小柄な少女が、公園のベンチに座って人を待っていた。
 ――多分、彼女を心から愛する二人の男を。

「栞、遅れてすまない」
「祐一さん、また遅刻です」
「なんだか跡を付けられてるみたいで、撒くのに時間がかかった」
「今日は大丈夫ですか?」
「自信ないけどな……」
 夏の日差しにも負けない輝きで、栞が眩しい笑顔を向ける。色白の肌にたっぷり塗られた日焼け止めは、美白ではなく、体を気遣ってのことだ。まだ体をいたわらなくてはならなかった。定期的に病院で検査も受けている。でも栞は、今、この夏を迎えることができた。七夕の今日、祐一とつれだって遊びに出かけるまで回復していた。
「楽しみですね、祐一さん」
「俺は、七夕ってあんまり知らないんだけどな」
「祐一さんが住んでいたところでは、どんな七夕をしていたんです?」
「普通じゃないかな。採ってきた竹に、願いを書いた短冊を飾るくらいだ」
「この街でも短冊は書きますよ」
「だけど……」
「なんですか?」
「栞、ぼた餅を亀甲縛りにして吊るすなんて、聞いたことないぞ」
 この街では古来から、ぼた餅を亀甲縛りにして笹竹にくくり付ける風習があるらしい。そして、落っこちてくるぼた餅に当たると一年間を幸せに暮らせるという。ぼた餅に当たれば、無病息災、家内安全、念願成就に待ち人来る。そんな文化に目をつけた商魂たくましい商店街の親父たちが、ある時ひらめいちゃった。ならよ、やたらめったら吊るせば、まあ、一個くらい当たるんじゃね?
 で、七夕祭りには、景気よく商店街の端からはしまで数千個のぼた餅が飾られる。壮観というより奇観だが、よくもまあ保健所が許可したものだ。歴史という言葉の前には、戦後始まった食品衛生行政など無力ということなのか。
「昔からの伝統なんです」
「俺は、まだ信じられないぞ」
「お祭りのしかたは、いろいろあった方がたのしいです」
「だけど、そんな祭りマジなのか?」
「見てみればわかりますよ」
「まあ、ちょっと寄って行くくらいなら面白いかもしれない」
「はい」
「その後は百花屋で時間をつぶして……そうだな、7時くらいに出ればちょうどいい」
「晴れていてよかったです」
「ああ、きっとよく見えるぞ」
 七夕の言い伝え。おりひめとひこぼし、棚機女と牽牛でもいい。由来は結構面倒くさいし、そんなことはどうでもいい。要は、浪漫チックな恋人たちのイベントとして定着していることが重要なのだ。
 内容は皆さんもご存知のとおり。天の川を隔てて引き離された男女が出会える日。離ればなれにされた愛する二人が、再び手をつなぎあえる日。祐一と栞にとって天の川は大きかった。増水して氾濫して、荒れ狂う流れが二人の間に立ちはだかった。もう逢えないとあきらめかけた。思いを閉ざそうとした。でも、どこからか、誰かが。彼と彼女のために、奇跡のような白い羽の橋を架けてくれたのだろう。
 二人は今日、そんな思いを込めて星空を眺めに行くつもりだった。そのまた後に卑猥なことなんて、多分考えていない。きっと。少なくとも栞のほうは。祐一のほうはわからない。
「……………」
「どうしたんですか、祐一さん?」
「邪悪な気配がする」
「えっ?」
「栞、ちょっと待っててくれ」
 そう言いながら、祐一が足音を忍ばせてゴミ箱に近づく。
「そこかっ!」
 ゴミ缶の蓋を勢いよく蹴飛ばすが、中には空のペットボトルが数個だけ。
「祐一さん、心配のしすぎです」
「いや、確かに気配が……ここかっ!」
 公園の茂みに拾った石を投げつけるが、手ごたえはない。 
「気にしすぎです」
「……でも、これくらい気をつけないと相手が相手だからな」
 そのとき、公園の噴水が一際豪快に水柱を上げた。

 ”ぶはぁああっ!”

