『カチューシャ』


「祐一君っ」

 雪に閉ざされた白樺の林。木の根本に、あゆが一人ぽつんと立っていた。

「あゆ、カチューシャはどうした?」
「うぐぅ、なくしちゃった……」
「何だって!」

 ひゅー

 どごーん。

 臼砲から発射された砲弾が付近に落ち、地面が震える。貧弱な森から、カタカタという機関銃の音が鳴り始めた。

「うぐぅ、だって予備部隊なんかじゃなくてSSの精鋭だったよっ」
「カチューシャ無誘導ミサイル連隊全部やられたのか?」
「ドイツは主力戦車を投入してきたんだよっ、政治将校は嘘つきだよ!」
「全滅か……スターリンに何て説明する気だ?」
「うぐぅ」
「粛正だな」
「そんなの嫌だよっ」
「成果を出さなきゃ、俺も助ける事は出来ない」
「酷いよ……」
「それが俺たち社会主義のやり方だ」

 雪が降り始めていた。

 鉛色の空から、真っ白な雪が轟々と吹きつける。

 ボクの、

 最後の願いは――。

 1945年5月9日、大祖国戦争は終結した。寒空にはためくソビエトの旗、喜びに溢れる顔。その日、T-34に乗る祐一とあゆは崩れ落ちた街で人民の歓声を聴いた。五年に渡る攻防戦の末、二人はナチスの進撃からスターリングラードを守り抜いた。
 後世、人はそれを奇跡と呼んだ。 








『負けず嫌いの彼女』


「隠し芸大会?」
「わっ、わたしそんなのできないよ〜」

 来週、学校でまた妙なイベントがあるという。多分生徒会辺りが思いついたんだろうが、今回は全員が強制参加だ。

「手品みたいな物でも良いんじゃないのか?名雪」
 祐一がトランプを切り始める。
「一枚とれ」
「うん」
「俺に見えないように戻してくれ」
「うん」
「名雪が選んだのはこれだ!」
「そうだよ〜」
「どうだ?」
「つまんないよ、祐一……」

 ちょっとショック。

「無様だな、相沢」
「お前はなんかできるのかよ、北川」
「よしっ、オレが師匠直伝の芸を見せてやろう!」

 北川の口調が変わった。

「これからね、西新宿のガード下の飲み屋の親父が大好きだって言うマジックやるから。みんなちゃんと見てるのよ〜、はぃ〜っ」

 マギー○郎?

 北川がコップに詰めたハンカチは、来週あたり色が変わるらしい。
 
「北川君…なかなかやるわね」
 何故か、香里が腕を組んで唸っている。
「栞、アレを用意して!」
「本気ですねっ、お姉ちゃん!」

 栞がポケットから出した小道具を用意すると、ラメの入った衣装に着替えた香里が、怪しい笑みで笊を叩いた。

「レッドスネーク、カモ〜ン!」

 翌日、北川は愛を告白した。








『衝天』


 わはははは。

「おーい、山田君。斉藤さんに座布団2枚っ」

「はーい」

「おっ、斉藤さんの座布団が10枚になったみたいだな〜」
「馬が使い込んでなけりゃ、豪華景品だ」
「歌さんの全部持ってっちゃえ!」

 わはははは。

「さて、今回の賞品は……なんと、KANONの主役に抜擢!」
「え?本当?」
「ああ、シナリオは誰でもよりどりみどり」
「いいなあ〜、オイラも舞ちゃんと切ったり切られたりしてえなぁ」

 わはははは。

「さて、誰にする?」

「うーん……」

「名雪ちゃんなら母親が事故に遭う。あゆちゃんなら下手すると警察のご厄介だ。真琴ちゃんは普通の生活を送るのは難しいだろうなぁ、舞ちゃんは冗談抜きで死ぬかもしれんぞ。栞ちゃん……まあ、大事にしてやらんと手首切られる可能性も無きにしもあらずだ」

「え?」
「ほら、早く決めなよ斉藤さん」

「天野さんとか」
「頑張っても無理」
「……」
「煮え切らない人だねぇ」

「脇役でいいです……」

「また来週」








『DR.サイトー診療所』


 この島には、まともなお医者さんなんて居ない。昼間からお酒くさかったり、全然真面目に診療してくれない先生ばっかり……。日本語が話せない人を呼んだこともあった。でも、いつだって本土に帰ってしまう。島では医療を受けられない。本当に困ったときは、みんな本土に連れて行くの……。

 ―― いや、僕は違うよ。

「先生……急患」
「わかった。川澄さん、直ぐに処置の用意を」

「勝手な真似するんじゃねぇ!家の大事な太郎をなぁ、島の医者なんかに診せられるかっ!」
「僕に任せてください」
「貴様のような奴がどうして信頼できる!」
「絶対に助けます」
「なんだと!コンニャロ!」
「川澄さん、頭押さえて」
「わかった……」
「そっちじゃなくて、太郎の方」
「あ……」

