「そいつぁ……ダメだ」
「親父、もうどうしようもないじゃないか」
「しかし……」
「農協からの借金、幾らになったと思ってるんだよ」
「山を売ればいい」
「山だって?全部、融資の担保に入ってるんだぞ」
「組合の課長に頼んで……」
「断られたよ」
「…………」
「もう、牧場を手放すしかない」
「潤、そいつは……それだけはいかん」 




「北の国から」
 作 Q.Mumuriku




1.北の大地

 北海道、日高。全国でも有名な馬産地のひとつ。中央のレースで華々しいデビューをする馬もいるが、そんなのは一握りに過ぎない。
 昔から馬の育成をやっていた訳じゃない。以前は水田や畑作に力を入れていた。だけど米の価格が下がり、国の買い入れ保証がなくなった今、外国からの輸入自由化もあって、せっかく良い物を作っても農産物はあまり利益にならない。それに、農協が勧める作物はいつも収穫時期に値崩れを起こした。たくさんの農家に、同じ生産指導をしているのだから当たり前だが。
 稲作からの転換として、奨励されていた乳牛を飼ったりもした。しかしホクレンの買入乳価は年を追って引き下げられ、助成金も削減。小売店に直接販売できないかと考えたが、農協はそれを許さなかった。出荷はおろか、肥料や農薬、資材の調達先も全て指定される。馬鹿馬鹿しい話だが、金を借りているので従うしかない。生産調整のため、せっかく絞った牛乳に赤い色素を混ぜる悲しげな親父の背中は今でも記憶に残っている。
 品質や生産性を上げようと、土地の改良や治水にかなり金を注ぎ込んできた。国や議員の後押しで作られた用水路は、一度も使われることなくほったらかし。既に農業は基幹産業じゃなくなっている。豊かになったこの国では食べ物なんて有り余ってるんだから。機械化といって親父が農協から買わされたトラクターや農機具が、牧場の経営を一層圧迫していた。

 そして数年前、親父は一頭の馬を連れてきた。
「潤、馬を始めよう」
 農業しか知らない、根っからの農家である親父が考えた答えだった。一日も休むことなく働き、疲れ切って見える目が輝いていた。いつだったか、二人で酒を飲みながら何故馬をやり始めたのかと訊いたことがある。

 ”そこには夢がある”

 たしか、そんなことを言って親父は笑った。小さな牧場でも可能性が全く無いとはいえない。優秀な馬が一頭でも出れば、数年間は暮らせるだけの金が入る。とはいえ、未だにうちの牧場からそんな馬は出ていないが。最高成績は道営競馬の4着。少し変色してしまいながらも、その時の新聞や写真が居間に飾れれている。その写真をぼんやり眺めていた親父が、湯飲みを持ったまま顔の皺を一層深くして呻いた。
「この土地はな、俺の爺さん……お前の曾爺さんが切り開いたんだぞ」
「何度も聞いたよ」
「ならもう一回聞け。北海道開拓のな、その大変さがお前に判るか?今は作物を植えられる畑も、全て原始林を手作業で切り開いた物だ。そんな土地を離れられん!」
「親父、気持ちはわかるけどさ」
「俺には他の仕事なんて出来ない」

「あなた……」
 台所で黙って話を聴いていた母親が、手に書類を持ってやってきた。
「これを使ってください」
 母親が持っていたのは生命保険の証書。解約すれば結構な額になる。だけど、サラリーマンと違って老後や生活の保障が薄い農家にとって、それは手を付けてはいけないはずの物だった。
「でも、これで最後ですよ」

 保険会社から金が振り込まれると、親父は直ぐに種付けを行った。馴染みの斉藤は金など要らないと言ったが、お互い厳しい懐具合はわかっている。相場から見れば格安といえる金額だが、本当に最後の夢を、全てを託した。その時から、小さな命には大きな期待が賭けられていんだ。