 そして、水中から姿を現した中年サラリーマンが涼しい顔で歩み寄ってくる。べちゃべちゃと音を立て、脱いだ革靴を逆さにして溜まった水を捨てながら。
「おおっ、栞じゃないか。こんなところで会うとは奇遇だな」
「お父さん!」
「ずっと噴水の中に潜んでたのか? 俺をマークしていたのはダミー?」
「お父さん、今日は仕事があるからって……」
「何を言っているんだ、栞。私は仕事中だ」
「仕事中?」
「ああ、これからあっちの”フンっ!”(なかなか動きが良くなったな、相沢君)取引先を訪問して。それからこっちの……こっ、こっち!”スベシッ!”(いてーじゃねーか、クソオヤジ!)の銀行にも顔を出してな」
「祐一さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃない」
「それからぐるっと回って……”ハァアアアー、ヒュン!”(ウゲッ!)会社に戻る予定だ。今日は休日だというのになかなか忙しい」
「親父さん、回し蹴りは勘弁してください。スーツ着込んでるのに動き良すぎだ」
「おや、何度注意しても口の利き方を知らない相沢君じゃないか。居たのか」
「目の前に、最初から、同じ位置にいたぞ」
「栞に手を出したら、男の子に生まれたことを後悔させてやるからキモに命じておけ。仕事途中で偶然にも通りがかってよかった。栞、お前にたかる悪い虫は、お父さんがやっつけてやるからな」
「……お父さん、そんな格好でお仕事なんておかしいです」
「ようやく我が社もクールビズが認められてな」
 スーツから水を滴らせながら父親が爽やかに応える。確かに涼しいかもしれない。
「いつもいつも邪魔しやがって、このストーカー親父は!」
「お前よりも、私のほうが深くふかーく栞を愛しているのだ。年季が違うわっ、小童が!」
「楽しみにしてた栞とのデートなんだぞ!」
「お前が栞とデートなど、1,192万光年早い。鎌倉幕府でも作ってろ」
「……わけわからないぞ」
「いいから、さっさと栞から離れろ」
「くそっ、こんなオヤジ相手にしてられるか。逃げるぞ栞っ!」
「わっ、祐一さん。恥ずかしいです」
「コノヤロウ、私の栞を誘拐する気か! それにお姫様抱っこは……それをしていいのは私だけだ!」
「うるせえ、クソオヤジ」
「栞、今すぐお父さんが助けてやるからな!」




「ぼた餅をくらえ!」
 作 Mumuriku=ザンギ=F



 栞が子どものころから、父親はこんな人間だった。

 子煩悩とか、溺愛などと書くのは軽すぎる。もし文字で表そうとするなら、えー、まさか愛? 本当に実の娘を愛しちゃっているようにも見える。だから美坂家では、こんなやりとりが繰り返されてきた。
「栞、お父さんと一緒にお風呂へ入ろう!」
「嫌です」
「なんだと、どうしてだっ!」
「お父さん、栞はもう子供じゃないんですよ」
「なんだ母さん、嫉妬か?」
「……呆れているだけです」
 中学、高校の年にもなって、父親と一緒に風呂に入りたいと思う娘は稀だ。そして、そんなことを口に出す父親はもっと少ない。普通は遠慮する。どんなに一緒に入りたくても、断れたらどうしようとか、冷たい視線で無視されたらどうしようとか悩む。IFがアタマを駆けめぐり、結局、なんにも言えなくなる。それが大人のたしなみとかって思いながら。
 嫌なことでもやるのが大人なのか、嫌なことは嫌って言えるのが大人なのか?
「なあ栞、お父さんとお風呂に入ろう。さあさあ」
 まあ、ともかく、自由ってスバラシイ。純真無垢な魂ほど手に負えないものはない。天然に念仏は東風で、天然の前に教義は霞む。大脳新皮質など、揚げパンに塗られた豚の脂のようなものでしかない。本能に善悪はない。あなた自然を裁けますか? 一応は中年親爺の形をしているとしても。
「……お父さん、栞は何歳だと思ってるの?」
「なんだ香里、お前も嫉妬か」
「そんなんじゃないわよ」
「特別にお前も一緒に入っていいいぞ」
「遠慮しとくわ」
「じゃあ、母さん?」
「結構です」
「やはり栞しかいない。お父さんと……」
 女三人に男が一人の家庭で、ここまでできれば世のお父さん方は羨ましいだろう。大抵は疎んじられ、自分のパンツだけ別に洗われる憂き目に会っている方々多いというのに。
 しかし、美坂家の家長には、そんな嫌がらせは通用しない。なぜと言えば、そんなことをすれば拗ねて登社拒否するのだから。以前、栞が頑張った時には2週間も自分の部屋に閉じこもった。中年になって引きこもりである。気持ちが若いとか、流行の最先端とかって褒められる事じゃない。
 会社から上司が説得に来たがまったく耳を貸さず、1カ月に3.05回だけ一緒に入る権利を与えるという微妙な数値で当事者同士の交渉は合意に至った。端数はせめぎ合いの結果である。これで少しは歯止めになると家族は思ったが、家長は伊達に年功を積んではいなかった。翌日には会社のパソコンで「栞とお風呂券」を366枚も印刷していた。10年分の権利らしい。うるう年でも毎日一緒に入れる。翌年になれば、また10年分を前借するのだろう。こういうことにかけてサラリーマンは変に頭が働く。社会的にはまったく有益じゃないけれど。
 この父親が、いつも定時に走って帰宅するのは言うまでもない。
「……わかりました」
「愛してるぞ、栞」
 今なら不適切な発言ということで尋問受けかねない。いや、社会的に抹殺されるか、後ろに手が回る危険性もある。
「栞、アヒルちゃんも浮かべよう。な?」
 念のため言っておくと、別に、家族公認でお下劣なことをするわけではない。父親にとって栞は、今でも、いつまでも、赤ん坊のころにお風呂に入れてやった可愛い娘そのままなのだ。

