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               −第5章−

25.

 今日も退屈な授業を受けながら、父親の言葉や、川澄さんのことを考える。思考はぐるぐる巡り、結論には至らない。事件を起こした川澄さんには、学園側から何らかの処分が下されそうな雰囲気だった。

 廊下の踊り場へ向かうと、倉田さんがぽつんと座っていた。
「……久瀬さん」
「わかってる、川澄さんは自宅謹慎だろう。最終的な処分は今日の職員会議にかけられるそうだ。それまでに生徒会から報告を出せと言われてる」
「佐祐理は何も見ていないんです」
「何も見ていないでは、何の役にも立たないよ」
「でも……」
「今回は、たくさんの生徒が見ている前での騒動だ」
「……あの、こういうのはどうでしょうか」
「なんだい?」
「佐祐理が会場を出ようと扉を開けたら、いきなり凶暴な野犬に襲われたんです。舞は犬を退治しようとして……」
「嘘を付くのか」
「それは……」
「僕は賛成できないね、多くの人に迷惑をかけてしまったんだ」
「…………」
「だけど、処分を軽くできそうな方法ならあるよ」
「久瀬さん、舞のためにもお願いします」
「僕の力でも今回の事は手に余るよ。だからあなたの協力が必要だ。倉田さん、あなたは生徒会へ入る」
「はい?」
「あなたの協力というか、正確にはあなたの父親の影響力を使う。倉田さんの父上はこの街の有力者だ。学園への大口寄付もしている」
「そんなの……」
「そう、そんな嫌なことはしたくないね。でも被害者の倉田さんがそこまですれば、情状を酌量してもらえると思う」
「…………」

「久瀬、こんな所にいたのか。探したよ!」
 そう言いながら、斉藤と天野君が階段を登ってきた。倉田さんを見つけた天野君が、丁寧に頭を下げる。
「あの、怪我はもう宜しいのですか、倉田先輩」
「大したことはありませんよ〜」
「こんな事になってしまい、申し訳ありませんでした」
「早速だけど天野君、報告書は纏まったかな」
「はい、これです。あの夜、その場にいた生徒会役員の全員から事情を聞きました」
「ちょっと見せてもらって良いかな」
「ええ、どうぞ」

 天野君が渡してくれた書類に目を通す。思った通りだった。川澄さんが理由もなく暴れたという方向で内容はほぼ一致している。剣を携えていたとか、いきなりテーブルをたたき壊したという記述が多い。中には冷静に川澄さん以外の所で破壊が起こったことや、躊躇いながらも非現実的な現象をとぎれとぎれに書いている物もあったが、そんなのは少数だった。
 最後に見た一枚だけが、異質だった。その報告書には、はっきりと川澄さんのではない何者かが会場を走り抜け、破壊を引き起こしたと書いてあった。署名は天野君自身だった。
「こんな報告が信じられると思うのかい、天野君」
「でも、私にはそうとしか思えません」
「斉藤は?」
「僕だってそうさ、思い出しても気味が悪いけど、僕たちに襲いかかろうとしたのは川澄さんじゃない」
「でも、剣を持っていた」
「だけど彼女じゃない」
「大勢がそんな川澄さんの姿を見たと思っている」
「思ってるだけだよ、久瀬」
「……やれやれ。倉田さん、川澄さんのことを信じてくれる人がいるようだよ」
「皆さん、ありがとうございます」
「とりあえず、まだ四人しかいないけどね」
 生徒、教師含め全校数百人中、たった四人だ。

「天野君、これは僕から石橋に持って行ってもいいかい?」
「それは構いませんが……」
「うん、僕に預からせてくれ」
「久瀬さん、あの……」
「なんだい天野君」
「あれはいったい何だったのでしょう。なんだかとても悲しそうでした。それに消える時、一瞬ですが……」
「なにか?」
「……石けんの、いい匂いがしたような気がするんです」

 ――石けんの匂い?




26.