2.息吹

 初夏、畑は色とりどりのパッチワークになり、蕎麦畑に白く小さな花が咲く。借金は雪だるまのように増えたが、何とか年を越すことができた。本当に何とかだけど。仕上がりにもよるが、馬のデビューは早くても2歳新馬戦。それまで牧場はもつだろうか?トラクターを走らせながら、そんなことを考える。
 この頃は素人の手打ちソバが流行っているらしく、味にうるさい都会の住民から、質が良く無農薬の栽培を委託されていた。香りが強く、原種に近い品種の蕎麦だ。農薬や化学肥料を使わない分、手間も掛かるし収量も比較的少ない。だけど取引額は5割以上も違う。
 おかしな世の中になった物だ。曾爺さんが今の時代に生きていたら、何と思うだろう。農薬も化学肥料も、収量を増やして人々を豊かにする救世主だったはずなのに。よく昔話を聞いた。農業が人間による最先端の科学だった時代のことを。扱いやすく、安定的に供給される化学肥料が登場したときのこと。数年に一度は畑の大部分が駄目になった伝染病を、農薬が完全に防止したときのこと。品種改良やF1種が登場したときのこと。
 その全てが地の恵みを倍増させた。爺さんたちの世代は真っ正面から自然に相向かい、闘いを挑んだ。荒々しい原野を切り開き、持てる力の全てを出し切り……僅かながら手にした勝利。その成果が、今、見渡している数ヘクタールの畑。そんな畑を、もう要らないと言うのか?

 斉藤と一緒にトラクターで木酢酸を散布していると、顔をくしゃくしゃに綻ばせた親父が畑に駆け込んできた。畑の畝を飛び跳ねるように、何時も腰に提げている手拭いを振りながら。今時のトラクターには電話やテレビ、エアコンさえ付いてるモデルがあるけど、家の機械にそんな物は付いてない。
「潤っ、生まれる!」
 滑稽なほど慌てふためいて走ってくる親父。トラクターのエンジンを切って、黒い土の畑に降りる。吸い込む息に、肥沃な土の芳しい匂いがした。
「親父、どんな具合だ?」
「まだわからんが、もしかしたら逆子かもしれん」
「それは心配だね」
 一緒に作業をしていた斉藤が、作業服の袖で汗を拭きながら言う。
「北川、獣医を呼んだ方が良いじゃないかい?」
「うーん、そうだな」
「あんな金ばかり取る藪医者、何の役にも立たん!だから二人とも直ぐに来てくれ!」
「まだ昼間だぞ、親父」
 馬の出産は、ほとんどが夜中になる。外敵から身を守る必要があった野生の名残かも知れない。
「そんなこと言ったってな、出産は何が起こるか判らんっ」
「じゃあ、こっちは僕がやっとくから北川は直ぐに行きなよ」
「斉藤、悪いな」
「前に家の牧草を手伝ってもらったしね。僕も作業が終わったら顔を出すよ」

 その日の深夜。親父とお袋、わざわざ立ち会ってくれた斉藤が見守る中、仔馬は無事に生まれた。名前はカノン号と名付けられた。




3.賭ける想い

 みんなの期待を背負って生まれた仔馬は、順調に成長を続けた。親父は付きっきりで世話をしている。他の仕事はほとんど放ったらかして。その分自分に仕事のしわ寄せが来るわけだが、まあ、仕方がない。あんなに楽しそうな、幸せそうな顔をする親父は久しぶりなんだから。嫉妬からか、母馬に蹴られそうになった事もある程だ。
「あいつは優秀だ!俺の目に間違いはない!」
 親父は、食事時に何時もこんな事を言った。そして母親は微笑みながら頷く。最後の望み。表面上は和やかに飯を食っているが、みんなの考えていることは同じ。

 あと一年。

 どうやら、親父は仔馬を売る気はないらしい。競走馬のほとんどは、当歳から1歳の内に買われていく。庭先取引か競売によって。血統が良ければ高額で引き取られるが、それが期待できないので自己所有のままレースに出させたいようだ。また、金がかかるじゃないか……。

