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               −第2章−

13.

 クソッ……。押さえきれず、そう口に出してしまう。周りを歩いている人間、誰でも良いから掴みかかりたいほどの気分だ。そして”どうしてあんな男が僕の親父なんだ!”と、詰問してみたい。学校から帰り、自室で音楽を聴いていただけなのに。何が癪に障ったのかもわからない。珍しく早く帰ってきたあの男は怒鳴りちらし、僕の生活態度がどうだとか、成績がどうとか、汚い言葉で罵った。多分、どこかの宴席で酒を飲んできたのだろう。酔っぱらいから侮辱を受けて、黙っているほど僕は坊ちゃんじゃない。だから頭を冷やしてやろうと、コップに注いだ冷水をぶっかけてやった。

 そして僕は、父親との口論から家を飛び出してしまった。そしてこんな時間に、行くあてもなく駅前を徘徊している。

 駅前の広場は、電車を降りたたくさんの人たちが行き交う。これから家へ帰る人、遊びに出かける人、誰かと待ち合わせをしている人……。夜でも明るく照らし出されている街の中心部は、活気がある。ざわめきと人いきれ、そこにはたくさんの人たちがいる。明るい光に引き寄せられるように集まってくる、人、人、人。皆が楽しそうに、誰かとの時間を求めて歩き続けている。
 でも僕は独り。話すこともできず、ただ見送るだけ。そこにいるのは、僕とは関わり合いのない人たちなのだから。どんなにたくさんの人たちが僕の前を行き過ぎていこうとも、それでは誰もいないのと同じこと。賑やかな駅前で、孤独を感じる。――孤独? 彼女は、今日もひとり佇んでいるのだろうか。僕と同じように、誰かを想い続けているのだろうか。
 僕の足は自然と歩き出し、公園の先にあるコンビニを目指した。そして、夕食になりそうなサンドイッチやサラダを買う。きっと断られるだろうから。今日もいるとは限らない。それでも僕は、学園へ向かって星空の下を歩き続けた。

 倉庫を抜けて校内へ入ると、川澄さんは昨日と同じように立っていた。今夜も剣を携え、夜の校舎に佇んでいた。
「……ありがとう」
 今日は直ぐに僕のことを見つけてくれた。
「何のことかな」
「佐祐理に内緒にしてくれたから……」
「個人のプライバシーに立ち入るのは、あまり好きではないからね」
「……だけど、もうこないで」
「僕がいると何か困るのか」
「…………」
「学園に報告するとでも思っているんだね。だけど、本当の話をして誰が信じてくれる?」
「私は……」
「ん?」
「……なんでもない。あなたには関係のないことだから」
 言葉を言い終えた途端、いきなり川澄さんが僕の肩に手をかける。そして僕を支えにして跳躍した。昨日、僕を突き飛ばした『何か』が現れたのだろうか。それにしても、いつも肝心なところで出現する奴だ。見えない影は川澄さんを押し潰そうとしているもの。僕をここから追い出そうとしているもの。その正体はまだわからない……。
 体重を支えきると、川澄さんの身体は天井ぎりぎりの高さに舞った。そして渾身の力を込めてその高さから一気に剣を振り下ろす。凄い運動神経だ。昨日も思ったが、こんな才能があるなら、もっと他に力を発揮できるだろう。武術でも、スポーツでも、演劇やアクション物の女優でも。こんな彼女の姿を知れば、入部して欲しいと思う部活もあるはずだ。上手くやれるかは彼女次第だが、少なくともこんな所で剣を振り回すよりはいい。勿体ないことだ。

 そんな川澄さんの姿に見とれていると、床が湾曲するかと思うほどの衝撃が僕の足にまで伝わってきた。
「……逃がした」
 川澄さんはそう言って振り向く。平然とした表情で。息も全く上がっていないようだ。逃がしたと言っているからには、彼女には何かが見えるのか。
「もう今日は現れないのか?」
「…………」
「それでは、もうここにいる必要はないのだろう」
「わからない」
「僕は理由を知りたい。あなたが戦っているものが何なのかを知りたい。どこかに寄って晩ご飯――いや、夜食でも食べながら話を聞かせてくれないか」
「…………」
「どうかな?」
「……一人で行って」
 どうやら、嫌われてはいなくても信頼されるまでには至っていない。

