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               −第3章−

19.

 昼休み。何故か僕は階段の踊り場で倉田さんの作った漬け物を褒めている。僕は、はっきり拒否したつもりだった。なのに今日もビニールシートに座って、手作りの弁当をご馳走になっている。淹れてもらった茶を飲みながら、芋の煮っ転がしの微妙な味付けについて倉田さんと意見を交換している。今日は僕用の箸まで用意されていた。
「はい久瀬さん、お茶ですよ〜」
「あ、ありがとう」
 倉田さんと川澄さんが、教室まで迎えに来てしまったのだから仕方がない。そう、仕方なく僕はついてきたんだ。だけど、そんなに意地を張るようなことでもない気がしてきている。ままごとのように小さい中国茶器で楽しそうに茶を点じる倉田さんを見て、そう思う。

「川澄さんは和食と洋食、どちらが好きなのかな」
「……和食がいい」
「それで倉田さんの弁当はいつも和風なのか」
「はえ、久瀬さんは洋風のほうがお好きですか?」
「僕もこのままの方が良いよ。なんだか思い出してしまうな、手作りの料理なんて……」
「あははーっ、今度の丑の日には鰻にしましょうね〜」
「……鰻さん、嫌いじゃない」
「そのもの自体は、あまり可愛くないと思うけど?」
「そんなことない」
 僕にとって、女性の好みはやはり謎だ。
「天ぷらとか、お寿司も良いかもしれませんね」
「倉田さん、昼のお弁当には似合わないよ」
「そうでしょうか?」
「いや、似合わなくないかも……」
「あはははーっ、久瀬さん、今度がんばって作ってみますね〜」
 この場所でなら、この二人なら、昼の弁当に何が出てきても納得できそうだ。『あはははーっ、今日はお寿司ですよ』『天ぷらは揚げたてが美味しいですよね〜』『打ちたての新ソバですよ〜』『今朝捕まえてきた本まぐろで、鉄火丼を作ってみました。唐辛子入りのピリ辛で〜す』『……大きなお魚さん』。うん、やりかねないと思う。
 会話が破綻せずに続くというのが不思議だ。川澄さんが変わったのか、僕自身が変わったのかは解らないが。おかしな事がきっかけで知り合ってしまった仲だが、こんなのも悪くないと思う。とても居心地が良い。ここには、僕の場所がある。居場所がある。
 ほとんど無言で自分の食事に専念している川澄さんも、まあ、そういう性格なのだと何故か納得できる。興味深い人だ、川澄さんも、倉田さんも。

「そういえば、倉田さんは今年も参加するんだろう?」
「はえ?」
「舞踏会。もう開催は来週だよ」
「佐祐理は、今年は出ません」
「え、どうして?」
「誘ってみたんですけど、舞が参加しませんから……」
 変な友情もあったものだ。
「川澄さんはどうして参加しないのかな?」
「…………」
 もぐもぐと咀嚼しながら、川澄さんが僕を見る。
「返事は飲み込んでからでいいよ……」
「(こくっ)……」
「今年はいつも以上に準備に念が入ってるから、できれば参加して欲しいんだけどね。天野君という一年生が仕切ってくれているんだけど、たくさん人が来てくれないともったいない」
「舞、やっぱり参加しませんか?」
「……(ふるふる)」
「ちょっと顔を出すだけでも良いんだよ」
「……私には似合わないから」
「ふえ、そんなことありませんよ〜」
「そうだね、川澄さんだって衣装によってはお嬢様みたいになれるよ。着る物がなければ僕が手配するから」
「…………」
「まあ、ゆっくり考えてくれて良いよ」
 今日も一緒に昼ご飯を食べ、夜には人気のない校舎で彼女に会うことになる。そのとき、また訊いてみればいい。無理に大役を引き受けてもらった天野君のためにも、できるだけ盛大な催しにしたいものだ。それに、川澄さんのドレス姿というのも見てみたい気がする。

 毎日、家へ帰ってすぐに眠る。そして深夜、人気のない街を歩いて彼女へ会いに出かける。もう日課のようになってしまった。だけど、僕はいつからこうしているのだろう。今夜は、何事もなく時間が過ぎた。

