「 )))」
 作:Q.Mumuriku




プロローグ

 僕は、暗い気分で商店街を歩いてた。別に人付き合いが嫌いな訳じゃないけど、学校の連中とはどうも気が合わない。部活もやっていないし、ずば抜けて頭が良い訳でもない。取り柄のない平凡な高校生。それが僕だ。だから誰にも打ち明けることなく、下を向いたまま悶々と歩き続けている。なんだか、通りを横切る猫にまで馬鹿にされているような気持ちで。
 放課後、前回のテストがかなり悪かったせいで指導担当の先生から呼び出しを食らった。自分の将来をどう考えるかなんて、まだ僕には答えられるはず無いじゃないか。多分、それなりに進学してどっかに就職して、人並みに結婚して、マイホームを無理して立てて、定年になって、大往生ですね、思い残すことなどないでしょう、なんて言われながら死ぬんだろう。
 このご時世に、何の希望が有るっていうんだ?親は自分が出来なかったせいか色々と説教するけど、僕にとってはただの重荷だ。冒険なんてどこにもないし、何かの分野で功績を残すなんて、そんな知識も、時間も、金銭的な余裕も、一般人には無理じゃないか。有名になった人や偉い人がテレビや新聞に出てるけど、それよりもっと沢山の落ちこぼれた人や、諦めた人が居る事くらいわかってる。
 つまらない世界だ。でも、僕にはどうしようもないじゃないか。

 悪態を付きながらふらふら歩いていると、いつの間にか、見たこともない細々とした路地に入り込んでしまっていた。



1.

 辺りを見回すと、目立たない片隅に金髪の男が座っている。
『あんてなや』
 横に立て掛けてある木の札には、そう書いてあった。布を敷いて、あぐらをかいて座っている変に青い服の男が、猫みたいな口でにやにや笑いながら話しかけてきた。
「しょぼくれた顔して、どうしたんだ?」
 無視して通り抜けようとすると、腕を捕まれた。
「まあ、そんなに慌てるなよ」
「何するんだ」
「ちょっと見て行くぐらい良いじゃないか?」
 こいつは物売りかなんかなんだ。それも、怪しい物を強引に売ってるに違いない。
「お金なんて持ってない」
「構わないぞ、期待もしてないしな」
 飄々とおどけるその人は、思ったほど悪い人には見えなかった。
「何か売ってるんですか?」
「よくぞ訊いてくれた!」
 膝を叩いて大げさに喜ぶ。よくこんなに表情がころころ変わるものだ。
「アンテナだ!」
「え?」
「そんじょそこいらのまがい物とは訳が違うぞ」
「はぁ?」
「もちろん、一本一本オレの手作りだ!」
「……」
「ん?どした?」
「さよなら」
 どうやら少しおかしい人だったらしい。

「ちょ、ちょっと待て〜」
「まだ用があるんですか?」
「お前は、何か悩みや不満があるんじゃないのか?」
「え?」
「こんな所に迷い込むくらいだからな〜」
「だから何なんだよっ!」
 むかっと来たので言ってやった。
「特別にサービスしてやるよ。金ないんだろ?」
「そんな怪しい物はいらない!」
「オレの気持ちだ」
 僕を無視して、男の人がごそごそと袋に手を突っ込む。
「で、何色が良い?256色から選べるぞ」
「何でも良いですよ……」
 これ以上関わり合いたくないので、大人しく従ってみた。くだらない物なんだろうから、後で捨ててしまえばいいし。
「うーん、じゃあ一番オーソドックスだけど、これで良いか……」

「おいっ」
「?」
「頭出せ」
「ええっ?」
「いいから、いいから〜」
 男の人が、暴れる僕の頭を捕まえて何かをくっ付けた。
 カチッと音がした。

「一体何をしたんだっ!」
 大声で怒鳴って、辺りを見回すと―― 誰も居ない。
「へ?」
 さっきまで知らない場所だと思っていたのに、そこは見慣れた商店街の路地に変わっている。何だったんだろうか?白昼夢?精神異常?自分に自信がなくなってくる。落ち着いて考えてみようと、いつもの癖で髪の毛に手を当てると……。
「おや?」
 何かある。変に飛び出た、一房の癖毛のような物。取ってしまおうと引っ張ってみたけど全然とれない。まあいいや、家に帰って切ってしまえばいい。

 家に帰ると、また母親がくどくどと小言を言い出した。僕は何も言わずに自分の部屋に駆け込んで、そのまま布団を被る。幸い明日から学校は休みだ。寝てる間くらい、良い夢を見させて欲しい。



2.

 翌日、目が覚めると僕は布団で寝ていた。変だ……僕はベッドを使っていたはずなのに。
「おやぁ?」
 だんだん頭がはっきりしてくるにしたがって、違和感が理解できた。そんなはずないじゃないか!一部屋だけの古いアパート。最低限のものしか置いていない殺風景な部屋。一言で言えば貧乏くさい。確かに少々カビ臭い匂いもしているようだ。
 何がなんだか判らない。僕は、全く知らない部屋に居た。

”ぴんぽーん”
 パニックに陥りかけたとき、玄関で呼び鈴が鳴った。これは誰かの悪いいたずらで、ドアを開けると「驚いたか?」なんて言うんだろうか?
「ちょっと待って」
 返事をしながら昨日寝た時のままのスウェット姿で玄関に向い、ドアを開けずに覗いてみる。そこに居たのは知らないおっさんだ。
「何の用ですか?」
 ドア越しに訊いた。
「北川さん、集金です」
「は?」
「2ヶ月分のプロパンガス代、7,920円になります」
 北川って誰だ?ここの家主の事なのか?
「あの、この部屋の人が居ないんで僕にはわからないんですけど」
「何言ってるんですか北川さん。開けてくださいよ」
「いや、僕は北川なんて言う人じゃないんです」
「ははぁ、また支払いを延ばす気ですね?駄目ですよ嘘を付いても」
「そんなんじゃないんだ」
「だったら、開けてくださいよ〜」
 仕方がないのでドアを開けることにした。僕の顔を見れば、別人だってわかってくれるはずだ。
「おや、今日は素直ですね。こんにちは北川さん」
「えっ?僕が北川?」
「集金人を困らせるお客さんはちゃんと覚えてますよ。さあ、代金払ってください」
「払えって言われても……」
「また金がないんですか?仕方ないですね、あと2週間だけ待ちましょう。ですけどそれを過ぎたらガス止めますからね」
「すいません……」
「これでも、苦学生にはあんまり厳しくしたくないんですよ」

