方という宇宙原理を満たすような宇宙モデルには、次の三通りの可能性がある。それは空間の曲率が0の平坦な宇宙、曲率が正の閉じた宇宙、そして曲率が負の開いた宇宙。平坦な宇宙か開いた宇宙であれば、宇宙は永遠に膨張を続ける。閉じた宇宙であればある時点で膨張から収縮に転じ、やがて大きさが0に潰れることになる。また、宇宙が平坦であり永遠に広がり続けるとしても、それは最終的に宇宙が熱的死により安定化することを意味する。いずれにしても宇宙とは静的で永遠の存在などではない。冷たく瞬いてみせる宇宙もまた生命と同様に流転を閲し、雄大な時を必要とする輪廻の輪を生きる世界である――。』




36.

 川澄さんと一緒に、夜の校舎を後にする。いつも思っていたが、彼女は授業が始まるまで何処にいるのだろう。一度、家に帰るのか。いや、早朝の街を歩いていく川澄さんを僕は見たじゃないか。
 深夜の街を抜けて、川澄さんはずんずん歩いていく。一体どこへ行く気なのだろう。並んで歩く川澄さんは、何も言わない。まだ頬には涙の跡が残っている。
「川澄さん、どこへ行くんだ?」
「…………」

 しばらく歩いて、ようやく辿り着いたのは街外れの小さな教会だった。誰も居ないようだが? しんとした木立へ、窓からの柔らかい明かりが漏れている。そう言えば、川澄さんは十字架を首にかけていた。舞踏会の時、古風だが大きなそれを目にしたこと覚えている。
「川澄さん、こんなところに何の用があるんだ」
「いつも来ているから……」
 開けっ放しの小さな門を抜け、建物の中に入った。深夜、校内の廊下に立つ彼女はいつもここへ立ち寄っていたのか。教会は、誰でも、どんなときでも、入れるようになっていると聞いたことがある。こんなにたくさんの建物があり、たくさんの人が住んでいる街で……。何も言わずに受け入れてくれる場所が、いかに少ないか。居場所を探している人は多いというのに……。

 闇に目が慣れてくると、天上近くの高いところに綺麗なステンドグラスが見えた。差し込む光が、やけに綺麗すぎた。木のベンチに腰掛けた川澄さんは、剣を手放して眼を瞑る。
「剣を持っていなくてもいいのかい」
「ここなら大丈夫だから……」
「なぜ?」
「お母さんが、そう教えてくれたから……」
「クリスチャンだったのかな?」
「よくわからない……」
「だけど、ここにいれば安全だって……。誰も私のことを怒ったり、避けたりしないって……」
「…………」
「……おやすみなさい」
「えっ……」
「朝になったら、起こしてくれる?」
「ああ、わかったよ……」
「そう……」
「おやすみなさい、川澄さん」
 猫のように背を丸めて、窮屈な姿勢のまま川澄さんは眠りについた。なんて人なんだ……。そんなの、寂しすぎるじゃないか。そんなことを信じなければ、眠れないなんて……。僕は、怯えるように小さく身を縮める川澄さんの横顔を眺め続けた。

 どうしてだ。彼女がそれを望んだというのか。

 見上げると、苛立たしいほどに神々しいステンドグラスが様々な色の影を落としている。そうか……。人々に安らぎを与えるというあなたの言葉は、それなりに意味のある物なのだろう。お礼を言わせてもらうよ。彼女へ安らぎを与えてくれて、ありがとう。……だけど、あなたはただ見ているだけだ。あなたを信じて疑わない者さえ。どうして彼女にそんな力を与えたんだ。どうしてそんな卑怯な嘘をつくんだ。

 僕たちが信じたいのは、あなたの奇跡なんかじゃない。

『――現在では”ビッグバン”という言葉は一般的にすっかり定着している。しかし宇宙が空間の一点から始まり、膨張とともにその空間の中へ広がっていくというイメージには誤解を招く恐れがある。つまりは、宇宙には境界が無いのである。例えるならば、地球の表面には境界がないのと同じである。第二離脱速度に達しない一定の速度で飛行する航空機は、地球をいつまでも回り続けることになる。それはどの方向に向かっても同じ事であり、物質を構成する陽子や電子のように閉じた空間を永遠に飛び続けることになる。現在まで、この宇宙から飛び出すほどのエネルギーは確認されていない。また、宇宙は始めからその空間の全てであり、一般相対論の枠内ではそのような別のより高次元な空間は無いとされている。勿論、観測ができない以上、実際にはその存在の有無を立証することができない。確証がなく理論構築が難しいとしても、その存在を否定するものではない。宇宙の構造を解明する究極の大統一理論。それはガリレオに始まり、ニュートンが1687年に著した近代自然科学の大著”Philosophiae Naturalis Principia Mathematica”以降、多くの人々によって求められてきたが、なお未だ研究途上でしかない。だが、我々は解明しつつある。あくなき情熱によってその真理を究明しつつある――。』

