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 ――子供の頃。僕は、冬になるとよく自宅のベランダから星を眺めた。住宅が増え、街灯や店の灯りが深夜でも街を明るく映すようになって、視界に入る星の数も減ったのだろうか。今では、僅かに星座を形づくる数個の星しか発見できない。それでもなお夜空を見上げれば、僕の脳裏に満天の星空が鮮やかに蘇る。
 宇宙はかつて、高温・高密度の小さな密集体だったと考えられている。ビッグバンと呼ばれる大規模な爆発によって無の状態から発生した宇宙は、それから膨張しつづけているという。ハッブルは銀河の後退速度を観測して、距離が遠い銀河ほど大きな速度で僕たちから遠ざかっていることを発見した。膨張のスピードは光より速いのかもしれない。だから宇宙の果てと言うものがもしあったとしても、僕たちにはそれを観測することができない。相対的にみれば、僕たちが宇宙の果てであるとも考えられる。視覚に捉えると言うことは、光を感じることに他ならないのだから。
 星空を眺めていると、漆黒の宇宙へ吸い込まれるような錯覚に陥ることはないだろうか。何でも物質が存在するとその周りの時空を歪め、その歪みが重力となって各点に加速度系を引き起こす。歪みの中を、物体はそれぞれ最も直線に近い運動をしようとする。だから地球などは自然に太陽を回る軌道を描くことになるし、光の軌跡も重力で偏向を受ける。見上げる夜空に瞬く星は、現在、そこに在るとは限らない。僕たちが見ているのものは、時間を、空間を、様々な干渉を超えて届けられた姿の一瞬でしかない。

 ――もし本当にそうであるなら。

 僕たちが目にしているもの、そして信じているもの、そういったもの全てが、ぐるぐると巡る何時か何処かにあった記憶なのかもしれない。





「星々の旋律」
 −If a star blinks in the night sky.−



               −第1章−

1.
 
 光が眩しい。ここは何処なのだろう。なんだか大きな野外ホールに僕は座っている。しかし楽しんでいる訳でも、そこに居たいとも思っていない。ただ何かを待っている。周りには誰も居ない。一人きりで空を見上げる。真っ青な夏の空、ひっそりと静まり返った観客席。手入れの行き届いていない芝生。堅いベンチに座って待ち続けている。
 だが、いったい何を。僕らしくないことだ。それでも気分は良い。自分にそんな感情があったことを我ながら不思議に思う。何かを待っている、誰かを?
 ふと視線を上げると、空からゆらゆら降りてくる。僕は何故か興味をもって手を差しのべた。ゆらゆらゆらゆら。風に舞いながら、じれったいほどゆっくりとこちらに向かってくる、青。青い、服? よく晴れた空にも映える青。僕には何と呼べば良いのかわからない。ふわりふわりと、儚げに、物憂げに。風に翻弄されながら、ひらひらと舞い続ける青。指先に触れたと思った瞬間――、今日も目が醒めた。

 ベッド脇の灯りを点けて、時計を見る。午前4時20分。受け入れたくない時間だった。早朝、外はまだ薄暗い。何度も見た夢。この夢を見た時は、決まって変な時間に目が醒める……。登校するにはあまりにも早い。もう一度寝直すか。
 目を瞑ってみるが、足りないはずの睡眠への欲求は起こらない。完全に目が冴えてしまった。少し早過ぎるが、散歩がてらいつもの店で朝食でも食べて行くとしよう。そう考えてベッドから起き出し、身支度を整える。といっても特に身だしなみに気を付けている方ではないので、寝癖のついた髪を直して制服を着るだけだ。
 足音を忍ばせて一階へ下りて顔を洗い、歯を磨く。別にやましい事がある訳ではないが、父親に見つかると煩わしい。できれば顔を会わせたくないし、話もしたくはない。向こうも避けていることに気付いているのだろう、毎日のように朝早くから家を出ても何も言わない。何故、あんな男と二人きりで食事をしなければならない理由があるんだ。

 服を着替え、鞄を持って家を出る。二十分ほど歩き、小さなこの街の駅前で一軒だけ24時間営業しているファミリーレストランへ向った。もうすぐ明るくなるだろう。まだ薄暗い空――。ひとり冷え切った街を歩く僕の頭上には、金星が儚く輝いていた。




2.

 早朝、店内にあまり客は居ない。奥の窓際の席が自分の定位置になっている。向かい合わせになった四人掛けのテーブルに独りで座ると、話をしたことはないが見慣れたウエイターが注文を取りに来た。
「モーニングセットB」
 メニューも見ないでそう伝える。もともと朝のセットメニューは限られているし、ほとんど毎日来ている身なので一々考えることもない。いつも同じ物を食べている気がして自分の生活に疑問を感じることもあるが、仕方のないことだ。食べる前から味が解っているのも、濃い味付けに喉が渇くのも、そういうものだと諦めている。
 たまには子供の頃のように家庭的な手料理を食べたいと思うこともある。芋の煮っ転がしや、魚の煮付け。いや、漬け物とみそ汁だけでも良い。そんな空想をしていると、いつでもお代わりをよそってくれる母親の姿が浮かんでくる。痩せた、青白いほどの腕と地味な和服。苦しそうに咳き込む姿と、その後、にっこりと微笑んでみせるあの優しい眼差し……。
「お待たせしました」
 想像を遮るように、目の前へ無造作にプレートが置かれた。早さと手軽さだけが自慢のファーストフード。ベーコンの脂っこい匂いが食欲をそぐ。苦笑いを漏らしながら伝票を受け取る。まあ、贅沢を言ってもしょうがない。