 渋い顔でガス屋は帰っていく。何で僕が謝らなきゃならなかったんだろう?そもそも、どうして僕はここに居るんだ……。それに、何処?ここ?
 とりあえず家に電話してみようか。また煩く怒られるだろうけど、住所を調べて母さんに車で迎えに来てもらえばいい。早速電話を……え?どこにも無いぞ?信じられない、今時電話も引いてないなんて。なら、外の公衆電話を使うまでだ。えーと、小銭は……。
 今、身につけている物には金など入ってない。仕方がないので部屋の中を物色すると、ハンガーに掛かった変に青い服の内ポケットに財布が入っていた。中身は、千円札が3枚と硬貨が少し。なんだか可哀想なくらいの内容だが、その中から10円玉を数枚拝借して外に出た。



3.
 
”プルルルー、プルルルー”
 ようやく見つけた電話ボックスで、イライラしながら呼び出し音を聞く。母さん、早く出てくれよ。
”ぷちっ”
 あ、繋がった。
「もしもし、母さん?」
「こちらは株式会社秋漣物産です。当社の営業時間は平日午前9時から午後6時まで、日曜祭日は休業となっておりますので……」
 あれ?間違えたかな?一旦受話器を置き、再びダイアルする。でも、結果は同じだった。焦りながら知ってる限りの電話番号を試してみても、繋がるのは全く関係ない所ばかり。
 不安からか、嫌な汗が出てくる。こうなったら警察に駆け込もうか……。電話ボックスを出て呆然としていると、ウエーブがかった髪の綺麗な女の子に声をかけられた。
「あら、北川君じゃない?」
「えっ?」
「どうしたの、そんな格好で?」
「あ…… その……」
 また北川と呼ばれた。
 違うんだ、僕はそんな名前じゃない。朝起きたらいきなり妙な事になってたんだ。でも、そんな事を説明したって理解してくれる訳がない。自分自身さえ信じられないんだ。警察に行ったっておかしい人に思われるのが落ちだろう。
 おかしい人?そう言えば……。自分の頭に手を当ててみると、あった。
 一房の癖毛を引き抜こうとしていると、呆れたように彼女が言った。
「なにしてるのよ?」
「え?」
 ジトッとした目で、不審そうに睨まれる。
「髪の毛がどうかしたの?」
 彼女が近づき、細い指先が僕の髪をさわった。直ぐ近くに綺麗な顔がある。ドキドキするなんてものじゃなく、血がが逆上して周りの景色が黒く霞む気がした。
「別に何もないじゃない」
「気のせいだったみたいだ。あはははは」
「もう、何のいたずらなのよ」
 からかわれたと思ったのか、彼女が拗ねたように顔をしかめる。その表情は、大人っぽい顔立ちに似合わず可愛いらしい。 
「北川君の家って、この辺だったの?」
「そうみたいだな」
「みたいって…… 別に押し掛けたりしないわよ」
「えーと、そっちは何をしてたんだ?」
「ちょっと朝から出掛けてたのよ」
「そ、そうなんだ」
「北川君、明日から学校なんだから休み呆けは直さないと駄目よ」
「学校?」
「はぁ…… 明日は始業式でしょ、しっかりしてよ」
「そうだよな。あははは」
 笑いで誤魔化しながら、なんとか話を合わせる。
「じゃあ、また明日ね。北川君」
「ああ……」
 女の子と別れて、気分の良くなった僕は家に戻ることにした。腹も減ってきたし。さて、朝食は何だろう。…… いや、誰も作っちゃくれないんだよな。

 今度は狭い台所のあたりをあさってみる。米は買ってあったが、冷蔵庫には挽き割り納豆の3個パックのみ。なんてこった。飲み物もないのか。仕方がないので、水道の水をコップで飲みながらご飯を炊いた。普通の鍋で。出来上がった代物は、べたべたのおじやもどき。でも、不味いと思いながらも全部食った。
 その日は、畳に寝そべってテレビもない部屋で一日中考え込んだ。どうして?いくら考えても、ぐるぐる巡る思考は答えに辿り着かない。考えれば考えるほど、不可解で理解を超えている。頭痛がしてきて、変に熱っぽくなってきた。これが知恵熱という物なんだろうか?悶々としている内に、段々と腹が立ってきた。どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ!多分、全てが悪い夢なんだ。
 イライラしてきたので、かなり早かったが布団に潜り込む。と、その前に、僕は、唯一今回の事に関係がありそうな癖毛をハサミで切った。



4.

 夢は覚めなかった。僕はまだこの部屋にいる。鏡を覗くと、昨日切ったはずの癖毛がぴょこぴょこ揺れていた。寝る前には、もしかしたらと思っていたんだけど。
 どうしよう?
 そう言えば、昨日逢った女の子は北川と親しい関係のようだった。今日から学校が始まるらしい。もう一度逢って訊いてみよう。一着しかない青い服は、ちょっと変だけど制服っぽくなくもない。窓から覗くと、ちょうど登校時間なのか似たような服を着た生徒が歩いている。
 とりあえず、出掛けてみようじゃないか。どうせやることもないんだし。

 不思議なことに、町並みは以前とそれほど変わっていない。少し歩いたところで気が付いた。自宅があった場所は古ぼけたアパートになり、僕が知っている店や建物だけが無くなったり違う物になっている。近所の家は以前と同じに見えた。でも、どんな人が住んでるのかは元々知らないし、向こうだってそうだろう。
 もしかしてと思って、学校があるはずの場所に向かった。段々と道行く学生が増えてくる。やっぱりあった。でも、でかい。以前の学校とはまるで違う。

 玄関に入ったところで、運良く彼女を見つけた。
「おはよう、北川君」
「北川君、おはようなんだよ〜」
 昨日の彼女と、少々のんびりした女の子。それと、引きずられるように一人の男が膝に手を当てて苦しんでいる。こいつは、朝っぱらから何を息き切らしてるんだ?
 一行に付いていくと、下駄箱を開けて靴を履き替え始めた。僕の…… いや、北川のは何処なんだろう?目で探すと、直ぐ近くに「北川」と書いてある。あれ?同じクラスなのか?てっきり年上だと思っていた。

 教室に向かうと、大勢の生徒が僕を北川と呼んで話しかけてくる。どうやら、北川という奴は結構人気があるらしい。ホームルームの際、担任らしい教師が転校生を紹介した。相沢祐一。今朝逢ったあいつだった。



5.