 星が、綺麗だった――。

『――ブラックホールに落ち込む物質は強力な潮汐力によって破壊され、ブラックホールを取り巻いて回転する降着円盤を作る。ブラックホールの質量が十分に大きければ、降着円盤を構成するガスは質点の周りのケプラー運動に近い差動回転をする。このため降着円盤のガスは粘性による摩擦を受けて加熱され、X線やγ線を放出する。同時に角運動量を失って次第に中心へ落ちていき、ブラックホールに飲み込まれる。ブラックホールのシュバルツシルト半径は質量に比例するため、ブラックホールが物質を飲み込んで質量が増えると事象の地平面の半径も大きくなる。このような大質量ブラックホールは、恒星進化の終わりに作られたブラックホール同士が階層的に合体して成長したものであると考えられている。近年、銀河中心部から放出される電波や恒星運動の追跡観測が盛んに行なわれるようになり、多くの銀河の中心部には太陽の数百万倍から数十億倍という大質量のブラックホールが存在することが確認された。このことから、銀河の大部分の中心核には超巨大ブラックホールがあると考えられている。予期されていたよりも、遙かにその存在は宇宙で大きな部分を占めていたことが判明したのである――。』




20.

 舞踏会を控えた日曜日、今日は午前中から学園へ向かう。いよいよ準備が大詰めを迎えており、休日返上で頑張っているのだから、手伝いに行こうと斉藤が言い出したのが発端だ。僕も、そうした方が良いと思った。いくら生徒会が縁の下の組織でも、やはり誰かに認めてもらえた方が気分がいいだろうから。

「ほう、これは……」
 照明が落とされ、忙しげに飾り付けなどの作業が進められている体育館。準備中とはいえ、会場はかなり形になってきていた。これは、なかなか期待できそうだ。
「久瀬さん、わざわざ来ていただいたのですか」
「ああ、斉藤と二人で手伝いにね」
「ありがとうございます」
「天野さん、これ僕からの差し入れ」
「……おいおい、それでは一人で買ってきたような言い方じゃないか」
 僕も出したんだが、まあいいか。
「斉藤さん、これは?」
 手渡された物体を抱えて、天野君は目をぱちくりと瞬かせる。まあ、普通はそういう反応だろう。天野君をリーダーに準備を進める一年生たちへ差し入れたのは、大きなスイカだ。冬にスイカはどうかと思うが、斉藤は面白そうだと決めてしまった。妙な男だ。この時期、スイカを売っている店も妙だが。

 辺りを見回すと、休みだというのにほとんどのメンバーが揃っている。やはり僕の目に狂いはなく、天野君は遅れたスケジュールを取り戻してしっかりと皆を纏めていた。だからスイカをぺちぺち叩きながら、斉藤が『スイカ割り』をしようと馬鹿なことを言っても別に構わないと思った。開催準備は充分進んでいるのだし、当面は問題になるような課題もない。たまに息抜きくらいは必要だ。
「天野君、いいかな?」
「冬にスイカ割りなんて可笑しいですけど、久瀬さんが仰るなら構いません」
「そうじゃなくて、君がリーダーなんだから天野君が決めないと」
「私が、ですか」
「そう」
「おーい、どこかにビニールシートってなかったか〜」
「……もう、やる気十分なのが一人いるけどね」
「やってみましょうか?」
 天野君がにこっと笑う。許しが出たので、メンバーたちは作業の手を止めて歓声を上げる。スイカを冷やし行く者、棒を探し始める者。手際の良いことだ。そんな集団を創り、まとめ上げるというのはなかなか難しい。

 会場を汚す訳にはいかないので、みんな揃って校庭へ繰り出した。今日も天気がいい。冬。”スイカ割りこそ冬の風物詩だ〜”と、斉藤が訳の分からないことを語っている。全く、妙な男だ。でもまあ、天野君も楽しそうにしているので良しとする。寒々とした風景も、スイカ一つで変わるものなのだな。僕たちが今、感じているは――太陽の光に照らされて鮮やかに浮かび上がる夏そのもの。そんな日常の記憶だ。
 その後、スイカを置こうとした斉藤が後ろから叩かれたり――天野君が振りかぶった木刀が、斉藤の頭を直撃したり――目を回した斉藤が天野君に抱きついたり――。最後のはちょっと問題だぞ、斉藤。それでも、一年生には良い気晴らしにはなったようだ。しかし斉藤はああいう性格だったろうか。わざと演じているような気もする。天野君の補佐役として足りない部分を補おうとでもしているのか。まあ、いい感じに纏まっているので今は何も言うまい。