 報告書持って職員室の前に立つと、中からは騒々しいやりとりや話し声が聞こえてくる。扉を開けて中に入ると、急に騒がしい議論が止まった。どうやら教員の間でも大きな問題にされているようだ。顧問の石橋を目で捜すと、一人だけ離れたところで弁当を食べている。面倒な議論や話し合いには関わり合いたくないということか。目が合うと、箸を置いて僕の方へ歩いてくる。そして僕を引き連れて廊下へ出た。

「久瀬、待ってたぞ。中はうるさくてかなわんからな」
 むしゃむしゃと口の中で咀嚼しながら、そう言う。
「これが生徒会からの報告書です。あ、ちょっと待ってください」
 僕は一番上の報告書にある署名、天野君の名前の下に自分の名を書き込んだ。
「どうぞ」
「どれどれ……」
 ざっと目を通した石橋が顔を上げた。
「本気か、久瀬」
「はい」
「……まあ、お前がそう決めたんなら、先生は何もいわん」
「それでは、僕はこれで失礼します」
「いや、ちょっと待て久瀬」
「なんでしょうか?」
「この報告書を待って、教頭を座長にこれから会議なんだ。その後ちょっと話したいことがあるから、悪いが準備室で待っててくれんか」
「また出直しますよ」
「いいから待ってろ、久瀬。先生の言うことを聞いておけ」
 半ば強制されて石橋に同行した。仕方なく。廊下を歩き、連れて行かれたのは普段使っていない教室。準備室などでは無かった。ここで何をしようというのだろう。
「すぐに戻ると言いたいが、時間がかかっても仕方ないと思え」
「はあ……」
「その辺の椅子にでも座ってろ。まあ、退屈はさせん」
 僕ひとりを残して、石橋が資料を持って教室を出ていった。なんて身勝手な教師だ……。

 ”……石橋先生、そんなことが信じられますか”

 おや、誰かの声が聞こえる。僕の耳に、パーテーションを一枚隔てただけの会話が聞こえてきた。隣の部屋で、会議とやらは行われているようだ。

 ”いいえ、私も信じてません”
 ”当たり前です、勝手に物が壊れたり生徒が怪我をするわけがないでしょう”
 ”そりゃそうですね、教頭”
 ”あの生徒は前々から素行に問題があるというじゃありませんか”
 ”そういう噂があるだけです、実際の所はわかりません”
 ”しかし、石橋先生。それでは誰がやったというのです?”
 ”私には解りませんね”
 ”川澄という生徒以外に考えられません。彼女は剣を持っていたというじゃな
  いですか”
 ”剣?”
 ”真剣を振り回すなど危険きわまりない行為です”
 ”教頭、あなたはそんな噂を信じるのですか? 普通の高校生が刃物を持って
  暴れたと本当にお考えなんですか?”
 ”…………”
 ”教頭の仰る剣というのはこれでしょうか”
 ”それは?”
 ”あの日、川澄が振り回していたのはこれですよ。ただの模造品です。大方、
  演劇の小道具か何かを見つけて、それを使ったのでしょう。こんなものは山
  犬くらいがちょうど良い相手の代物ですよ。あ、そういえば報告書の中で被
  害者の倉田が書いてますね、犬がどうしたとか”
 ”石橋先生は、川澄ではないと仰りたいのですか”
 ”さあ、私には実際の所はわかりません。わかりませんから憶測で処分を下す
  のは間違いだと思います”
 ”しかし……”
 ”教頭先生、学校とは生徒に対してそういう見方をするところではないでしょ
  う。まあ、騒ぎを起こしたのは事実ですし、現実に備品や学園の設備が壊れ
  混乱した会場で怪我をした生徒もいますから――謹慎1週間。退学とかいう
  処分よりもその辺で反省を促すのが順当だと、私は思いますがね。大げさな
  処分では学園としての外聞も悪いでしょう、教頭先生?”
 ”しかし、怪我をした倉田は議員の子女で……”
 ”倉田自身が生徒会へ入って、川澄の行動に責任を持つと言っています。そし
  て久瀬は会長を辞めるそうですよ”
 ”久瀬君が?”
 ”ええ、あいつなりの嘆願なのだと私は思いますね”
 ”それは、だが、学園として……”

 ”ドンッ!”