 浦河町の西舎にあるJRA日高育成総合施設で初歩的な調教を始めているが、カノン号は比較的小柄だし、今のところそれほど目立つ所はない。だが、個性というか、性格や適性によって何時才能が開花するかも知れないのが、この世界の不思議だ。ハミ付けも、腹帯や鞍を付ける胴締めの訓練も無事に終わった。装鞍で初乗りをしてみたが、大人しいほどに従順だ。コースに出て、ダクからキャンター、ギャロップまで、カノンは難なくこなしてくれた。
 もしかしたらと家族みんなが思い始めている。思うというか、そう願っているだけかも知れないが。厳しい現実を目の当たりにして、オレたちは夢を見たいと切に祈った。にっちもさっちも行かなくなった牧場の経営は、手が付けられない状態だ。今ではなくても、いずれ離農しなくてはならない事は分かり切っている。それでも、最後に走って欲しいんだ。緑の芝を蹴って、颯爽と走り抜けて欲しいんだ。

 債権者たちには、最後の生産馬がレースに出るまで待ってもらうよう何度も説得した。こいつは力を秘めている、シンザンやミスターCBみたいな名馬だと出任せを言って。勿論、奴らはそんなことを信じてくれない。更に担保を取られ、自宅にまで抵当権を設定させられた。もしダメだったら住むところもなくなる。




4.騎手

 ”こんこん”
 ん?留守か?

 宿舎のドアをノックしても、反応がない。珍しくこざっぱりとした服装でやってきた北川が聞き耳を立てると、部屋の中から声が聞こえた。
「どうしてあそこで鞭を入れなかったのよ」
「だって、もう一杯いっぱいだったんです、可哀想ですうー」
「そんなこと言ってるから、騎乗依頼が来なくなるのよ」
「…………」
「あなたの成績じゃあね」
「いつか私だって、お姉ちゃんみたいになれますっ」
「そんなこと言っても、デビューから15戦で6着が一回。あとは着外だったかしら?」
「むぅ……」
「あなたに乗って欲しいなんて言う厩舎は無いわよ」
 なんだ、居るじゃないか。わざわざ札幌まで出てきて、会えなかったら間抜けすぎる。
「おーい、オレだ、開けてくれ」
「誰?」
「しばらく振りだな、美坂」
「あら、北川君?」
「栞ちゃん、調子はどうだ?」
「調子は……悪いです」
「え?大丈夫なのか?」
「病気の事じゃないわ、成績よ」
「はははっ、脅かすなよ」
 栞ちゃんは体が弱い。高校時代には何度も入退院を繰り返していたほどだ。今は多少元気そうに見えるが、華奢な体は以前と変わらない。500sもある競走馬に乗ってレースに出られるのが不思議なくらいの体型だ。成績はともかく、騎手の中でも最軽量の乗り手だろう。

「で、北川君、わざわざこんな所まで来て何の用なの?」
「実はさ、家の馬に乗ってもらいたいんだ」
「え?」
「最後の生産馬なんだ」
「最後って……どういう事かしら?」
「もう、借金で首が回らない」
「馬をやめちゃうの?」
「ああ……」
「そう言われてもあたしには無理よ。ずっと予定が決まってるんだから」
 横で話を聞いていた栞ちゃんは、絨毯に”の”の字を描きながらいじけている。
「お姉ちゃんにばっかりそんな依頼が来るんです。どうせ私なんか、一勝もしたことがない落ちこぼれですよぅ〜」
「栞ちゃんは騎乗の予定ないのか?」
「むっ! 北川さん、それって嫌みですか?」
「そんな意味で言ったんじゃ……」
「北川さん、GTにも出た成績優秀なお姉ちゃんに突然頼んだって、ぜ〜ったい無駄ですよっ」
 口をとがらせた栞ちゃんが、スナック菓子の袋に手を伸ばす。
「栞、太るわよ」
「いいんです、どうせ私が乗る馬さんなんて居ないんですから〜」
「まったく……」
「栞ちゃん、喰うな」
「むぅ?」
「太っちゃ駄目だ。その体型を維持してもらわないとオレが困る」
「?」
「困るって……北川君は”そういうの”が趣味だったの?」
 ジトッとした軽蔑の目で、美坂が俺を見る。
「はあ?」