 夜が明けて、謹慎中の川澄さんは自宅へ帰っていった。僕は脆く崩れそうな彼女を案じながらも、授業を受けに学園へ向かうことにした。辿り着く最期の姿を想像しながら……。




37.

 授業など、全く耳に入らない。ただただ彼女のことを思い浮かべる。もしかしてと想像する仮定が、僕の脳裏から離れない。だが、もしそうだとして……。
 気が付くと、既に昼休みになっていた。倉田さんの手弁当の味を思い出しながら、学食へ向こうことにする。

 ”ドカッ”

 教室を出たところで、廊下を走ってきた誰かとぶつかった。
「悪いっ!」
「痛いじゃないか。……あ、君は以前会った転校生だな」
「すまない、急いでるんだ!」
 何かあったのだろうか、顔つきが前と違う。
「そんなに急いで、どうした」
「家に電話をかけたいんだ」
「携帯も持ってないのか、君は」
「校内に公衆電話って無いか?」
「昇降口脇に一台あるが、使う人間が多いからかなり待たされる」
「そんなやつらは蹴散らしてやる……」
「……蹴散らすのは少々物騒だな。緊急なら僕の携帯を貸してやろうか」
「ありがたいけどそれは……」
「なら、職員室に行って石橋へ頼めばいい。僕から聞いたと言えばなんとかしてくれる」
「わかった、サンキュ!」
 そう言い残して、また走りだして行く生徒を見送る。廊下を走るなと言いたいところだが、あの雰囲気では言っても仕方ないだろう。おや? 玄関脇の廊下に人だかりが出来ている。
 何事かと群衆を掻き分けて前に出た。
「すまない、ちょっと通してくれ」
 一体この騒ぎは……

 川澄さん、あなたは家へ帰ったはずだろう……。やはり、彼女を独りにするべきじゃなかった。群衆の真ん中では、廊下で剣を振るう川澄さんが半狂乱で窓ガラスを叩き割っていた。
「久瀬、手が付けらないよ!」
「野次馬を避けさせろ、斉藤」
「わかった!」
「怪我人が出たりしては大変だからな」
 川澄さんの目の前に立ちふさがり、大声で怒鳴りつける。
「気は済んだか!」
 取り乱した彼女に、僕の声は聞こえていない。なにも聞かずに、何も見ずに、ただ自分の殻に閉じこもろうとしている。止めに入ろうとした僕の腰を、めちゃくちゃに振り回される剣の柄が打った。痛みに声が詰まる。
「これで……気が済んだのか……」
 子供だ、あなたは子供だ。誰かに見て欲しいのか。悲しんでいる姿を認めて欲しいのか。傷を負えば許してもらえると思っているのか。不幸を背負えば納得するのか。
「はぁはぁ……」
 目を合わせずに荒い息を吐く彼女。そんな川澄さんを強引に引き寄せ、正面から顔を見る。
「れがあなたの答えなのか!」
 遠巻きに眺める生徒の輪から、一人の教師がしかめ面で歩み寄ってきた。
「久瀬と川澄、追って詳しい事情を聞くことになるが、今日はお前たち二人とも家に帰れ。理由は言わなくても解るな?」
「先生、迷惑をかけてすいません」
「場合によっては退学も覚悟しておけよ」
「…………」
「生徒が自分から去ろうとするなら、俺にもそれは止められん……」

 学校へ向かう人波みに逆らい、川澄さんを連れてその場から逃げるように立ち去る。校門を出たところで川澄さんが呟いた。
「今夜、すべてを終わらせる……」
「もういい加減、あなたと一緒にいるのは疲れた」
「手伝って欲しい……」
「…………」
「……必ず、来て」

「ああ、最後まで付き合わせてもらうよ」



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