その日は、とても風の強い日だった。
 何もかもが流れ去って、また新しい季節がやってくるように。







"風送り"









 死について考えよう、と思う。
 だけど、それは繰り返すには重たすぎる言葉だから、非日常と言い換えよう。



 ふたつ、夢をみた。
 ひとつは模糊(もこ)として、よく分からない。
 女の子は待っていて、待っていて、待っていて、待っていて、だから自分は謝らないといけない。敢えて言葉にするなら、そんな夢だった。
 もうひとつは、ついこの間の出来事の追復。
「相沢君、あなたに呪いをかけてあげる」
 名雪とクラスが分かれたこともあるのだろう。近頃彼女は、短い休み時間にはそんなことを言って、よく俺に構ってくるようになった。
「知ってる? 呪いってね、ふたつ同時にはかからないものなのよ。だからあたしが相沢君に呪いをかけるのに成功すれば、相沢君は今までの呪いから解き放たれるってわけ」
 普段よりも1オクターブ低い声で、奇妙に澄んだ笑みを浮かべる。
 相変わらず、香里はおきゃんな言動のどこかに非日常を漂わせている。多分、彼女が語らない言葉の裏側に。
 思えば、初めて会った日から彼女はずっと変わっていない。秘密機関だとか、駅前のパン屋は賞味期限がサインペンで消してあるんだとか。
「それって、俺が今呪われてるってこと?」
「うん」
「肯定されても……」
「まぁ、あたしの話を聞くだけでいいから付き合いなさいって。――それと、今から言うことは誰にも内緒よ、もちろん名雪にも」
 人差し指を一瞬だけ唇の前で立てると、びっくりするくらいに彼女は顔を近づけて来る。そして、耳元で囁いた。
「実はね、あたしのお父さん社長なの。それでね、あたしはお父さんの会社の常務なの」
 首筋にかかった、彼女の髪の一筋が離れる。自分の耳と彼女の唇との間に生まれた、暖かい空気が拡がって消えた。
「どう? ちょっと非日常的な話だったでしょ」



 目を開けると、夜明けに暗闇がかき消えるように、さっと夢の空気も消えていった。
 その存在に気が付いてしまってから、たずね続けている非日常への答え。結実しつつあったそのカタチさえもが霧散したような、寂寥感を覚える。
 空は青い。その丸みに白い雫が流れた後のように、雲は細長い。
 春はもう過ぎ去ろうとしていて、夏の気配がすぐそこにまでやって来ているのを感じる。
 遠くからセミの羽を震わす音が聞こえてくるような気がして、俺は耳を澄ませて、でもやっぱりあの鳴き声は聞けなかった。
 見られている。
 背筋の暖かみが一気に霧散する感覚に、部屋を振り返る。
 ――誰もいなかった。



