「バイタル?」
「CPA!」
 どうしてもっと早く来られないのよ。
「静脈路確保、エビネフェリン輸液。除細動機モニター解析」
「はい!」
「縫合による止血と感染予防の抗菌剤を」
 出血と損傷が酷い。大きな傷口の他にも擦過傷や打撲の痕がある。何か事故に遭ったのだろうか。
「血圧低下、低体温の兆候があります」
「昇圧剤と輸血の用意。誰か患者についてきてないの?」
「救急隊員だけです」
「急いで調べて。それと薬剤アレルギーの確認も、ざっとで良いわ」
「わかりました!」
「ラリンゲアルマスク装着、純酸素吸入。気管内ボスミン投与」
 この様子だと、脳にも損傷を受けた可能性がある。
「ドクター、心電図波形に異常です!」
「200JでDC。VF継続、リドカイン投与。それからCTの担当者を叩き起こして!」
「波形、ワイドQRSに変化」
「もう一度200JでDC実施。VF継続、エピネフリン投与」
「変化ありません、ドクター」
「360JでDC実施、充電急いで!」
「機能回復しません!」
「硫酸アトロピン20o!」
 きっとこの患者は無理だ。例え奇跡的に命を取り留めたとしても、障碍や後遺症が残る。事故が起きてから発見者は何分で通報しただろう。救急隊員が到着するまでの時間は11分。街中の入り組んだ道路をこの救急センターまで16分20秒。搬送され、二次処置を開始してから30分が過ぎた。時間の経過とともに蘇生率は急激に下がる。このケースでの蘇生率は0.1、いや0.05パーセント未満しかない。
 マニュアル通り、あたしは正確に処置をした。非難される落ち度などない。手は尽くした。だけど間に合わない。医者だって万能じゃないのよ。
「脳外科に誰か居ないの!」
「確認します!」
「早く!」
 どうして。もう、見たくない。
 そう思っているのに、なぜあたしはここにいるのだろう。
「心静止です、ドクター……」
「…………」
「救急隊員が一次処置を開始してから1時間、心肺停止からは相当な時間が経過したと思われます。機能回復の兆候は全くなし。残念ですが、見込みはほぼありません」
「…………」
「ドクター、大丈夫ですか。少し休んでください」
「ええ……後は任せるわ」
「設備の整ったこの救急センターでも、助けられない命があるんです」
「そう、なのよね……」
「CTの準備ができたそうですが……」
「…………」
「診断書に書くから、後で結果だけ知らせて」
「はい」
「……あたしたちは、何のために居るのかしらね」
「ドクターは最善を尽くされました」
「ありがとう……」
「宿直室に夜食が用意してありますから、どうぞ」
 助けられない命がある。どんなに頑張っても、人は死ぬ。それは運命なのだろうか。救急センターでの勤務を続けているうちに、そんな宿命論者になりかけてい る。駆け出しとはいえ、医者の自分が考えてはいけないことだと思う。だけど人の命も運命を逃れられないような気がする。
 ――あの時のように。
 そんな事を考えながら廊下を歩き、宿直室の長いすへ倒れるようにぐったりと体を投げ出す。緊急の患者を診ていたため、27時間働きづくめだった体が痛みとともにみしみ しと音を立てた。疲労した体をさすりながら、ブドウ糖を打とうかしらと考える。この前、物を食べたのはいつだったろう。家でお風呂に入ったのは? 疲れ切った 脳で記憶を呼び起こそうとするが、そんな遠い昔の事はわからない。
 眠りこけそうになるのを堪えてテーブルを見た。そこには質素な夜食が、袋入りのパンと缶コーヒーが置いてある。注射よりも食べ物で栄養を摂る方が良い。腕だけ伸ばしてパンを掴み、袋を開けて一口囓った。
「んー……」
 甘い餡の芳香な味が口に広がる。舌に残る苦みと一緒に。苦み?
 袋の裏面を見ると、賞味期限がマジックで消されている。微かに読みとれる印刷には何年も前の日付が記されていた。自分がまだ学生だった頃、忘れられないあの年。
「いつのパンなのよ、気持ち悪い……」
 途端に胸がむかつき、こみ上げてくる吐き気が襲う。