「川澄さん、昨日会った時”あなたじゃない”と僕に言ったね」
「…………」
「それは誰のことなんだ。誰ならあなたは話すというんだ」
「……わからない」
「解らない?」
 彼女の心を開いていくれる人間が、何処かにいるはずだ。なのに彼女は知らない。そんなことがあり得るだろうか。
「いつまで待つつもりだ、その、知らない誰かを」
「…………」
「僕では信用できないと言うことか」
「…………」
 川澄さんは口をつぐんでしまった。これ以上責めても、頑固な彼女から満足な話は期待できないだろう。一度、ゆっくり話をしてみたかったのに。
「今日はこれで帰るよ」
「私は……」
「ん?」
「私は、ここに居ないと……」
「ならこれを置いていくから、あとで食べるといい」
「……あなたは?」
「君と違って、僕はどこへでも行って勝手に食べるよ」
 コンビニの袋を川澄さんに握らせ、僕は校舎を後にした。格好を付けてしまったが、ここ以外の行き場所はいつものファミリーレストランしか思いつかなかった。

『――質量が太陽の8倍を超える重い星の場合、力の均衡を失い、巨星に進化したあとも中心部では核融合によって次々と重い元素が形成される。最終的には鉄からなる中心核が作られ、一連の核融合反応の連鎖が止まって星の中心部は熱源を失い、重力によって収縮をはじめる。収縮が進むと鉄の原子核同士が重なり、陽子と電子が結合して中性子を形成する。そして、星の中心部はほとんどこの中性子だけの核になる。この段階では核全体が中性子の縮退圧によって支えられるため、重力収縮によって核に降り積もる物質は激しく跳ね返されて衝撃波が生じる。これが超新星爆発である。超新星爆発の後には核が中性子星として残され、光やX線を激しく放出するパルサーとなる場合もある。質量が太陽の20倍以上ある星の場合には、中性子からなる核の縮退圧よりも自己重力が上回るため、超新星爆発の後も核が収縮しつづけて重力崩壊を起こす。この段階では星の収縮を押し留めるだけの力が存在しないため重力崩壊がどこまでも進むことになり、結果、シュバルツシルト面より小さく収縮した天体がブラックホールと呼ばれるものである――。』




14.

 ……………………。

「久瀬」

「久瀬っ」
 
「コラ、久瀬っ!」
 なんだ、騒々しい。
「生徒会長が居眠りとは、お前どういうつもりだ!」
「……え?」
「寝ぼけてるのか、今は俺の授業中だ!」
「あ、すいません石橋先生……」

 さすがに今日は眠かった。昨日からほとんど寝ていないからな……。ようやく午前中の授業が終わったが、何をしてたのかほとんど覚えていない。こんな毎日が続けば、内申や成績に影響してしまうかもしれない。川澄さんは、いつ寝ているのだろう。学食で新メニューを眺めながら、そんなことを考える。

 私立の高校だけあって、学園の生徒食堂はなかなか良い物を出す。たぬき饂飩からフレンチのランチまで揃っているというのは、他の高校ではなかなか無いだろう。……タヌキとキツネ、どちらが揚玉だったろう? ハイカラというのもあったな。
 厨房を覗いてみると、数人の婆さんたちが忙しげにのろのろ動いている。味は良いが、時間がかかるのがネックか。あの人数で多様なメニューを作るとは、かなりの謎だ。元は一流シェフたちなのかもしれない。
 商業科の実習で開発したという新メニュー、「ニシン飯」を箸先でつつく。昨今流行している地産地消とか、地元名産を使った高付加価値の商品開発を狙ったそうだ。さっきからしげしげ見ているが、蒲焼き風の焼き色やタレの香味が食欲をそそる。学食に出すくらいなのだから、そこそこ旨いのだろう。腹も減っているので、ドンブリを持ち上げて一気にかき込んだ。

 ”ゴホッ!”