 今日はいつもより時間があるので新聞を広げながら焼けすぎの目玉焼きをつつき、胃がもたれそうなコーヒーでトーストを流し込む。何気なく外を眺めると、見慣れた制服が目に入った。道路を挟んで向かい側の歩道を、とぼとぼと歩いて行く生徒がいる。顔つきや細かい特徴は見分けられないが、始発もまだ動いていない時間に変な奴だ。こんなに朝早くから何をしているのだろう。単なる変わり者か? 見知らぬ生徒を目で追いながら気づく、他人から見れば自分もそうなんだと。
 再び新聞に目を落とすと、地方ニュース欄に父親の写真が載っていた。見たくもない顔だが記事をざっと眺めてみる。「久瀬氏は冒頭の挨拶で子供の健全育成と親子のコミュニケーションは……」「この施設の完成によって、難病を抱える家族の方々と地域の皆様方の……」そこまで斜め読みして、新聞を投げ出す。ふん、偽善者が。今回は幾ら出したんだ。
 新聞を丸めて脇へ置き、鞄から本を取り出す。学校の始業までは3時間近くある。読書には充分すぎる時間だ。今日持ってきているのは、宇宙の構造という古本。なんとはなしに買ってから読まずにいた。難解だが、時間つぶしにはなるだろう……。

『――ビッグバンモデルは宇宙背景放射や軽元素の存在比率をよく説明できる。しかしこの説によれば、宇宙の発生と発展は全くの偶然ということになる。対消滅で物質が残ったのは引力・電磁気力・強い力・弱い力が分岐発生したのとは違う、別の宇宙が存在する可能性もあると考えられる。ビッグクランチとは、予測される宇宙終焉の一形態を指す。ビッグバンによって始まった宇宙の膨張が宇宙自身の持つ重力によって膨張から収縮に転じて、全ての物質と時空が無次元の特異点に収束するという考え方。ただし宇宙が十分小さくなったときの理論的取り扱いには、一般相対性理論で無視されている量子力学的な効果を取り入れる必要がある。この収縮による結果、何が起こるかは明確でない。宇宙がビッグクランチを迎えるのか、それとも永遠に膨張を続けるのか、または振動宇宙として膨張と収縮を繰り返すのか。それは宇宙に存在する質量と、宇宙項と呼ばれる重力に対抗する力の大きさにかかっている――。』




3.

 頭が痛くなりそうな本でどうにか時間を潰し、店を出る。通りにはぽつりぽつりと人通りが出てきたが、それでも疎らな流れでしかない。まだ早朝と言ってもいい時間だ。そんな数少ない人たちの中に見知った顔があった。今年入学してきた一年生、生徒会の後輩だった。 
「おはよう天野君」
「久瀬さん、今朝は早いですね」
「変な時間に目が冴えてしまって、商店街の店で時間を潰していたんだよ」
「……朝からですか」
「うん、僕はほとんど家では食事をしない。まあ家庭の事情という奴だよ。玄関まで一緒に行くかい?」
「はい」
 他愛のない話をしながら、後輩と通学路を歩いていく。
「そういえば、そろそろ舞踏会の準備が始まる時期だね」
「ええ、そうですね」
「取り仕切るのは一年生だから、しっかり頼むよ」
「私たちだけではちょっと心配です」
「これも伝統だよ。しかし誰一人感謝してくれないのだからな、陰の功労者は生徒会なんだけど」
「……別に、気にしてはいませんから」
 何の表情も見せず、彼女はそう言った。無口であまり愛想の良い方ではない天野君だが、仕事は的確だし何より真面目だ。彼女には裏方のような仕事が似合っているのかもしれない。実務家といったところか。もう少し年相応の華やかさや笑顔があっても良いと思うが。

 話をしながら校門をくぐり、昇降口に到着した。
「それじゃあ、放課後。今日は定例の会議だからね」
「はい」
 軽く会釈する彼女と別れ、自分の下駄箱から上履きを取り出す。

「えっ」

 天野君の声だった。何事かと急いで靴を履き替えて廊下へ向かう。
「どうしたんだ、天野君」
「……酷い有様です」
 一階の廊下、中庭に面した廊下のガラスがことごとく割られている。散乱した破片がリノリウムの床一面に散らかっていた。そんな状況を見て、直ぐに思い浮かぶ人物がいる。昇降口に戻って3年の下駄箱をから目的の名前を探し、上履きの底に指をなぞってみた。ざらっとした感触。指にはガラスを踏み砕いた破片が残った。
「久瀬さん、これはどういう事なのでしょうか」
「派手にやらかしたものだ。一時は落ち着いたと思っていたんだが……」
「はい?」
「天野君、君は知らないだろうがこの学園には有名な問題児がいるんだよ」
 思い返してみると、今朝早く店から見た生徒は女性だったような気がする。身なりや雰囲気も似ていたかもしれない。

「川澄舞という生徒だ」




4.

「久瀬、今朝のことだけど」
 その日の放課後、生徒会室で会議の準備をしていると役員の斉藤が話しかけてきた。
「あれは誰の仕業だと思う?」
「川澄さんだ、間違いない。あの人以外に考えられないね」
「でも証拠は?」
「僕と天野君が最初に現場を見つけた時、川澄さんの上履きにはもうガラスを踏んだ跡が残っていたよ」
「今回はさすがに停学かな」
「普通ならそのような寛大な処置で済めば良い方だ。しかし、川澄さんには倉田さんが付いているからな」
「ああ、議員の倉田さんか」
「取りあえずは訓戒くらいで収まるだろう。腹立たしいことだが」
「親の七光りかぁ……」
「だが斉藤、いつまでも許されると思ったら大間違いだ。少なくとも僕は、そんな行為を許す気はさらさらない」
「でも、ガラス代は前みたいに弁償するんだろ?」
「金の問題ではないんだよ、斉藤」