「人を馬鹿にしやがって!太郎は本土の病院に連れて行くんだっ!」
「手遅れになってしまいますよ」
「だからここで手術する……いい?」
 舞が剣を抜いて立ちふさがり、有無を言わさずベッドごと患者を手術室に運び込む。

 ランプが灯り、数時間後―― 消えた。

「先生、太郎は?」
「異物を飲み込んだんでしょう、閉塞していた腸を開いて詰まっていた物を摘出しました。もう大丈夫です」
「あいつは悪食だからな」
「まだ麻酔が残ってますけど、会いたいですか?」
「おう!もちろんだ!」

 ドアを開けると、診療台に乗せられた太郎が喜びの声を上げる。

「んモ〜〜〜ウ」

 翌日、島の新聞は1面トップでこう伝えた。「サイトー先生、太郎の命を救う!(農林水産大臣賞受賞、乳牛:5歳)」

「……牛さん、かなり嫌いじゃない」






『ライバル』


「久瀬……よく来たな」
「僕に勝負を挑むなど、無謀な奴だ」
「勝負はやってみなけりゃわからない」
「相沢、君に勝ち目はないっ!」

 深夜、二台の自動車がスタート位置についていた。

「祐一さんも久瀬さんも、こんな事止めてください〜」
「倉田さん、僕は逃げる事などできんのだ」
「危ない……」
「舞、どうしてもこいつと決着を付けなきゃならないんだ」

「倉田さん、判定を頼む」
「舞、スタートの合図を出してくれっ!」

 3…… 2…… 1……

 ”スタート!”

 過剰に回転を上げられたエンジンが、強化クラッチを経て一気に動力を伝える。ホイルスピンさせながら二台の車が急発進していくと、アスファルトとの急激な摩擦で、煙と、焦げた匂いが辺りを満たす。
 
 ―― くそっ、出遅れたっ!

 ―― 相沢、余裕のつもりかね?

 と、猛然と走りだした2台の車が急ブレーキで止まる。そしてバックに。

「ここだっ!」
「いかん、切り方が早かったか……僕としたことが……」

 久瀬が切り返しているうちに、向かい側で車庫入れを終えた祐一が悠々とドアを開けた。

「久瀬、ラーメン奢りな」
「屈辱だっ、次は見ておれ!」

「……まだやる気なの?」

 深夜、スーパーの駐車場で舞がぼそっと呟いた。








『石橋先生の微妙な苦悩』


 その街の中心には、高い塔がありました。大昔からです。誰が、いつ、何のために作ったかも判らないし、誰もてっぺんを見たことがありません。それでも街の人たちは塔の先端から降る雨で生活していて、神さまのおかげだと話し合っていました。

 近代になって、街の人たちはもっと豊かになりたいと思い始めました。塔から降る雨を増やそうと、時代ごとに最先端の機械を塔に取り付て、たくさんのお供えものをあげました。不思議なことに少しずつ雨の量は増えていって、街の人たちの暮らしは、ずっと良くなっていきました。

 だけど、人はもっとたくさんを望みました。塔に高圧電流を流したり、効果がありそうな出来る限りの事をしたんです。滝のように降る雨にも、満足することが出来なくなっていました。いつしか、人々は自分たちが塔を管理していると思い始めます。専門家とか、偉い人たちが会議を開いて、どうしたら雨を増やせるかと話し合ったそうです。

 そして、ある日。
 実験中の機械が塔に取り付けられて、スイッチが入れられた途端……塔の先端にあるバルブが弾けました。それから数年、雨は全く降らなくなってしまいました。困った人々は心から神に祈りました。だけど、また雨降り出すと、街の人たちは前のことをすっかり忘れて、雨を増やそうとまた塔にお供えを上げ始めます。そんなことが繰り返されてきました。


「うーん……」

 回答欄をはみ出してまで綴られた答えは、石橋の心を揺さぶった。しかし、テストの課題は「バブル経済とその崩壊」 バルブじゃない、バブルだ。だが、微妙に合っているような気もする。

「こんな答えを書いたのは誰だ?」

 水瀬?……あいつが?いやいや、人の良い水瀬のことだ、誰かのいたずらを真に受けたに違いない。

 しばらく無言で考え込んでいた石橋は、おもむろに赤のサインペンを取り上げ、決意の現れのように大きすぎる○印を付けた。
 そして、横にこう書き加えた。

 ”相沢は放課後職員室まで来るように!”