 半日の授業が終わって、帰り際に彼女を捜す。でも、どこにも居なかった。もう帰ったんだろうか?聞きたい事があったんだけどな。
 道すがら、コンビニでバイト雑誌を買って帰った。何時まで続くのかは解らないけど、3千円じゃ生活していけない。ぼろアパートのドアを開け、「ただいま」と言ってしまってから気が付く。誰も居ないんだ。部屋は出かけたときのまま。赤い西日が差し込んでいた。

 昨日の失敗を繰り返さないように、慎重に水の量を計って火にかける。その間に、買ってきた雑誌のページをめくった。出来るだけ楽で、高給、日払い。そんなのを探して読んでいく。
 鍋の蓋がごとごと音を立てはじめ、ご飯の甘い匂いがしてきた頃。全部読み終わった。だけど、該当する求人は一つもなかった。高校生の、それも何の資格も経験もないアルバイトに、割の良い仕事なんてないらしい。今度はとにかく日払いの仕事を探す。何ページかに折り目が付いたが、肉体的に厳しい内容の仕事ばかり……。
「はぁ……」
 ため息だってつきたくなる。自分はこれからどうすればいいんだ。このままじゃ、一週間も経たないうちに米も無くなる。
 どうしてこんな事になったんだよ。
 間違ってるのが自分なのか?いや、この世界の方だ。でも、食べて生活していかなきゃならない。これから寒くなると言うのにガスを止められたら酷い。不満ばかり口にしていたけど、ついこの間までの生活とは格段の差だ。ゲームもない、テレビもない。電話もない。それ以前に、食い物がない。電気や水道も、いずれ集金に来るんだろうか? 

 ふと、小煩い母親や家族が思い出された。”お帰り”と迎えてくれる声。みんなで食べる晩ご飯。暖かい部屋。
 その夜、僕は生まれて初めて声を出して泣いた。



6.

 俺は、夜中の警備員の仕事を始めた。だけどそれだけじゃやっていけなくて、たまたま現場に来ていた土建屋の社長が特別に雇ってくれる事になった。学校なんて辞めて働きたいと言ったが、「お前な、高校ぐらい出とかないでどうするんだ!」と一喝された。
 社長本人は中学校しか出ていないらしく、今までかなり苦労したという。きつい仕事だし荒っぽい人が多かったけど、ひどく貧乏な学生だと思われたのか、みんな優しくしてくれる。違法なんだろうが、たまにパワーショベルに乗せて貰えたのは面白かった。自分のことを”僕”というのは、子供っぽい気がするのでもう止めにする。 

 美坂――最初に会った彼女の名前は、美坂香里という。学校に行き始めて何日か経った頃、ようやく二人っきりで話す機会があって俺は真面目に訊いたんだけど……。

《美坂、ちょっと話したい事があるんだ》
《こんな所に呼び出して、何なのよ》
《話づらいんだが、ちゃんと聞いて答えて欲しい》
《わかったわ……》
 彼女が小さく頷く。
《北川ってどんな奴なんだ?》
《え?》
 予期していた事と違ったのか、美坂の顔に?が浮かんだ。
《この世界の北川は一体何処に居るんだ?》
《…………》
《みんなが思ってる北川と俺の人格は違う筈なんだ。なのにみんなが北川と呼ぶのはどうしてだ?》
 後でよく考えてみると、俺の説明はかなり拙かった。その証拠に。
《熱はないわよね》
 首を傾げた美坂が、俺のおでこに手を当てて言った。
《北川君が哲学に興味があるなんて、意外だわ》

 まあ……こんな具合に、真面目に取り合っては貰えなかった。その後、彼女は何やら難しい本を貸してくれた。美坂は学年首席の才女だ。でも、学校が終わってみんなで街に繰り出せば、ただの女の子。この間行った遊園地では、結構はしゃいでいた。勉強以外では意外と不器用で、美坂の調理実習の作品を食べさせられた俺を、相沢と斉藤は「漢だ!」と言った。もちろんその後、相沢たちは顔を赤くして怒る美坂に追いかけられ、笑いながら廊下を逃げていった。

 今の生活で、一番楽しいのが学校に行くことだ。クラスメートとの無駄話、美坂や水瀬さん、相沢や斉藤と一緒に喫茶店に寄ったり、休日遊びに出かけた。
 相沢は、何時も”のほほん”としている水瀬さんのいとこだという。二人は一緒に暮らしているそうだ。普通なら喧しく噂されてもおかしくないのに、水瀬さんの性格からかそう言った声は全く聞かない。
 斉藤は、地味だが良い奴だ。何故か俺たちは気が合う。安くて量が多いので何時も学食を食ってたら「学食マスター」とか言う称号をもらった。その、センスのないネーミングを考え出したのが相沢と斉藤だ。



7.

 意外なところで美坂を見かけたのは、夜中の工事が一区切りついて休憩中の時だった。縁石に座って缶コーヒーを飲んでると、建物から制服姿の女の子が出てきた。時間は午後11時。かなり遅い。
 そこは病院だった。
「おーい、美坂ーっ」
 俺が判らないのか、辺りをきょろきょろ見渡している。立ち上がって、手を振ってみた。
「北川君?」
 驚いて俺を見る表情は”困惑”だった。そりゃそうだろう。泥だらけで作業服姿の自分は、あまり見られた出で立ちではない。
「何やってるの?」
 何って言われても困るので、普通に答えた。
「地下埋設管の工事」
「え?」
「金がなくてさ、働かせてもらってるんだ」
「北川君って、一人暮らしだったの?」
「ああ、今はそうなんだ」

 美坂と話をしていると、作業員仲間が集まってきた。
「北川、お前もすみに置けねえな〜」
「可愛い子じゃないか?彼女か?」
「若いっていいねぇ」
「俺も、キタくらいの年の頃はよ、女が放って置かないくらい男前だったんだがなぁ」
 からかわれた美坂は、顔を赤くして黙っている。俺の顔も、多分同じくらい赤くなっていただろう。