「…………」
「…………」

「ち、違う、オレはどっちかって言うと美坂のようなプロポーション……そ、そうじゃなくて、オレは栞ちゃんに家の馬の騎手をやってもらいたいと思ってわざわざ……」
「えぅ?」
 ポテトチップをくわえたまま、栞ちゃんの動きが止まった。
「うちのは小柄だから、軽い騎手に乗って欲しいんだ」
「北川君、あなた正気なの?栞はまだ一勝もしてない新人よ」
「オレだって、一勝もしたことがない牧場だ」
「北川さん、乗りますっ、乗らせてください〜」
「よしっ頼んだぞ。トレーニングセンターで基本的な調教は終わってるから、手続きを済ませたらこっちに連れてくる」
「わーい!」
「二人とも、もうちょっと考えてからでも……」
「いや、ここに来るまでにもう決めてきたんだ」
「お姉ちゃん、私は絶対乗りますからねっ!」

 喜び一杯の栞ちゃんと別れ、車でJRの駅まで送ってもらう途中、ハンドルを握る美坂が話しだした。
「ねえ、北川君」
「ん?」
「さっきの話、せっかくなんだけど断れないかしら?」
「なんでだよ」
「栞の調子が悪いのよ」
「成績が悪いのは知ってるぞ」
「いえ、そうじゃなくて定期検査の結果がね……」
「え?」
「もしかしたら、また入院って事になるかも」
「…………」
「あの子もやる気になってるみたいだけど、途中でそんなことになったらかえって迷惑でしょう?」
 オレは知っている。栞ちゃんが騎手になるまでどんなに頑張ったか。設備も資金も乏しいし、血統もあまり芳しくない競走馬がレースに勝つなんて考えが甘いかも知れない。ましてや大舞台で優勝するなんて夢だ。
 夢。良いじゃないか。みんなで一緒に夢を見よう、結果はどうあれ。
「美坂……それでも良いんだ。オレは栞ちゃんに頼みたい」




5.調教

 ――優しい馬です。こんなに乗りやすい馬は初めてです。今までは気性が荒かったり、小柄な私を馬鹿にする様な仕草を見せる馬ばっかりでしたけど、この子は違います。この子も小柄ですけど体力は充分。賢くて、頑張り屋さんです。でも、何故か悲しそうに見えるのは気のせいでしょうか 。

 夜飼いに来た栞は、優しくカノンの首筋を撫でながら飼料と水を補給する。

 ――追い切りも順調ですし、結構いいタイムを記録しました。ゲート入りで暴れることもありませんし、これなら間違いなく発走審査に合格できるでしょう。この子と出会えて、私は本当に幸せです。

 寝藁の、すえたような匂いが辺りを満たしている。初めて厩舎に入れてもらったときは、この匂いがとても嫌だった。今はもう慣れてしまったが。いや、慣れたというか逆になんだか落ち着く気がする。
 まだ学生だった頃、間近で見た馬はとても大きく怖かった。騎手になっていた姉の香里に会う度、乗ってみないかと誘われたが、いつもおもいっきり拒否したものだ。でも、しばらく厩舎へ通っている内に恐怖は消え、優しい瞳で自分を見つめる馬たちが、友達と思える様にまでになってきた。あまり学校へ行けないので、なかなかクラスに馴染めなかったせいもある。