『最後の一夜』


「美坂……馬鹿みたいな話じゃねえか」
「でも、栞はそう信じてるのよ」
「誕生日っていつなんだ?」

「……明日」

 元々、自分が話してしまったことだ。あなたは次の誕生日まで生きられない。健気に笑っていた栞は、もう気力を失ってしまった。

 栞は、数週間前から太陽が昇る回数を数え始めた。最初は何故そんなことをするのか判らなかった。熱にうなされ、どこか遠くを見つめる栞。かすれがちに呟かれた言葉が、あたしを打ちのめす。あと一回。病室のベッドに差し込む日差しと共に、自分の短い一生が終わりを告げると思いこんでいる。
 自分が悪かった。今更だけど、もう一度病気と闘って欲しい。それなのに……

「人の命が、そんな事で終わるはず無いだろ!」
「それはそうだけど、あの子は思い詰めてるのよ。死ぬことしか考えてないの」
「信じられない、そんなのおかしいじゃないか!」
「あの子だって苦しんできたのよ……」
「だからってな、そんなことを考えるのは間違ってる!」
「病院の先生もそう言ったわ、本人の希望がなければ治療の効果は期待できないって」

「よし、わかった」

「え?北川君?」

 その日の深夜、最後の一夜。北川は、病室から栞を連れ出した。そのままベッドごと搭乗し、細い機体の中で医者と香里が心配そうに付き添う。

「夜は二度と明けさせない!」

 月明かりに照らされる空港から、亜音速を誇るコンコルドが燃料を満載にして西へ向かって飛び立った。








『世界の中心』


「なあ相沢、世界の中心って何処なんだ?」

「はあ?」

「いやさ、美坂が持ってた本のタイトルが、確かそんなのだったんだ」
「世界の中心で愛を叫ぶってやつ?」
「おう、それそれ。斉藤は読んだのか?」
「読んでないけど…… 有名だよ」
「北川、お前は何がしたいんだ?」
「夏休みに世界の中心へ行って、愛を叫んでやろうと思ってさ」
「え?」
「香里に愛を叫ぶのか?」
「ああ、美坂はきっとそういうのが好きなんだと思う」
「そうかなぁ」
「だからさ、真面目に考えてくれよ」

「北川、経済の中心ならニューヨークかロンドンだ」
「政治の中心ならワシントンだね」
「おいおい二人とも、学生のオレに外国旅行はちょっと難しいぞ」
「北極や南極は…… 中心って言うより軸だからなぁ」
「あ、地球の真ん中なんて良いんじゃないかな?」
「斉藤、そんなところに行けるわけないだろ!」

「うーん、意外と難しいね」
「出来れば日帰りで、美坂と一緒に行ける所が良い」
「北川、そんな中心があるかよ……」



 夏休み。

「美坂っ、オレはお前が大好きだ〜!」
「どうしてこんな所で言うのよ!」

 卒業旅行と称して、北川と香里は北海道フラノに来ていた。二人の目の前ではへそ祭りがにぎにぎしく執り行われている。

「好きだっ!」
「もうっ…… 恥ずかしいわよ、北川君……」
「オレはお前に惚れた!」

 男らしい告白の叫び声に、辺りの群衆が驚いて振り向く。その時点において、確かにそこは世界の中心だった。








『永遠の一瞬』


 このまま時間が止まればいいのに。

 夜の公園で、少女はそう呟いた。

 彼女の体を気遣う少年も真面目な顔で頷く。

 だから、時は止まった。

 夜空を行く航空機はその場で固まり、こぼれたコーヒーは空中に止まる。ベッドで見る夢は限りなく続き、酔っぱらいの幻想は消えることがなくなった。人も、犬も、ネコも時間から切り離された。全ての物が――たった一つを除いて。時を止めた物々を載せて、地球は回っていた。見つめ合う二人は、そのままの姿で朝を迎える。

 優しい朝日が少年の頬を撫でる。

 物憂げに沈む夕日が、少女の髪を染める。

 毎日、毎月、毎年…… もう、そんな概念は必要ない。

 変わることなく、少年は少女の瞳を見つめ続ける。

 何百、何千、何億年と。

 大きく膨れあがった太陽がついにヘリウムを燃やし尽くし、大爆発とともに白色矮星となるその日まで。

「愛しています」

「ああ、俺もだ」








『例えばこんなテレビ番組』


 ”きゃーっ!”
 ”へへへ、観念しな”
 ”誰か、誰か助けてーっ!”

「美汐、助けを求めてる人がいるわよっ!」
「不埒な悪人が、善良な市民に害をなすのを見過ごせません」
 そう、天野美汐こと少々おばちゃんっぽい女子高生の正体は、全世界を救う宿命を背負った正義の使者だったのだ! 
「じゃあ、早く助けてあげるのっ!」
「わかりました、真琴は急いで準備をしてください。変身しますから」

 じゅー じゅー

「焼き加減はウェルダンでお願いしますね」
 ここで説明しよう。彼女はポパイよろしく鯨肉を摂取することで変身するという、誠に日本的文化の象徴ともいえる純和風な正義の味方なのだ!

