良かったんです、これで。相沢さんはとても嬉しそうでした。一緒に喜んであげるべきなのでしょうが、どうしても素直になれない。

 真琴は帰ってきた。

 ……なのに、あの子はなぜ帰って来なかったのでしょう。




「彼岸の風鈴」
 作 Mumuriku



1.

 一人静かな読書の時間。自宅に籠もる美汐は、無表情に図書館から借りてきた本を眺めていた。パラパラと捲っていく郷土史の一文が目に入る。

 ――ものみの丘には、不思議な獣が住んで居る。古くからそれは妖狐と呼ばれ、姿は狐のそれと同じ。多くの歳を経た狐が、そのような物の怪になると言われている。彼らは人の姿となって現れ、短期間の後、始めから存在して居なかった様に消える――

 消える。私には耐えられない悲しみだった。同じ運命を辿るはずだったのに、それを変えたのは一体何だったのでしょう。私だって、どんなにあの子を引き留めようと必至だったことか。

 ――彼らの出現を受けた村は悉く災厄に見舞われる事となり、現代に至るまで災禍の象徴として厭われてきた。伝染病の発生や不作による飢饉は彼らが空から災厄を降らす所為と信じられ、その為、古来よりこの街では彼らを鎮める祭りが執り行われてきた。それは毎年決まった日であるが、数十年に一度は大祭として著しく大規模な行事が――

 でも、あの子たちは不幸を運んで来るのではないと思う。人の世に還ってきた真琴は、無邪気に相沢さんと暮らしている。そんな真琴は昔話にあるような忌むべき存在ではない。あの子も、私に会いに来てくれただけなのでしょうか。
 でも、それだけ? たくさんの人が住んでいるこの街で、なぜ私だったのですか? あなたは、何の為に現れたのです?

 分厚い本から視線を上げ、欄間に掛けてある硝子の風鈴をぼんやりと眺める。あれから、地元の言い伝えや昔話を色々と調べ続けてきた。整合性のない断片や漠然とした内容の資料ばかりだったが、それでも一つ、新しく発見した事がある。
 古老から聴いた言い伝えには、続きがあった。



2.

 ”がんがんがんがん!”

 乱暴に戸を叩く音がした。母親はいつも忙しく、今日に限らずほとんど家には帰ってこない。家には自分しか居ないので、ぼーっと風鈴を見つめていた美汐が立ち上る。
 出るのは億劫だが、あんな叩き方をされたら玄関のガラスが割れてしまう。

「どちら様でしょうか?」
 からからと引き戸を開けながら、不機嫌そうに訊く。
「天野、久しぶりだな」
「相沢さんですか」
「真琴も一緒だ、上がらせてもらうぞ」
「構いませんけど、あまり騒々しくしないで下さい」
「なら、インターホンくらい付けといてくれ」
「そういった物は嫌いです」
「天野らしいな」
 どういう意味かはわかっているので、敢えて訊かない。

 脱ぎ捨てた靴をたたきに散らかして、祐一と真琴が天野家に上がり込む。家は純和風の造りで、板張りの廊下は少し薄暗くひんやりしていた。
「おい、天野……」
 通された部屋で、祐一が険しい表情で言った。
「これは何なんだ?」
「相沢さんは、おコタもご存じないのですか?」
「いや、そうじゃなくてさ」
「何か?」
「変だろ……」
「ええ、これは掘り炬燵ですから普通のとはちょっと違います」
「…………」

 ”みーんみーんみんみんみん”
 ”たーけやーぁ、竿竹ぇ〜 ”

 開け放った窓からは、はっきりと季節を感じさせる声たちが聞こえる。
「天野、今は8月だぞ……」
「良いお日柄ですね」
「この暑さに何で炬燵が出てるんだよ」
「入ってみればわかります」
「暑苦しそうだな……」

「あはっ、涼しい!」
 疑うことを知らない真琴が、コタツに入って奇声を上げた。
「嘘だろ?」
「本当よっ」
「一体どういう仕掛けなんだ?」
 祐一が薄手の布団を捲って内を覗く。掘り炬燵の底、真琴の足下では大型のクーラーがゴウゴウと稼働していた。
「止めてください相沢さん、冷気が逃げてしまうではないですか」
「天野、不思議な奴だとは思ってたけど……」
「コタツ、好きですから」



3.

