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               −第4章−

23.

 開場は八時。衣装は更衣室に置いてある。川澄さんが参加することを伝えると、倉田さんも喜んで同伴すると言った。”思い出をたくさん残しましょうね〜”と笑う倉田さんの言葉は素直すぎてちょっと恥ずかしいが、僕も同意したい。そんな思い出が彼女を変えてくれないかと考える。
 会場は、なかなかいい感じに出来上がっていた。一年生には感謝しておかないとな。床一面に絨毯が敷き詰められ、真ん中のスペースだけ体育館の元の床が出ている。本格的なダンスをする者もいるからだ。そういった者は専用の靴を自分で持ち込んで履き替えている。
 リンネルの白いテーブルクロスがかけられたテーブルに料理や飲み物が並び、皆が正装で談笑している。教師の数人も、その場に合わせた服装で生徒たちと話をしている。良家の子弟や特別進学クラスの人間が多い。自分もその一人として思われていることだろう。私立のこの学園は、そういう歴史を持っている。

 数分後の開始を前に吹奏楽部は最後の音あわせに余念が無く、舞踏会の参加者はあちこちで小さく固まって話をしている。

 ”凄いですね、去年より立派ではありませんか”
 ”うん、細かいところまで気を遣ってるね”
 ”誰だっけ、担当した一年生は?”
 ”天野とかいう地味な女の子だったはずですよ”
 ”ああ、あの子か。意外とやるじゃないか”

「あ、久瀬さん……」
 そんなやりとりをしていた数人の生徒が、僕と顔があって言葉を濁す。去年の責任者は僕だったのだから。
「去年も……よかったですよ、久瀬さん」
「はははっ、僕も凄いと思うんだよ、今年は特にね」
「はっ?」
「一年生は頑張っていたからね。責任者が女性だと、細かいところにも気が付くのかもしれない。僕の時よりしっかり出来上がっているよ」
「そう言えば、心遣いのようなものがありますね」
「今日は楽しんでいってくれ」
「ええ、そうさせてもらいます」

「久瀬さん、そんなにおだてないでください」
 話を聞いていたのだろうか、天野君が声をかけてきた。
「僕は、本当にそう思っているんだよ」
「でも、いろいろと気になるところが……」
「心配性だな、天野君は」
「こんなに大きなイベントですから、何か失敗でもしてしまったら……」
「責任者は、何もしないで大きな顔をしていればいいんだよ。みんなきちんとやってくれるさ。信頼して任せないと」
「……そう、ですね」
「天野君も楽しまないと」
「ええ」
 天野君が、にっこり微笑む。
「天野さーん、そろそろ開幕だけど良いかーい!」
 体育館の入り口から、斉藤が大声で天野君を呼んだ。
「あ、それでは私はもう行きます」
「うん、頑張って」
「久瀬ーっ、この忙しいのになーに天野さんの手を煩わせてるんだー!」
 うるさいぞ斉藤、そんな遠くから叫ぶな……。なんだか天野君の笑顔につられて、笑いながら斉藤へ合図を送る。”お前もしっかりやれよ”と。

 ガラスのピッチャーから、ミネラルウオーターをついで飲む。ぴったりした皮の手袋を脱いでしまいたかったが、しきたりだから仕方ない。暫くして、川澄さんと倉田さんが会場に姿を現した。
「お待たせしました〜」
 倉田さんは相変わらずドレスが似合う。今年も男子生徒の標的となることは間違いない。
「……やっぱり恥ずかしい」
 一方、川澄さんはそんなことを言って口をつぐむ。今の君ならあの連中と一緒にいても可笑しくない。似合ってるよ。僕はそんな台詞を飲み込んだ。
「大丈夫。舞、似合ってますよ〜」
「川澄さん、最初は僕がお相手させてもらっていいかな?」
 川澄さんを誘う。もう、この二人にはあちこちから声がかかっていた。優雅な弦楽器の音色が場に彩りを添え、軽快なウインナワルツが始まる。僕は川澄さんの手を取って中央の舞台に招いた。
「どうすればいいの……」
「やってみればそんなに難しくはないよ」
「…………」
「タンタンタン、タンタンタン。三拍子のリズム。解るかな?」
「こう?」
「そうそう、上手じゃないか」
 僕なんかよりも、ずっと運動神経の良い川澄さんだ。簡単なステップを覚えるのにそれほど時間はかからなかった。