 話をしながら会議資料をホチキスで留めていると、天野君をはじめとして生徒会のメンバーが集まってくる。今日の議題は舞踏会の準備について。企画運営を任される一年生は戸惑うだろうが、そういった活動を成し遂げることで自信と連帯感が生まれる。まあ、肝心な部分は上級生が教えたり、知恵を貸すから心配はない。
 今日の打ち合わせでは、一年生メンバーの代表を決めることも重要だった。僕としては天野君を推すつもりだ。人見知りの激しい彼女は、もう少し人の中に入った方が良い。
「おっ、みんな集まってるな〜」
 やや軽い雰囲気で生徒会室に入ってきたのは、顧問の石橋教諭。大した男ではない。スポーツや何か長じた趣味があれば、部活や同好会の主任になっていることだろう。何もないから生徒会の主任顧問に収まり、主体性を伸ばすといって仕事は全て生徒にやらせ、そして僅かな主任手当で満足しているような小物だと評価している。僕はこの教師をあまり信頼していない。

「それじゃあ、打ち合わせを始めようか。久瀬、何かあるか?」
「先生、みな忙しい中で時間を合わせて集まっているのです。遅刻せずにきちんと出席してくれなくては困ります」
「ははは。すまん、すまん」
 こいつには糠に釘だろうが、会長として言っておかなくてはならない。やれやれだ。資料を手にとって説明を始める前に訊いてみた。
「石橋先生、今朝のガラスの一件はどうなりました?」
「証拠不十分。川澄を呼んで話を聞こうとしたが、全く何も言わん」
「またですか……」
「だがなぁ、もし川澄だとしてもだ。学園側が厳しい処分を下しはせんだろう」
「集団生活のルールを守れない者は、排除すべきです」
「学校とはそういう所ではないぞ、久瀬」
「親が議員だろうと何だろうと、規則に則して罰するべきだと思いますが」
「久瀬、お前がそんなことを言うとは先生ちょっと可笑しいな」
「何故です」
「お前だって、学園から特別視されている生徒なんだぞ。今日の朝刊はもう見たか? お前の親父さんはこの街の有名人だ。なかなか慈善活動に理解のある精力的な人らしいじゃないか」
「…………」
 僕はそんな父親が、その息子であることが大嫌いだった。
「それで今日の会議は舞踏会の準備委員会立ち上げと、その代表者の選出だったか?」
「そうです、先生」
「主要メンバーは一年生で、代表もそこから選ぶんだったな。先生ちょっとこのあと用事があるから、代表だけ先に決めてくれ。学園側に報告しなきゃならんから」
 石橋は終始笑顔で一同を見渡す。
「誰かいないか?」
 進んで手を挙げる者はいない。
「ん、立候補者はなし、っと。なら誰か推薦してくれ」
「僕は天野さんが適任だと考えます」
「ほう、久瀬自らの推薦か。じゃあ決まりだな」
 何人かの失笑が聞こえた。……おいおい、そんな簡単に決めてはいけないだろう、石橋。本人の意向もあるだろうし、これから力を合わせて準備を進めていく為には全員で話し合って納得する必要がある。
「良かったな、天野。久瀬に気に入られたようじゃないか」
「…………」
 天野君は俯いて何も言わない。この状況は拙い。
「先生、天野君を推薦したのは僕の意見に過ぎません。彼女が適任かどうかは、メンバー全員に諮って判断してもらいます」
「面倒だな……」
「重要なことです」
「久瀬、お前が決めたんなら誰も異議はないだろう。天野も引き受けてくれるよな?」
 俯いたままの天野君が、消え入りそうな小声で答えた。
「いいえ、申し訳ありませんがお断りします……」




5.

 気分が悪い、それに腹立たしい。自分の父親のことを言われたのも不快だったが、せっかく良い機会だと思っていたのに天野君は辞退してしまった。僕が推薦したことで、却って孤立を深めてしまったかもしれない。石橋も教師としてああいう態度はないだろう。
 結局、代表者を決めることは出来なかった。準備が遅れ、面倒なことになる。誰か他にとも考えたが、天野君以上に能力がある役員は思いつかない。別に僕は天野君を贔屓している訳でないし、個人的に気に入っているというような感情で見ているのではない。倉田さんが川澄さんを庇うような私的な理由など、僕の立場では持つことができない。
「久瀬、失敗だったね」
 会議を終え、並んで廊下を歩いている斉藤が言った。
「ああいう誘導をされたら、天野君の性格では引き受けるはずがない」
「どうする?」
「天野君を説得してから、また会議にかけよう」
「久瀬、お前の力で押せばメンバーから文句は出ないと思うよ」
「僕はそういう方法が正しいとは思わないんだ、斉藤」
 どうして僕はこう面倒を背負いたがるのだろう。苦労性なのかな。自分も父親の影響力を通して見られていることには気付いている。だが、進んでそれを利用しようとか、取引の材料にはしたくない。できるだけ排除して自分を観て欲しいと思っている。
 それでも他人から見れば何も変わらないのだろう。倉田さんの存在がある川澄さんと、父親の金を背景にした自分。いや、違う。僕はそういう力に甘えることはしないし、極力、相手に感じさせないようにしている。僕と川澄さんは違う。川澄さんは学園の治安を乱す問題児だ。そう、卑怯に何も語らず罪を逃れる不良だ。

「天野さんは有能だと思うけどね」
「斉藤、誰か他に適任者がいるか?」
「……そうだなぁ、あれ?」
 斉藤の視線の先には、一人の生徒が居た。今度は見間違えるはずもない。川澄さんだ。無表情に歩いてくる川澄さんは、僕たちが目に入らないかのように脇をすり抜けていく。
 無視されたことがとても不快で、先程の怒りも手伝ってイライラが高まる。十数枚のガラスを打ち壊すような乱暴を働いておきながら、反省も罪悪感もないのだろうか。何かひとこと言ってやらなければ気が済まない。
「斉藤、少しここで待っていてくれないか」
「え?」
「あの不良に嫌みの一つでも言ってやる」
「おい、久瀬っ」
 斉藤の制止を振り切って、川澄さんの後を追う。
「ちょっと待て!」
「…………」
 僕の声が聞こえていないのか、川澄さんは振り返ることなく歩き続ける。そんな態度がさらに僕の癇癪にさわる。後ろから肩を掴んで、無理矢理こちらを向かせた。