 ……責任者は誰だ。

「やった、新メニューだ!」
 声のする方を見ると、前に会った生徒たちが騒いでいる。
「旨そうだなぁニシン飯だってよ。相沢、これにしようぜ!」
「あら、珍しいわね」
「なんか小骨が刺さりそうだな」
 ああ、めちゃくちゃ刺さるよ。咽せるほどね……。
「名雪はどうするの?」
「うーん……」
「一応、悩むのね」
「今日はAランチにするよ〜」
「やっぱり」
「だって、デザートが付いてるし」
「飽きない?」
「うん、好きだから」
「じゃあ俺もAランチにする。苺ムースは名雪にやるぞ」
「祐一、嬉しいよ〜」
「あなたたち、相変わらずね……」
「おい、早くしないと席がなくなっちまうぞ」
「北川君、席を確保しておくから纏めて注文してきて。あたしはBランチで良いわ」
「わかった。行こうぜ相沢」
「ああ」
「おばちゃーん、ニシン飯〜っ!」

 女性というのは、デザートや甘い物がそんなに好きなものなのか。ひとつ利口になった。それにしても楽しそうな奴らだな。少しだけ、羨ましい。年も変わらないし、同じ学園に通っているのに。どうして僕はこうなのだろう。そして、彼女は――。

「相沢、めちゃくちゃ旨いぞニシン飯!」
「わかったから米粒飛ばしながら喋るなっ!」

 ……人それぞれと言うことか。




15.

 一日の授業が終わった後は、いつものように生徒会室で仕事を続ける。部費予算の申請から校内設備への要望、教師や生徒への意見、イベントのアイディア、食堂の運営などについて、結構な量の書類がたまっている。
 役員会で決定したため、渋々「ニシン飯」継続販売への書類を作りながら窓の外を見た。綺麗な夕焼け。こんなに美しいのに、黄昏を寂しく感じるのはどうしてなんだろう。これから夜が来るから? もう一度太陽が出てくるか不安だからか? 柄にもなく、僕をそんなセンチメンタルな気分にさせる何かがある。誰だってそうじゃないだろうか。

 校舎の窓から眺める景色は辺り一面が金色で、輝く大海原か草原に立っているようだ。冬だというのに、差し込む日の光が柔らかな温もりを投げかけている。仕事の手を休め、光に満たされた部屋でペンだこが出来た自分の手を見つめた。いつからこんな手になってしまったのだろう。音楽家の手じゃないな。もう何年だろうか、僕がピアノを弾かなくなってから。先日も、弾くことはなかった。自宅ではピアノを見ないようにしている。思い出すのには、あまりに鮮やかすぎる記憶だから。
 いつでも想い出を辿れば、鮮やかな姿が甦る。楽しかった想い出、幸せな記憶、微笑む笑顔、暖かい温もり。それを思うと、いつだって悲しくなってくる。ある一点で全てが止まる。全てが崩壊する。そして最後には何も残らない。

 また、悪い方向に考えが進んでいるな。どうして僕はこうなのだろう。自嘲気味に口元が緩む。自分の顔に寂しい笑顔が浮かぶのが解る。いつからこんな表情を作るようになったのだろう。これでは、軽蔑している父親と同じじゃないか。
 思考を遮り、机に戻って仕事を再開しようとするが、どうにも身が入らない。コツコツと指先で机を叩きながら、窓の外を見続ける。

 ”コツコツ”

 ”コッ……”

 ”コツ、コココッ”

 ”コッコ、タン、コココ”

 ”タラララ、コンタタ、コッコ、タン!”

「会長――って、何してんですか」
「うん?」
 指先から視線を上げると、ジャージを着た生徒会の役員が立っていた。呆れたような顔で僕を見ている。
「気持ち悪いですよ、にやにや笑って」
「失礼だな、君は。何かあったのか」
「いえ、斉藤からの伝言なんですけど、少し遅れるから先に百花屋へ行って欲しいと」
 そうだ、今日は天野君との約束があるんだった。仕事が残っているが……やむを得ない。待たせてしまわないよう、急いで行かなくては。出かける用意を始めると、生徒会の会議では見せたことのない笑顔でジャージの彼が言った。
「何か良いことでもあったんですか、会長」

 そんな彼に、僕はこう答える。
「いいや、何もないよ。今はもう……」




16.