 美坂を囲んでわいわい騒いでいると、重機に乗った社長が怒鳴った。
「手前えら何サボってんだ!さっさと仕事しねえかっ!」
「す、すんません社長!」
 尻に火がついたように、慌てて男どもが解散する。それが面白かったのか美坂が微笑んだ。
「北川君、あんまり無理しないでね」
「ああ、美坂も気を付けて帰れよ」
「子供じゃないわ」
「でも、もう結構遅いしさ」
 こんな時間に何してたんだ?そう訊きたかったのに、社長がまた怒鳴った。
「北!お前ぇも仕事に戻らねえかっ!」
「はいーっ!」
「がはははは、名残惜しいなぁ〜キタ!」
 今度は俺が仲間から笑われた。

 それから毎日、美坂はやってきた。その度にとりとめのない話をしたが、彼女の目的を聞く事はできなかった。聞けなかったというか、巧みに話を変えられてしまう。彼女自身、あまりその事については触れて欲しくないらしい。
 毎日ではないが差し入れを持ってきてくれる事があり、それはとても嬉しかった。



8.

 秋が深まり、そろそろ寒くなってきた。高い山の方では雪が降ったそうだ。病院前の現場はそろそろ終わる。その日も待っていたのに、いつもの時間になっても美坂が現れない。
 おかしい。一日だって来ない日は無かった。

 俺はユンボに乗る山田さんに断って、現場を離れ病院に向かってみた。正面玄関は当然のように閉まっている。通用門に廻ってみたが、それらしき人は居ない。
 建物をぐるっと一周してみた。人気のない緊急搬送口の横。街灯と建物から漏れるわずかな光の中に彼女がぽつんと立っている。
 美坂は泣いていた。
 出ていって、何か声をかけようか?それとも気付かれないように立ち去ろうか?以前の俺なら、そのまま……帰るだろう。でも、今は違う。俺は美坂が好きになっていたのかもしない。

「美坂……」
 後ろから、そっと話しかける。
「えっ?」
 涙を拭きながら、驚いたように振り向く。美坂は、恥ずかしいのか顔を覆って震えている。それは気温のせいだけじゃないだろう。こういう時、どうすれば良いんだ?気の利いたことができない自分がもどかしい。
 俺は、腰に巻いていた作業服の上着をほどいて美坂に渡した。泥だらけで汚い。でも、今、俺にできるのはそれくらいしかない。冷え切った風を防ぐためには、薄っぺら過ぎる上着。
「風邪ひくぞ」
「……」
 美坂は何も言わなかった。理由は解らない。だけど、寂しいときに一人で居るのはとても辛いことだと思う。

 見上げると、沢山の星が見えた。寒いときほど星がよく見えるのはどうしてなんだろうか。



9.

「舞踏会?」
 変な学校だ。こんな行事があるのか。廊下に張り出されたポスターには昨年の写真が載っている。結構本格的なようだ。
 ひらめいた。美坂を誘おう。あの日から何だか元気がないみたいだし。

 いつものメンバーで学食を食べている時、さりげなく訊いてみた。
「今度、舞踏会があるんだよな」
「もう、そんな時期だね」
 そう言いながら斉藤がカレーうどんを啜る。
「名雪、舞踏会って踊るやつか?」
「そうだよ〜」
「相沢君、それ以外に何があるのかしら?」
「体育館を飾って会場にするんだよ、祐一」
 にこにこ笑う水瀬さんのお盆には、3個のカップが乗っている。相沢と俺があげた―― と言うか暗黙の了解で持って行かれれたイチゴムースだ。
「そんな行事があるなんて、変な学校だな」
 転校生の相沢もそうだろうが、俺もそう思う。
「名雪、出てみないか?猫の着ぐるみなんか着て踊ったら面白いと思うぞ」
「猫さんは好きだけど、そんなの持ってないよ〜」
「相沢君、うちの学校じゃ仮装する人なんて居ないわ」
「ただの舞踏会だよ、相沢」
「え?」
「参加者は原則正装よ」
「つまらないな」
 相沢が呟く。 
「香里、全員出ないと駄目なのか?」
「参加は自由よ」
「相沢、北川と僕は毎年出てるけど意外と面白いよ。ステージで吹奏楽部の演奏やいろんなイベントをやるんだ」
「へぇー」
 そこまでは知らなかった。
「そして、最後にベストカップルの発表があるんだ」
「ベストカップル?」
「うん。確か去年は3年の倉田さんとかいう人だったよ」
「名雪、どうせ暇だし出てみないか?」
「うーん…… 私はそんな柄じゃないよ。着ていく服もないし」
「秋子さんに頼めば何とかしてくれるだろ?」
「そうかも知れないけど……」
「あたしも遠慮するわ」
 美坂も、あまり乗り気ではないらしい。

 昼食が終わって教室に戻る途中、俺は直接美坂を誘った。
「一緒に参加してみないか?」
「あたしは行かないわよ、北川君」
「どうしてだ?」
「そう言うのは嫌いなのよ」
「でも、たまには良いじゃないか。元気がないのが心配なんだ」
「……」
「俺は参加する。できれば来て欲しい」
 多分、この会話を聞いてた奴が居たんだろう。



10.

 タキシードは作業員仲間の源さんに借りた。源さんは、若い頃はホテルのバーテンダーをやってた程お洒落だったんだぞ!と自分で言っていた。でも、ゴミ袋みたいな袋に入れて持ってきたのは、いただけない。

 当日は早めに着替えて会場に入った。結構手の込んだ装飾が施され、いつもの体育館とはイメージが全然違う。人混みの中、俺は目当ての人を待ち続けた。
 美坂はなかなか現れず、時間だけがどんどん過ぎる。居心地が悪いのでずっと料理を食っていたら、久瀬とか言う生徒会長が話しかけてきた。
「なかなか良い仕立てだな」
「え?」
「服だよ、君の。ところで此処に何をしにきたのかね?」
「食っちゃ駄目なのかよ。良いじゃないか、こんなにたくさんあるんだから」
「悪い訳ではないが、もう少し上品に食べたまえ」
「ああ、わかった」
「なぜ踊らないのだ?」
「相手がまだ来ない」
「ほう?」
「すっぽかされたかな……」
「なら、会場にいる誰か他の女性を誘ってみれば良いではないか」
 そんなことを話していると、体育館の入り口の方が何やら騒がしくなってきた。久瀬と俺が一緒に振り向く。