 いつしか乗ってみたいと思うようになり、香里と一緒に、初めて練習コースを散策した時のことは今でもはっきり覚えている。ぽくぽくと歩む蹄の音。見晴らしの良い背中。風に揺れるたてがみ。軽く走ってみてくれたときの躍動感。お礼のニンジンと一緒に噛まれた指先……。
 一遍で好きになった。だから騎手になろうと思った。体の弱い自分は、思いっきり走ることも出来ないし、力も強くない。だけど、馬と一緒なら、二人一緒なら、どこまでだって走っていける。
「頑張りましょうね……えっ?」
 じっと栞を見つめるカノンの瞳には、涙が流れていた。栞は柵を超えて中に入りこみ、暗く狭い厩舎で一晩中カノンを抱きしめた。

 カノンが順調に仕上がっているとの連絡に喜び、北川牧場が期待を膨らませていたとき。突然、それはやってきた。
 その日の早朝。農協のトラック数台が、家を通り越してそのまま牧場に乗り込んでいった。親父に叩き起こされて慌てて駆けつけると、奴らは一切合切を勝手に積み込んでいる。数十頭いた乳牛も、トラクターも、農機具も全て。手を付けていない肥料や農薬の袋まで引っ張り出して。
 カノンの母親も。
 嫌がる母馬は、尻を叩かれてトラックに引っ張り上げられる。悲鳴のようないななきが、早朝の牧場に響いた。




7.舞台へ

 9月。調教に預けていたため、ただ1頭難を逃れたカノンの初レースの日が来た。この時ばかりは、仕事を休んで家族揃って競馬場へ出向く。もう、牧場に残された仕事なんてほとんど無かったが。
 出走表を見ると、同じレースに有名な牧場の名前がある。社台ファームや谷川牧場。運が悪い。条件は同じ未勝利馬のレースだが、人気は敵わない。カノンは……7頭立ての6番人気。まあ、それは仕方がない。親父は、カノンの単勝に1万円を奮発していた。普通の馬主は自分の馬に何十万……いや、金のあるところは何百万も買うそうだが、これが精一杯。

 いよいよ出走時間が迫り、出走馬がコースに出てきた。双眼鏡で覗いてみる。うん、体調は良い。栞ちゃんはちょっと緊張しているようだが、カノンは冷静だ。横に座る親父の方が、傍目にもそわそわと落ち着きを無くしている。
 ゲート入りを嫌った馬がいて時間が掛かったが、全頭が収まった。
「札幌5レース、芝1800メートル未勝利新馬戦、いよいよスタートです!」
 かしゃん――と、ゲートが開く。何頭か出遅れたため、綺麗なスタートじゃないが一気に飛び出していった。慌ててカノンを探す。大丈夫だ。スタートをミスしたのは違う馬だ。
   
 直線から第一コーナーに入るところで、小柄なカノンは馬群の真ん中に位置していた。なかなか良い。そして、中盤はそのままの体勢で好位置を占め、最終コーナーを廻る。最後の直線が勝負だろう。しかし大柄な馬に囲まれて、カノンのコース取りは窮屈そうに見える。

 ああっ?栞ちゃん、本気かよ……

 コーナーの立ち上がりで、カノンは大外に出た。完全に馬群から抜け出して大きく回り込む。他に手がないと言っても、そのために先頭からはかなり離されてしまった。先頭との差は4〜5馬身もあるだろうか。行けるのか?そんな足があるのか?せっかく良い位置に付いてたのに……。
 と、カノンの動きが明らかに変わった。グイグイ伸びる。比較的スローペースのレースだったので先行馬も自慢の足を見せ始めたが、差は急激に縮まっていく。一頭、抜いた。もう一頭。足の鈍った先頭馬を、そのままの勢いでかわす。これは、夢なのか!歓声に包まれながら、カノンは圧倒的な差と強さを見せつけてスタンド前を駆け抜けた。  
「お、親父っ!」
「…………」
 呆然としている親父が握りしめた馬券は、くちゃくちゃに潰れていた。