 トイレに駆け込んだ彼女は、そのまま意識を失った。




「kiseki」
 作:Q.Mumuriku




 ――相沢君、あの子は何のために生まれてきたの。

「香里……」
「あたしが伝えたのよ、あなたは誕生日まで生きられないって」
「栞の体は、そんなに悪いのか?」
「子供の時から入退院を繰り返していたわ。クリスマスも、お正月も、誕生日も、あの子は病室で迎えたの」
「そんなの……」
「そう、寂しいわよね。でも仕方がなかったのよ」
「…………」
「あなたに何ができるの、相沢君」
 そして、今のあたしに何ができるって言うのよ……。
「えっ……」
「好きなんでしょう、あの子のこと」
「……ああ」
「あなたの優しさが、救ってくれるとでも言うのかしら」
「俺は、栞と一緒にいたいんだ」
「でもそれは叶わない夢だわ」
「夢?」
「奇跡なんかをあてにして、夢を見たいのね相沢君は」
「…………」
「優しさがなんの役に立つの? 教えてよ、あたしに」
 死にたい人などいない。家族や親しい人が亡くなるのは辛いこと。でも、いつか人は死ぬ。早いか遅いかだけ。いくら願っても、命を贖うことなんてできないじゃない。
「最後まで、俺は一緒にいるって約束したんだ」
「なら良い想い出を作ってあげるのね、最後に……」
「お前はどうなんだよ、香里」
「あたしは……」
 そんなこと、あたしにはできない。もう死んでしまうから、最後に残る想い出を? 今までできなかったことや、諦めていたこと。栞と一緒に出かけたり、夜更か しをして話をしたり。体に気を遣って、ずっと我慢していたこと。そんなことができたらどんなに楽しいだろう。どんなに嬉しいだろう。
 でも、そんな想い出を持って生きられるほどあたしは強くないんだから。ずっとあの子の想い出を持ち続けるのが、あたしは怖い。助けを求めるあの子の顔を思い出すのは、耐えられない。
「お前は姉だろう」
「……最低よね、あたし」
「どうして一緒にいてやらないんだ」
「相沢君に何がわかるって言うのよ!」
 もう嫌よ、嫌なのよ。もしかしてなんて思うほど、栞の病気は軽くない。結果はわかっている。すぐそこに待っている結末がわかっている。だから……
 あたしに妹なんていない。




 ――何の用なのよ、名雪。

「この頃、香里の様子がヘンだったから……」
「ヘンで悪かったわね」
「そう言う意味じゃないよ〜」
「わかってるわ、だけど名雪に心配してもらう事なんて無いわよ」
「本当?」
「ええ……」
 ぼーっとしているように見えて、名雪は意外と勘が鋭い。
「わたしにできることなら、協力するから」
「だから、何もないってば」
「でも……」
「なら、コーヒーでもご馳走してくれない?」
「香里、誤魔化さないで。わたし心配なんだよ」
「それは嬉しいわね」
「祐一もなんだか変わっちゃったし……」
「相沢君、何か言ってた?」
「何も話してくれないの」
「そう……」
 名雪は相沢君のことが好きなんだと思う。転校してくる前、電話の話しぶりからそう感じた。普通の恋愛感情とはちょっと違うけど。残酷な話よね。あたしの親 友が思いを寄せている人が、あたしの妹を好きになってしまった。もうすぐこの世からいなくなってしまうというのに、相沢君は栞を選んだ。
 馬鹿じゃないの。こんな良い子がすぐ側にいるに。名雪と一緒にいれば、もっと幸せになれるじゃない。あたしだって、その方がずっと気が楽。何故わざわざそんな ことをするのよ、意味のないことをしようとするのよ。なんにもならないじゃない。諦めれば楽になる、運命は決まっているんだから。
「香里、こんなこと言って良いかわからないけど……」
「なに?」
「わたしには気を遣わなくていいから」
「…………」
「香里は自分のことをあんまり話さないし、悩みも全部一人で抱えちゃうんじゃないかなって思うから」
「……そう見える?」
「うん、この頃は特に無理してるような気がするよ」
 上手く隠していたと思っていたのに、やっぱり駄目ね。
「名雪、じゃあ質問」
「えっ?」
「もしも、あなたがあと数週間しか生きられないとしたら、何をしたい?」
 自分が死んでしまうとわかったら、あたしは何を望むだろう。
「急にそんなこと言われても……」
「考えてみて」
「うーん……」
「どう?」
「特別なことは、何もないかな」
「え?」
「お母さんや祐一と一緒に家でご飯を食べて、それでおしまい」
「真面目に考えてよ」
「わたしは真面目だよ〜」
「そんな簡単なことで良いの?」
「うん、わたしはそれでいいと思うよ」
 そうよね、自分が死に直面した時のことなんて、元気な人には想像できる訳がないんだわ。死の恐怖を和らげてくれるのものなんて無いんだから。人間なんて無力なのよね、なら、もういいじゃない。あたしは頑張ったわ。だけど奇跡は起きなかった。そう、それだけのこと。