 群衆の輪の中心に、ドレスを着た美坂が居た。隣にはスーツ姿の斉藤。そして――猫の着ぐるみを着てにこにこ笑う水瀬さんと、緑の物体?
 なんだアレ。

 人混みを掻き分けて、斉藤が俺の所に歩いてくる。
「北川、遅くなって悪いね。準備に手間取っちゃってさ」
「相沢は?」
「来てるよ。おーい、相沢!」
「斉藤!俺の名前を呼ぶなっ」
 緑色の物体―― ふさふさのカエルが走ってきて、斉藤の頭をどついた。
「相沢なのか?何やってんだお前?」
「うっかり秋子さんに着ぐるみの事を話したら、部屋に用意してあったんだ……」
「祐一のせいなんだよ〜」
 そう言ってる割に、水瀬さんは楽しそうだ。

 久瀬が呆れて訊いた。
「仮装を禁止しては居ないが…… 君たちは恥ずかしくないのかね?」
「恥ずかしいわっ!」
 カエルの相沢が、肩を落として泣きそうな顔で答えた。辺りの、痛いほどの視線が俺たちに集まっている。
 耐えきれなくなったのか、意を決した相沢が水瀬さんに言った。
「名雪、踊るぞ!」
「えっ?」
 相沢は水瀬さんの手を引いてどんどん真ん中に歩いて行き、ぽっかり空いたスペースでむちゃくちゃな踊りが披露された。あれはダンスじゃない。水瀬さんが、カエルに振り回されている。
 突然の闖入者に驚いていた参加者たちだったが、相沢の豪快(破天荒)な暴れっ振りに喝采や拍手を送り始めた。久瀬は、やれやれといった表情で見守っている。

 斉藤が耳元で言った。
「北川、あの二人に感謝しなよ。あれでも結構無理してるんだから」
「え?」
「北川が誘いたがってたのも知ってたし、この頃、美坂さんは何か悩んでるみたいだったからね。
 みんなで参加するって言えば、来てくれるんじゃないかと思ってさ」
「そうだったのか」
「うん」
「ありがとうな、斉藤」
「北川、後は任せたよ」
「ああ」

「美坂、俺たちも踊ろう」
「仕方ないわね」

 その夜、俺はずっと美坂と踊った。胸元の大きく開いたドレスは目のやり場に困ったし、大きな瞳が俺を見つめている。握った手は、自分でも解るくらい熱く汗をかいた。でも、楽しかった。
 相沢は……吹っ切れたのか、いよいよ乗ってきて動きがヒートアップしてる。
 今年のベストカップルは、圧倒的な人気で相沢と水瀬さんが受賞した。



11.

 季節は初冬を迎えた。張りつめた空気に独特の香りが含まれ始める。少しづつだが、美坂の様子がおかしくなってきた。落ち着きが無く、呼んでもぼーっとして気付かないことが多い。そのくせ、話しかけられた事に気付くといやに慌てる。気晴らしに誘ってみても来ようとはしないし、どんよりと曇った表情でいつもため息をついている。
 そして今日。隣の相沢は更におかしかった。いつもなら寝てるかノートに落書きしている筈の授業中に、真剣な顔でなにやら考え込んでいる。勉強している訳では無さそうだ。ちらっと覗くと、顔に悲壮感さえ漂わせている。
 二人がこんな状態なので、俺も斉藤も調子が狂う。何となく気まずい感じだ。水瀬さんは、相沢のことが心配でならないらしい。

 翌日、相沢は学校を休んだ。水瀬さんに訊くと、相沢は深夜までどこかほっつき歩いていたそうだ。帰ってきたときには、服は汚れ、顔は青ざめていたという。気になって仕方がないが、仕事があるので斉藤に様子を見に行って貰うように頼んだ。

 その日の夜。身支度を整えてそろそろ出かけようとしていると、隣の奥さんから呼ばれた。
「北川君、あなたに電話よ」
 家には電話がないので、緊急の時だけお隣の電話を使わせてもらっている。子供が居ないせいか、よく晩ご飯に誘ってくれたりした。いいご夫婦だ。いつか出来るようになった時には、お礼に温泉旅行でもプレゼントしてあげたいと思う。
「いつもすいません」
 家に上がらせてもらうと、仕事から帰ってきていた旦那さんが炬燵で晩酌してた。
「これから仕事か?」
「はい」
「寒くなってきたからな…… これ持って行け」
 熱いくらいに加熱した缶コーヒーを渡された。
「カイロ代わりになるだろ?」
 お礼を言いながらかかってきた電話に出る。
「もしもし」
「北川?」
「ああ、斉藤か?」
「今日、仕事休めるかい」
「どうしたんだよ」
「相沢が手を貸して欲しいんだって」
「何を?」
「僕もよくわからないんだ」
「こんな夜中にか?」
「すぐ来て欲しいってさ」

 俺は電話で社長に「今日は休む」と伝え、言われた通り夜中の公園に向かった。



12.

 公園には斉藤が居た。少し遅れて美坂、相沢と水瀬さんが来る。訳を聞いた。相沢は人形を探しているという。それも7年前、この辺りのどこかとしか覚えていないらしい。子供の頃、木の根本に埋めたらしいが、見たところ大きいこの公園には木なんて数十本もある。それでも奴は探すと言い張って、持ってきたスコップで土を掘り返し始めた。
「相沢君、この辺りなのは間違いないの?」
「そうだ」
「でも、無理じゃない?」
「いや!探さなきゃならないんだ!頼む、手伝ってくれ」
 相沢の表情は厳しい。
「掘ってみるしかないな」
「そうだね、北川」
 5人で一生懸命掘り続けるが、探す場所は多く埒があかない。ちょっと待てよ。確か今日はこの近くだ。
「直ぐに戻る!」
 そう言って俺は走りだした。

《源さんっ!》
《おう、なんだキタ?息切らして。 お前今日は休みだろ?》
《貸してくれっ!》
《あ?何を?》
《これ》
《お前ぇ、何やらかす気だ》
《お願いしますっ!》
《銀行襲ったりしねえだろうな?》
《当たり前だ!》