「栞、凄いじゃない!」
 レースが終わって計量に向かう栞に、香里が声をかけた。
「…………」
「あんな大外に出るなんて、思い切ったことしたわね」
「…………」
 栞は、馬具を抱えたままぽかんとした表情をしている。
「どうしたのよ、嬉しくないの?」
「私は、何にもしてません」
「え?」
「この子が、勝手に走ってくれたんです……」
「まさか」
「ホントなんですっ、この子はちゃんと解ってるんです。賢くて、速くて、優しくて……私は、この子が大好きです!」




8.転戦

 その後カノンは7戦連勝。そして札幌から東京大井競馬場へ。僅か2歳で、出走権を得て地方所属のまま中央まで行くことになった。獲得賞金は1億を超え、騎手の栞とカノン号の人気は一気に上がっている。
 そんな絶頂期にあって、一人浮かない顔の香里が病院に呼び出されていた。
「先生、あの……どうなんでしょうか?」
「…………」
「また手術なんて事に?」
「いや、そこまでは……少し入院してもらって、化学療法で様子を見ましょう」
「悪化してるんですか?」
「普通に生活するくらいなら、全く問題ありません」
「そうですか、安心しました」
「ですが……」
「はい?」
 主治医はちょっと目を逸らし、窓の外を見た。
「この頃、活躍してるみたいですね」
「?」
「騎手として、お姉さんと同じくらい人気があるそうじゃないですか」
「ええ、ライバルと言って良いくらいです」
「それに、妹さんは生き生きとしてきましたよね。子供の頃から診てきた私にとっても嬉しいことです」
「ようやく、あの子も自分のやりたいことが判ったんだと思います」
 ためらいがちに医者が言った。
「香里さん、そんな妹さんに、もう馬に乗るなと言えますか?」
「えっ?」
「長年の闘病で体力のない栞さんはもう限界です。今まで何度もそう言おうと思ってきました」
「そんな……」
「前回の検査結果と比べると、明らかに数値が悪くなってきています。人気がなかった今までと違って、移動やハードスケジュールの出走は心身共に疲労を蓄積させ、心臓にもかなり負担が掛かっているんです」
「…………」
「私としても辛いのですが、医者としてはそう言わざるを得ません」
「もう一度、乗れるようにはならないんですか?」
「……できれば、栞さんには違う職業に就いていただきたい」

 せっかくここまで来たのに。自殺しようとまで思い詰めた事のある栞が、ようやく掴んだ幸せなのに。どうして?そんなの、おかしいわよ……。
「香里さん、本人へは私から伝えましょうか?」
「いえ、あたしから話してみます……」




9.末期

 ――これが最後、なんですね。
 私はいつまででも乗っていたい。でも、駄目なんですね。

 栞はいつも以上に念入りに、ゆっくりと馬具の点検を続ける。確かに、自分でも体調が悪いことは判っていた。疲れも残っている。でも、もっともっとカノンと走りたかった。
 今日が最後、GT阪神ジュベナイルF。朝から気分が悪いが、どうしても出たい。具合が悪いと知られたら、きっと姉に止められるだろう。だから苦しさを隠して、栞はゆっくりとした動作で平静を装う。しかし、香里は直ぐに気が付いた。
「栞、顔が赤いみたいだけど大丈夫?」
「……はい」
「その顔は嘘を付いたときの顔ね。栞、ちょっとこっちに来なさい」
「…………」
 仕方なく、言われるままに体温計を脇に挟む。
「39℃もあるじゃない、騎乗は無理だわ……」
「でも……」
「そんな状態でどうやって乗るつもりなのよ!」
「…………」
「ちゃんと体を治して、また乗ればいいじゃないの」
 嘘だ。私はもう二度と乗れない。
「……そうですよね」
 優しい嘘。嬉しいけど、逆にとても悲しくなる。
「だったら、無理しちゃ駄目よ」
「はい、でも……」
「なに?」
「お姉ちゃん、私は最後にカノンとGTレースを走りたいんです」
「最後って……」
 香里は、困ったような顔つきで栞を見つめた。腕を組んでしばらく考え込む。葛藤が香里の表情に表れる。沈黙、そして――香里は不意ににっこり微笑んでみせると、意を決して言った。
「栞、行きなさい」
「えう?」
「最後に優勝して来ちゃいなさい!」
「お姉ちゃん……」
「ほら、早くっ。係員にバレると面倒よ」
「はい!」