 こんな父親だから、栞が何かをしようとすると、いてもたってもいられなくなる。幼稚園の学芸会に業務用のビデオ装置一式を持ち込む、運動会では500ミリ望遠のカメラでフイルム15本も使い切る、授業参観の前にはオーダーメイドのスーツをあつらえて、普段は行かない街の美容室で決めてみる。栞が描いた絵をスキャンして、「どうだ、私の娘が書いた絵だ!」とネットで公開したり。最後の件は、掲示板に「下手だ」と書き込んだ相手と大喧嘩をして炎上。一歩も引かずに芸術性を訴えたが、家族にばれて泣く泣く公開を停止した。
 過保護とは違う、幼女趣味でもない。表現するならやっぱり愛になるのだろうか。遠足の一行を密かに尾行するようなストーカーまがいでも。まあ、そのときは、急に具合の悪くなった栞を抱えて病院へ駆け込んだため、家族としては非難することができなかった。栞が持たされているPHSは、ワンタッチ一発で父親の携帯へ繋がるように設定されている。というか、1台は父親専用で他には繋がらない。なぜいまどきPHSなのかと思うが、頑なに変えないことから、きっと数分おきに位置情報が送信されている。
 子供に甘いのとは違う、心配性ともちょっと違う。表現するならやっぱり好きということになるのだろうか。女の子の好みは中年親父には理解しがたいもののはずなのに、父親は栞をつれてどんな所へも、どんな店にも足を踏み入れる。かわいらしい雑貨屋にも、おしゃれな喫茶店やレストラン、洋服や下着の専門店にまで。援助交際かと疑われても父親はまったく無頓着。栞の具合がよいときには、ふたりであちこちと街を探索した。幼稚園や小学校のお泊り会には父子で参加。病気のせいで参加に難色を示した学校側に「父親である自分が責任を持つ」と啖呵をきったせいだった。中学の修学旅行では、知り合いの医者を無理に連れ出して同じ行程を回った。