 じゅー じゅー

 じゅー じゅー

 じゅー……
 
「真琴、まだですか?」
「えっと、冷凍物だからもうちょっとかかる……」

 じゅー じゅー

「ねえ、美汐?」
「なんですか」
「……いつか、大活躍できる時が来るわよねっ」
「ええ、それまで二人で頑張っていきましょう。壊れかけたこの世界と伝統文化を守るために」

 駅前の広場。突如としてバーベキューを始めた不審な二人組に、冷たい視線が突き刺さる。悪人も呆気にとられ、関わり合いにならない様に退散していった。
「生鯨肉が市場にもっと出回れば、変身時間が短縮できるのですが」
「うん……」
 鯨肉を焼きながら頷く真琴の頬に、少しだけ熱いものが伝った。それは臭みのある肉に振りかけた香辛料のせいだけではない。  
「真琴、私たちの本当の敵は…… 強大で、手強い相手です」

 次回予告『怒りの鉄銛! 本当の敵”グリーンピース”との戦い』
 頑張れ! 負けるな!
 商業捕鯨再開を願う、全国4万人の海の男が貴女の活躍を期待してる!  

 【提供:農林水産省】








『真実の嘘』


 あなたは次の誕生日まで生きられない。あたしはあの子にそう伝えた。考えてみれば酷く残酷な事をしたんだと思う。自分の命が残り僅かだと知らされたら、誰だってショックを受ける。でも、言わなければ良かったと後悔はしていない。嫌われてしまっても構わなかった。あの子の命を救うためなら。
 あたしはあの子にそう伝えることが一番だと、そう思った。そして早いうちにあの子が決断することを期待した。このままでは生きていくことができない。なら、どうするべきか。辛くても、可能性が低くても、頑張って治療を受けようと思って欲しかった。あの時は、話したあたしだって辛かった。
 でも、あたしの気持ちは結局伝わらなかった。あの子はあたしの言葉をそのまま受け入れてしまった。それを運命だと思い込んでしまった。よかれと思ってしたことが全く逆の結果になって、あたしは自分を責めた。自分が心底嫌いになった。そして毎日の日課だったお見舞いも、夜の電話も止めてしまった。いえ、できなかった。見たくなかったし、知りたくなかった。会うことなどできなかった。せんぶあたしのせいなんだって、生きる希望をあたしが奪ってしまったんだって。
 
 栞の気持ちを変えさせたのは、転校生の相沢君だった。一時はあきらめかけていたあの子は、将来のことを考えるようになった。どこに行きたいとか、何を食べてみたいとか。直接話したわけじゃないけど、相沢君から聞いたわ。
 とても嬉しかった。栞が変わってくれたこと、前向きに考えるようになったことが。手術を受けると言い出したのも、つい先月のことなの。

「美坂、どうしてオレにそんな話をするんだ?」

 放課後、人気のない学校の屋上に二人は立っていた。冬の空は凛として青く、冷たい空気が皮膚を刺す。

「さっき、病院から連絡があったの」
「……それで?」
「失敗、だったわ」
「…………」
「もうね、病巣が広がりすぎて手が付けられなかったって」
「美坂……」
「だから、北川くんにお願いがあるの」
「オレにできることなら、何でもやるぞ」

「ありがと……。北川くん、あたしと一緒に来て欲しいの。これから病院へ行って、栞と相沢君に話さなきゃならないのよ」
「結果をか?」
「そう、手術は成功したって、ね」
「そんな……」
「おかしいわよね。でも、あたしは言わなきゃならないの。あたしを信頼してる二人を裏切って、また嘘をつかなきゃならないのよ」
「オレはそんなの間違いだと思うけど……」
「ただ一緒に来てくれるだけでいいの」
「でも……」

「だって、あたし一人だと泣いちゃうかもしれないから」

 柵の向こう、よく晴れた青空を背景に北へ向かう渡り鳥の群れが現れ、そして彼方へ消えていった。

「美坂」
「……なに?」
「見舞いは花かなんかでいいかなぁ」

 それが二人にできる精一杯の優しさだった。








『ミシオの動く城』


 その城の中には魔法使いのお婆さん……もとい、美しい姫君が侍女と一緒に住んでいました。

「……冒頭の文章としては拙いですが、まあ良しとしましょう」
「ミシオ、お客さんよ!」
「毎度様、北川工務店でーす。見積もりができました」
「早速見せていただきましょうか」
「よろしくお願いしますよ〜、この頃不景気で仕事無いんスから」