 ライトを消して公園に乗り付けると、相沢たちが手を休めてを振り向いた。運転しているのが俺だと判ると、皆んながぽかんと口を開ける。
「北川なのかい?」
「お前、どっからこんな物……」
 中型のパワーショベルのドアを開けて、俺は相沢に言った。
「こんなに広いところスコップじゃ無理だろ。大まかに掘るからそこを探してくれ」
「大丈夫なのか?北川」
「ああ、現場で何度か使ったことがある」
「そうじゃなくて、さすがに拙くないかい?」
 斉藤、そんな事は問題じゃないんだ。
「大切な物なんだろ?相沢」
「ああ……」
「なら、俺も手伝わせてもらう」
 誰かが困っている。そんな時、自分に出来る事があるならやるべきだと思う。だって、俺もそうしてもらったんだから。
「北川、ありがとう……」
「私たちも頑張るんだよ〜」
「うん、絶対見つけよう」
「北川君、お願いするわね」
「おう、任せとけっ」
 張り切って、一箇所目の根本に取りかかった。バケットが食い込み、大量の土を掘り起こす。掬い取った土の中や穴の周辺を、4人が手作業で調べていった。

 穴はどんどん増えていき、既に二十個を超えた。作業灯に照らされた公園は、地形自体が変わってしまっている。
 二十何カ所目かの穴で、振るい落とされた土に光るものが見えた。
「おい、相沢。なんかあったぞ」
「どこだっ!」
 相沢が駆け寄って、素手で土を掻き分ける。
「これだ……」
 エンジンを切って降りていくと、入れ物の中に古ぼけた人形が入っていた。所々がほつれ、色褪せながらも幸せそうに笑っている小さな人形。

 相沢は、何度も礼を言いながら急いで水瀬さんと帰っていった。斉藤も明日は朝練があると言って、あくびを堪えながらスコップを引きずって行く。
 さてと……
 
 おや?美坂が俺を見ていた。  



13.

「北川君、こんなことして大丈夫だったの?」
「とりあえず埋めとかないと拙いかな?」
「当たり前よ」
 こんな状態で朝になったら大変なことになる。
「2時間もあれば充分だ」
 再び重機に乗り込んで、エンジンをかけた。
「美坂、先に帰って良いぞ」
「あたしもつき合うわ」
「まあ、いいけど」
「ねえ、あたしも乗って良いかしら?ちょっと寒いのよ」
「狭いけど良いか?」
「そんなに太ってないわ」
 手を貸して美坂を引き上げる。俺が座る操縦席の後ろに、美坂が窮屈そうに入り込んだ。
「結構高いのね」
「良い景色だろ?」
「普通の車とは違うわね」
「さあ、さっさとやって帰ろう」

 エンジン音の中で、美坂が話しかけてきた。
「北川君、遅くなっちゃったけど、これ……」
 美坂が手渡すのは、綺麗に洗った俺の作業服。
「え?」
「この間借りた服よ。いくら洗っても汚れが取れなくて苦労したわ」
「そんな気を遣わなくて良いのに」
「あたしは気にするわ」
「すぐに汚くしちゃうんだけどな……」
「構わないわよ」
「そうだ、それは美坂にやるよ。寒いなら着てればいい」
「でも」
「風邪でも引かれた方が困る」
「……」
「それに、誰かに見つかっても作業服を着てた方が誤魔化せるぞ」
「わかったわよ」
 仕方なさそうに香里がジャンバーを羽織る。
「ねえ、相沢君はどうしてあんな汚い人形なんか探してたのかしら?」
「わからん」
「それで済むのよね、北川君の場合」
「え?」
「それで良いと思うけど」
「きっと、奴にとっては大切な物だったんだろ。込められた意味や気持ちがあるんじゃないかな?」
「ホントに変な人だわ」
「相沢がか?」
「あなたもよ、北川君」
「どういう意味だ?」
「今時珍しい人」

 出がけに貰った缶コーヒーが足下に転がってたので、裾で拭ってプルタブを開け一口飲んだ。 エンジン熱のせいか生ぬるい。
「あたしも喉が渇いてるんだけど」
「その辺にないか?何時も数本転がってる筈だぞ」
「無いわ」
「じゃあ、我慢してくれ」
「これで良いわよ」
 後ろから、半分入った缶を取り上げられた。すぐ耳元で、ごくっと喉の鳴る音が聞こえる。
「あたしには、妹が居るの」
「うん?」
「小さいときから体が弱くて……」
「あの病院に入院してるのか?」
「ええ…… ちょっと前までは毎日お見舞いに行ってたわ」
「俺に会いに来てくれてたんじゃ無かったんだなぁ」
「そうよ」
「はっきり言うなよ……」
「ふふっ」
 手元が狂って、アームの先が木にぶつかった。折れたかな?



14.

 暫く沈黙が続いた。深夜の公園に重機のエンジン音だけが響く。美坂は何を言いたいんだろうか?
「あの日ね……」
 美坂がぽつりと呟いた。
「うん?」
「病院の外で北川君に会った日、主治医の先生に言われたの」
「……」
「手術をしても成功する見込みは5%以下だって。それに、成功したとしても何年生きられるかわからないって」
 後ろに座った美坂の顔は見えない。
「それで……家族で決めたの。このまま出来るだけ長く生きられるようにしようって。治療にあの子の体が耐えられそうもないから、今は延命処置だけ。だから、だからいずれは……」
 俺の肩の辺りに缶コーヒーを持つ手がある。指先が震えていた。
「北川君、あの子は何のために生まれてきたの?」
 美坂が、俺の作業服にしがみついてきた。泣いたって何も変わらない。でも、泣くことは恥ずかしいことでも悪いことでもない。
「辛かったんだな」
 美坂が肩にもたれかかってくる。俺は、左手で美坂の頭を撫でた。
「それから病院には行ってないわ。行けないのよ」
「どうして?」
「あたしはあの子が弱って行くのを見たくなかった」
「諦めちまうのか?」
「奇跡なんて起こらないのよ」
「奇跡?」
「相沢君にしても……どんな意味があるのか知らないけど、あんな物を苦労して探して何の役に立つの?あの人形が何をしてくれるっていうの?こんな夜中に馬鹿みたいよ」
「…………」
「何かにすがれば、あの子の病気が治るっていうの?ねえ、北川君!」
「なあ、美坂」
「なによ……」
「苦しいときや困ったときに、誰かが居てくれたり気にしてくれるっていうのはとても心強いもんなんだ。ある日、朝起きたら全然知らない所にいて、たった一人になったらどうする?おまけに金は3千円しかないとくる。俺は……相沢たちや土建屋の社長、隣の奥さんなんかに会えなかったらどうなっていたかわからない。たくさんの人に助けてもらって、今の俺があるんだ。もちろん美坂にも感謝してる」
「え?」
「こんなに綺麗な人といられるなら、こっちの世界でも頑張れるかなぁ〜なんてさ」
「こっちの世界?」
「いや、今度ちゃんと話すよ」
 公園の街灯が消えた。
 