 ――北川君まで、どうしてあたしに付きまとうのよ。
 
「美坂、何か悩んでるのか?」
「別に……」
「隠すな」
「言葉通りよ、あたしは悩んだりしてないわ」
「それは嘘だ」
「どうして決めつけるのよ、北川君」
「美坂のことは、オレが一番わかってる」
「本人よりも?」
「そうだ!」
「馬鹿じゃないの」
 つい、ムカッとして言ってしまう。……ごめんなさい、北川君の気持ちはわかってる。だけど、今のあたしに応える余裕なんてない。優しい言葉なんてかけない で、北川君。あたしは酷い人間なんだから。蔑んで、軽蔑してくれていいの。意気地のない人間だと笑って。その方が楽になれるから。
「一人で悩むな、オレの知恵を借してやる」
「なんだか偉そうね」
「美坂、お前は頭が固すぎるからな」
「北川君みたいに”ふにゃふにゃ”した頭になりたいとは思わないわよ」
「ふにゃふにゃ?」
「してるわよ」
「ど、どの辺が?」
「いつも飄々としてるし、真面目に考えることなんてないでしょ?」
「酷い侮辱だな」
「ええ、そうね」
「それでも、オレは美坂の役に立ちたい。お前を困らせてる問題は、オレがぶち壊してやる」
 羨ましいほど脳天気なのよね、北川君って。あたしだって壊したい。こんな悲しい所から抜け出したいの。だから忘れるのよ、そんなことはなかったと自分に言 い聞かせるの。毎晩、眠る前に忘れようと、忘れてしまいたいと言い聞かせるの。最初から間違いだったんだって。希望なんて持たなければ、失望することもな い。それが定めなのよ、あたしの運命なんだわ。
「じゃあ、一つ訊いても良いかしら北川君」
「ん、何でも相談してくれ」
「もしあなたの大好きな人が数週間の命だと知ったら、北川君はどうしようと思う?」
「泣きわめく」
「真面目に答えて」
「二十四時間、一緒にくっついてる」
「気持ち悪いわよ、そんなの」
「どうにかして助かる方法考える」
「それは無理」
「なんでだよ……」
「どうしても」
「だけど、何か手があるんじゃないか?」
「駄目なのよ、もう!」
 あたしだって、助かる方法があればすがりたいわ。どんなに僅かな可能性でも。そう、どんなことだって……。
「そんな顔をしないように、やっぱりオレは一緒にいるだろうな」
「はぁ?」
「美坂がいなくなったら悲しいけどさ、悲しむのは後で良いと思うんだ」
「ちょっと、北川君の大好きな人ってあたしのことなの?」
「そう」
「やめてよ、北川君」
「ビックリしたか?」
「……もう、冗談はそれくらいにして」
「ははは、オレは最後まで美坂とこんな話をして笑っていたいと思うなー」
 バカよ、バカバカ。驚かさないでよ。天然なのよ、デリカシーがないのよ、北川君って。でも、ちょっと嬉しいかも。最後まで自分のために頑張ってくれる人がいるのって。もしもあたしが死を迎えようとするなら、こんな人に側にいて欲しいかも。
 何を考えてるのよ、あたし。そんなことは初めからわかってるじゃない。あの子が待っていることを知ってるじゃない。だけどできないのよ。あたしにはできないのよ。あの子の寂しそうな顔や、恐怖に耐える姿を見たくない。あの子が元気になる可能性なんて、ほとんどゼロなんだから。失望するのは目に見えてるのよ。一縷の希望にすがって自分を誤魔化して、何が変わるというの。
 もういいじゃない。あたしは運命を受け入れる。お願いだから静かな安らぎください、あたしへ、最後に。
「……だからさ、美坂」
「なに?」
「たまには喫茶店でも行かないか? オレが奢るから」
「そんな気分じゃないわ」
「行けば気分も変わるって。おーい、水瀬さんも一緒に行こうぜ」




 ――どうして、どうしてあなたは笑っていられるの。

「あ……」
「お、相沢も来たのか。可愛い子だなぁ、連れてきたのは彼女か?」
「その人、祐一が話してた彼女さんなの?」
「いや、その……」
「なんだ、違うのかよ」
「祐一さん?」
「うん、俺の彼女だ!」
「羨ましいねー、相沢には勿体ないくらいだ」
「どういう意味だよ、北川」
「そのままだ」
「あたし、帰る」
「えっ、美坂?」
 こんな所でどうして顔を合わせるのよ、信じられない。
「待てよ、香里っ」
「相沢君、あたしには無理なのよ……」
「…………」
 栞は、何も言わずにあたしの顔を覗き込んでいた。何を話せばいいのかわからない、どう接して良いのかわからない。きっとあたしは嫌われている。いいえ、嫌って欲しい。あたしはここから逃げたい。怖い。想像するのが怖い。死の影を見るのが怖い。あの子を受け入れるほどの勇気は、力は、もうあたしに残っていない。
 喫茶店を飛び出して、後ろ手にドアを閉めた。あたしに妹なんていない、自分にそう言い聞かせる。忘れようとする。恐怖から逃げようとする。考えちゃ駄目っ! なのに、どうして涙が出てくるのだろう。その場に屈み込んで、思いっきり両手を握りしめている自分がいる。喫茶店の壁に額を強く押しつけ、心が声にならない悲鳴を上げている。