 机を叩く音が聞こえた。石橋、免職になっても良いのか? 平教諭が教頭を脅すなど信じられない。

 ”教頭先生、私は生徒を疑って教師を名乗りたくないですよ。もし生徒が信じ
  られなくなったら、教師なんて職業やってられんですよ私は”
 ”石橋先生、少し落ち着いて……”
 ”それに、もし仮に川澄が教頭の仰るような人間だとしてもです……。どんな
  生徒でも、その姿を認めてやらなきゃならんのです。誰かが理解して信頼し
  てやらんことには、変われん生徒というのも居るんです。教師は、生徒の希
  望を奪ってはいかんのですよ。自分の思い描いた姿へ変わろうとする若者た
  ちの、可能性を閉ざしてはいかんのです。教師には、それを見守る義務と勇
  気が必要なんだと私は思ってます。学校と言うところもまた、そうあるべき
  だと私は信じていますっ”

 暫くひそひそと聞き取れない声がしたかと思うと、ドアが開く音がして足音が聞こえた。のそのそと僕のいる教室へ戻ってきた石橋が言う。
「と、言うわけだ。悪かったな、もう自分の教室帰って良いぞ」
 なんて人だ……。僕はこの教師を誤解していた。
「いや、俺もなぁ……」
 照れたように、石橋が無精髭をゴシゴシ擦る。
「俺にだって、そんなことを思い描いてた頃があったんだ。それほど昔のことじゃない……。教師という職業に、誇りと理想を思い描いていた過去が確かにあったんだ」
 爪先で引き抜いた髭を見つめながら、石橋が言った。
「……久瀬、後は頼んだぞ」
「僕にどうしろと?」
「知らん。だが、俺にできるのはここまでだ」
 ピンっと、抜き去った毛を弾き飛ばし、石橋は悠々と教室を出ていった。




27.

 石橋は、なぜあんな事をしたのだろう。僕はなぜ、こんな事をしているのだろう。どうしてこんなに清々しい気分になっているんだろう。彼女の素行に目を光らせていたのは、僕たちだったというのに。
 謹慎というのは学校に来ないことだが、授業が終わった夜の学校へ来ることも禁じているのだろうか。そんなことは通常必要ない考えだが――その日の夜、やっぱり川澄さんは夜の校舎に佇んでいた。

「ごめんなさい」

「なにが?」
「……佐祐理から聞いた」
 今日も玩具の剣を携えて。
「今日は来ない」
「どうしてわかる?」
「私にはわかるの……」
「そうか」
「もう、来ないで……」
「…………」
「佐祐理にも、あなたにも、迷惑をかけたくないから……」

 何か答えようと思った時、ポケットの携帯電話が振動を始めた。取り出して見てみると、着信履歴が十数件もある。全て同じ、自宅の電話番号だった。

「……もしもし」

 相手は、親戚の叔母だった。酷く取り乱している。

 ――なんだって?




28.

 川澄さんに、ろくな説明もせず校舎から駆け出す。夜道にタクシーを探すが、一台も見あたらない。こんな時に限って、どうして走っていないんだ! 誰でもいい、誰か僕を乗せてくれ。そう思って車道へ飛び出して手を振るが、止まってくれる車はない。ちくしょう!

 辺りを見回すと、校門の脇の自伝車置き場に数台置きっぱなしになっているのがある。手近な一台を見た。当然、鍵がかけられている。そんなことをして良いのかと、僅かに躊躇いはあった。だが僕は自転車を持ち上げ、鍵の部分をコンクリートの壁に打ちつけた。

 ”ガキッ”

 ”ガッ”

 ”ガッ ガンッ!”