「それにさ、起こったって良いじゃないか」
「?」
「思うんだ。誰だって奇跡くらい起こせるんじゃないかなって。神様の気まぐれなんかじゃなくて、人の優しさや愛情から生まれる信じられない力は、美坂だって持ってるはずだ」
「あたしが?」
「相沢にとっては、あの人形がそんな象徴だったんだろう。妹さんには……お前がなればいい。一緒にいてやれよ。美坂、お前は優しすぎるんだ。ちょっと不器用だけどな」
 髪の毛をくしゃくしゃと掻いてやる。

 美坂の口調が戻った。
「悪かったわね、不器用で」
「やっと泣き止んだか?」
「もう大丈夫……ごめんなさいね変な話をしちゃって」
「いや、いいんだ。ところで妹の名前は何て言うんだ?」
「栞よ」
「そうか」
 話しをしながら、ようやく最後の穴を埋め終わった。
「よーし、これから栞ちゃんに会いに行くぞ〜」
「え?北川君、もう遅いわよ」
「家族が会いに行くのに、気兼ねする事なんてないさ!」

 俺たちはそのまま病院へ向かった。深夜、人気のない道路をのろのろと重機を走らせる。道路にはキャタピラの跡が残った。



15.

 静まりかえった病院の廊下を忍び足で歩く。夜の病院は不気味だ。こんな所にいたら、逆に具合が悪くなるんじゃないだろうか。ここでは、闇が死のイメージと直結している。
「ここか?」
 プレートに名前が書いてある。個室。
 寂しすぎるよ。
「そう……」
「じゃあ、入るぞ」
「やっぱり時間が遅いわよ。もう寝てるかも知れないわ」
「起こせば良いじゃないか」
「でも……」
「ここまで来て何を言い出すんだ」
「だって……」
「なんだ?」
「ちょっと恥ずかしいんだけど」
「美坂が悪いんだぞ。俺の身にもなってくれよ、もう疲れた」
「あたしがそんなに重いって言うの!」
 美坂は病院の入り口で、やっぱり逢うのが辛いと言ってだだをこねた。最初は手を引いていたんだけど、いつまでも強情を張るので、面倒になった俺は美坂を抱きかかえてここまで階段を上がってきた。 

「えぅ?誰ですか?」
 部屋の中から、呻るような声がした。薄暗い病室に入ると、ベッドに埋もれる少女が居た。とても儚く、細い体。熱があるのか顔を赤くしながらも、何故がストールを掛けている。月明かりに、何やら一生懸命絵を描いているようだった。
「あ、お姉ちゃん…… と、工事現場のお兄さん?」
「俺のこと知ってるのか?」
「はい、暇ですからよく窓から見てたんです」
「栞…… しばらく来なくて御免ね」
「いいんです……」
 そうは言いつつも、悲しそうにうつむく。
「栞ちゃん、こんなに暗いところで何を描いてるんだ?」
「私が見たい物です」
「見せて貰っても良いかしら?」
「もちろんです」
 香里がスケッチブックをめくっていく。それぞれの絵に、丸っこい字でタイトルが付けられている。

 『海』

 『喫茶店』

 『学校』

 『大きすぎる雪だるま』

 『家族の夕食』

  そして

 『お姉ちゃん』

 決して上手な絵ではない。だけど、そこには想いが込められている。
「なあ、栞ちゃん」
「何ですか?土方のお兄さん?」
「……俺のことは北川と呼んでくれ」
「はい、北川さん」
「みんなで雪だるまを作ろう」
「えう?」
「夏になったら海に行こう。一緒にご飯を食べよう。学校にも美坂と三人で行こう。君は生きていたいんだろ?」
「もう無理なんです」
「いや、諦めちゃだめだ」
「ずっと病院を出たり入ったりの繰り返しで、みんなに迷惑をかけてきました」
「迷惑?それは違うぞ。出来る限りしてあげるのが家族じゃないか」
「私はもう充分です」
「充分だって?」
 どうして栞ちゃんはこんなに冷静でいられるんだ。 
「美坂がお見舞いに来なかったのは訳があったんだよ。栞ちゃんが居なくなってしまったらどうしようって、不安でたまらなくて……決して君を嫌いになった訳じゃない。大好きすぎて怖かったんだ」
「私は……」
「まだ、栞ちゃんが見たことない風景がたくさんあるはずだぞ」
「私だって…… 本当は……」
 美坂が栞ちゃんの頭を優しく撫でながら言った。
「栞…… あたしは信じてるわ……」
「お姉ちゃん?」
「待ってるわよ、あなたが元気になるのを」
「…………」
「あなたの方が辛かったはずなのに……弱いお姉ちゃんを許して。あなたがいなくなってしまうって考えたら、怖くてたまらなかったの。だから、あたしに妹なんていないんだって自分に言い聞かせようとしたわ。でも、でも……やっぱりそんなことはできないのよ。栞、今まで独りぼっちにしてごめんなさい……」
「…………」
「あまり良いお姉ちゃんじゃないけど、あたしに何でも言って欲しいの。一人で悩まなくていいのよ。怖い時や寂しい時には、いつだって来るわ。我慢することなんてないし、気兼ねすることもない。だって、あなたはあたしの大切な妹なんだから」
「…………」
「だからお願い、もう一度勇気を出して病気に立ち向かって。今度はあたしと一緒に。栞、あなたは死んじゃいけないのよ。あたしは信じるわ、きっとあなたは良くなるって。大丈夫、お姉ちゃんがついてるわ……」

 美坂の話を聞いていた栞ちゃんの表情が変わった。さっきまでの、寂しそうにしていた栞ちゃんとは全く違う。
「お姉ちゃん、ドラマではこういうとき主人公は絶対に死なないんですよね」
 笑顔で、いたずらっぽく口元に指をあてる。
「……そうね」
「お姉ちゃんが、私に嘘をつくはずがありません」
「ええ、当たり前じゃない」
「もう絵を描くのは止めます。お姉ちゃんと北川さんに連れて行ってもらうんですっ!」
 これって奇跡じゃないのか?どこかの像が涙を流したり、絵が浮かび上がるなんて比較にもならない。そんな物が何になる。美坂、お前は凄いよ。誰かに希望を与えることができるなんて。



17.