「…………」
「ど、どうですか?」
「これでしたら久瀬組さんの方が安いですし、工期も短いですね」
「マジで?」
「そういった言葉使いは嫌いです」
「じ、じゃあ、この辺をこうして、こんな感じで……」
 北川がソロバンの玉をぺちっと弾いた。
「意外と男らしくありませんね」
「…………」
「これでしたら即決しますけど、いかがでしょう?」
 ミシオは置き直したソロバンをずずっと押しやった。

「……クソッ、久瀬組だけには負ける訳にいかねえ。解った、それで請け負う!」
「それではお願いします」
「時間がないから直ぐ仕事にかかるぞ」
「結構ですよ、早いに越したことはありません」

 その日のうちに、大量の油圧ジャッキや資材が城へ届けられた。

「お姉ちゃん、城が浮き上がってますっ!」
「ああ、あれね。河川敷の改修に引っ掛かるから移動させるんだって。大変よね天野さんたちも……」



「祐一くん……」
 映画館の客席で、隣に座る祐一にあゆが小声で言った。
「どうした? あゆ」
「変な映画に誘っちゃって、ごめんね。ボクはてっきり……」
「あゆ、現代の土木技術って凄いんだな!」
「えっ?」

 映画は佳境にさしかかった。城は熟練の業で水平を保ちながらジャッキで持ち上げられ、じりじりと動き始める。食い入るようにスクリーンを凝視する祐一の目は、少年のように輝いていた。
 男の子の夢は、奇跡もなく、冒険もなく、サスペンスもなく、ヒロインもなく――、ただ鉄と鈍く光る工具、滴る汗で叶えられることもある。それを安易だと笑いたい者は笑えばよい。








『昼下がりの午後』


 入り口の戸に手をかけたところで、彼女の動きが止まった。差し延べた手をゆっくり戻し自分の影を映さないよう慎重に身を隠す。もちろん物音一つさせずに。それが鉄則だ。
 壁際に蹲りながら思考を巡らす彼女の顔には、普段以上の不機嫌と少々の驚きが混ざっていた。研ぎ澄まされた感覚は内部に何者かが居ることを知らせている。

”まさか、こんな短時間で……”

 彼、そうに違いない。僅か数分だと警戒を解いた自分の甘さが悔やまれる。侵入の目的は明らか。既に内部へアクセスしているのかもしれない。不正侵入を遮断するセキュリティは、ごく簡易的な物しか設定していなかった。このままでは時間の問題でしかない。

”そんなの許せません”

 彼女にとってかけがえのない物が、蹂躙されようとしていた。例えて言うならばテロ。弱さにつけ込み、隙を見計らって、最愛のものへ卑劣な攻撃を仕掛けるテロリスト。人々から幸せな希望を奪う彼らを許してはいけない。

 決断した美汐は、靴下履きの足で自室の襖を勢いよく開けた。そしてスカートを払った右手で大腿に装備しているホルダーから拳銃を引き抜くと同時に上体を下げ、片膝をつく。視界へ飛び込んできた部屋の光景に美汐は目を覆いたかった。酷い、酷すぎる有様……。彼はもうセキュリティを破って傍若無人に内部を荒らし回っていたのだ。美汐は、怒り以上に悲しみを覚えた。
 紙袋を投げ捨てた左手で下から支えながら、照準を定めた美汐は躊躇うことなく続けざまに二発撃った。ステンレススチール製の薬莢が二つ、廊下を転がったが、発射音は一つにしか聞こえなかった。

 銃撃に驚いて振り向いた彼に、美汐は言った。
「次はありませんよ……」
 一発目の弾丸は、彼の前々足で掬ったクリームを弾き飛ばし、二発目は彼の頬を掠めて小さな傷跡を残した。しかし、美汐は彼を撃ち殺しはしなかった。夢を希望を奪われてなお、彼の命を奪うことができなかった。
「ここから消えてください、私の気が変わらない内にです」
「…………」
「私は、あなたを許した訳ではありません」

 カサカサと退散する彼を無表情に見送った美汐は、拳銃をホルスターに納めて大きな溜息をついた。数分前まではラップをしてきちんとちゃぶ台に置いてあった筈のショートケーキ。その残骸を眺めながら、足下にある買い物袋からケーキと一緒に飲みたくて買ってきたココアを取り出す。
 ミルクココアの袋を見つめる美汐は、やるせない現実に憤りを感じながら天を仰いだ。端が破けた袋から、甘い匂いとともに茶色い粉が畳へ流れ落ちるのもそのままに。