 こんな父親だけど、栞は嫌いではない。

 たとえるなら押し寄せる荒波を砕く大岩、地中海の入り口にそびえるジブラルタロック。吹き荒れる大嵐から身を守ってくれる大木。敵弾に身を隠す兵士を暖かく包み込む大地。
 普通とは違うけれど、いつでもそばにいてくれて、いつでも何かやらかしてくれる人。悲しみとか寂しさなんて、はるか太陽系の端っこの、冥王星のかなたへ黒いゴミ袋にまとめて2秒で捨ててきてくれるような人。父親が口を開けば、栞はあきれるか、恥ずかしくなるか、やれやれと思って自分はもっとしっかりしなくちゃと思う。そして気づけば、いつも最後は笑っていた。自分の体のことも、将来の不安も忘れて。
 多分、可愛い娘のためにならこの親父、空も飛べるはず。脂っこい額と眼鏡を輝かせながら、光の速さで銀河を駆け回るはず。磨り減ったスーツの裾をはためかせながら。少なくとも、そうしようという意気込みだけは、ありあまるほど持っている。困ったことに。冗談でも娘から「はだかで商店街を走ってください」とお願いされたら、無言実行、理由など聴かずにわが身を晒すだろう。

 で、栞に付きまとう男ができちゃったりすれば、この親父が何をしでかすかわかったもんじゃない。並木道で運命の出会があってから数日ののち、栞は、痣を作って足を引きずる祐一を見た。聞いてみると、いきなり暗がりから襲われたと言う。祐一は「昨日の夜、レンタルCDを返しに商店街に行ったんだけど、帰りにいきなり襲われたんだ。暗がりでよく見えなかったが、不良とかそういうんじゃなくておっさんみたいだった……。なんでそんなことされたのか、心当たりが全然ない」と、痛む顔をさすりながら答えた。そして「だれだか知らないけど、手がかりはむしりとってやったぞ」って、黒々としたカツラを見せた。
 その日の夜、帰宅した父親の頭がやけに薄くなっていて、栞はいろんな意味でショックだった。父親は気まずそうにサロンパスを肩に貼りながら、「栞、今日のお風呂はスイートローズにしよう。な?」と言った。怒るに怒れなかった。笑うしかなかった。

 栞が手術を受けると決めたときには、本人よりも気が動転していた。成功の可能性が低いのだから尚更のこと。病室のベッドには神社や寺のお守りが山のように積まれ、父親本人はお遍路に向かうと駄々をこねるのを、家族がなんとか引きとめた。父親は、あらゆる情報とつてを使って優秀な医者を探した。そして探した医者の身辺調査を興信所に依頼した。
 検査入院の期間中もずっと、父親は簡易ベッドで病室に立ち居した。大変だから帰っていいと言われても頑なに付き添いを続けた。栞が夜中にうなされて目を覚ますと、いつも自分の頭に手を載せて見つめ返す父親がいた。その隣には、眠い目をこする当直の医者がいた。申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、お父さんなら仕方ないと、不思議なことに栞はそれが当たり前のように感じた。

 手術の日は、がらがらと廊下を運ばれていく間じゅうずっと、涙でぐちゃぐちゃな顔をして父親が声をかけ続けた。
「栞、大丈夫だ。絶対によくなる。お父さんがついている」
「はい……」
「頑張るんだ。辛くても負けるんじゃないぞ」
「はい……」
「何も心配することはない、何も怖がることはない」
「はい……」
「それに、あの相沢とか言う悪い虫は、退院するまでに父さんが叩きのめしておくから安心しろ!」
「はい?」
「栞、お前が元気になるのを……父さん待ってるからな」
「ちょ、ちょっと待ってください……」
「今は何も言うな、栞。全てはお前が帰ってきてからだ」
「止めてください、止めてくださいです。手術する前にお父さんに説明させてくださいっ」
「……先生、娘をよろしくお願いいたします」
「お父さん、わたしの話を聞いてください!」
「最善を尽くして執刀にあたりますよ、美坂さん」
「最善? いや、絶対に栞を助けろ」
「……努力いたします」
「なんだとぅ、栞を助けると約束できんのか貴様っ!」
「微妙な手術となりますので、絶対と言うわけには……」
「このやぶ医者が!」
「美坂さん、落ち着いてください」
「お父さん、祐一さんはとってもいい人なんです。だからわたしは……」
「栞に何かあったら、ただで済むと思うなよ!」
「美坂さん、手を離してください。ちょっと、なにするんですか。く、首絞めないでくださいよっ!」
「わたしは祐一さんのことが好きなんです、ですから……」
「絶対に助けると誓え」
「美坂さん、落ち着いて。冷静になってください。ねっ?」
「ちぃー、かー、えー」
「婦長っ、美坂さん取り押さえて!」
「わ、わかりましたドクター」
「離せ、離してくれっ。私から栞を引きなさないでくれ!」
「栞さんを早く手術室に入れて、お父さんのほうは……勝手に出歩かないように何処か鍵のかかるところに閉じ込めといて!」
「ご指示どおりにします、ドクター」