 三分の一ほど読み進めた本を閉じ、コーヒーを一口啜る。喫茶店『百花屋』の窓から覗く商店街は、夕方近い日の光をいっぱいに受けて余熱を放っているようだった。太陽の光を最後まで感じていたいかのように。夜を前にして、僅かでもそこから暖かい熱を吸収しておこうと求めているように。店へ入った時、暖房がありがたかったくらい外の気温は下がってきている。

 店内の柱時計が大きな鐘を5つ、小さく木霊のような音を2つ叩いた。時間の指定はしなかったが、もう来ても良い時分だ。僕の方が早かったとは。もう少し学園にいても良かったかもしれない。天野君は何をしているのやら。斉藤もまだ姿を現さない。
「お待たせしてすみません」
 振り向くと、私服の天野君がいた。
「いや、そんなに待った訳ではないけど……家から出直してきたのかな」
「すこし用事がありまして」
「そうか、わざわざすまなかったね」
 向かいに腰掛けた天野君が訊いてきた。
「久瀬さん、お話しとは何でしょうか」
「本題は斉藤が来てから話したいんだけど……」
「はい?」
「少し、天野君の意見を訊いてみたい。いいかな?」
「なんでしょうか」
 真面目な彼女は、醒めた現実的な目で物事を見ていると思う。そんな物は存在しないと言って欲しかった。僕の錯覚だとか、心理的な影響だと合理的に納得できる答えを期待していた。

「天野君は、その、幽霊とか物の怪みたいなものを信じるかい」
「え?」
「何て言うのか、不思議な存在というものをだよ」
「…………」
 天野君は、驚いたように僕の顔をじっと見つめる。
「……妖狐の、ことでしょうか?」
「え?」
「……私は信じています」
 今度は僕が天野君の顔をまじまじと見つめる。これはどういう事なんだ。彼女らしくない答えだ。それに僕はそんな特定のものを指して話をした訳ではない。
「妖狐――まあ、そういう姿をしていることもあるんだろうけどね」
「…………」
 天野君は無言で鞄から古ぼけた本を取りだした。
「今日、図書館へ返しに行く本ですが、ここを読んでみてください」
 天野君が開いたページを目でなぞってみる。

『――ものみの丘には、不思議な獣が住んでいる。古くからそれは妖狐と呼ばれ、姿は狐のそれと同じ。多くの歳を経た狐が、そのような物の怪になると言われている。彼らは人の姿となって現れ、短期間の後、始めから存在していなかった様に消える。この街には多くの言い伝えが残されており、古い石碑跡や民間信仰が色濃く残る。人間と妖狐が、共に暮らしていたという驚くべき伝承もある。今なおこの街には、彼・彼女たちが住んでいると考える者が多い……。』

 僕も少しは知っている。この街の伝承というか、言い伝えのようなものだ。
「どこにでもありそうな昔話だね」
「そうかもしれませんが、私は信じているんです」
「天野君らしくないね」
「…………」
「もしかして、そんなものを見たことがあるとか?」
「……はい」
「なに?」
 斉藤が店へ来るまで、天野君の話を聞いた。別に隠すことではないと言いながら、辛そうに話す天野君は僕とは違った不思議な体験を持っていた。あの子と呼んでいる存在、そして消えてしまった存在。悲しみだけが残った記憶。それが彼女を苦しめている。
「久瀬さん、なぜあの子は私の前に現れたのでしょう」
「どうだろうね、僕には判断できないよ」
「消えることが解っているのに、どうして?」
「…………」
「どうして私を悲しませようとするのでしょうか」
「…………」
「何を伝えたかったのでしょう……」
「…………」
「…………」

