「彼の人」
 作 Q.Mumuriku




 私は、北京郊外で生まれました。大連の石油化学工場、チベット国境付近の乾燥地帯が私を生み出したのです。そういったことから考えれば、私は外国人なのかも知れません。ただ、目玉の元となった石英ばかりは、何処のものかわからないですが。
 世に生を受け、気が付いたときは廻りにたくさんの兄弟たちが居ました。仕上げに背中を縫われながら、私は自分自身が生まれた意味を長々と考えたものです。流れ作業のラインでは、誰も話しかけてくれる人なんて居なかったんですから。もっとも、その頃の私に名前などはありませんでしたけど。兄弟たちも、愛嬌のある顔に不安と期待を滲ませていました。
 しばらくして、私と数十人の兄弟はトラックに載せられました。港で狭苦しい貨物船に詰め込まれ、行き先のわからない長い旅に出たのです。陸路から海路へ、故郷や仲間と離れるのはとても辛かった。それに、非常に心細かった。強制的に空気を抜かれ、ぺったんこにされていたのだから。多分、私の体は1/5くらいに潰されていたことでしょう。
 仲間はちりぢりにされ、再び膨らませてもらえた時には本当に独りぼっちになっていました。数ヶ月間は、隣に居た人の良いオオアリクイが唯一の話し相手だったんです。

 そんなある日、ショーウインドウのガラス越しに私を見つめる少女に出会いました。少女は毎日のようにやってきて、数日後、同じように蒼く綺麗な髪の女性の腕を引きなら、決心したかのように店に入ってきます。笑顔がとても可愛いと思いました。私は丁寧に包装され、世話になったオオアリクイに挨拶をする暇もなく、嬉しそうに微笑む少女に抱えられて仮の住処であった駅前の店を後にしました。それから、私はこの家の住人になったのです。
 彼女は、にこにこと微笑みながら私に名前を付けてくれた。
 ”ケロピー”
 意味はわからない。だが、今まで名前さえ無い存在だった私の喜びは理解していただけると思います。その上、彼女は私という存在をちゃんと理解し受け入れてくれた。
 ”ケロピーは、ここ”
 私は、一個の椅子を占める権利と栄誉に浴したのだ。何処にでも一緒に行きましたし、夜は一緒に寝ました。楽しかった。彼女は、多少寝ぼけながらもよく私の毛並みを優しく撫でてくれたものです。

 ところが、今日。彼女は学校にも行かず、薄暗い闇の中で泣いているのです。膝を抱え、止むことを知らない涙が可愛い頬を伝っているのです。私はどうすればいいのでしょう。残酷なことに、私には話しかけることも一緒に泣くことも出来ません。
 私は、夜空に輝く星を見上げながら祈ります。この身が業火で焼かれようとも、四肢がちぎれとられようとも、彼女と、彼女の母親の魂をお救い下さい。虚ろだった私の人生に喜びを与えてくれた彼女の行く先から、暗闇を取り除いてください。
 ふと、辺りが眩しい点滅を繰り返しはじめます。目の前の光景が歪み、ぐるぐると回る。不思議に思っていると点滅の間隔が短くなり、体が浮き上がるような感じがしました。視界がベランダから屋根へ移り、とても高いところを飛んだ様な気がします。
 そして一瞬の眩い光が辺りを照らし――気が付くと、霧のたちこめる不思議な山中に私は立っていました。

 自分でも信じられないことに、自らの足で立っている。どこからともなく、いや、その声は頭の中に直接響きました。
 ”これを持って、天使に会いに行きなさい ”
 目の前には、木の葉でくるまれた小さな包みがあります。取り上げてみると、とても香ばしい匂いがしました。これを携えていけば、私の望みが叶うのでしょうか?
 細く曲がりくねってはいるものの、一本道なので迷うことなどありません。私は獣道のような小径をどんどん歩いていきます。薄暗く、気味の悪い感じもしますが、一刻も早く願いを叶えてもらいたくて歩を速める。あの笑顔にもう一度会えると思えばどんなことだって平気です。
 暫く歩くと、妙な気配を感じました。前の方から誰かやってきます。奇妙な叫び声と共に。私は本能的な恐れから、急いで木の上に隠れました。こっそり覗いていると、悲しげな、凶悪そうな、足を引きずる化け物がふらふらと彷徨ってくる。四つん這いになり、先程まで私が立っていた所の匂いをくんくんと嗅ぎ、何かを探すように醜い顔できょろきょろと首を左右に振っています。
 私はすっかり怯えていまい、枝を握る手はじっとりと汗をかきました。もし、そのまま道に止まっていたら、考えるだけでも恐ろしい結末になっていたはずです。
 暫く木の上で息を潜め、充分に時間を見計らって地面に降り立つと、今度は突然の豪雨と雷が私を襲います。包みを庇って、私は一気に駆け出しました。目の前に落ちる雷にも、体が吹き飛ばされそうな突風にも負けずに。