 この世界には、もうずっと前から何かが欠けていた。
 そのことにようやく気がついたのだ、とたった今考えている。
 階段がギシギシ鳴る音に変わりはなく、階下から流れ込んでくるパンの焼ける匂いには郷愁――本当は、実家でパンを食べた思い出なんて無かったが――さえ覚える。
 それでも、このダイニングに繋がる曇り硝子の扉を開けると、窓から射す真っ白な光とダイニングの蛍光灯の下で、キッチンに朝の僅かな時間だけかかる朝もやの中でコーヒーだけが湯気をたてているような、そんな不安が拭えなかった。
「おはよう」
 声がかかってきた。名雪のだ。
 頭が疑問を差し挟む寸前に、体が心の言うことをきかず、彼女は大丈夫だ、と返事の挨拶を紡ぎ出す。
 その動作があまりに自然で、不自然な程に感じられた。
 世界を疑っている。だから、名雪も疑っている。
 名雪は俺が自分を疑っているなんて、微塵も思わないだろう。
 ――故に、彼女も同じ事をしていないとは言い切れなかった。
「もう、すっかり立場が入れかわっちゃったね」
「俺は名雪に起こしてもらってるわけじゃないぞ」
 パンの香りが食卓に広がっていて、秋子さんが微笑んでいる。
 窓から入ってくる光の斜面は白く優しく、なにか素敵なことを予感させた。
 多分、今俺は幸せなんだろう。でも、きっとそれは非日常の海に浮かんだ小さな、ほんの小さな水泡のようなものに過ぎないのかも知れない。
 知らなくちゃ――いや、思い出さなくちゃならない。今、目の前にある日常の世界をよく眺めて、僅かな違和感から世界の本当の姿を引きずり出さなくちゃいけない。
 非日常の恐ろしさとか、哀しさから、きっと俺は目を背け続けて来たのだから。
 名雪がリビングの扉を開けると、一歩一歩を踏みしめるような足取りで食卓に向かう。
 秋子さんと眼が合うと、眠気にとろけそうな表情を更にくちゃくちゃにして、おはようございますの挨拶をする。
 席に着く。それから、俺と秋子さんに交互に目を遣って小さな唇を開く。いただきます。
 ジャムをたっぷりと塗ったパンをさくっとかじる。おいしいね。パンの匂いを抱きしめて眠れたら幸せなのにね、祐一。俺は頷く。
 視線を手前に移して、白いお皿に並んだほかほかの食パン、クロワッサン、バゲット、それから色とりどりのジャムの瓶を眺める。
 確かこれは、プティ・デジュネという、フランス式の朝食だ。昔は、この家でもご飯におみおつけに納豆という、ごく普通の和式朝食だったと思う。俺は納豆の匂いが嫌いで――
「秋子さん」
「どうしたんですか? 祐一さん」
「確か俺、小さい頃に『冬の朝に納豆を食べると、匂いが部屋にこもるから嫌いだ』とか言ってませんでした? 確か、その次の年に来たときから――」
「それから名雪まで『朝に納豆を出さないで』って聞かなくなったものですから」
「おひゃあさんっ」
「だからモノを口に入れたまま喋るなって」
 もぐもぐ、ごくんと名雪がパンを飲み込む。
 それから、三人に均等に沈黙がのしかかった。秋子さんの笑みが移って、名雪もにこにこと笑いながら俺を見ている。二人とも、あなたの為なのよ、とは言わない。
 少し気まずかった。自分まで笑顔になってしまうのを何故か堪えてしまうような、そんな嬉しい気まずさだった。



 パンにジャムをたっぷりと塗って平らげた。やはりこの甘さには慣れない。――かと言って、あの非日常ジャムを食べる気にはならないけれど。
「あ、ちょっと待って」
 席を立とうとすると、危なっかしい足取りで、ティーセットをお盆の上でかちゃかちゃ弾ませた名雪に呼び止められる。
「あのね、今日はわたしがお茶を淹れるから」
 季節が変わり、暖房の音の消えたダイニングに水音が響く。赤い花が一本活けられたテーブルの上に、湯気が立つ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「どういたしまして。――今日は香里がうちに来るんだって」
 名雪は笑っている。
「ああ、だけど、今日はちょっと用事があるんだ」
 疑うと言っても、別に何らかの悪意や欠点を見いだそうというわけじゃない――そう思い苦いブラックのコーヒーを呑んだ。
 秋子さんや名雪のことは信頼している。だけど、これはそれとは別の問題なんだ。
 人は優しくても嘘を吐く。優しいからこそ、隠し事をする。
 笑顔の裏に、簡単に人を押しつぶしてしまえるような苦痛を仕舞い込んでいた彼女を、俺は知っている。
「分かった、栞ちゃんとのデートでしょ」
 秋子さんが、あら、と微笑んで頬に手をあてた。
 僅かに自分の動きがぎこちなくなったのを知っていた。それを彼女たちが見逃さないことも。
「いいなー。わたしもちょっと、恋がしてみたくなったよ」
「あらあら、二人とももうそんな歳になったのねぇ」
 二人の笑みが深くなる。それに合わせて、一層自然に自分の照れ笑いを浮かべることができた。
 気付いて欲しいことにはすぐに気付いてくれるけれど、隠したいことは見逃してくれる。いや、本当に気付かない。
 そんな愛すべき家族を疑いの世界の中に加えていることに、しかし、もう胸の痛みも感じなくなるほどに慣れてしまっていた。