 うだるような暑さの中を歩いてきた祐一と真琴は、しばしコタツに入って冷をとる。傍目から見ればおかしな姿だが、実際涼しい。美汐は二人に氷の浮いた飲み物を勧め、水滴がしたたるビニール袋から取りだした物を皿に盛った。
「はい、どうぞ」
「ぶっ!」
 吹き出した祐一の目の前には、山盛りの蜜柑。
「天野、だから今は夏だって」
「真琴も食べますか?」
「うんっ」
「なあ、真夏にコタツに入ってミカンを食うのが趣味なのか?」
「冷凍ミカンです、美味しいですよ」
「はぁ……」

 呆気にとられる祐一をよそに、慣れた手つきで蜜柑の皮を剥いていく。美汐もコタツに足を入れ、人数が増えたため手元のリモコンで温度設定を更に下げた。
「それで、今日はお二人揃ってどうされたのですか?」
「美汐を誘いに来たのよっ」
「は?」
「ああ、秋子さんから聞いたんだけど、今日は何十年かに一遍の祭りだっていうからな」
「秋子さんも、なゆきも、みんなで行くの。美汐も来てくれるよね?」
「いえ、人が多いところはちょっと……それに知らない人は苦手です」
「大丈夫だって、何も気を遣わなくていいんだ」
「ですが……少し予定がありまして」
「え〜っ、美汐も一緒に行くの!」
 剥いてもらった蜜柑を頬張りながら、真琴が拗ねる。
「天野、予定は変えられないのか?」
「どうしても今日でなければならないんです」
「じゃあ仕方ないなぁ」 
「……美汐、アタシたちを置いてどこに行くの?」
「……」
「真琴、天野にだって都合があるんだ」
「でも……」
「じゃあさ、来週でも天野の都合が良いときに海へ行こうぜ」
「うん、それなら良い。約束よ、美汐!」
「ええ……」
 美汐が曖昧に頷く。

「あ、そうだ。ついでに秋子さんから買い物頼まれてたんだっけ」
 飲み干したコップに残る氷をガリガリと噛み砕きながら、慌てたように祐一が言った。
「美汐も一緒なら良かったのに……」
「天野、今日は突然で悪かったな。俺たちもう行くから」
「またね、美汐っ!」

 来たときと同じように、騒々しく祐一と真琴が帰っていく。楽しそうに笑う二人がとても羨ましく見える。なんだか自分がとても哀れに感じた。嫉妬、なのかも知れない。
 二人を見送りながら、美汐が呟いた。

「ごめんなさい……」



4.

 その日の夜。
 美汐は部屋を綺麗に片づけ、いつも以上に身支度を整え自宅を後にした。手には青く透き通る風鈴を持って。鍵を掛けながら、しみじみと今まで暮らしてきた家を眺める。もう、帰って来ることはない。
 いつもと違って人通りの多い街。祭りの賑やかさから逃げるように、人波を避けて独り丘へ向かう。言い伝えには続きがあった。あの子たちがこちらに来るように、人も向こうの世界に行くことができる。数十年に一度の大祭の日、あの子たちは街に向かって丘を降りる。その行列の内側に駆け込めば、あの子たちの世界に行けるという。
 そして、多分、私はこの世から消える。始めからいなかったかのように。

 美汐は、膝の辺りまである草を掻き分けて、黙々と不気味で薄暗い道を歩き続ける。ようやく丘の中腹に辿り着くと、持ってきた風呂敷包みを解いて中の品物を草原に並べた。お団子に和菓子、そして最後に食べさせてあげた冬のミカン。あの子が大好きだった綺麗な音の風鈴。それは出会った頃、二人で一緒に買いに行ったもの。お婆さんに手伝ってもらって、あの子が部屋に掛けてくれた風鈴。炬燵に丸まりながら、あの子は消えた。その時も風鈴は鳴っていた。

 美汐は、その場にしゃがみ込んで来るべき”時”を待つ。

 ”ドン ドドーン!”