 ファンファーレが鳴り響き、出走各馬がコースに現れる。北川牧場では、テレビでその様子をつぶさに観察していた。茶の間に家族全員が集まり、斉藤も来ている。
「いよいよだね、北川」
「ああ、GTにでれるなんて夢みたいだ」
「潤、だから俺の目に間違いないと言っただろう」
「はいはい、判ったよ」
「今日も調子は良さそう……ん?」
「どうした?親父」
「いや、気のせいかもしれんが……」
 渋い顔をする親父とは無関係に、テレビでは順調にゲート入りが進む。ひときわ大きな歓声と共に、ゲートが開いた。一番人気に押されたカノンは内より2枠。小柄な馬体が馬群に埋もれて見える。いつもより後方に位置し、様子を窺っているようだ。

 使う必要がない鞭を抱え、栞がやさしくカノンの首筋をなでる。

 ”そろそろ行きましょう”
 ”まだ大丈夫だよっ”

 前後に伸びながら、コーナーに突入する。

 ”もうそろそろ、前に出た方が良いです”
 ”まだ、まだ……”
 ”大丈夫ですか?なんだか元気がないみたいですけど……”
 ”任せてよ、栞ちゃん”

 3コーナーを回った。

 ”栞ちゃん……・そろそろ行こうか?”
 ”はい”
 ”あのね、栞ちゃん……”
 ”なんですか?”
 ”このレースが終わったら、ボクのこと忘れてほしいんだ……”
 ”えっ”
 ”じゃあね……”

「いかんっ!やめろっ!」
 そう怒鳴って、いきなり親父が立ち上がった。直線、いつものように素晴らしい差し足をみせ、カノンは先頭に躍り出る。しかし、あと数ハロンの所でカノンのスピードが落ち、よろめいた。一旦開いた差が縮まり、後続が追い上げてくる。
「やめろ!やめるんだ!」
 カノンは、追撃を振り切るように懸命に走った。危なっかしい、ふらふらとした足取りで。ゴール目前で極端にスピードが落ち、体が斜めに捻れ、肩が上下に大きく揺れる。残りは、数メートル。
「ダメだ、もう走るな!」
 追い上げられ、ほとんど並んでラインを超えた。そして、その場でカノンは止まった。素人目にも判る。骨折したんだ……。だが、倒れもせず、騎手を振り落とすこともなくカノンはゴールにたどり着いた。慌てて栞が降りたのを確認してから、カノンはようやくその体を地面に横たえた。両足を折って、座るように。

「何故だ、どうしてだ……お前は走るためだけに生まれてきたとでも言うのか。そんなのは……」
 永く目を閉じて、再び開かれた親父の目から光が消えた。
「潤……」
「なんだ、親父?」
「もう、馬はやめよう。こんな悲しい仕事はしたくない……」
 親父は、その日の内に借金を清算して離農することを決めた。




 エピローグ

 人は自然に挑んだ。持てる力と、人生の全てをかけて。大地は豊かな実りを人に分け与える。だがそれも一時のこと。うち捨てられた農地は、再び自然の物となる。四世代、百五十年をかけた行いも全て虚しく。

 ”人は大地から離れては生きていけない”

 テレビで、綺麗に着飾った有名人が笑いながらそんな事を言っていた。だが少なくともオレはそうじゃないと思う。オレたちは希望を求めた。差し出す両手に微かに触れた、奇跡の羽。そんな彼女の眉間に、自ら弾丸を撃ち込んだのだから。

 泣きながら……。

 街に出て、新しい仕事とアパート暮らしを始めたオレは、ふと居間に飾る写真を眺める。優勝「阪神ジュブナイルF」 北川牧場生産――カノン号。彼女が見せてくれた夢を、奇跡を、オレたちは何時までも忘れない。