「……このドレス、どうしたの?」
「母親の物だよ」
「お母さん?」
「うん、家から持ってきたんだ。母はダンスが上手でね。小さい頃は、よく一緒に踊ってもらおうとせがんだものだよ。父親と三人で踊ったこともあった……」
 川澄さんと踊っていると、横から声をかけられた。
「会長が踊るなんて、珍しいですね」
「ところで、お相手の綺麗なその方は?」
「うん? 三年の川澄さんだよ」
「川澄っ!」
「どうした?」
「失礼しますっ」
 顔色を変えて同級生が退散していく。
「あの人たち、どうしたの……」
「あなたは有名だからね、川澄さん」
「そうなの?」
「野犬をスコップで撃退したり、ガラスを叩き割ったりしておきながら暢気な人だ」
「あなたは違うの?」
「さあ、どうだろうね。そんなに変わらないかもしれないよ。だけど僕はあなたと踊れて嬉しいんだ。もう一度その服を着て踊る姿が見れたしね」
「えっ?」
「……ちょっと休憩しようか、川澄さん」

 壁際の椅子に並んで座り、トレイを持って会場を歩いている生徒会のメンバーから飲み物を受け取った。吹奏楽部の演奏に耳を傾けながら、斉藤と天野君が踊っているのを横目で眺める。ん? どうして天野君が踊っているんだ? 一応、主催側で今日は裏方のはずだろう。
 ……斉藤だな。あの男には、目立たないように制服を着替えさせるくらいの配慮はないのか。
「……お母さんはダンスが好きなの?」
「うん、好きだったのだと思うよ」
「ピアノも?」
「そうだね、今でも母の演奏を覚えている」
「……すごいお母さん」
 川澄さんと話をしながら、僕は記憶に残る母の面影を探してしまっていた。
「でも体が弱くて、ほとんどいつも家で寝ていたよ」
「…………」
「どうかしたかい?」
「病気なの?」
「だったみたいだよ……」
 その時のことが、その時見た姿が、その時の寂しさが、僕の体の中で膨れあがる。渦を巻くて大きく、大きく。闇の中へ落ち込んでいくような絶望とともに。
「……母はもう居ないから」
「…………」
「亡くなったんだ。もうずっと前、僕が子供の頃にね」

 ”カシャン!”

 グラスが割れる音。川澄さんの顔つきが変わる。張りつめた表情は、なぜだか悲しそうに見える。
「……来る」
「本気か?」
「私は、行かないと……」
「川澄さん、止めるんだっ、こんな所で!」

 ”ガシャーーン”

 僕の制止の声は届かない。二階の窓ガラスが木っ端微塵に割れた。皆が見上げるが、何も見えない。だが、そこに何かがいると信じている彼女がいる。非常口に向かって走る川澄さんの目の前を、得体の知れない何かが宙を飛んだ。川澄さんと入れ替わりのようにやってきた人影が床に打ち付けられて転がる。人だ。小さな悲鳴と崩れる動きから人であることがわかる。乱れた髪の間だから見えた顔は――。
 照明が消え、薄暗くなった会場。目に見えないうねりが、テーブルを順に飲み込んでいく。うねりは弧を描きながら舞台の中心へ向かう。抗し難く引き寄せられるように、中心へ向かって落ちていく。そこには天野君と斉藤がいた。”カシッ”っと音がして振り向くと、川澄さんが非常口から再び現れた。ドレス姿のまま、手には剣を提げて。
「逃げろ、斉藤!」
 斉藤は天野君を庇って立ち塞がる。もう駄目だと思った瞬間――急に気配が消えた。

「……佐祐理」

 数秒後、再び光が戻った。バックアップ用の自家発電に切り替えられ、電源が回復した会場。酷い惨状の中で、川澄さんは剣を持ったまま呆然と立ちつくしていた。滅茶苦茶に壊されたテーブル。グラスや皿が破片となって散らばる体育館に悲鳴が交差する。慌てて倒れ込んだままの倉田さんを助け起こした。
「倉田さんっ」
「佐祐理……どうして……」
「早く医務室に運ぶんだ!」
「……佐祐理」

『――膨張宇宙論を決定的にしたのは、3Kの黒体輻射の発見である。これは宇宙初期が高温であった痕跡であり、この黒体輻射に非常に微弱な揺らぎが観測された。それは膨張する過程で発生し、観測されている銀河の構造分布が形成された名残だと推測されている。現在では、より精密な宇宙初期の揺らぎのスペクトルを観測することにより、天体の形成が詳細な数値計算で議論されている。そして理論的な宇宙モデルを構築する試みも進みつつある。それらの理論によると、宇宙を構成している物質は90%以上が暗黒物質であるという。また、最近の観測とそれらの解釈をそのまま受け入れるならば、現在の宇宙の膨張には互いに斥けあう力、予期された宇宙項が大きく関与しているということになる。しかしながらその力が発生する原理、及びその力価を現す係数は、いまだ推察の域を出ていない――。』




24.