 初めて面と向かった川澄さんは、こんな場合でなければまあ美人といってもいい顔立ちだ。女性にしては身長が高いが、細い肩から、この腕でガラスを叩き割る姿は想像できない。素行からもう少し猛々しい人だと想像していたのに、そんなイメージは全く似合わないごく普通の生徒だった。
 拍子抜けしてしまったが、しかし言いたいことは言わせてもらおう。
「待てと言っているんだよ」
「…………」 
「あなたがやったのだろう、川澄さん?」
 返事はない。
「何故、何も言わない」
「…………」
「倉田さんの親友だからといって、誰でもあなたを許す訳じゃないんだよ。よく覚えておくんだな」
 川澄さんがぽつりと呟いた。小さく、内気そうな声だった。
「……関係ない」
「なに?」
「……佐祐理は関係ない」
 それだけ言って、川澄さんは無表情のまま昇降口へ向かっていった。すれ違った時、ほのかに石けんの匂いがした。

「どうだった、久瀬」
「何を考えているのか解らない人だ」
「そう、だから倉田さん以外に友達もいないみたいだよ」
「斉藤、どう思う?」
「綺麗だとは思うけど、危ない人だ。川澄さんは何も弁解しないし、理由も言わない。ただ処分を受け入れて弁償するらしいよ。気味が悪いって言う生徒も多いね」
 不思議な人だ。何故だ。自分の想像を超えた異質なものを感じる。しかしその異質な雰囲気の中に、自分を、心の奥底を見透かされたような気がする。
「初めて話をしてみたが、どうもおかしい」
「久瀬だって噂は知ってるだろ。おかしい人なんだよ、川澄さんは」
「そうじゃない、なにか気になるんだ」
「そんなに気になるなら、確かめてみればいい」
「なに?」
「夜中にさ、本当に川澄さんが暴れているのか、隠れて現場を押さえれば良いんだよ」
「一晩中?」
「ああ、そうなるだろうね」
「今日の夜にでも見に行くか?」
「久瀬……冗談だよ、冗談。どうして僕たちがそこまでしなくちゃならないんだ。それに僕は生徒会の他にも部活があるよ」




6.

 ――見に行ってみれば解る。冗談だったのだろうが、確かに斉藤の言うとおりだ。
 ベッド脇の灯りを点けて時計を見る。二日連続というのは、今までになかったことだ。時間は午前2時。この夢を見た時は決まって早く起きてしまう。というか今日に限ってはまだ夜と言っていい時間だ。
 どうしたものか。今日、現れるとは限らないだろうし、何時に学校へ来るのかもわからない。一晩中どこかに隠れているなど、非生産的きわまる行為だ。こそこそ隠れるなど、なんとなく後ろめたい感じもする。
 馬鹿馬鹿しい。もう一度寝直そう。そう思って目を瞑るが、いつものように眠気は訪れない。カチカチと時を刻む時計の音が神経を逆なでる。馬鹿みたいじゃないか。自分でもそう思う。そう思いながら、ハンガーに掛けてある制服に手を伸ばした……。

 深夜、外は身を切るような寒さ。吐く息が白い。張りつめて密度が高くなっているような、凛とした冬の空気を感じる。校門から見る夜の校舎は街灯の光にぼんやりと浮かび、神秘的な幻想を醸し出していた。差し込んでいる光が屈折し、濃淡の影が生き物のような模様に変化する。詩人や小説家ならばもっと複雑な表現をするのだろうが、自分にとってはただの自然現象に過ぎない。少しだけ気味が悪いという心理影響を及ぼしただけだ。
 普段、登校するように生徒玄関へ向かってみる。当然のように入り口は施錠されていた。開けようとして、初めて気が付いた自分が情けない。川澄さんだろうと、僕だろうと、浮浪者だろうと、泥棒だろうと、こんな時間に校舎へ入ることはできないはずだ。愚かな自分を自嘲しながら帰りかけると、妙な物音がした。何かを食べ散らかしているような、引っかき回すような音。音のする方へ向かってみる。

 視界が悪いのでかなり苦心したが、ようやく音の発生源を見つけた。犬が――野犬だろうか、痩せた犬が餌に食いついている。喰い散らかされている食べ物を見ると、ご飯や漬け物、唐揚げや煮物がある。犬に与えるようなものではない。どちらかというと弁当にでも入れる料理だった。体育館の裏手のこの場所は、昼間なら生徒達が弁当を広げる中庭に繋がっている。何かの理由で捨てられた残飯でも見つけたのだろう。くだらないことに時間を潰してしまった。
 ”ガルルルル……”
 心配するな、お前の食い物なんて僕は取らない。
 ”グルルル”
 まったく、こんな夜中に馬鹿らしい。

 そう思った僕の目の前に、体育館の用具倉庫のドアがあった。体育館内とも繋がっているが、まさかな。ドアノブが回らないことを確信していながら、扉に近寄る。

 扉は――少し触れただけで音も立てずに内側に開いた。
 大きく開いたドアの隙間、漆黒の闇が僕を招いているような気がした……。

 倉庫から体育館を抜け、校内に入った。不用心にも程がある。宿直や警備員もいないとは、学園の管理者は何を考えているのか。そういう隙があるから、川澄さんのような不良にあのような事件を起こさせるのだ。
 新校舎の一階から四階までをぐるっと歩き、何もないことを確かめる。何もないのが当たり前だ。階段などの暗いところは多少危なかったが、外からの光が廊下へ入り込んでいるのでそれほど歩くのに困難を感じない。残るは旧校舎だが、古い建物をさらに増築しているため、新米の教師などは教室を迷うほど不可解な造りになっている。一つの建物に階段が数カ所あり、それも全部が1階から最上階へ続いている訳ではない。取って付けたような建て増し部分や直角に曲がっている廊下、渡り廊下で新校舎へ繋がる数カ所の通路など、全てを回るのは時間がかかる。必要に迫られ、人の手で作り上げられた醜く奇妙な迷宮。
 そのまま帰ろうとさえ思ったが、ざっと一周してみようと考え直す。せっかくここまで来たのだから。明日、斉藤へ話す時には校内全て見回ったと言ってやりたい。新校舎の2階から旧校舎の3階へ続く渡り廊下を歩く。よくこんな無駄な物を作ったものだ……。