「それでも、天野君は信じている?」
「えっ?」
「そんなことは現実に起きるはずがないと、起きなかったのだとは考えようとしないのかい」
「ええ、だって……」
「詳しくはわからないけど、その子がいなくなった悲しみを別にして考えてみてはどうだろう。天野君がその子と出会った前と後で、どんな変化があったかを考えてみれば意図のようなものが解るんじゃないかな」
「忘れるなんて、私にはできません」
「だから、仮にだよ。考え方としてね。別れは悲しいことだったのに、天野君は信じたいと思っているんだろう」
「……はい」
「悲しくても、寂しくても、その子と一緒にいたことを忘れたくないんだろう」
「久瀬さん、私は……、私は信じたいと思っています。あの頃のように楽しい時が、私にもあったのだと信じています」
「…………」
「…………」
「そういうことなんじゃないかな。天野君が信じたい思い出は、本当にあり得た姿なんだよ……きっとね」
「…………」
「…………」

「ごめんごめん、遅くなった」
 ”ガン!”
「んなぁーっ 痛っ!」
 慌ただしくテーブルに歩みより――角に向こう脛をぶつけて、もだえる斉藤。君は何がしたいんだ。せっかくのコーヒーをこぼすところだったじゃないか。しゃがみ込んで痛みを堪えているようだが、良い勢いでぶつけたものだ。笑っては失礼だろうが、滑稽すぎる。
「大丈夫ですか、斉藤さん」
「もう駄目、骨折れた……」
「骨折しましたら、普通は歩けないですよ」
「天野さん、もっと心配して欲しいなぁ〜」
 そう言って、頭をかきながら斉藤が僕の横に座る。しんみりしてしまった場を壊してくれたのは、ありがたい。
「なんで、こんな所が出っ張ってるんだよ〜」
「もともと、そういうものだ」
「そんなに慌てていらっしゃらなくても……」
「久瀬だけに任せておくのは心配だったからさぁ」
「何が心配だと?」
「まあ、それは色々とね……」
「はぁ……」
「それでは本題に入ろうか、斉藤?」
「あ、話って何だっけ」
「君は何をしに来たんだ……」
「おかしな人ですね、斉藤さんって」
 天野君が、くすくすと笑う。なぜか上機嫌の斉藤が、今日わざわざ来てもらった理由を思い出しながら説明する。その後、天野君にはもう一度舞踏会の代表になってもらうように二人から説得した。天野君は、一日考える時間が欲しいという。補佐役に斉藤が付いてくれるというので、少しは肩の荷を軽くしてもらえただろうか。ここまでした後は、彼女自身の判断に任せるしかない。

「それでは、私はこれで失礼します」
「うん、頼むよ天野さん。僕も久瀬も協力するからさ」
「あ、天野君、ちょっと待ってくれないか」
「何でしょうか、久瀬さん」
「ほら、久瀬はそうやって天野さんに何か面倒をかけようとする。だから心配なんだよ」
「ちょっと僕では分からないことがあってね」
「忙しかったら別に断っても良いんだよ、天野さん」
「いえ、構いません」
「天野さんって、誰にでも優しすぎるよ」
「実は、もう一つお願いがあるんだ。個人的なことで頼みづらいんだが……」




17.

 川澄さんはいる、独りあの場所に。そんな気がする。いや、確信だ。理由はないし証拠もないが、彼女は毎日のように夜の校舎へ赴いているのだと思う。僕たちは何か事件が起こった日にだけ川澄さんが暴れたのだと想像したが、彼女にとって夜の校舎へ赴くことが日常なのではないだろうか。