『存在の在処』


 時間は午後10時を過ぎていた。そこだけ僅かな蛍光灯が点けられているフロアの一部、向かい合わせに机を並べた社員2人が黙々とキーボードを叩いていた。三月末の決算に向けて、連日、深夜までサービス残業が続けられている。
 見返りのない仕事をやっているのに、待遇が酷いと思う。電気代節約のため他のフロアは真っ暗。エレベーターも不気味に休止されている。それにこの時期、暖房を切られた室温は一桁台まで下がった。
 祐一はフリースの膝掛けで足を包み直し、大きな伸びをした。何時間も同じ姿勢で固まっていた体は、痛みとともにみしみしと音を立てる。ふーっと息を吐いた祐一は内ポケットからタバコを取りだし、書類が雪崩を起こしそうなデスクから窓の外へ視線を移す。そして真っ暗な闇を見つめながらいがらっぽい喉に煙を吸い込んだ。

 毎日がこんな感じだった。代わり映えのない仕事をこなすだけ。出社して、仕事して、定食屋で昼飯を食べて、仕事して、帰って寝る。休日も返上。毎日が同じ繰り返し。昨日と今日に記憶に残る違いはない。多分、明日も。
 散乱した自分の机と14インチの液晶画面。そして向かいに座る同期入社の北川の癖毛が、書類の間からちらちら見える。それが全て。目をつぶっても頭の中で完全に描写できるほど見飽きた光景。
 あと30分もすれば、北川が「腹減ったなぁ、相沢」と哀れっぽい声で話しかけてくるだろう。「何か出前でも取るか?」と答えると、ラーメン好きの北川は熱っぽく蘊蓄を披露する。湧いてくる唾液を飲み込み、我慢できずに店へ電話をかけようとするまで行くかもしれないが、いつだって「北川、香里が待ってるんじゃないか?」の一言で思いとどまる。
 そして11時を超えると決まって北川の携帯が鳴る。その度に、飲み歩いてるんじゃないかと疑っている香里に事情を説明する。

 今日も同じ事が繰り返されるだろう。予定調和というか、既に決まっているような気さえする。こんな毎日が続いたせいで、この頃変な事を考え始めた。自分は本当に存在するのだろうか。この世は実在するんだろうかって。昔読んだ小説のように、脳みそだけがガラスケースに収まっているのかもしれない。見るものもさわるものも、バーチャルリアリティみたいに自分がそう思っているだけじゃないだろうか。絶対そうじゃないんだと言い切れない自分が居る。そう思うと、なんとなく自分というものが儚く脆い存在に感じる。

 タバコを吸い終わった祐一は思考を遮り、再び仕事を始めた。

 午後10時32分。
「相沢、腹減ったなぁ」
「何か取るか?」
「いや、香里が待ってるんだ。さっさとやっちまおう」

 午後11時05分。
「……頼む、相沢」
「あー、もしもし香里か? 仕事なんだよ。本当だ。ああ、できるだけ早く終わらせて二人とも真っ直ぐ帰るよ」

 午後11時46分。
「そろそろ終電だ。もう帰ろうぜ、相沢」
「そうだな、まだ残ってるけど」
「続きは明日だ、明日」

 いつものように、終電に間に合うよう北川と一緒に会社を出る。駅へ行く途中の繁華街で家へのお土産を買う。いつものように自分は肉まん、北川はシュウマイ。
 家が逆方向なので、北川に軽く手を振って独りホームへ上がる。いつもの車両のいつもの場所に腰掛けて、いつものように帰宅する。



「ただいま」
 返事はなかった。いつものように。祐一は靴を脱いで安アパートのキッチンへ入っていく。いつものように妻の真琴は寝ていた。帰宅を待っていようとしたのだろうが、やっぱり寝てしまったようだ。いつも通りに。
「こんな所で寝たら風邪ひくぞ」
「……祐一?」
「ほら、お土産だ」
「ん、ありがと。今お茶淹れるから」
 目を擦りながら真琴はガスにやかんをかけた。青白い炎が揺らめき、うっすらと白い湯気が出始める。
「真琴」
「なに?」
「こんな事を考えたことはないかな。自分が見ているもの、それは本当に存在しているのか?って」
「え?」
「全部夢みたいなものでさ、自分の意識だけがそう思い込んでるとか」
「よくわかんないわよぅ」
「俺も良く解らなくなりそうなんだ……えっ?」
 ガスを止めた真琴が、優しく祐一を抱き締めた。
「おい真琴、一体なんなんだ」
「いきなりこんなコトするって想像できた?」
「いや……」
「アタシの祐一は、ちゃんとここにいるわよ」

 光がなければ何も見えない。反射するスペクトルが鮮やかな色彩を浮かび上がらせることもないし、存在を確かめる術もない。空虚な闇の中で愛が人の存在を意義づけるとしたら……

 人は愛で出来ていると結論づけては言い過ぎだろうか?