 どれだけ走ったでしょうか。いつしか雨は止み、嘘のように晴れた空には星が見えます。ほっと息を付いた途端、低く、威嚇するような声たちが耳に入りました。”置いていけ、置いていけ”と、あちこちからぶつぶつと呟くような声がします。ひゅんっと空気を切る音がして、私の直ぐそばの木に矢が刺さりました。
 また私は駆け出さなくてはならなくなりました。そんな私の耳には、姿の見えない影たちの更に大きくなった呟きが聞こえます。慌てていたため木の根に躓き、転んだ私に向かって、一際高く”置いていけ!”と叫びが上がりました。
 しかし、私は包みを持つ両手を堅く握りしめます。そして例の空気を切る音が……。もうだめだと思った瞬間、ぱったりと声が止みました。
 なんだったのでしょう。恐ろしさのあまり足はがくがくと震え、腰が抜けたように呆然とうずくまります。そんな私に、声をかける者がありました。
 振り向くと……懐かしい兄弟ではありませんか!

 私を助け起こすと、兄弟は近くにあるという家に連れて行ってくれました。中にはたくさんの仲間たちが居て、愉快に暮らしているようです。何の不自由もなく、悩みもなく。私を暖かい暖炉の前に座らせ、気付けのブランデーを用意してくれたりもしました。工場を出てから、こんなにたくさんの仲間を見たのは初めてです。みんな陽気に、とても優しく私に接してくれます。
 一番年上らしい者が私に言いました。ここで暮らさないかと。そして、私が持っている包みを渡して欲しいと。私の心は大いに揺さぶられます。他の物なら何を差し出してもいい。しかし、これだけは駄目なのです。初めて私の心を癒してくれた、彼女のために。
 私が丁寧に断りを入れると、途端に仲間たちの態度が変わりました。ゲロゲロ、ゲロロと、蔑むような目付きで私を見るのです。私だってどんなにここで暮らしたいでしょう……。居たたまれなくなった私は、無言で仲間たちの住む家を出ました。

 沈んだ気分のまま歩き続けると、行く手に今度は綺麗な建物が見えてきます。細い道は大理石を敷き詰めた立派な石畳になり、多分、金剛砂で磨かれたのでしょう、ピカピカした街灯が点っています。橋を渡った先に、輝く宝石のようにきらめく前庭が見える。あそこが天使の住まう場所、大いなる力の在る場所だと思いました。後は品物を差し出して、願いを叶えてもらうだけです。
 今までの苦難も忘れ軽やかな足取りで歩を進めると、道ばたに一人の少女が佇んでいます。私の顔をじっと見つめる、悲しそうな赤い瞳が私の足を止めさせました。「早く行かなければならない」そんな気持ちもありましたが、私はどうしてもこの子を放っておけなかった。
 声をかけたとたんに、女の子がわっと泣き出します。正直、私は困り切ってしまいました。こんな時に、何て言葉をかければ良いんでしょうか。一緒に泣くこともなんの役には立ちません。ふさふさした手で頭を撫でてやったり、目玉をぐるぐる動かして見せても女の子は全く泣き止もうとしません。
 この子と私は、なんの関わりもない他人です。これ以上道草をしてしまわず、天使に会いに行かなくてはならない。可哀想だが、私にはどうすることもできないじゃないか。そう踏ん切りを付け、後ろ髪を引かれつつ踵を返す。
 そして、はたと思いました。何が違うのだろうか、と。