 家の扉は奇妙に重かった。開けた途端、風が膨れあがりのし掛かってきた。
 少し前まで、風は無かったんじゃないのか? いや、風の強さが変わるなんて、実に自然な出来事じゃないか。
「いってらっしゃーい」
 見送ってくれた名雪は髪を振り乱しながら、まるで風なんてないかのように笑っている。
 変? いや、単に彼女が無頓着なだけだろう。
 そして栞が後ろから話しかけてきた。
「祐一さん」
「うわっ」
 思わず一歩後ずさる。
「きゃっ」
 躰にぶつかる。
「祐一、どうしたのー?」
 家の中から名雪の間延びした声が聞こえてきた。玄関を出てからまだ9歩目、これもおかしい出来事じゃない。
「いや、ちょっとマントヒヒにぶつかったんだ」
「そう、気を付けてね」
 相変わらずいとこは細かいところを気にしない。それが彼女の抜けているところでもあり、美徳でもあった。
「さて、行くか」
「ちょっと。祐一さん」
「なんだ、栞じゃないか」
「なんだじゃないです」
 そう言って栞は、小さい頬を膨らませる――突っつくと、ぶっという音と共に破裂した。
「なっ、何するんですかっ」
「いや、つい……」
「ついじゃないですっ」
 栞は元気だった。
 ――彼女こそ嘘じゃないだろうか、と猜疑心がまた鎌首をもたげる。
 そうだ、栞は本当に死の淵から立ち直る事ができたんだろうか? 考えてみれば、最も怪しい話じゃないか。
 一つの仮説が思い浮かぶ。
 俺は彼女が病気だった姿を見たことがない。それこそが嘘なんじゃないか?
 だけど、彼女の透き通るような白い肌、あれこそ彼女が病気だった証拠じゃないか。
 いや、だけど今だって彼女は透き通るような肌をしてるぞ。透き通って、まるで後ろの景色が見えるばかりじゃないか!
「……なんか、物凄く突拍子もないことを考えられてる気がします」
「うっ……鋭いな栞」
「もぅ、それくらい分かりますよ」
 栞は俺の腕を取ると、小さな唇の端を持ち上げた。
「だって、私は祐一さんの彼女なんですから」
「――。あ、あれ何だ栞」
「ちょっと、聞いて下さいっ。本気で怒りますよ」
 真っ青な空に、赤や、緑や、黄色や、花畑のように並んだ風船が一斉に、逆さまに飛んでいた。








「あっ、風船……」
 名雪がぽつんとつぶやいた。話がエアーポケットに落ち込んで僅かに気抜けした、まさにその瞬間を狙ったかのようだった。
 助かった、と香里は思った。ここで会話が途切れてしまうと、また辛いことを考えなくてはならなかったから。
「風送りよ」
 あんただって地元の人間なんだから、知ってたでしょ? と訊ねると、ううん、知らないよ、という返事が返ってきた。
 知らないなら、それでも良いだろう。一つ話題ができて、少しだけ苦痛から逃れることができる。
「風送りってのはね、ああやって風船を飛ばして厄を祓う儀式なのよ。この街の、更に東部でしか行われない、本当にローカルな儀式だけどね」
「そうなんだー」
 何が嬉しいんだか。
 付き合ってもう6年も経つけれど、今だに香里は名雪の笑顔に慣れない。
 それは自分のせいなのだ、と頭で理解していても悲しみを増やすだけだった。もうどうすることもできないから。
 香里にとって、名雪は過去の人間だった。そうけじめをつけた。
 今日会ったのは、辛い今という現実から逃げ出しただけ。――でも、逃げ出した過去にはもっと辛い現実があるってことを、あたしは忘れていた。
「あの風船の形は、天から降ってくる雨の滴を象(かたど)っているらしいの。ほら、この街って冬はドカドカ雪が降るけど、夏はカラッカラでしょ。昔酷い干ばつがあって、沢山の人が死んで、ようやく雨が降った時に、天の神様に感謝してこの儀式を行ったのが始まりらしいんだって。だから風船を二層に分けて、普通は上になる部分にヘリウム、下になる部分に水素を注入して浮力に差をつけて、ああやって反対向きに飛ばしているわけ」
 こうやって喋り続けることで、彼女が自分にくれる友情と、自分が彼女に与えられた友情との差を埋められたら――。そう香里は思っていた。
 ああ、それなのに。名雪はどうしてそんなに苦しそうな表情を見せてしまうのだろうか。
「相沢君のこと考えてた?」
 言いながら、良くないと香里は思った。
 名雪が今の気持ちを正直に見せてしまったのは、一瞬だけだった。それは付き合いの長い自分には気付いてしまう長さであったけれど、名雪はそんな顔を見られたくないと思っていたに違いない。
 でも、そういったことには反射的に疑問を差し挟んでしまう。そして一度訊いてしまったら、後は自分が触れたくなかった話題にずぶずぶとはまり込んでしまうのだ。
「うん」
「彼も――」
 そこで一旦言葉を切り、名雪の表情を窺う。続きを言ってもわたしは大丈夫だよ、と彼女の会話用の表情が告げていた。
「あたしが言えた事じゃないけど、彼も酷いわよね」
 一人で勝手に頭がおかしくなっちゃって、という言葉は伏せた。








