「りゅうきんやな」って、そう、金魚すくいのお爺さんは言った。普通の赤くて小さな金魚だけじゃなく、このお店にはいろんな金魚が泳いでいる。黒いデメキンやこぶが付いた金魚。金魚ってこんなに種類があったんだ。シートに覆われた浅い水槽を見てそう思う。
 祭囃子が聞こえ、たくさんの人たちが笑いながら歩いている神社の参道。提灯や電灯が明るく道を照らして、賑やかな夜店が道の両脇に続いている。ホットドック、お好み焼き、籤や射的、イチゴ飴にタイヤキ屋さん。
 屈んだわたしたち二人の影が、薄暗い石畳の上に長く伸びていた。



『きんぎょときんぎょばち』
 作:Mumuriku



 白い体に頭だけ赤い金魚が、目の前をよちよち泳いでいく。「うん、そりゃたんちょうや」。これはわたしでもわかった。丹頂鶴みたいだから。でも、この魚は自分の名前の元になった鳥を見たことがないと思う。
「これは?」
「ししがしらゆうねん、嬢ちゃん」
 獅子頭。なんだか怖そうな名前。どうしてそんな名前なんだろう、とっても可愛いのに。
「くそっ……」
「あんちゃん、もうちょっとだったなぁ」
「…………」
「もう一回やるんか?」
「ああ……」
「えらい気合い入っとるなぁ、あんちゃん。べっぴんな嬢ちゃんほったらかして」
 困ったような顔で祐一がわたしを見た。
「わ、わたしは……」
「ほれ、あんちゃんアミ。一匹くらいすくったってや」

 寂しい笑顔の祐一は、新しいアミを持って水面を見つめる。もう何時間もこうしているのに一匹もすくえていない。金魚はすぐに紙を破いてしまうから。ずっとこうしているのに、まだ一匹もすくえていない。
 いつまで経っても、すくえないものなのかもしれない。だけど祐一は水の中を見続ける。黙ったまま、じっと。

 わたしは知らない人と話すのが苦手だけれど、仕方なくお爺さんと金魚の話をしている。少しは気が晴れると思って誘ったのに、お互いに気を遣ってしまう。わたしが祐一に、祐一がわたしに。昔はこんな事なんてなかったのに。
 子供のころは、夏休みにやってきた祐一とよく遊びに出かけた。二人でいることに理由なんて必要なかった。いつも一緒に参加した夏の終わりのお祭り。祐一とわたしの小さな約束。お互い口に出して確かめたわけじゃないけど、それは夏休みが終わる前の儀式のようになっていた。また会えるよねって。ああ、そうだなって。
 なんにも知らない頃は、ずっと楽しかった。
「この、まだらなのは?」
「コメットだなぁ、隣がらんちゅうや」
「……あっ」
「あー、今のは惜しかったなぁ、あんちゃん」
 何度目だろう、祐一はまた新しいアミを買おうとしている。もう止めた方が良いと思うけど、そんな祐一のわがままに付き合っていたい。昔みたいに勝手で、ちょっと意地悪で、だけどわたしをどんどん引っ張ってくれるような祐一に戻って欲しい。

 8年前、わたしが見送った頃の祐一みたいに。

 一緒にいたいと思った。けど引き留めたいとは思わなかった。うん、わたしは思わなかったんだよ。祐一に好きな人ができても平気。ちょっと寂しいけど、わたしのことを忘れちゃっても。祐一が幸せになってくれれば、わたしも嬉しいから。
 何年も遠くに離れていたけど、きっと祐一は元気にしているって信じられた。去年、わたしが駅前まで迎えに行った日のことを覚えてる? すごくからかわれたけど、わたしは祐一に会えて嬉しかった。思った通りの祐一だったから。昔と何も変わらない祐一だったから。
 でも、今はこう思うの。祐一はこの街にもどってきちゃダメだったんだよ。
「…………」
「どした、あんちゃん?」
「もう、諦める……」
「あかん、あかんて。ここで止めてええんか。男ならもういっぺんチャレンジや!」
「金がないんだ」
「……ならさっさと帰らんか」
「…………」
「と、普通ならそう言うんやけどなぁ。あんちゃんの熱意にほれ、サービスや。嬢ちゃんにええとこ見せたれ」
「祐一、ふぁいとだよ」
 わたしは応援した。一生懸命応援したんだよ。お母さんから聞いて知っていたけれど、ずっと黙っていたんだよ。祐一がすくってくれるって。祐一ならなんとかしてくれるはずだって。

 でも、やっぱり破れた――。

「……名雪、そろそろ帰るか」
「…………」
「ねえ祐一、わたしがアミを買うからやってみて」
「え?」
 すくったところを、見せて欲しいよ。
「……前も、こんなことがあったよな」
「そうだね」
「あの時は名雪に悪いことをした」
「わたしは気にしてないよ」
 子供の頃の三千円は大金だったけれど、わたしだってもう高校生なんだよ。できなくなったこともあるけど、ようやくできるようになったこともあるんだよ。嫌なことをたくさん知ったけど、嬉しいこともたくさん感じてきたんだよ。
「優しい嬢ちゃんやな。ほれ、きばれやあんちゃん」
「…………」 
「祐一、どうしたの?」
「……俺に構わないでくれ、名雪」
「…………」
「嬉しいけど……」
「わたしが好きでやってる事だから……はい、祐一」
「…………」
 ありがとうなって、祐一が言ってくれた。感謝されたのに、なんだか気が重たいのはどうしてだろう。気を遣っているからなのかな? 祐一、どうしてなの?