 一時の遊びが終わり、再び真面目に準備を進める一年生たちを手伝った。舞踏会では食事も提供するので、仕舞い込まれていた食器やテーブル用品を調べてきれいに洗う。今日は、ほとんどその作業で潰された。
 午後九時頃になってようやく目途がつき、一年生たちは帰り支度を始める。コートを羽織った天野君が話しかけてきた。
「久瀬さんは帰らないのですか」
「ああ、待ち合わせの予定があってね」
「こんな夜に?」
「そう、こんな夜中になんだよ天野君」
「よくわかりませんが、わかりました」
「あ、そうそう……」
「はい?」
「斉藤には気を付けた方が良い、奴は天野君が好きなんじゃないかな」
「からかわないでください」
「はははっ、僕にはそう見えるんだけどね。意外と無理してると思うよ彼は」
「……知りませんっ」
 顔を赤くして天野君が駆けだしていく。わかりやすい人だな、天野君は。
「斉藤が昇降口で待ってるみたいだよ〜」
 天野君の背中に向かって、そう声をかける。聞こえただろう、きっと。

 おや? 立ち止まった天野君が、僕に向かってブンブンと手を振っている。大声で言うなと? ははは、わかりやすい人だ、天野君は。笑ったり、怒ったり、照れたり。そんな感情を素直に出せると言うことは、とても素晴らしいことなんじゃないかな。天野君の後ろ姿を目で追いながら、そう思う。

 そして僕は――誰もいなくなった校舎で、いまだにわからない彼女を待つ。




21.

「川澄さん、君も休日にご苦労なことだ」
「…………」
「残り物だけど食べるかい、スイカ?」
「……(こくっ)」
 夜の校舎に、しゃくしゃくとスイカを囓る音が響く。川澄さんは今日も片手に剣を持ったままスイカを口にした。立ったまま。全く季節を感じさせない人だ。いや、そんな日常からは遠く隔たった所にいる人なのだ。
 でも、そんなのはとても悲しい事ではないだろうか。夏になれば山や海へ出かけたり、プールで遊んでみたり、頭に響くかき氷の冷たさを感じてみたり。僕たちはそういうモノから夏を感じるはずだ。冬になれば炬燵へ引っこみ、みんなで鍋を囲んだり。外の寒さから護られた家の中で、テレビを見ながら談笑してみたり。自分の家へ帰ってきて、ほっと息を吐いた時のストーブの暖かさ。差し出されるお茶、ミカン、湯気を上げている薬缶……。僕たちはそういうモノから冬を感じるはずだ。
 そして季節は、流れ往く時の栞となって記憶されていくはずなのだ。しかし川澄さんにはそれがない。彼女の時間は、何処かに止まったままだ。

「川澄さん」
「なに……」
「あなたは、休日や冬休みにも学校に来るのかい」
「…………」
「暖かい部屋で深夜放送のドラマを見たり、街のイルミネーションやお洒落な店を覗いたりはしないのかな。みんなで遊びに行ったり、旅行したりはしないのかな」
「私は、ここにいなければならないから……」
「出ない日もあるんだったね。なのに毎日来るのかい?」
「…………」
「川澄さんは、何か趣味はないのかな」
「……趣味?」
「そう、何か好きな物とかだよ」
「……星が好き」
 彼女は、そんなところまで夜の日常から離れられないのか。
「どうして星が好きなんだい?」
「……いつもそこにあって、ずっと変わらないから。それに綺麗」
「僕も子供の頃はよく星を見ていたよ」
「私もなりたい……」
「え?」
「……でも、きっと私は弱すぎるのだと思う……」

 見上げる天井、それが”ピキッ”っと音をたてた。まるで何かがぶらさがっているように、ぐんっ、と低い音を立ててその先の壁が地震でも起きたかのように揺れた。恐ろしく目に見えない重圧がのしかかってくる。
「…………」
 川澄さんは体を低く落とし、前かがみの姿勢で待ちかまえる。床を這う衝動が僕のふくらはぎを撫でた。すれ違う瞬間、川澄さんは一歩踏みだし剣を薙いだ。甲高い金属音が響き渡り、同時に川澄さんが廊下の先に弾き飛ばされる。唖然として眺めていると、僕の脇に置いてあったスイカがぐしゃぐしゃに潰された。危険を感じて逃げようとするが、足を滑らせて廊下を転がってしまう。僕の頭上を何かが高速で通り過ぎた。