「しおりーっ!」
「お父さーん!」

 麻酔のサイケデリックにまどろみながら、栞は強く思った。絶対に目を覚ましてお父さんを止めなくちゃ。このままじゃ、死んでも死に切れない。薄れゆく意識の中で栞は、どこからか、誰かが。くすくすと笑う声を聞いた。





 そして栞はいま、商店街の歩道に置かれたベンチに座って眺めている。
 ――多分、彼女を心から愛する二人の男が、ぼた餅だらけになりながら戦うのを。

「その程度か、小童っ」
「化け物かっ!」
「大いなる愛の前には、物理法則も時空も、文章作法に時間軸さえ屈服するしかないのだ!」
「俺だって栞を愛してる!」
「ならば私と戦うことだ。力を見せてみろ! お前の、その愛とかいうものの形を!」
「本気で行くぞっ」
「さあこい!」
「九一式ぼたもち魚雷投射!」
「無駄無駄ーっ、対抗策ぼた餅ニキシー!」
「Aブロックから巡航ぼた餅(改)順次発射! いけーっ!」
「右舷、近接防御ぼた餅ガンで打ち落とせ!」
 なんか、もっともらしい呼び名を叫んでいるけど、要は商店街に飾り付けられたぼた餅を投げ合ったいるだけだったりする。そんなことして良いのかと思うが、祭り自体が常識はずれなのだから、常識的なルールなど何もない。軒先から顔を出した魚屋の源さんは、商店会長に「ぼた餅当たって幸せになれるんならよ、ぶつけ合ったほうがアクティブ幸福になんじゃね?」とか話している。高齢の会長のしょぼくれた瞳が輝いた。きっと来年から伝統が変わる。それでいいのか商店街?

 まだまだ続きそうな戦いを見守っていた栞が、小さなため息をついた。日が沈み、夜の帳が下りかけている。見上げると、ぼたもちの合間から輝く一番星が現れた。
「小僧、なかなか腕を上げたな」
「今日の俺を甘く見るなよ」
「しょせんお前のような小僧が、私に勝てるはずがない」
「それはどうかな」
「なんだ?」
「親父さんが驚く秘密兵器を用意してる」
「無駄だ。栞への愛を遮るものなど、この宇宙には存在しない!」
「あとで泣くなよ。えーと、電話番号は……」
「何をする気だ?」
「あー、もしもし。相沢だ。例の件ですぐ商店街に来てくれ」
「誰と話している?」

「お父さん、なに恥ずかしいコトしてるのよ!」
「お前、まさか……」
「早かったな、香里」
「ちょうど百花屋にいたのよ。お父さん、馬鹿なことをしないで!」
「実の娘が敵に寝返るとは、なんということだ……。だが、それでも! 私は戦わねばならん! こうなったら奥の手を使うしかなさそうだ」
「奥の手?」
「出てこい、ソルジャー!」

「お呼びでしょうか、お義父さん」
「お義父さんはまだ早い」
「おい北川、どういうことだ!」
「相沢、悪いな。でも仕方がなかったんだ」
「香里との交際を認める代償として、私とともに戦うことになった」
「汚ねえぞ、クソオヤジ!」
「もう……、あたしまでダシに使うなんて、なに考えてんの!」
「相沢、お前に恨みはないんだけどさ、まあそういう事情だから(どういう事情だよ!)あきらめてくれ。この距離から当ててみせるぜ……ロングレンジB−MOCHIライフル!」
「北川君、甘いわ!」
 ”ねちょっ!”
「……オレの必中を切り払うとは、さすが美坂だ」
「今度はあたしから行かせてもらうわよ!」
「受けて立とうじゃねぇか美坂っ!」
 もう、なんかみんなぼた餅だらけ。
「クソオヤジめ、今日こそ倒して栞をいただくからな。リミッターカット!」
「こい小僧! ゆくぞ、ワークタイムオーバーカット!」
 親父が背広の上着を脱いでネクタイをゆるめる。無給のサービス残業時間へ突入らしい。
「ハァァァァァァー!」
「負けてたまるか、ゥオラァァァァァー! ぼた餅バズーカ!」
「進路クリアー、メガBOTAMOCHI拡散砲発射!」