 快適な新校舎は主に一般教室に使われ、旧校舎は科目毎の特別教室や部活動の部室として使われている。音楽室の前を通りかかったとき、ふと好奇心が湧いてきた。誰もいないのなら、誰も聞く人間はいないということだ。僕は子供の頃、母親からピアノを習っていたことがある。今でも家に置いてあるが、誰も弾く者はいない。はっきり言って僕は下手だ。それに自宅でピアノを弾けば、僕も、父親も、思い出してしまう。
 もうかなり昔、母はグランドピアノを買いたいと話していたことがあった。僕にはよくわからないが、音の響きが違うのだという。あの頃は父親もそんなに嫌いではなかった。母の頼みに応えて本当に買おうという所まで話は進んだが、結局それは僕の家に届かなかった。弾き手がいなくなってしまったから。必要とした人がいなくなってしまったから。間に合わなかったから。
 母が僕に聴かせたかった音とはどんなものなのだろうか。




7.

 音楽教室にあるのは、一応、グランドピアノのはずだった。静かに引き戸を滑らせ、教室の中へ入る。大きな黒板には五線譜が引かれており、石膏像のバッハやモーッアルト、パッヘルベルが棚に並んで平面な瞳で僕を見下ろす。母が望んでいた音の響きとはどんなものなのだろうか。興味をもってスツールへ座りカバーを上げた。
 あまり使われないのだろうか、埃が多い。感触に頼って暗い足下でペダルの位置を確認する。静まり返って物音ひとつしない校舎に響かせる音を想像し、いざとなって緊張してしまう。かじかむ指をほぐし、簡単な和音の形を作って鍵盤に乗せた。押せば音が、僕の旋律が響く。誰も聞いている訳がない。意を決して鍵盤を押し込もうとしたとき――。

”ガシャン”

 物音にビクッと反応して、指の動きを止めてしまう。心臓が早鐘を打つように鼓動する。誰もいないと思っていたのに脅かすじゃないか。急に嫌な現実に引き戻された。僕は、ピアノを弾きにわざわざ出かけてきた訳じゃない。
 音を立てないようにカバーを戻し、ゆっくりと音楽室を後にする。戸を閉めようと最後に見た景色――それは月光に照らされて神秘的に浮かび上がる、弾くことの無かったピアノだった。

 何度か転びそうになりながら、一階を目指して階段を下りる。今でははっきり解る、ガラスを叩き割る音が僕の耳に聞こえていた。今日こそ犯人を見つけて罪を償ってもらおう。本当に川澄さんなのか。僕は確かめなくてはならない。
”ピキッ”
 もうすぐ一階へ辿り着くというときに、背後に気配を感じた。犯人は川澄さん一人ではなかったのか? 振り向こうとすると、いきなり突き飛ばされて廊下へ投げ出された。痛む腰をさすりながら立ち上がると――

 そこにいた。

 朧気な月の光に身を映し、剣を構える川澄さんが。その姿は信じられないほど幻想的で……いや、非現実的と言った方が良い。彼女が手にしている不自然な存在が、違和感を強くする。刃物を構える女子高生など、非常識にも程があるだろう。昼間の表情とは違い、瞳に力のある川澄さんがこちらへ厳しい視線を投げかけている。真剣か? まさか。噂には聞いていたが、本当だったとは。
「か、川澄さん」
 問いかけてみるが返事はない。真っ直ぐ僕を、いや、僕の背後のその先を凝視している。その瞳は僕のことなど観ていないようだ。振り返って確認してみるが僕の後ろにはなにもない。しかし敵視とも、友好的ともとれない瞳で川澄さんはこちらを向いて剣を構えている。
「君はこんなところで何をしようと……」
 しているのか。そう言いたかったが、僕の言葉は途中で遮られた。浮遊感は一瞬だ。パキパキという音が聞こえ、いきなり僕の体は壁に叩き付けられた。気を失いかけ、目の前が真っ暗になる。恐怖を感じてむりやり頭を振って目を見開いた。

 剣を引いた格好で猛然と向かってくる川澄さんの姿が見えた。そして眼前に迫った彼女の体が僕の脇をすり抜け、長い髪が僕の顔を掠めた。角度を下げた体勢で駆け込んできた川澄さんは、手に持つ刃を水平に薙ぐ。異質な音。目の前の空間が裂けた。矢継ぎ早に大振りの剣がその空間の肩口へと振り下ろされる。僕には何も見えないが、川澄さんは何かに斬りかかっていた。何もない空間に振り下ろされた剣が、衝撃と異質な音を伴って弾き返される。
 一瞬ひるんだ川澄さんは、片手で剣を持ち直すと下からすくい上げるように大きく剣を振り上げた。が、今度は手応えが感じられず、すっぽ抜けたように手を離れた剣が弧を描いて廊下へ突き刺ささる。そして、割れたガラスを踏みつける足音が誰もいないはずの廊下を遠ざかっていった。
「逃がした……」
 剣は廊下に突き立ったまま、全ての物音が止む。あたかも時間が再び動き出したかのように零下の気温を感じ、夜の静けさが再び訪れる。忘れかけていた呼吸が戻ってくる。同時に酷い頭痛と耳鳴りを覚えた。剣を引き抜いた川澄さんは、壁にもたれて蹲ったままの僕に一瞥をくれて、何も言わずに背中を向ける。一瞬目があった彼女の顔、諦めのような無表情には少しだけ寂しさが感じられた。
「川澄さん、これはどういうことなんだ」
「……あなたじゃない」
「なに?」
「……あなたに話す事は何もないから」