『奇跡の望み方』


「えぅ…… ここはどこなんでしょう?」
 大きな部屋。真っ白な壁に、真っ白な天井。とても長い間寝ていた気がする。寝違えたのか体の節々が痛い。栞は、たくさんのケーブルが繋がれたカプセルの中で目が醒めた。
 起きあがってみると、自動的に外れた蓋に手紙が挟んである。

『栞、ごめんなさい。やっぱりお姉ちゃんはあなたを失いたくなかった。現代の医療ではあなたを救うことができない。だからあたしは将来に希望をかけたわ。昨日、あなたが眠りに落ちた後、液体窒素を使った急速冷凍で人工冬眠してもらったの。いつかあなたの体を治療する技術が確立されることを期待して。相談すればきっと嫌がると思ったから、内緒で準備をしていたわ。みんなと別れて独りだけ未来へ旅立つなんて寂しいわよね。でもお願い。栞、生きて。やっぱりもう会えないけど、あなたは死んじゃ駄目なのよ。元気になることを祈ってるわ。お姉ちゃんは、あなたのことが大好きだった。』

「…………」
 栞は、あまりの出来事に頭が混乱した。震える手で手紙を裏返してみると、懐かしい姉の筆跡で追伸が書かれている。

『あ、そうそう、やっぱり独りじゃ寂しいと思ったから……相沢君も一緒に入れたわ。後は自由に使って』
「はい?」

「今日も寒いな……あれ? ここはどこなんだ」
 大きな部屋。真っ白な壁に、真っ白な天井。とても長い間寝ていた気がする。体の節々が痛いと思ったら、荒縄で縛られている。祐一はたくさんのケーブルが繋がれたカプセルの中で目が醒めた。自動的に外れた蓋の上には手紙が貼ってある。
『栞をお願いするわ、相沢君』
「なんだコレは?」
 不審に思いながらも起きあがった祐一は、カプセルの外側にマジックで書かれた丸っこい字を見つけた。
『祐一、酷いよ。酷すぎるよ。何の相談もなしにわたしを置いて行っちゃうなんて……。香里も香里だよ、祐一を冷凍しちゃってからやっぱり自分も行くって。わたしだけ残るなんて嫌だよ〜』

 大きな部屋。真っ白な壁に、真っ白な天井。
「うにゅ? ここが未来なのかな?」
 名雪も手紙を見つけた。
『お母さんも行きますからね。(秋子)』

 大きな部屋。真っ白な壁に、真っ白な天井。
「もう100年経ったのかしら? 本当にすぐだったわね……」
 香里も手紙を見つけた。
『美坂っ! オレも、オレも行くぞ!』

 ”うぐぅ、ボクも”

 ”真琴も行くの!”

 ”あはははーっ、佐祐理も行ってみたいですねー”

 ”……一緒に行く”

 ”未来か。うむ、僕も興味はある”

 ”もっといい世の中で暮らしたいよ”

 ”100年後の世界へ、タイヤキ一筋30年の技を伝えようぞ!”

 大きな部屋。真っ白な壁に、真っ白な天井。地下数百メートルにある頑丈な「冬眠室」で、彼、彼女らは再び目覚めた。未来への希望を夢見て。早速エレベーターに乗り込み、地上を目指す。専用の原子力発電所が供給する電力によってゆっくりと十数人の人間は上昇していった。

 ――地上。

「おかしいわね、何も変わってないわ」
「お姉ちゃん、本当にここは未来なんですか?」
「美坂、人が居るぞ。あのおっさんに聞いてみようぜ」

「すいません……」
「あ、あんたら今目覚めたのか?」
「そうなんだけど…… なあ、おっさん、ここは未来なのか?」
「あんたらが来た時代と比べればな。西暦で2105年になる」
「やった! オレたちは未来に到着したんだ!」
「でも、どうして100年前と全然変わらないのかしら?」
「そりゃあ、あんた……」
「なんでだよ、おっさん」

「みんな、未来へ行っちまったからだ」








『Stairs to the heaven』


 男は俯いたまま、一段、また一段と足を引きずりながら階段を登っていく。足取りは重い。男の気分とは裏腹に、足下の大理石は豪奢な余裕で輝く光を反射していた。磨き上げられ真っ直ぐに伸びる階段は見る者の心を威圧し、場違いの存在を否定するかのように純粋さと硬度を誇っているようだった。
 水晶のように規則正しい六角柱の欠端を持つ山。僅かにコバルトの青を含みながらガラスのように透き通り、鋭角に聳え立つ山々。キラキラと美しい乱反射によって光を屈折させ自らの胎内に貯め込んだ山あいを、細い階段は遙か彼方へ続いている。延々と伸びゆく白い階段。天と地の境。行く末は、空と地上の狭間で点になって見えた。山々が映す青が重なり合って白い階段へ幾何学模様のスライドを投射している。男はふと視線を上げ、眩しい太陽に目を細めた。太陽はいつも彼の頭上に在った。