 悲しそうに俯く女の子の姿が、彼女の姿を思い起こさせました。二人とも何かを恐れ、そして絶望の淵で泣いている。何かを失ってしまったのでしょうか、信じる事ができなくなってしまったのでしょうか。私には女の子の悲しみが何なのかは解らない。しかし出来ることなら……
 そう考えたとき、私は自分が持っている包みに気が付きました。天使への贈り物。望みを叶えてもらうための。だが、中身は一体なんなのでしょう。恐ろしい化け物や、気味の悪い呟きたちが欲しがった物とは何なのでしょうか?
 きっと、何か貴重な物、かけがえのない素晴らしい物に違いありません。天使さえ喜ぶ物なのですから、この子の悲しみを和らげることが出来るかも知れない。でも、開けてみて良い物かどうか。中を見てはいけないとは言われなかったが……。
 躊躇しながら、結局、私は包みを開けることにした。中に入っていたのは、一尾のタイヤキ。私は笑みを浮かべることを禁じ得なかった。なぜ、この様なのもが贈り物に選ばれたのだろう。これを持っていかなければ、願いは叶わなくなってしまうのか?特別な所などなにもない、ただのお菓子だ。
 気が付くと、少女が私を見つめています。そして、小さくお腹を鳴らしました。私は恥ずかしさで顔を赤くした女の子に、タイヤキを差し出します。

「ねえ君、これを食べないかい?」
「え、いいの」
「ああ、いいとも」
「でも、一つしかないんだよ……誰かに持っていくんじゃないの」
 そう、でもね。私は君にあげるのが一番だと思うんです。
「……おいしい」
 少しだけ笑ったように見える女の子が、そう言いました。
「それは良かった」
「食べないの?」 
「え?」
「一緒に食べようよ」
 半分にちぎったお菓子を渡されます。自分が食物を食べられるかはとても疑問でしたが、それを口に入れてみました。……旨い。初めての経験です。香ばしさや甘さが口じゅうに広がります。疲れた体の奥から、元気が湧いてくるような気がしました。
「タイヤキは、焼きたてが一番だよっ」
 泣き止んでくれた少女、赤いカチューシャを付けた女の子が、にっこりと笑いました。

 少女と別れ、建物はもう目の前です。門の前で立ち止まり、大きく深呼吸を一つ。私は、もしかしたら大きな過ちを犯してしまったのかも知れない。天使に差し上げる物はもう無い。でも、私は行く。
 私は手ぶらで大きな扉を開ける。中からは神々しい光が漏れ、ただのガラスである私の目はまぶしさに耐えられなかった。化学繊維の体がとても熱くなり、視界が黒く霞む。所詮、私は作られたぬいぐるみ。あなたに会うことなど恐れ多いことなのかも知れない。
 だが、しかし。遠のく意識を無理矢理引き留めながら、私は懇願する。誓いを立てた言葉は本心から。私には何もない。恐れもない。あの笑顔を再び取り戻せるなら。私は作られたもの。ただのぬいぐるみ。子供のためのおもちゃ。子供――純真に、求め、信じる心が生み出す具現化された存在。過酷な世の中にあって、在るべき夢。キラキラと輝く瞳で、熱心に望む輝かしい未来。ただの綿が詰められただけの体には、たくさんの想いが、夢が、笑顔を望む力が込められている。

 ああ、そうだったのか。ようやく解った。私を作ったのは彼女たちのなのだ。願い、それを託されたのは私自身。ならば運命に従おう。私は、その為に生を受けたのだから。
 あてもなく、悲しげに彷徨い続ける化け物が欲しがった物。ぶつぶつと呟く影たちが欲しがった物。何不自由なく暮らしながらも、兄弟たちが求めた物。そして私も、彼女たちにも。
 薄れ行く意識の中で、最後に願う。

 ”希望を――”














 ”朝〜、朝だよ〜”

「……」
「……」
「いいかげん起きろ!」
「うにゅ?……」
「まったく、もう時間がないぞ」
「おはよう祐一…… あっ、ケロピーで叩いたりしちゃ駄目なんだよ」
「寝坊するのが悪いんだ」
「だけど、可哀想だよ〜」
「ならちゃんと起きろ」
「うー……」

「早く支度しろ。秋子さんの見舞いに行くんだろ」
「うんっ!」

「あれ?」
「どうした、名雪」
「ううん……なんでもないよ……」

 ”彼女たちに希望を―― そして、願わくば祝福された未来を”

 涙に濡れたぬいぐるみはいつものように微笑み、毛が擦り切れた足にはほんの少しだけ泥が付いていた。




 END