 川澄さんの後を追おうとも思ったが、情けないことに立ち上がることができなかった。妙な体験と信じられない出来事で神経が参ってしまった。ぼうっとガラスの割れた惨状を目にしながら、這うように新校舎まで引き返し、昇降口の玄関マットへ倒れ込むようにして身を休める。あれは一体なんだったんだ。それに川澄さんの言葉は……。
 少し落ち着いてくると、様々な疑問が湧いてくる。それに、口中へ広がる不快な血の味や、痛む頬が腫れていることにも気付く。上着のボタンは辛うじて数本の糸で繋がっていた。つい先程の出来事は、非現実的としか考えられない。しかし、現実にそれが起きたことは間違いない。僕がいま、廊下で仰向けになって痛む体をさすりながら天井を見上げているのなら。

 息を整えて考えを纏めていると、ガラスの割れた窓から見える夜空が少しずつ明けかかっていた。漆黒から紫へ。腕時計を見ると午前4時近い。もうすぐ明るくなるだろう。真っ黒な空がほんの少しだけ明るくなっただけで、僕の気持ちが大きく変わる。明るい光が差し込めば、また一日が始まり、いつもの生活と現実に戻れるような気がする。そう考えると、自分の立場や今の状況についての対応も少しずつ整理されてきた。なんにしても、このままここに居るのは拙い。朝になって教職員に見つかれば何と言われるか解らないし、もしかしたら一連の事件が僕の仕業だと疑われかねない。少なくとも今日のガラスは僕が一番の容疑者になる。それに、夜中に校内へ忍び込んだ理由を延々と説明しなくてはならないだろう。
 行かなくてはならない。そう決心して壁を支えに立ち上がる。まだ痛むが、骨が折れていることなどないだろう。玄関脇の傘立てから、もうずっと使われていないような汚い傘を引き抜き、杖代わりにする。なんとか歩けそうだ。口の中が切れているようなので、手当をしようと保健室へ向かったが、扉には鍵がかかっていた。こんな所にだけ鍵を掛けてどうしようというんだ。仕方がないので水道の水でうがいをし、ハンカチで丁寧に口元を拭う。

 ようやく校舎の外へ出ると、辺りはすっかり明るくなっていた。夕焼けのように雲が不気味に赤く染まっている。家には帰らず、僕はいつもの店へ向かって歩き出した。痛む足を引きずりながら。




8.

 今日も店内にあまり客は居ない。自分の定位置になっている窓際の席へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。見慣れたウエイターが注文を取りに来る。
「モーニングセットA」
「あの、大変失礼かと存じますが……」
「なにか?」
 今までに無いことだった。この人が僕に必要以上のことを話しかけてくるなんて。
「おしぼりをもう何枚か……それとも氷をお持ちしましょうか?」
「え?」
「酷く腫れますし、血が出てますよ。何か事故にでも遭われたのですか」
「いや、暗がりで…その、顔から壁にぶつかったんだ。交通事故とか、なにか犯罪と関係がある怪我ではないから安心してください」
「本当ですね」
「できれば腫れを冷やすのに氷が欲しいところだが……汚してしまうのは申し訳ない」
「構いませんよ、少々お待ち下さい」
 意外と気のいい人なのだろう。しかし、そんなに酷い顔つきになってしまったのか。もともとそれほど整った顔ではないというのに。やれやれだ。

 片手で氷を包んだタオルを持ち、顔を冷やしながら朝食をとる。『久瀬建設経営危機か』そんな新聞の見出しを目にして、記事をざっと読んだ。内容は贈収賄疑惑と不正入札に対する行政処分について。しかし全てが思惑の範囲を出ていない内容で、憶測というか関係者のうわさ話のような仕立てになっている。まあ、叩けば埃はいくらでも出てくるだろう。そんなのはこの会社だけに限った事じゃない。ふんっと鼻を鳴らすと、腫れた頬に痛みが走る。
 読み終わった新聞を脇に置き、上着のポケットから本を取り出す。一晩中待っているなど退屈だと思って持ってきた読みかけの本。鞄は面倒なので学校へ置いてきた。

『――ビッグバンによって始まった純粋なエネルギーである宇宙は、やがて素粒子を生み出し、素粒子が結合して原子を形成する。一般的には理解されにくいことであるが、光や物質、電波や放射線などといった姿の全てがエネルギーの一形態である。宇宙誕生の初期には水素やヘリウムといった最も軽い元素が作られと考えられ、それら軽元素からなる雲は重力によって収縮して、圧力と温度が上昇した中心部では核融合が始まる。これが原始星である。核融合が始まると熱的な膨張力が発生して重力による収縮に拮抗する力を発生させ、熱による膨張と重力による収縮がつりあった時点で、星はようやく安定する。この内部的な力の均衡によって、星はその姿をとどめることができる。また、核融合による光子が星の表面から放出されて、星は明るく輝く。そして恒星が核融合で水素を使い果たして主系列星の時代を終えると、星は次の段階に変化する――。』




9.