 何度も何度も、くり返して自転車をコンクリートの角へ振り下ろす。深夜の校庭に、衝撃と異質な音が響く。疲れを感じた頃、ようやく頑丈な鍵が壊れた。悪いことだし、持ち主に迷惑をかけることは解っている。しかし……。僕はそうしなくてはならない。そうしなければ僕は自分を許せない。

 ペダルを漕ぐ脚に力を入れて、駅前の病院へ急ぐ。脚が、ガクガクと震える。猛スピードで街中を走り抜ける僕を、道行く人たちが不思議そうに眺めていた。

 ようやく辿りついた病院の前では、叔母が僕を待っていた。
「……生きているんだろうな」
「いきなり倒れてね、それで、その、あたしはもうビックリしちゃって……」
「容態はどうなんだ!」
 あんな男でも、僕にとっては……。
「今は薬で寝てるのよ。明日、詳しい検査をすると言っていたわ」
「大丈夫、なんだな」
 もしも……そんなことは考えたくない。
「それがねぇ、あの人も結構な年だから……」
「どういうことだ」
「あなたのお父さんはね、健康診断どころか十何年も病院に行ったことがないのよ」
「…………」
「だから、検査で何が発見されるか解らないって、医者の先生はね……。病院嫌いな人だから、連れてくるのも一苦労だったのよ。意識があるうちは、救急車が来ても頑固に抵抗してたわ。あの人は……お母さんを亡くしてから一度も病院へ行ったことがないの」
「……今、会えるのか?」
「あたしも病室に入れないの。今日は無理みたいよ、家族でも」
「そうか……」
 また、僕の前から去っていくのか……。
「呼びつけてしまって悪かったけれど、あなたはいったん家へ帰って生活用具を纏めておいて。入院することにでもなったら、必要になるわ」
「……わかった」
「それと、気を落とさないでね。いい? 後で連絡するわ」
「…………」
 ひとりに、なってしまうのか……。

 病室へ入ることも許されず、僕は自転車を返しに今来た道をとぼとぼ戻る。建物の影に、ふと人影を見たような気がした。しかし今の僕には、振り向くことさえ面倒に感じられた。




29.

 学園に自転車を返し、自宅へ戻った。川澄さんがまだそこにいたのかは解らない。たとえ会っても、話す言葉が見つかりそうにない。誰もいない自宅を眺めながら、これからどうしようかと考える。入院の支度か……。何を用意すればいいのか。寝間着とか、普段使っている歯ブラシやなんかだろうか。そう考えると、僕は父の日常について知らないことが多い。とりあえず、書斎へ入ってみよう。

 近づくことさえ嫌悪していた自分にとって、数年ぶりに見る部屋だった。水墨の掛け軸がかかり、質素というには表現が軽すぎるほど何もない和室。本当に何もない。昔は花が生けてあったり、細々とした物がたくさんあったはずなのに。ふすま越しに差し込む、青暗い夜の光が寂しさを際立たせていた。
 部屋の真ん中に、小さな卓と座椅子が置いてある。僕はそこに座って部屋を見回してみた。正面、すぐ目に付くところに床の間がある。段違いの寄せ木細工に、何か置かれていた。
 近寄って、それを手に取ってみた。

 ――僕が手にしたのは、小さな写真立てだった。引き延ばされた訳でもなく、素人のスナップ写真サイズ。映っているのは、赤ん坊の僕を抱いた母だった。母は、微笑んでいた。居間にあるような硬い表情ではなく、ちゃんとした衣装で記念撮影をした物でもない。
 多分、背景はこの部屋だ。青い畳に、子供用のおもちゃが散乱している。天上に回る玩具や、数えるほどしか鍵盤のないプラスチック製の小さなピアノ。そうだ、僕はあの玩具のピアノを弾いていた。自分は、一人前のピアニストだと思って……。

 今とはまるで違う、賑やかで暖かそうな部屋だ。楽しそうな、明るい光に包まれている。これは、父が撮ったのだろうか。

 …………。



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