 無人の校舎は相変わらずしんとしていて、何かが隠れていてもおかしくないと思わせる曖昧な闇が支配していた。しかしそこに存在する彼女自身は? 非現実な存在とともにいる彼女は現実の世界の存在だ。
 新校舎の一階。窓から差す月明かりを足下に受けて、彼女は佇んでいた。いつもと同じ格好、手には剣を携えて。先日の一件でそれが偽物ではないことは知っている。探せば刃の切れ込みが床に見つかることだろう。
「やあ、川澄さん」
「…………」
 視線がこちらを向く。これだけでも大きな進歩だ。
「今日もこんな時間にご苦労なことだね」
「……来ないでと言ったのに」
「大丈夫、僕はすぐに退散するよ。ただあなたにこれを渡したくてね」
 川澄さんへ箱を差し出す。不思議そうに見つめる川澄さんは、受け取ろうとしない。
「僕には女性の好みなんてわからないからね、後輩の天野君に頼んで見繕ってもらったよ。ブルーベリーレアチーズ、イチゴのタルト、ガトーショコラ、パウンドケーキとクッキーも入ってる。天野君お奨めの、金鍔と最中もね」
 そう言って箱を開けて見せた。
「甘い物は好きじゃないのかな」
「……嫌いじゃない」
「そう、それは良かった。じゃあゆっくり食べるんだね」
「……ちょっと待って」
「なにか?」
「持っていて……」
「え?」

 川澄さんは剣を携えたまま、片手で箱の中からひとつ取りだした。そして、ビニールと銀紙を一度に剥がそうとするが、当たり前のように片手なので上手くいかない。
「川澄さん、剣を一旦置けばいいじゃないか」
「…………」
 頑固というか、意地っ張りというか、僕の言うことなど聞く気がないらしい。
「…………」
「そんな無理をしなくても……」

 ”ボタッ”

 川澄さんの手からモンブランが転がり、逆さまに床へ落っこちた。
「ほら、だからそうなるんだ」
「…………」
「剣を置けばいいだろう」
「…………」
 無言で川澄さんが首を横に振る。
「どうしても手放せないのか」
「(こくっ)……」
「じゃあ、ここに置くから勝手に食べるがいい」
 腹が立ったので、そう言い捨てて踵を返した。なんて礼儀知らずな人なんだ。僕がどんな接し方をしても、あれでは改善する見込みがない。

 校舎から外に出ると、件の山犬ががつがつと餌を掻き込んでいた。今日もおかずは弁当のそれだ。ああ、これは川澄さんが持ってきている物なんだろう。こんなに食い散らかして、お前は恥ずかしくないのか、犬よ。お前の主人は自分の弁当を食べさせているんだぞ。
 ”ガッガッ ガルルル”
 …………。
 よほど腹が減っているのか、犬は一心不乱に食べ物を漁っている。川澄さんは怒ることなどないのだろうな。優しさとは、一方的に押しつけることではないはずだ。ちょっとした行動が気に入らないからといって、その人の全てを否定するというのはあまりに大雑把な捉え方。いろいろな考え方や方法があって良い。僕も度量の小さい男だ。好きなように食べてもらえば良かったじゃないか。得体の知れない化け物が出るのだから、剣は一時も離せないという訳なのだろう。
 そう考え直すと、鞄の中に入っているコーヒーをつめた魔法瓶が急に重たく感じた。渡し忘れたそれが、とても大切な物のような気がしてきた。

 許した訳じゃない。僕の方から謝る必要なんてない。ただ、持ってきたコーヒーが無駄になるのが嫌なんだ。そう自分を納得させて校舎へ引き返す。つい先程まで川澄さんが居た一階の廊下には人影がない。落としたケーキの跡形もない。もう帰ったのだろうか。外への出入り口は僕が通った用具庫以外にあるとは考えにくいが。川澄さんを捜して旧校舎を歩き回る。
「川澄さん」
 呼んでも返事はない。おかしいな、どこへいったのだろう。僕があまりきつい言い方をしてしまったから会いたくないのだろうか。また他人を傷つけてしまった。そんな自分が嫌になる。きっと川澄さんはどこからか校外に出て、帰ってしまったのだろう。それなら仕方がない。完全に嫌われてしまったな。
 廊下をとぼとぼ歩いていると、ちょうど音楽室の前に出た。




18.