 こんな父親だけど、栞は知っていた。

 昔は、栞が生まれる前までは、父親は今とはまったく違う人間だった。一流大学を出て、仕事もでき、エリートコースを進んでいた。海外での新しいプロジェクトの担当となるはずだった。家にもほとんど帰らず仕事に打ち込んでいた。そして、将来の夢もあった。多趣味とはいえないまでも、自分の時間にこつこつと何かを作っていたり、コンテストで入賞したときの賞状が飾られたりもしていた。
 しかし、栞が生まれて、病気が発見されたときから父親は変わった。転勤を拒み、自分の住む街にある営業所の閑職へ自ら異動願いを出した。ずっと続けてきた趣味の道具は物置にしまい込まれた。家ではほとんど喋らなかったのが嘘のように陽気になった。明るく振る舞いはじめた。収入は激減し、キャリアは閉ざされたというのに。華やかなホテルでの会議、世界を飛び回って仕事をする充実感、高級料亭での接待、たくさんの部下や組織を率いる地位や名誉。そんなものを全て捨てて、違う人生を歩み始めのだった。
 父親の急変を心配した母親は、ある時、面と向かって聞いた。「あなたは、なにをなさろうとしているのですか」と。父親はぽつりと答えた。
「――私は、私である前に、栞の父親になろうと思う」
 そのあと、「なーんちゃって(はーと)」とオヤジ臭く言うので、母親はとりあえず旦那の顔面をグウで思いっきり殴りつけておいた。日頃の鬱憤を晴らせて爽快だった。父親は鼻血を出してぶっ倒れた。家に帰ってきた香里がその様子を見て大笑いした。救急箱を持ってきた栞がやさしく手当てをした。みんなそれぞれ、幸せだった。特に父親が。

 天の川に、奇跡の羽が橋を架けた。そしてようやく二人は、今を生きている。だけど奇跡は、いちどきりの魔法。いま、天の空の、そのまた上から、大きな大きなぼた餅が落ちてきて。たくさんたくさん落ちてきて。ついに川は堰き止められた。胸焼けしそうな、あんこの大地。銀河に浮かぶ、あんこの地平。
 ぼた餅は、止まることなく降り続く。ぼた餅こそは終わらない。甘くて、優しく、ねばっこい。果てしなく続くぼた餅ぼた餅。あなたがぼた餅、私がぼた餅。あなたはぼた餅、私はぼた餅。あなたのぼた餅、私のぼた餅。あなたにぼた餅、私にぼた餅。あなたをぼた餅、私をぼた餅。あなたとぼた餅、私とぼた餅。
 みんなめちゃくちゃにくっついちゃって、べたべたにひとつになっちゃって、いまや希望だけが残された。