 今度は、駆け抜けざまに剣を振り抜いた格好で川澄さんが廊下の先から姿を現す。異質な音と、何もない空間に響く衝撃。剣を振り抜いた姿で着地した川澄さんが、余韻を断ち切ってすくっと立ち上がった。
「……怪我は?」
 そう言って川澄さんが僕に腕を差し延べた。
「ありがとう、大丈夫だよ」
 川澄さんの助けを借りて立ち上がる。握った手は熱く汗をかいていた。平然とした顔や素振りからは解らなかったが、手首に大きく脈打つ鼓動が僕と何も変わらない人間を感じさせる。神秘的に見える彼女だって同じ人間なんだ。怖くなったり緊張することだってあるのだろう。

”パシッ”

 その時、妙な音がした。僕を支えるために川澄さんが片手で持っていた剣が不自然に弾じかれ、けたたましい金属音をたてて、平らな廊下を転がっていく。まるでそれを見計らっていたかのように川澄さんの手から剣が奪われた。
 川澄さんの手が空を掴む。しゅう、と気配を感じる。彼女を攻撃する『何か』には目があるのだろうか。いや、そんなタイミングを計り、不利な状況に追い込む知覚さえもあるのだろう。護りを失った川澄さんに『何か』は細かく攻撃を重ねる。それを受けて川澄さんはじりじりと後退するばかり。

 廊下を追い詰められていく川澄さんとは反対方向に、転がった剣がある。僕は剣を拾いに走った。格好など気にしていられない。身を低くして転がるように剣に近づく。そして手に取った。

 そんなはずはない! 

 僕には理解できない。理不尽だ。こんなに非現実的なことがあるだろうか。剣を握る僕に、川澄さんがこちらへ駆けながら指で天井を指し示す。僕はそこへ、掴んだ剣を投擲した。空中に投げ出された剣をしっかりと掴む手が見える。その瞬間、刃が怪しく光った気がした。廊下へ降り立つと同時に、刃が垂直に振り下ろされる。そのまま手の甲を返し、今度は水平に。打ち込まれる剣は金属のように鋭利な衝撃音を伴って空間へ振り下ろされる。そして川澄さんは、肩の後ろへ引いて一気に突きだした。
 気配が消えた。
「逃がした……」
「…………」
「でも、もう虫の息……」
 どういうことだ。川澄さんが手にする剣は、月明かりに金属の煌めきを放っている。そして見えない何かに傷を与えた。しかし僕が実際に持ってみた感触に間違いはない。あれは……。




22.

 僕の頭の中に、漠然とだがある理論が浮かんできている。それを確かめるために今日もまた夜の校舎へ赴く。
「昨日はさんざんだったね、川澄さん」
「…………」
「川澄さんが追い詰められるほど、あれは強いのかい」
「わからない……」
「……そう、だろうね」
「え?……」
「いや、そんな気が……しただけだよ」
「それは?」
「ああ、今日の差し入れだ。天丼とマグロの山かけ丼だけど、どっちが良いかな?」
「…………」
「…………」
「……やまかけ」
「そっちなのか……」
「じゃあ、天丼」
「はははっ、じゃあって何だよ。好きな方を食べればいい」
 箸を割って川澄さんへ渡す。
「丼は僕が持っているから、ゆっくり食べなよ」
「一人でできる」
 川澄さんは、口をとがらせて子供のように意地を張る。
「どうやって? 剣を持ったままでは無理だろう」
「…………」
 仕方ないと判断したのか、川澄さんが丼に箸を差し込んでご飯を掻き込みだした。