「おっ! でかしたあんちゃん、すくえたやないか!」
「……紙は破けたけど」
「ええねん、ええねん。きばった甲斐あったやないか」
「よかったね、祐一!」
「うん……」
「なんや嬉しそうやないなぁ、ん? あー、あんちゃんコレあかんわ」
「お爺さん、どうしてダメなの?」
「かなりヘタってるで、直ぐ死によるわ」
 金魚すくいの魚は、病気になったりして長生きできない。そんな話を聞いたことがある。
「いいんだ、これで」
「え?」
 どうするのかと思っていたら、祐一がはっきりそう言った。
「そやけどなぁ、あんちゃん。一匹すくうたんやどれか他のと交換したる」
「俺は自分がすくったその金魚を欲しいんだ」
「ほんきかいな? 無駄やと思うで?」
「……いいんだ、これで」

 そっと祐一の顔を覗き込んでみた。やっぱり、あの時のような目つきをしている。思い詰めて、青ざめて、かすり傷をたくさん作って、着ていた服を泥だらけにして帰って来た日の顔。一晩中心配して待っていたのに、何も言わないで自分の部屋に隠れてしまった去年の冬の日。
 その時から、祐一は変わってしまった。北川君や斉藤君ともほとんど話をしなくなった。わたしよりも遅く起きてくることがあるし、学校を休むことも多い。成績や進学のことで、何度かお母さんが学校へ話しに行った。真夜中にお母さんが、何度も電話で祐一のおばさんと話しているのを聞いた。

「名雪、商店街にペットショップってあっよな?」
「あったと思うけど……」
「場所を教えてくれ」
「これから行くの?」
「ああ」
「でも、神社でお守りを買わないと……」
「それはいつでも良いだろ、イチゴ飴奢るから頼む」
 そう話しかけてきた祐一の口調は、わたしの知っている祐一だった。つられてわたしも、いつものわたしになる。
「うー、そんなので買収されないよ」
「じゃあ、イチゴ飴8個で」
「そんなに食べられないよ」
「名雪なら平気だろ、イチゴだぞ」
「……お金持ってないって言ってたのに」
「名雪に借りるから心配ない」
「ヘンだよ、それ」
 何だか懐かしい。からかわれているのに、どうしてこんなに楽しいんだろう。
「もう、仕方ないね……」
「そうと決まれば、すぐ行くぞ!」
「わっ、待ってよ祐一」
 そうだよ、わたしの知ってる祐一はこんな風に走っていくんだよ。わたしを置いて楽しそうに走っていっちゃうんだよ。一生懸命に走っても、子供のころは祐一に追い付かなくて、いつもわたしは寂しくなった。ひとりぼっちになるのは嫌だったから。泣きそうになったこともあるんだよ。
 でも――。
「早く来いよ、名雪」
「うんっ!」
 でも、ちゃんと待っていてくれる。路地を曲がると「遅いぞ!」って笑いながら頭を小突かれる。そんな男の子だったよね祐一は。

 わたしは、そんな祐一が好きだったよ。 

 ペットッショプに入ると、祐一は金魚を見せながら店のおばさんに話しかけた。薬だとか、金魚鉢の大きさだとか、水の量とか、エサは何がいいとか一遍にたくさん聞いていた。最初はうるさそうにしていたおばさんだったけれど、棚の奥から綺麗なガラス鉢を出してきたり、水草を祐一に見せたりした。薬を溶かした水に金魚を「薬浴」させる方法を、細かいところまで教えて貰った。

 祐一は出された品物をほとんど買うみたい。水を綺麗にする石とか、バクテリアが入った液体とか。わたしにはただの石や水にしか見えないけど。薬だけで何種類もあった。おばさんがレジをガチャガチャさせて、にっこり笑いながら言った金額に驚く。びっくりする値段だった。
「……祐一、わたしそんなにお金持ってないよ」
「俺が払うから心配するな」
「だって、祐一……」
「名雪、世の中にはカードという便利な物があるんだぞ」
「そんなの持ってたの?」
「ああ、親父から何かあったら使えって持たされた」
「ちょっと格好いいね」
「そうか?」
「うん、だから帰りに百花屋はどうかな?」
「そうだな、たまには行ってみるか」
「祐一、嬉しいよ〜」
「奢るとは言ってないぞ」
「…………」
「そんな顔するな、冗談だ」
「ホントに意地悪だよ、祐一は」
 意地悪だけど、大好きな人。祐一の笑顔を見れて、わたしも嬉しかった。