 もはや隔てる闇はどこにもない。

 あなたがぼた餅であり続けるなら、ぼた餅は必ずやあなたになるだろう。





「親父、仕事サボって外みてんじゃねえよ」
「おまえこそ、なんだこんなカボチャ仕入てきやがって。目利きもできねーのか」
「うっせーな……(ぼた餅)」
「親に向かってぼた餅投げつけるたぁ、どーゆー了見だ……(ぼた餅×2)」
「古くさいやり方してっから、売り上げあがらねえんだぞ(ぼた餅わしづかみ)」
「てめえこそ、商売に身ぃ入れんか。そんな五月蠅ぇギターさっさと捨てちまえ。それに八百屋の息子が長髪金パツたぁ、何考えたてやがる{(ぼた餅+ぼた餅)×2}」
「バンドは関係ねぇだろ!(両手にぼた餅)」
「毎日、でっけえ音聞かされるこっちの身にもなれや(大きく振りかぶってぼた餅)」
「親爺にゃわかんねーんだよ!(ギターで返打ぼた餅)」
「下手くそが何いいやがる(ぼた餅白刃取り)」
「へただと!」
「そーだ、わけわかんねぇへったくそな音楽なんてやめちまえ」
「いいやがったな、なら親爺の知ってる曲弾いてやるから言ってみろ。オレ様のソウルを感じやがれ!」
「じゃあ、北島サブちゃんの”祭り”だ。てめえに弾けんのかっ二代目!」
「いっくぜーっ!」
 ”ぎゅわわわーん、わんわわ、わわわわーん!(ぼたたももーちぃ、ぼぼた、ぼたもーち!)”
「……なかなかやるじゃねえか。母ちゃん、祭りで使った和太鼓とバチもってこい!」
「ヘイヘイヘイ、カモン、親爺ッ!」
 ”ぎゅいーん、キュンキュンっ!(ぼたもーち、ボタボタっ!)”
「あいよ、あんたぁ!」
「二代目ぇ、このバチさばきについてこれらるかっ! うおおおおおお!」
 ”ドドドドドドドドドドドドっ!(ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ!)”
「いかすよ、あんたぁ。あのころに戻ったみたいだねぇ……ぽっ(ぼたっ)」

「アタシたち、もうおしまいね」
「そうだな、君と一緒にいるのには疲れた」
「これをお願いします」
「……離婚届、か」
「嫌ですか?」
「すぐにでも書いてやる……」
「そう、ですか……」
 ”べちょ”
「きゃっ……(後頭部ぼた餅)」
「大丈夫か?」
「なんなの、これ」
「今日は祭りのようだが、店の中にまで飛んでくるとはな。それにしても無様な姿だ」
「無様?」
「餡のついたお前の顔だ」
 ”べちょ”
「こらっ、何をするっ!」
「無様な姿ですね、アナタ」
「顔にあんこを塗りつけるなんて、とんだ性悪女だ。お前のようなやつはこうしてくれる!(わざわざ外からぼた餅)」
「お化粧がとれてしまったじゃないですか!(ぼた餅)」
「煩い、お前はいつも文句ばかりだ!(ぼた餅2)」
「アナタがいけないんですよ!(ぼた餅3)」
「私が何をした!(ぼた餅5)」
「アナタは、そんなことも分からないですから! えいっ!(ひとつ前のぼた餅4)」
「馬鹿野郎、このスーツはお気に入りなのだぞ!(ぼた餅6)」
「ええ、知ってますよ! アタシが見繕ったんですから……そのカフスボタンだって、アタシが選んだんですっ(律儀に半返しぼた餅)」
「お前のようなやつは……(握りしめた指の間からぼた餅)」
「十年前は、こんなアタシのことを、あなたは…… それなのに……(両手に反撃体制完了ぼた餅)」
「昔の話だ……。お互いに若く、無鉄砲だった……(白いのはみ出たぼた餅)」
「…………(見つめるぼた餅)」
「…………(見つめるぼた餅)」
「…………(見つめ返すぼた餅)」
「…………(ぼた餅?)」
「帰るぞ……」
「えっ?」
「家に帰ると言ったんだ……。お互い、こんな格好では何処にも行けまい?」