 翌日、学校を休んで倉田さんの見舞いに行った。幸い怪我は大した物ではなく、念のため一日だけ病院で様子を見るが、明日には学校にも出てくるという。
 自宅の玄関をくぐると、珍しく家にいた父親が僕を出迎えた。
「お前はこんな時間に何をしているのだ、学校はどうした?」
「…………」
 何も言わずに二階の自室へ上がろうとすると、父が言った。
「後で私の書斎に来い。話したいことがある」
 聞こえないふりをして、無言で階段を上がった。僕のことなど放っておいてくれ。こんな時だけ父親顔するんじゃない。

 自分の部屋に閉じこもり、ベッドに倒れ込む。なんだか、とても疲れ切ってしまった。考えることを放棄してしまいたい。いくら考えても、どうにもならないことだってある。答えに辿り着かないこともある。なら、もう止めてもいいじゃないか。それで何が変わると言うんだ。

 ”トントン……トン…”

 うん? 廊下に足音がする。

 ”トントン……”

 降りていったな……。

 ”トントン……トン…”

 また登っている。

 あの男は何がしたいんだ。自室のドアを開けるのと同時に、ドアが閉まる音が聞こえた。話を聞きたいなら、自分で来ればいい。わかったよ。あなたのプライドが許さないなら、僕が行ってやろう。もしかして、僕のことが心配なのか?
 まさか、あの男に限って……。そうだ、そんなことがあるはずがない。

 服を着替えて居間へ降りていくと、父はまた同じ言葉を吐いた。
「お前は何をしているのだ」
 視線を上げずに、碁盤に向かっている。テレビの画面には囲碁番組が映っていた。書斎へ来いと言いながら、どうしてここにいるんだ。
「お前は夜な夜な出歩いて、先日は母さんのドレスを持ち出したな」
「僕のことなど構っている閑はないだろう、会社は大丈夫なのか」
「ああ、あの記事を読んだのか。もう出所は押さえた」
「抜け目のない人だ」
「父親に向かって、そういう口の利き方は感心しないな」
「僕はあなたを父親などとは認めない。これ見よがしに写真を飾って、これもあなたの偽善なのだろう」
 リビングの壁にかけてある大きな額縁。父と母、そして僕が写っている写真を指さしてやる。
「お前は私のことが嫌いだろう」
「ああ」
「……何故だ」
「何故か、だと?」

 この男は母さんが入院した時にも、一度だって来たことはなかった。優しい言葉一つかけてやらなかった。いつも母さんは寂しそうに笑っていた。母は父のことを責めたりはしなかったが、僕は、この男を許せない。
「……あなたのように非情な人間を、僕は認めない」
「私に反抗するくらいだから、お前はもう少し成長したと思っていたが」
「なにっ」
「お前は物事の一面しか見ていない。そういう浅はかな見解と幼い考えしか持っていないから、こういう事になるのだ」
 父親がパチッっと碁石を打った。盤面の状況など僕には関わりがない。
「碁盤は世界を現しているのを知らんのか」
「僕はそんなものに興味はない」

「好きな女でも出来たか?」
 今度はいきなり妙な所から攻められる。
「あなたに話す筋合いなんてない」
「それでは違う質問にしよう。倉田さんの娘さんが怪我をしたのは、どうしてだね?」
 盤面から目を離した父が、僕の顔を睨む。
「お前と一緒に学園の催しへ参加していたのだろう」
「あれは、事故だった……」
「事故?」
「そう、事故なんだ」
「私が聞いた話とは、かなり違うようだが」
「…………」
「お前は何を隠している。いや、誰を庇っているんだ?」
「…………」
「…………」
「……確信が持てない」
「確信、だと?」
「彼女が倉田さんを傷つけるはずがないんだ」
「ほう?」
「…………」
「その女が好きなのか」
「わからない」
「それでは、何故そこまで庇おうとする」
「…………」
「まあ、お前が信じているものを証明してみせるのだな……。それができないのなら曖昧な優しさなど持つな。最初から。今のお前にできることなど、たかが知れている。後悔したくなければ、希望など持たないことだ。だがもし……」

 そう言いかけて、急に父は碁盤をそのままに書斎へ立ち去った。狭い碁盤にひしめいている黒白の玉が、混沌と残された。




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