 ”あいつは助けることが出来なかった”
 ”そう、そして身勝手に忘れた”

 男の靴は擦り切れ、ボロボロになっていた。破れ、裂け、汗で変色したズボン。ボタンの取れた上着。酷使された脚はズキズキと痛む。さらに歩きづめで腫れた皮膚が切れ、醜く変色した傷からは膿と血が滲んでいた。もし階段を登る男が後ろを振り返るならば、清浄な世界に染みのように点々と遺される自分自身の歩みの痕を見るだろう。余りに人間的な命の痕を。茶色く変色した過去を。
 しかし男は一度も後ろを振り返らなかった。彼が求める物はいつも前方に、消えない虹の根本にあるはずだった。

 ”あいつは理解することなく傷つけた”
 ”そう、そして彼女を裏切った”

 行く手に今まで見たことのない色があった。くっきりと法則に則って描かれた世界で、そこだけがくすみ、曖昧に滲んで見える。そこにはそぐわない染み。汚れのような点だった。男は急ぐことなく登り続けた。点が物になり、形を現し、輪郭が徐々に露わになってくる。
 何の音もなく、声もなく、静まりかえった天国への階段で、男の呼吸だけが規則的な音を立てる。その一つ一つが断末魔のように、あえぎ喘ぎ男は歩き続けた。行かなくてはならなかった。歩き続けなくてはならないのだと、自分を叱咤した。

 ”あいつはその奇跡を受け入れた”
 ”そう、そしてひっそりと死に往く者が居た”

 男は歩みを止めざるを得なかった。目の前に現れた物、それは階段の途中に横たわる死体だった。親愛なる人の死体。懐かしい彼女の髪は艶を失い、自分と同じように擦り切れた靴から痛々しい傷跡を覗かせている。
 男は節々が痛む体を屈め、彼女の傷ついた脚を震える両手に抱いた。そしてとめどなく頬を流れ落ちる涙で彼女の汚れを拭いた。みすぼらしい自分が身につけている上着を脱いで、小さな白い脚を優しく包む。今更届かない願いだと解っていも、男はそうしたかった。干上がり、茨を噛んだ如く痛み、熱を持った男の喉から、かすれた嗚咽が漏れた。

 ”あいつは気付いた”
 ”そう、そして泣いた”

 瞳を閉じた彼女は微笑んでいた。願いが叶えられた安堵の笑顔で待っていた。男は、彼女の青白く生気のない頬を抱きかかえるようにさすった。それは一段と悲しい事。冷たい頬よりも、みすぼらしい姿よりも、彼女の笑顔に心が苦しめられた。男は在りし日の面影を、輝く笑顔を、優しい眼差しを、はっきりと脳裏に思い浮かべることができた。
 暫く目を閉じて自らの人生を振り返った男は、彼女を背負って再び歩き始める。

 ”あいつはどのような判断をするのだろうか”
 ”そう、そして何を求めるのか”

 徐々に男の視界が黒く霞みだす。しっかりとした階段がまるで高熱で溶けたように思えた。足取りのおぼつかない男は、ふらふらとよろめく。目にする物全てが異常な歪みを生じていた。酩酊したように意識が遠のきそうになるのを堪え、力を振り絞る。しかし、数段登ったところで男はガクッと膝をついた。

 刹那、階段に亀裂が走った。震える山々はその身を薄く剥離して崩壊を始める。青く透き通る細かな欠片が辺り一面に降り注ぐ。男が歩んできた世界は、終焉を迎えようとしていた。男は彼女を庇いながら必至に階段にしがみついた。これ以上彼女を傷つけたくなかった。不気味な唸りが聞こえ、男は初めて後ろを振り返る。
 階段は下から崩れ落ちつつあった。瓦礫と化した行路の還る場所は、何もない闇。恐ろしいほどに虚ろな世界。光をも飲み込む漆黒。しかし頭上を仰げば、いつもと変わらず依然として眩しい光を放つ太陽。両腕に抱くのは愛する彼女。
 遠のく意識の中、男は最後の気力で彼女を抱き上げた。そして精一杯の力で空へ、天国へ、少しでも近づけようと両腕で高々と差し出す。あたかも高貴な宝物であるかのように。不思議と恐怖は消えていた。男の顔には、ようやく辿り着いた安堵の表情が浮かんでいた。

 両手で掲げられた彼女は、男の身長ともう少しだけ天国へ近づいた。

 意識が混濁し薄れゆく記憶の中で、祐一は懐かしい彼女の口癖を聞いた。自分の名を呼ぶ彼女の、優しい歌声を聞いた。






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