「久瀬さん、その顔はどうされたのですか……」
 店を出て、校門で会った天野君は開口一番そう言った。怪訝そうな顔で僕を見つめる。
「そんなに酷いかな」
「ケンカでもしたのですか?」
「いや、違うよ。相手は見えなかったし、突き飛ばされただけなんだ」
「はい?」
「話が見えないだろう、天野君。実は本人の僕も良くわからない」
「これを使ってください」 
 天野君が鞄から取り出したのは、大きな絆創膏だった。
「少しは目立たなくなりますから」
「あ、ありがとう」
「いえ……それと、昨日はすみませんでした」
「どうして君が謝る?」
「せっかく推薦していただいたのに」
「僕の方こそ迷惑をかけてすまなかった。その事で今度、時間をとれないかな。斉藤にも来てもらって天野君と話がしたいんだけど」
「明後日でしたら、大丈夫です」
「それじゃあ、放課後に喫茶店で待ち合わせにしよう。商店街にある百花屋は知っているかな」
「ええ、授業が終わりましたら伺います」
「じゃあ、待っているからね」
 もう一度説得する為の約束をとりつけて、昇降口で彼女と別れた。冷たいような感じもする天野君だが、女の子らしいところもあるようだ。絆創膏にイラストされた可愛いキャラクターを見て、そう思う。しかしこれを貼るのか……。余計に目立つんじゃないか? 天野君。
 でもまあ、せっかくの好意なので裏のシールを剥がして頬に貼ってみる。上手く貼れただろうか? 鏡がないので良くわからない。さわってみると、端の方がしわになっているようだ。感触が懐かしい。絆創膏を顔に貼るなど、何年振りのことだろう。子供の頃、絆創膏を貼ってもらうのが何だか誇らしく、得意になって見せびらかしていたことを思い出す。一体あれは、どういう心理なのか。




10.

 つまらない午前の授業が終わり、昼休みになる。学食へ向かって廊下を歩いている途中で川澄さんを見かけた。珍しい光景だ。川澄さんが見知らぬ男子生徒と話をしている。二言、三言。会話はとても短かった。
 話し終わった男がこちらに歩いてくるので、廊下の角で待ち伏せて川澄さんに悟られないようにその男を捕まえた。もしかしたら昨日の共犯者はこいつかもしれない。

「君は何者だ!」
「おいっ、いきなりなんだよ、離せ」
「見ない顔だが、川澄さんとは知り合いなのか」
「名前なんて知らない。ちょっと話してただけだっ」
 暴れる男はそう言った。僕の早とちりだったのか?
「俺は転校してきたばかりで、上級生に知り合いなんていない。さっさと離せよ」
「そうか、悪かった」
「いったい何なんだよ、お前……」
 背後から、間延びしたというか、のんびりとした声が聞こえた。
「祐一、お待たせなんだよ〜」
「先に食べててくれても良かったのに、律儀なのね相沢君は」
「相沢、誰だこいつ?」
 友達なのだろうか、一人の生徒が僕を指さす。
「俺に聞くなよ、北川」
「えーと、確か生徒会長の久瀬君だったかしら」
「会長さんが祐一に何か用なのかな?」
「いや、勘違いだった。すまない」
「別に気にしてないからいいけど……」
「祐一、早くお昼にしようよ〜」
「そうだったな、名雪」
 迷惑を掛けてしまった男にもう一度謝り、その場を離れる。僕らしくない軽率だった。もう少し考えてから行動しないと、僕の体面に関わる。しかし川澄さんが倉田さん以外の人間と話すなど、普通では考えられないことに思われた。転校生なら川澄さんには無関係だと考えて良い。彼女だって声を掛けられることもあるだろうし、素行や噂を知らない人間なら誘いをかける男もいるだろう。なにしろ見た目は神秘的なほど綺麗なのだから。いや、僕は何を考えているんだ……。

「のわっ!」
 気を取り直して廊下の角を曲がると、いきなり目の前に当の本人である川澄さんの顔があった。気配を感じさせず、いきなり出てくるので心臓が止まるかと思った。
「…………」
「…………」
「……通れない」
「は?」
 出会い頭に対面してしまった川澄さんが、ぼそっと呟く。こう言うところが可愛くないのだと思う。動揺を隠して話しかけてみる。 
「昨晩、会いましたね」
「…………」
「できれば納得のいく説明をして欲しいな」
「……どいて」
「川澄さん、あなたは何をしていたんだ」
 伏し目がちに下を向いていた川澄さんの視線が、すっと移動した。
「はえ〜、どちら様でしょう」
「ん?」
 大きな荷物を提げた倉田さんが、僕を見て途端に顔色を曇らせる。
「久瀬さん、でしたか……」
「初めましてになるのかな、倉田さん」
「あの、舞がまた何か問題を起こしたのでしょうか」
「今日はそういう訳じゃないよ。ちょっと話がしたくてね」
「はえ〜」
 倉田さんが大きな瞳を一層大きくして僕の顔色を窺う。何か変なことを言っただろうか。
「久瀬さんが舞とお話しですか」
「そう、何か可笑しいかい」
「あはははーっ、でしたら一緒にお昼ご飯はいかがですか〜」
「え?」
 倉田さんは妙に明るい笑い声を上げて微笑む。どうしてそうなるんだ。倉田さんの性格はいまいち理解に苦しむ。この状況でどうしてそういう結論に達するのだろう。
「舞のお友達はいつでも大歓迎ですよ〜」
 いや、僕は川澄さんの”お友達”じゃないと思う。どちらかというと嫌われているはずだ。倉田さんだってそれを知らないはずがない。いくら倉田さんがそう思っていても、川澄さんが何か言うだろう。さすがに僕と一緒に食事をするなんて嫌だと。

「…………」
 なぜ無言なんだ。
「舞も久瀬さんと一緒で良いよね〜」
「……きつねさん」
「あ、ホントに狐ですね〜」
 倉田さんが僕の顔を覗き込む。二人が言っているのは、僕の絆創膏のことだった。
「……(こくり)」
「あはははーっ、それでは久瀬さんはこれを持ってくださいね〜」
「え、え?」
「早く食べないとお昼休みが終わっちゃいますよ〜」 




11.