 静寂を破って、大きな音が辺りに響く。丘から見下ろす街。多分、河口の辺りから打ち上げられた花火が球に見えた。最後の想い出に、じっと見つめる。どうして自分はあの下に行けなかったのか。相沢さんや真琴たちと一緒に、同じ物を見上げることが出来なかったのか。
 もともと人付き合いが得意な方ではない。人との関わり自体が嫌で、ずっと避けてきた。大好きだったお婆ちゃんはもう居ない。いつの頃からか一人で居ることが多くなり、クラスメートから声を掛けられることもなくなった。あの子が居なくなった喪失感は、そんな自分を一層落ち込ませた。

 だからお願いです。もう、ここに居るのは嫌なんです。私からそちらへ行っても……良いですよね?

 暗闇に慣れた美汐の目に、ぼうっと揺れる二列の灯りが見えた。微かにざわざわと草を踏み分ける音も。と、鳴り響いていた花火がぴたっと止んだ。

 再び静寂が訪れる。

 楽しい出来事の終わりは、いつだってこう。幸せも、夢も、何時かは終わる。大切な物も、失いたくない物も、いつかは消えてしまう。最後に残るのは自分だけ。一人寂しく俯く自分だけ。もう耐えられない。目をつむり、決心した美汐が駆け出す。

 ”リンリンリン コロロロ”

 虫や、鳥たちの声が聞こえる丘。
 絡みつく草も、でこぼこの地面も気にせず駆け抜ける。

 もう少し。

 あと少し。

 ”リーンリンリン コロロロロ”



 ”ちりん――”



 ちりん? ちりんちりんと、綺麗な音色が響いてくる。驚いて立ち止まった美汐が目を開いた。

 束の間の奇跡。

 一瞬の煌めき。

 奇跡は、その光を閉ざした訳ではない。

 目の前を行く灯りの列に、たくさんの輝く粒が降り注いでいた。言葉――心からの言葉はいつまでも消えることがないという。それは曇ることなく結晶になる。人のあたたかい想いが輝く宝石となって、辺り一面を埋め尽くす。愛しい人への言葉。悲しみを乗り越える言葉。励ましや、希望に向かって歩き出す友人に贈られた言葉。

 あの子たちが集めた人のぬくもり。

 それらが地上で弾け、天に還っていく。目の前の光景に、美汐がすぅと息を吐いた。直ぐ側に落ちてきた結晶を拾い上げてみる。
 青く透き通る輝石。それは、美汐の両手の内で弾けた。どこにでもありそうな昔話。あの子たちはここにいる。私たちよりも純粋なぬくもりに囲まれて。そう思うと、自分が何だか恥ずかしい気がした。

 人のぬくもりに憧れる子――、それは私だった。

 あの子に出会ったとき、私は全てを忘れ鳥になりたいと話した。笑いながらあの子はこう答えた。”みしお……鳥や獣に苦痛はないけど、感じられる幸せもないんだよ”と。
 これ以上悲しみに嘖まれるのであれば、幸せなど要らない。……そう思わないこともない。だけどこうも思う。あの子たちが憧れ、時には信じられない力を呼び起こす不思議。それは、人間だけに与えられた奇跡。儚くても、脆くても、悲しくったって、私が居るのは、そんなぬくもりが作った世界。

「もうちょっとだけ……」

 胸に抱いた暖かさを確かめながら、夜空を見上げる。

「ええ、もうちょっとだけ頑張ってみますね」

 その夜、美汐はいつまでも緑の丘に佇んでいた。



5.

 ”がんがんがんがん!”

 読書を遮るように、玄関で乱暴に戸を叩く音がした。 

「天野〜っ」

 ”がんがん がっ――ぱりん!”

「あ……」
「みしお、迎えに来たわよ!」
「はいはい、今行きます」
 やれやれといった表情で美汐が立ち上がる。コタツの片づけられた部屋で、風鈴が揺れた。
「行ってきますね」



 ”――ちりん。”



 ”ねえねぇ、みしおの水着ってどんなの?”

 ”白のビキニにパレオです”
 ”なにぃっ!”

 ”相沢さん、似合わないとでも?”

 ”天野にしては大胆だな……”

 ”ええ、そうかも知れませんね”



 そんな風に笑って答えてみる。だって、私たちは巡り往く季節の中に生きているんですから。

 そして今は、夏。



 強烈な日差しの下、鮮やかに浮かび上がる夏の景色へ、美汐は歩き出した。
 動き始めた彼女の”時”の中へ。




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