「それと、聞いて良いですか?」
「なんだ?栞ちゃん」
「どうして北川さんはお姉ちゃんを抱っこしてるんですか?」
「…………」
「…………」
「美坂、そろそろ降りるか?」
「そ、そうね」

 俺は美坂を抱えたままだった。
 美坂は、顔を赤らめながら今日の出来事を話しはじめる。スコップで穴を掘っていたら、重機に乗った俺が現れたこと。一緒に乗って、見晴らしがよかったこと。2・3本斜めになった木があったこと。地中に埋めてある電線を切って、街灯が消えたこと。そのたびに、栞ちゃんはにこにこ笑う。
 ようやくうち解けられた姉妹の話は、何時までも終わりそうにない。美坂は、今日は病院に泊まるといいだした。俺は機械を返しに行かなきゃならない。

「栞ちゃん、今日は急だったから手ぶらで来ちゃったけど、何か欲しい物はないか?」
「北川さん、アイスが良いですぅ」
「ちょっと栞、体に悪いわよ」
「ジャンボデラックスパフェが良いです」
「何なんだ、それ?」
「商店街の喫茶店にあるんですけど、一度食べてみたかったんです」
「はははっ、次に逢うときには用意する」
「北川さん、大好きですっ」
「嬉しいなぁ」
「いでっ!」
 美坂に抓られた。そして、そのままの格好で部屋の外に連れ出される。俺は、後ろ向きのまま栞ちゃんに手を振った。
「北川さん、また来てくださいね」

「ああ、必ず来るぞ」

 廊下に出ると、美坂がおっかない顔をしていた。美坂は後ろ手で病室のドアを閉めると、いきなり俺に抱きついて言った。
「北川君、今日はありがとう」
 そして静まりかえる病院の廊下で、美坂が――俺にキスをした。もう、ここには寂しさも怯えもない。押し潰されそうな悲しみも。病院を出ると、夜が明けかかっている。黒から紫色へと変わりつつある空からは、雪が舞い降りていた。



16.

「さっさと起きなさいっ!」
 大声で呼ばれて目を覚ますと、俺はベットで寝ていた。変だ、昨日は朝方帰ってきてそのまま布団を被った筈なのに。
「朝ご飯よ!休みだからって、ぐーたらされちゃかなわないわ!」
 下から聞き慣れた声が響く。

 俺の部屋だ。

 俺の机。

 本棚、パソコン、タンス、脱ぎっぱなしの制服に散乱した雑誌。

 飛び起きて階段を駆け下りると、台所で母親がぶつぶつ文句を言いながら料理を作っている。フライパンはじゅーじゅー音を立て、付けっぱなしのテレビではワイドショー。俺が開けた襖の穴。 

「母さん……」
「もうお父さんは出掛けたわよ、何度もご飯を作るの身にもなりなさいっ!」
「聞いて欲しいんだ。今までわがまま言って悪かったと思ってる」
「そんなの聞き飽きたわ、今度は何をねだる気なの?」
「違う。俺、大学に行きたいんだ」
「なに寝ぼけてるのよ!」
「何か人のためになる仕事に就きたい」
「あんた熱でもあるんじゃないの?」
「本気だよ、母さん」

「……一体どうしたのよ」

 母親が呆然と俺を見つめる。朝飯となるはずの目玉焼きは、既に焦げていた。



エピローグ

 それから俺は生まれ変わったように……実際そんな感じなんだが、猛勉強を始めた。1回浪人したものの医学部へ入学して、大学の付属病院勤務を経て北の地方都市にある病院に勤めることになった。
 家族はとても喜んでくれた。仕事は大変だったけど、あのころの肉体労働に比べれば体は楽だ。あのころ――俺は、ずっと想い続けてきた。美坂、栞ちゃん、相沢に斉藤、水瀬さんたちのこと。もう一度逢いたい。みんなの物語は、その後どうなったんだろう。

 春の、暖かな日差しが降り注ぐその日、着任早々ローテーションが決められ、担当となる患者を教えられた。その数は意外と多く、仕事を開始する前にきちんと一人一人の経過を確認しておかなくてはならない。何気なく、一枚のカルテを見た。難病を克服し、奇跡的に回復しつつある女性だった。患者の名は――
 俺は看護婦に直ぐ戻ると言いつけ、急いで病院の階段を駆け下りた。買いに行かなければならない物がある。

 『ジャンボデラックスパフェ』

 持ち帰りは出来るんだろうか?それくらい、なんとかするさ。だって、約束なんだ。あの日の深夜、仲の良い姉妹と交わした約束。
 急いでいたせいか、病院の玄関先で誰かにぶつかった。
「すいませんっ」
「おう、キタじゃねえか?」
「源さん!」
「お前ぇ、こんな所で何してやがる」
「源さんこそ」
「俺は仲間の見舞いだ…… って、キタよ」
「ん?」
「おめえ、ちょっと見ないうちに男前になりやがったなぁ」
「え?」
「もちろん、俺の足下にも及ばねぇけどよ。がはははは!」
 全く…… でも、こんなのも俺らしくて良いかな?

 見上げる空は青。春風にそよぐ癖毛。人生は壮大なドラマなんじゃないかと思う。脚本も、監督も、カメラを回すのも自分。好きな物語を撮ることができるんだ。俺は知っている。希望、それは漠然と望む物じゃない。勇気を持って踏み出しさえすれば、それは叶えられるはず。想いは、全てを超えて伝わるんだ。
 だって、ほら。

「北川君!」 

 駆け寄ってくる彼女は、微笑んでいるじゃないか。



 出会うはずのなかった二人。抱きしめ合う二人の足下では、微かに残るキャタピラの跡が春の日差しに浮かび上がっていた。









 終  章



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