「誰もあなたのご飯を取りはしないから、そんなに急いで食べなくても良いだろう。ほら、鼻についたじゃないか」
 とろろが顔についても、無頓着に川澄さんは食べ続ける。川澄さん、あなたは犬じゃないんだよ。
「ちょっとこっちを向くんだ」
「?………」
 よく解らないまま顔を上げた川澄さんの口元を、ポケットから出したハンカチで拭おうとした。急に川澄さんの表情が変わる。そして丼を僕に押しつけて駆け出そうとする。そんな彼女の肩を掴んで、引き留めた。
「どんな悪さをするモノかは知らないが、こちらから追いかけなくてもいいだろう」
「…………」
「それに、そのままだと痒くなってしまうよ」
「構わない……」
「もう少し、身なりや見た目に気を遣ってはどうだ。まったくあなたは子供のような人だ」
「…………」
 今度は黙って顔を拭かせる川澄さんは、警戒を解かずに厳しい目であちこちに視線を巡らせている。
「あ、それと食べ終わったら僕に付き合って欲しいんだけど、いいかな?」

 自分も食事を終わらせ、川澄さんと二人で旧校舎へ向かう。自分の場所を離れたくないらしい川澄さんの手を引いて、目指す教室の扉を開けた。月明かりに浮かび上がるピアノ。過去の音楽家たちの石膏像。乱雑に並べられた生徒用の机。音楽室に付き物の譜面台や楽譜が、片づけられずに散乱している。
「川澄さんはここに座って」
「…………」
 首を傾げながらも、無言で川澄さんはひとつの椅子に腰掛ける。僕はピアノを前にして訊いた。
「川澄さん、好きな曲は?」
「…………」
「あんまり難しいのは無理だけどね」
「……わからない」
「じゃあ、好きな物は?」
「動物さん」
「そうか」
 僕が弾ける曲で、動物と関係ある曲。ひとつだけ思い出した。

 ”ね、こ、”
 ”ね、こ、…”

「…………」

 ”ね、こ、ふんじゃった”
 ”ね、こ、ふん、じゃっ、た”

 ゆっくりと、最初は指使いを確認しながら弾いていく。
「明日だね、川澄さん」
「舞踏会?」
「そう、覚えていてくれたのか」
「…………」
「僕は、あなたが参加してくれたら嬉しいね」
「でも……」
「音楽が好きなんだろう」
「嫌いじゃない」
「……音楽っていうのは怖さを忘れるための物、そんな説明をする人もいるんだよ。そして演奏はその瞬間だけの魔法。昔の人は言葉の感覚が豊かだよね、そうは思わないかい。デジタルな音がいくらでも作れるのに、どうして楽器を弾く人がいると思う? 音楽は表現なんだと思うんだ。絵や物語と同じようにね。演奏する人の心が伝わるものだと、僕は思っている……」
「…………」
「なんだか、変なことを言ってしまったかな。いま話したのは全部、昔の音楽家が語った言葉からだよ。たき火を囲んだ原始人も、現代人の僕たちも、音楽を聴いて踊りたくなるのはどうしてなんだろうね。きっと同じ恐怖を、変わらない不安を感じているからだと思う……」

 ”ふんずけちゃったら、ぺったんこ”
 ”ね、こ、ふん、じゃっ、た……”

「僕はね、母親からピアノを弾くことを教わったんだよ。まあ、聴いてわかる通りそんなに上手くはないけどね」
「……そんなことない」
「ん、ありがとう――だから、弾くといつも思い出すんだよ。なぜ、誰でもずっと一緒にはいられないのかな。いつか別れる時は必ず来る。永遠なんていう嘘を信じてはいけないんだと思う……。楽しい時も、嬉しい時も、絶対に忘れたくない姿の全てが――きっと、いつか過ぎ去る。だけどね……」
「…………」
「だけど僕は、今もこうして母から習ったピアノを弾いているんだよ」
「……お母さん?」
「川澄さん、あなたが戦っているものは何なのだろう」
「……わから、ない」
「それはきっと、あなたにしか解らないもののはずだよ」
「…………」
「川澄さん、あなたは……」
「……もう、帰る」
「そうか。川澄さん、明日は参加してくれるかな」
「…………」
「…………」

 ”ねこ、ふんじゃった”
 ”ねこ、ふんじゃった”

「うん……」
 川澄さんはそう言い残し、僕を置いて帰っていった。
 
 僕はその日、夢を見た。広々とした一面の平野。吹き抜ける風。大きな野外ステージでピアノを弾いている自分。光が眩しい。そして観客席の端には――僕を見つめる彼女。一人だけ、ちょこんと草の上に座っている彼女。子供のように無邪気な川澄さんが、そこにいた。



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