 どうして僕はここに座っているのだろう。屋上へ向かう廊下の踊り場で、運ぶのを手伝わされたビニールシートを敷いて座っているのだろう。倉田さんが取り分けてくれた弁当を食べているのだろう。あまつさえ美味いと感じてお代わりを頼んでしまったのだろうか。
「たくさんありますから、遠慮しないでくださいね〜」
 まったく、倉田さんの笑みというのは場を和ませるようだ。居心地が悪いと思ったのは最初だけで、全てを包んでしまうような倉田さんの朗らかなペースを喜んで受け入れてしまう。比べて川澄さんは……場の雰囲気などお構いなしに黙々と箸を運んでいる。マイペースというか、なんというか。専心、自分の分のご飯を食べ、倉田さんが用意した茶を飲んでいる。

「久瀬さんとお話しするのは初めてですね」
「初めましてとは、ちょっと違和感があるかもね。あなたのことは色々と聞いているから」
「お父様からですか?」
「うん、それもあるし、川澄さんのことでもね」
「あまり良い噂ではありませんよね……」
「そうだね、あまり良くはない」
 ひとり黙々と弁当箱を突いている川澄さんを見る。全く無視されていた。
「いろいろ舞のことでご迷惑をおかけしています」
「まったくその通りだよ」
「ふぇ……」
 ちらっと川澄さんが僕を見る。
「大人しそうな顔をしてガラスを叩き割る、校内の器物を壊す。剣を持ち歩いているという噂もある」
「佐祐理もそういう噂は知っています」
「典型的な不良ではないかな、そんな生徒が学園にいると他の生徒へ悪影響を及ぼす」
「ですけど、きっと舞にはなにか理由があるんです」
 僕が知りたいのも、そこなんだよ倉田さん。
「そう、何か理由があるのかもしれないね」
「舞のことをわかってくれるんですか?」
「勘違いしてもらっては困るな、倉田さん。僕は川澄さんのやったことに腹を立てているし、これからも目を離さないようにするつもりだよ」
「でも、久瀬さんがそう思ってくれるだけでも佐祐理は嬉しいですよ〜」

 会話として破綻している気がするが、倉田さんは終始笑顔で話しかけてくる。が、当の本人が横にいるのに何も言わないとはどういうことだ。自分の意志というのもが無いのだろうか。ただ不器用なだけか。
「川澄さん、あなたは無口な人だね」
「…………」
「昨日のことだけど」
「佐祐理は知らない……」
「それはそうだろうね」
「……だから話しちゃ駄目」
 意外と口調が子供っぽくて笑いそうになる。タコ型に切り目を入れたウインナーを頬張る姿もあどけない。
「あははーっ、佐祐理に隠れてこそこそ何を話しているんですか〜」
「……ボタン」
「うん?」
「ふえ〜、落ちちゃいそうですね」
 二人が言っているのは、僕の上着のボタンの事だった。
「付けてあげる……」
「舞って、お裁縫得意でしたっけ?」
「…………」
 川澄さんが僕の上着の裾を引っ張った。
「そのままじゃできないから……」

 どうして僕は上着を脱いでここに座っているのだろう。屋上へ向かう廊下の踊り場で、川澄さんが僕のボタンを付け直すのを黙って見つめているのだろう。僕を嫌っているはずの倉田さんがニコニコ笑っているのだろう。そして――なぜ彼女は、上着を返しながら『ごめんなさい』と呟いたのだろうか。




12.

「倉田さん、あなたはどうしてそこまで川澄さんを庇うのかな」
「はい?」
 教室へ戻る途中、畳んだビニールシートを持たされて倉田さんと廊下を歩く。川澄さんは教室が違うのでさっき別れた。本人のいないところで倉田さんの考えを聞いてみたかった。
「誰でも、舞のことを好きにならずにいられませんよ〜」
 倉田さんはそう言うが、現実には川澄さんを好きなのは倉田さんしかいない。
「それはどうかと僕は思うけど、倉田さんはどんなところが好だと?」
「初めて会ったとき、佐祐理は舞のことが好きになっちゃいましたから」
「どんな出会いだったのかな」
「えーとですね、確かこの学園に入学してすぐの頃です……」

 倉田さんの話はこうだった。ある日、いつものように登校すると、学園の玄関に一匹の犬がいた。山から下りてきた犬は凶暴そうで、生徒は遠巻きに眺めて校内に入れなかった。一人の教師が追い払おうとバットで威嚇するが、逆に犬を興奮させてしまう。倉田さんは離れて見ていたそうだが、そんな状況で犬に近づく生徒がいた。それが川澄さんだった。
 川澄さんはその辺にあったスコップを構えて犬を打ち据えた。周りの生徒は驚いて川澄さんの行動を見ていたという。倉田さんも少し怖くなったらしいが、空腹で街へ降りてきてしまった野犬に自分の腕を食べさせた川澄さんの信じられない行動に、倉田さんは川澄さんの『心優しさ』を感じたという。僕にはちょっと理解しがたいが。しかし川澄さんの性格ならもしかしてとも思える。そのとき、倉田さんが自分の弁当を取りだして『これを食べさせてあげてください』と渡したそうだ。二人の付き合いはそこから始まったらしい。奇妙な関係だと思っていたが、聞いてみると始まりもそうだった。

「それに、なんだか佐祐理に似ている気がしたんです」
「川澄さんと倉田さんが? 僕には正反対に見えるね」
「外に出るものじゃないんです。良く解らないんですけど背負っていた物が、でしょうか。雰囲気みたいなものですね」
「雰囲気?」
「お腹が空いた山犬さんの気持ちを、解ってあげられるんですから」
「しかし、スコップで叩いたんだろう? ちょっと残酷だね」
「舞に言わせると”悪い事をしたらお仕置きが必要”なんだそうですよ」
「じゃあ、どうして自分はあんな事を繰り返すのだ」
「…………」
「悪いことを理解している川澄さんが、なぜあんな真似をするんだろう」
「それは、きっと……」
「何か理由があるのかもしれない。だけどそれを知らない限り、僕には手助けすることはできないね」
 いつの間にか、廊下に立ち止まって倉田さんと話し込んでいた。予鈴が鳴り、僕は丸めたシートを倉田さんへ渡してお礼を言った。
「じゃあ、僕はこれで自分の教室に戻る。今日はごちそうさま」
「あの、久瀬さん?」
「何です?」
「明日もどうでしょうか、お昼ご飯」

 僕は、苦笑いを浮かべて首を横に振って見せた。



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