 ”美坂、どうしちゃったんだ?”
 ”さあ?”
 ”せっかく元気づけようと、オレが無理に誘ってきたのに”
 ”あの人、どうかしたんですか?”
 ”本人は何も言わないけど授業中も上の空だし、いっつも寂しそうに俯いてるんだ。酷く辛そうにな”
 ”そう、なんですか……”
 ”香里のことなんて、いいじゃないか”
 ”祐一、それはちょっと酷くない?”
 ”そうだぞ、あいつは何か深刻な悩みがあるんだ”

 壁にもたれたあたしの耳に、店の中の会話が微かに聞こる。

 ”そうですよ、祐一さん”
 ”栞?”
 ”私は、今でも大好きです”
 ”え、何の話だ?”
 ”だって、あの人はとっても優しい人なんですから。私のことを一番心配してくれている人なんですから。一生懸命、私を支えてくれたのはあの人なんです”
 ”だけど、あいつは……”
 ”祐一さん、あの人のことを悪く言わないでください!”
 ”栞、お前……”
 ”違うんです、祐一さん。誤解なんです。私にはわかっています”
 ”…………”
 ”あの人はそんな人じゃありません、私は絶対に信じています”
 ”君は美坂を知ってるのか?”
 ”はい、だって……”

 栞、あなた……。どうしてそんなことが言えるの。あたしはあなたの前から逃げようとしたのよ、あなたを捨てようとしたのよ。そんなあたしを信じてくれるの?
 怖くないの?体の具合は悪くないの?また無理をしてるんじゃないの? あなたはいつだってそう、ニコニコと笑ってみせる。あなたは強いのね、栞。お姉ちゃんなんかよりもずっと。何もわかっていないのは、あたしの方だった。自分が恥ずかしいわ。ごめんなさい、もっと早く気づけなかったお姉ちゃんを許して。もう逃げたりしないわ。最後まで。あなたの温もりが、僅かにでもこの世にある限り。あたしは諦めない。
 涙を拭いてドアを開ける。悲しむのは後で良いじゃない。泣くのも、想い出を振り返るのも。今、あたしにできることを、精一杯やってみよう。あたしにはやらなければならないことがある。まだ、できることが残っている。
 あたしは、あなたの笑顔が大好き。

「相沢君っ」
「美坂?」
「栞を悲しませたりしたら、承知しないわよ」
「この子と知り合いだったの、香里?」
「ええ、だって……」



          『私の自慢のお姉ちゃんなんですから』

         『あたしの、たった一人の妹なんだから』




 ――そう、その時あたしは誓った。

「どうしたんですか、ドクター!」
「えっ……」
「こんな所に倒れて、具合が悪いのでしたら無理せずに休んでください」
「あたしは……」
「気を確かに、ドクター!」
 あたしは処置室からでて、休憩室で気持ちが悪くなって、それから……。
「あたしは大丈夫よ、何か問題でも?」
「いいえ、CTの結果が出たので持ってきました」
「そう、見せて」
「どうぞ」
 …………。
「……あれから何分たったの」
「は?」
「あたしが部屋を出てからどれだけ時間がたったの!」
「数分だと思いますが」
「そう……」
 なら、まだ間に合うかしら。取り返すことができるだろうか。
 約束したはずじゃない。
「宿直室で仮眠を取ってください、ドクター」
「ブドウ糖を打って!」
「え、あの患者の子にですか?」
「いいえ、あたしに」
「ドクター、もう諦めてください」
「嫌よ」
「しかし……」
「蘇生処置を再開するわ、スタッフを呼び戻して」
「はっ?」
「機能保護のため脳の低温処置を。リドカイン30o静注投与。360JでDC実施、VFを継続っ!」
「ドクター、これ以上の処置は……」
「ガイドラインでは死亡と判定して良い状況だけど、だけど……」
「そこまでする必要があるのですか。どんなに手を尽くしても、助けられない命はあるんです」
「そう、あたしもそう思うわ」
「でしたら……」
「でも、あたしはもう見たくないの」
「人が死ぬところをですか?」
「違うわ、あきらめてしまう人の弱さをよ!」

 だからあたしは、ここにいる。

「420Jで再度DC!」
「わかりました、ドクター!」

 ――そうよね、栞。




戻る