 吸い寄せられるように教室の中に入る。今日も月明かりにピアノが見えた。なんとなく不気味な夜の校舎で、この場所だけは、ピアノを見ていると気持ちが落ち着く。非現実的な出来事が続くこの場所で、日常と言っていい僕の生活と重なる世界がある。現実と繋がるイメージがある。今日は邪魔が入ることはないだろう。そう考えながらスツールを引き寄せて腰を下ろした。
 カバーを上げて夜目に鍵盤が見えてくるまで暫く眺める。そして指の関節をもみほぐして、軽く鍵盤を弾く。グランドピアノを弾くのは初めてだった。それほど変わらないと思っていたが、その発色の豊かさと余韻の心地よさに驚く。単純な和音を弾いただけで、違いがはっきり解った。表現が豊かなのだ。繊細さを失わず、しっかりとした力強さも持ち合わせている。普通の家とは違い、天井が高く広い教室であることも関係しているのだろう。それは、生き生きと見せつけられる人の感情のようだ。僕にもこんな頃が確かにあった……。

 キーをなで回しながら、何か簡単な曲を弾いてみたくなる。見上げるとパッヘルベルの石膏像がこちらを向いていた。うん、”カノンとジーグ ニ長調”それでいこう。目を閉じて曲のイメージを思い出す。いつか、台所に立つ母を眺めていた僕。声をかけてくれてるのを待っている僕。母親と一緒に座って、ピアノを弾いた時の思い出。子供のころの感動と音楽への好奇心をもう一度甦らせる。想像する。願う。もう一度取り戻したい過去の日常を思い浮かべる。そしてそれを旋律に置き換える。
 もう何年も弾いていないが大丈夫だろうか。そんな心配もあったが、身体は忘れていなかった。思い描いた追走曲の、単純でいながら不思議な音と音との重なりが、響きが、僕の体へ、夜の校舎へ響く。僕は、全く眼を瞑ったまま弾いていた。曲の終わりまで来ると、そのまま戻って最初から弾き始める。今度はもっと気持ちを込めて。

 ふと視線を感じて目を見開いた。川澄さんが直ぐ側に立っている。いきなり現れたその姿も、今は僕を驚かせはしない。ここは僕の描いた旋律が占めている世界だから。右手に剣を携え、左手にはモンブランの残骸を乗せたケーキの箱を抱えた川澄さんが歩み寄ってくる。鍵盤の上を勝手に動く指をそのままに、僕は川澄さんに訊いた。
「まだ居たのかい」
「……うん」
「ケーキは美味しかったかな」
「……まだ、食べてない」
「その辺に魔法瓶があるだろう、勝手に飲んで良いよ。あ、熱いから気をつけた方が良い」
「…………」
「落としたケーキをどうするつもりだ。もうそんな物は食べられないだろう?」
「……せっかく持ってきてくれたから」
「いいんだよ、好きにしてくれて。それで僕に何の用かな」
「…………」
「何も言いたくなければ、それでも良いさ」
 いつも僕の方から川澄さんへ語りかけてきた。彼女の方から何かを伝えようとしているのは初めてだ。川澄さんは小声で言った。
「……聞かせて」
 川澄さんは、箱を抱えたまま僕の隣に腰掛けた。彼女の、石けんの匂いを感じる。今、隣に座っている彼女、昼間のものぐさとも思えるほど無関心な彼女、夜の校舎で剣を構える彼女。どれが本当の川澄さんなのだろうか。彼女の本当の姿は、どこにあるのだろう。

 その日、川澄さんを襲う『何か』は現れなかった。そろそろ良いだろうと思って横を見ると、川澄さんはそれこそネコのように丸まって寝ていた。あまりに寝顔が安らかなので、起こすのは気が引ける。すーすーと寝息を立てながら大きな箱を抱えている姿は、まるで子供だ。眠りながらも手放さない剣を除けば。
 毎晩、夜の校舎に立っているのだろう。普通なら眠くなるのが当たり前、昼間の無気力とも取れる姿はこんな生活が続いたせいなのではないだろうか。川澄さん、あなたは眠っている時でも笑わないんだね。もし笑顔を見せてくれたら、きっと魅力的だと思うが……。

 コクコクと小さく揺れる横顔を眺めながら、僕は同じ曲をくり返しくり返し、朝の光が差し込むまで弾き続けた。




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