「おかーさん、なんかみんな楽しそうだよ。ねえ、おはぎぶっつけあって、とっても楽しそうだよ」
「あんな人たちに関わっちゃダメなの。さあ、いくわよ」
「えー、でも、おもしろそうだよー」
「塾の時間に間に合わないでしょ?」
「でもー」
「ちゃんとお勉強しないと、ろくな人間になれないのよ。うっ!(直撃ぼた餅)」
「わぁ、おかーさん、あんこだらけ!」
「なんなのあの集団! 警察か、市役所か、教育委員会か、何でもいいから苦情入れますよ!」
 ”べちょ”
 ”べちょ”
 ”べちょ”
「なにするのよ!(逆切れぼた餅)」
 ”べちょ”
 ”べちょ”
 ”べちょ”
「もう頭にきたわ! あなたたち、他の人の迷惑はやめなさい!(ぼた餅)」
「わーい、おかーさんも一緒に遊ぶんだぁ!(幼い手にぼた餅)」
「わっ、ちょっと、お母さんにぶつけないで!」
「一緒に遊ぶのー!」
 ”べちょ”
 ”べちょ”
 ”べちょ”
「お母さんは、あなたの将来のことを思って……」
「わーい、わーい(ぼた餅)」
「どうしてわかってくれないのっ!(ぼた餅)」
「あははは、おかーさんと一緒に遊べてうれしいよ!(末恐ろしい2連装フェイントぼた餅)」
「そんなことじゃダメなの。ちゃんとやらないとダメなの!(本気の直球132q/時ぼた餅。リトルリーグ出身)」
「ねー、どうしてダメなの?(ぼた餅)」
「それはね……、ちゃんとしないと、お母さんみたいになっちゃうからよ……(ぼた餅……)」
「おかーさんみたいに?(ぼた餅?)」
「そうよ! ちゃんと学校を卒業してなくて、お給料は安くて、辛いことばっかりの仕事で、狭いアパートしか借りられなくて、誰も助けてくれなくて……、一人で惨めに暮らしてるお母さんみたいになっちゃうのよ!」
「おかーさん……」
「…………」
「おかーさんはひとりじゃないよ。ぼくもいっしょだよ。それに、ぼくはそれでいいよー」
「えっ?(ぼた餅?)」
「ぼくは、おかーさんだいすきだもん。おかーさんみたいになりたいんだもん」





「あの、この街はどうしちゃったんですか?」
「ほ?」
「ここを通らないと、向こうへ行けないんですけど……」
「今日は祭りでなぁ。あんた、この街の人じゃないんけ?」
「ええ、今日は病院へ見舞いにきただけです」
「そら困ったなぁ。いつもは静かなまちなんだけんど、路地も脇道もこんな塩梅だぁ」
「かなり遠回りしないと駄目ですかね?」
「んだな、駅の反対側まで回りゃぁ、大丈夫だと思うけんど」
「30分以上かかりますよ」
「そんまま通ってもアンが付くだけで、べっちはねえ。袖振り逢うも多生の縁て言うじゃろ? あんたも一緒に遊んでけばええ」
「これでも忙しい身でしてね。仕方ありません、今日はこのまま帰ります」
「見舞いいくんでねーのか?」
「今日でなくても、なにも……変わりませんから……」
「ほ?」

 ”べちょ!”

「わっ!」
「あー、やられてしもたなぁ。だいじょぶかぁ?」
「楽しそうなお祭りですね……」

 ”べちょ!(ぼた餅!)”

「とても賑やかで結構な……」

 ”べちょ!(ぼた餅!)”

「こういった特色あるローカルなお祭りというのは、なかなか味わい深いもので……」

 ”べちょ!(ぼた餅!)”

「どうして僕が、こんなことをされなくちゃならないんだ!(ぼた餅!)」

 ”プルルルルー プルルルルー”

「もしもし! こんな時に…… えっ?」

 ”べちょ?”

『もしもし、お父様ですね? 先ほど容態に急な変化がありました。すぐに病院へいらしてください。今のところこの兆候が容態の悪化なのか、それとも回復の兆しになるのか判断がつきかねます。非常に微妙で、危険な状態だとも言えます。……それでお父様、前にお話ししたことの確認をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。もしも、今回のようなことになった場合、その……、危険な状態になったときには、積極的な治療行為は行わないと言うことでご了解をいただいていたと……』

 ”べちょっ!”

「それは……」

 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”

『もしもし、お父様?』

 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”
 ”べちょっ(ぼた餅)”

「もう……。いや、それでも……」

 ”べちょっ!(ぼた餅×∞=∞?∴∞=∞/ぼた餅?∴ぼた餅=0?)”
 ”べちょっ!(しかし確かにそこには、ぼた餅!)”
 ”べちょっ!(ぼた餅っ!)”

「……そんなのは嫌です、絶対に助けてくださいっ! 僕もすぐに向かいます!」
『は? それは、ですが、いったいどういうことで……』
「お前は医者だろう! 僕の娘に何かあったらただですむと思うなよ!」
『月宮さん、お気持ちはわかりますが落ち着いてください……』
「僕は落ち着いています。今は、はっきりと理解しています!」


 お前の元へ飛んでいくよ。待っていてくれ、あゆ!



 ぼた餅。




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