 百花屋に寄ってから家に帰ると、祐一はその日のうちに自分の机へ金魚鉢を置いた。お風呂場で鉢を洗う祐一が鼻歌を歌っているの聞いて、お母さんとわたしは目を見合わせる。こんなに陽気な祐一は何ヶ月も見たことがなかったから。
 どういうわけか、祐一は金魚を飼うことに熱中した。毎日毎日飽きずに眺めては、エサをあげたり、リトマス紙のような物を使って水の質を調べる。ちょっとでも苔が生えてくると、すぐに掃除をした。そのかいもあってか金魚は元気そうに泳ぎ続けた。

 祐一は少しずつだけど元気を取り戻していった。学校から帰ってくると、すぐに自分の部屋に入って金魚鉢を眺める。晩ご飯やお風呂に入っているときも離れたくないような様子で、夜遅くまで部屋で金魚に話しかけていた。
 本当に話しかけていた。
 不思議だったし、ヘンだったけど、今はそっとしておいた方がいいと思った。お母さんは「今の祐一さんには、良いことかもしれませんね」と言った。だけど、それは数週間しか続かなかった。

「なんで食べないんだよ!」
 となりの部屋からそんな大声が聞こえたのは、ベッドに入って眠ろうとしていた時だった。パジャマのまま祐一の部屋を覗くと、金魚鉢を掴んだ祐一が立ち上がった。
「……あ、名雪」
「祐一、どうしたの」
 赤い金魚の体には白い点々がまばたに付いて、痛々しく体をガラスに擦りつけている。底の方で身を顰めている金魚は食欲もないみたい。苦しそうに口をパクパクさせていた。
「俺、一生懸命頑張ったのに……」
「病気なの?」
「……そうだ」
「祐一、金魚すくいの魚は長生きできないって……」
「俺のせいか?」
「えっ」
「……俺は助けられないのかな、コイツを」
「どんなに頑張っても、仕方のないことはあると思うよ」
「…………」
 無言になった祐一は、金魚鉢を抱えて座り込んでしまった。
「ねえ、祐一……」
「…………」
「あゆちゃんのことは、辛かったと思うけど……」
「……うん」
「…………」
「名雪、やっぱり俺のことを一番解ってくれるのは……」
「……やめて、祐一」
 そんな嫌な人になりたくないから。わたしは、誰かの代わりになんてなりたくないんだよ。
「……すまん」
「わたし、もう寝るから……」

 一階に下りて、水を一口飲む。わたしは祐一が好き。自分でもわかっている。普通なら嬉しいと思うはずなのに、その言葉を聞いてとても悲しくなった。
「名雪なの?」
「あ、お母さん」
「祐一さん、どうかしたの?」
「……うん」  
 そこだけ電気がついた台所。お母さんはちょっと天井を見るような仕草をしてから、小声で言った。
「祐一さんのことだけど……この街を離れた方が良いと思うの」
「えっ」
「さっき電話で話したの。祐一さんのお父さんは、予定を切り上げて帰国することに決めたそうです」
「そう、なんだ……」
「受験を前にして転校するのはどうかと思うけど、2学期からはご地元の高校へ編入できるそうよ」
「うん……」
「賑やかになって、嬉しいと思っていたのにね……」
「お母さん、祐一はいつ帰るの?」
「来週、迎えに来るそうです」

 迎えが来ることを、祐一本人には知らせない事になっていた。家まで車で迎えに来て、そのまま一緒に帰って行く。祐一独りで旅行させるのは不安だし、急に引越や転校する事を知らせれば悪い影響があるのじゃないかと心配だって。
 わたしにもなんとなくわかる。祐一の荷物は、後から送ればいいとお母さんは言った。今度は駅まで見送りに行くこともできない。また会えるかどうかもわからない。

 祐一が帰る前の日、金魚は死んだ。

 学校から帰ってきて部屋を覗いたら、机に伏して祐一は泣いていた。ぷかぷか白いお腹をみせて浮かぶ金魚が入った鉢を抱えるようにして。なにか声をかけようと思ったけれど、わたしはそっとドアを閉めた。今、わたしにできることは何もないと思ったから。あんなに綺麗にしていた金魚鉢には、少しコケが生えていた。

 祐一が帰っていった日のことはよく覚えていない。おじさんやおばさんと話をして、お土産をもらって、手を振って別れた。祐一は大人しく、されるがままに連れて行かれた。「北川や香里によろしくな」って、言いながら。そんなのは嫌だから、わたしは黙って祐一を見送った。だって、そんなのは祐一らしくない別れ方だから。
 何日か経って、祐一の部屋を掃除していたわたしは緑色に濁った金魚鉢をみつけた。すっかりどろどろになって曇ったガラス鉢。それを綺麗に洗って、自分の机に置いた。
 そしてわたしは今日も手紙を書き続ける。この空っぽの水槽に、いつか誰かが泳ぐことがあるのかな。そんなことを想いながら。返事はほとんど届かなかった。それでも読んでいることはわかっている。毎日空っぽの水槽を眺めながら、こう思う。

 すくわれて、いつか祐一の水槽を泳ぐことができるのかなって。




戻る