 俺は今、懐疑の病を煩っている。
 信じたい、だが信じられない自分がいる。自分は信じられるか? コギト・エルゴ・スム。我思う故に我在りBYデカルト。よし、大丈夫だ。
「祐一さん」
 栞が呼びかけている。
 今日の彼女は少しボーイッシュだ。濃紺のセーターの上に男性用の、青いラインが入った薄手のジャケットを羽織り、ブーツカットのジーンズを穿いている。
 その後ろにふわりと舞い上がる物があった。
 羽?
 その羽は赤や、青や、黄色や、とりどりの色に並んで閃いていた。
 いや、これは風船だ。さっき見たばかりじゃないか。
 ああっ、くそっ。精神は脳と不可分な存在だった。脳でさえ嘘を吐く。デカルトの嘘つき野郎。いや、俺が在ることは確かに疑いがないのか。疑うべきは俺の考えが『嘘でない』かどうかで――
「祐一さん、ちょっと」
 やや強い口調だった。思わず何だとこちらも語気粗く返してしまう。栞には不安をかけさせたくなかったのに。
「うーんと……」
 何か咎められるかと思ったが、栞は意外なことに、口元に指をつけて思案していた。
 今更……と俺が言おうとしたところで、微笑んだ。
「焦りは禁物ですよ」
 気抜けしたのと、その微笑み方が心和むものであったのと、それからきっと、今日という風の強い日が恐ろしくて何かを予感させて、俺は栞にキスを求めた。
 体を硬くしたまま動かないのが、彼女の肯定の合図だった。
 栞は今だにキスが上手くない。
 体を近づけると、両のてのひらで胸を押してくる。
「だから、焦らないでって言ったのに……んっ」
 そのまま栞の肩を抱いた両手を引き寄せた。
 予想通り、彼女の両腕に力は入らなかった。
 だから、自分のしたことが間違っていなかったのだと知れた。
 もっとしていたい、と思っていたところで、胸を押された。
 栞はこういう事には従順だとばかり思っていたので、少し意外だった。
「……いきましょうっ」
 顔を合わせようとせずに、彼女はそう言った。
 恥ずかしい思いをさせてしまったのかも知れなかった。



 地方都市には時々あることだが、この街のデパートは人口に不相応なくらいに、立派な構えを持っていた。
 全面ガラス張りの一階は、更に中央部分が最上階までの吹き抜けとなっており、上部にはやはりガラスでしつらえた天窓が填められている。
 ここから昼間には太陽の力強い日射しを、夕方には挽陽の柔らかな光を各階に注ぐことで、省エネにも役立てているという話だった。
 夜になると、今度は屋上の除雪、室内の温度調節も兼ねた人工滝が、赤、緑、青、紫、刻一刻と変化する様々な色合いにイルミネートされて中央フロアを幻想的な空間に変える。
 倉田財閥がその広衍なコネを最大限に活用して造り上げたというデパートは確かに、家族の憩いの場として、恋人の語らいの場として、この街の観光名物として十二分にその役割を果たしていた。
 ところが今日は、他の客の姿を見かけることがなかった。
 理由は、きっと風が強いからだろう。
 ちょっとした貸し切り気分ですね。嬉々とした表情でそう言う恋人にねだられて俺は、一階の片隅に業務用机を構えた中年過ぎの男に話しかけた。
 声を掛けられた男は深く一礼すると、坐るよう促した。
 男は占い師だった。
 栞が言うには、彼の占いは良く当たると評判らしい。ところが、男の机はそのまま家具展示コーナーに並べても違和感がない程に真新しく、その上には水晶や易棒はおろか、ペンの一本さえ載っていなかった。
 あるいは、そんなところが老若の女性に受けているのだろうか。そう思いながら、勧められるまま坐ると、男はうぉっほんと一度咳払いして、俺の顔を真っ直ぐに視た。着こなしに元サラリーマンらしさを感じる背広が、ぴんと伸びている。
 そして、男は小さく呟いた。

 ――そこにはもう、誰もいない。

 正体不明――いや意味不明だった。続きの言葉を求めて男を見たが、そこには、意外に端正な顔が微笑んでいるだけだった。
「はいはい、祐一さん、次は私の番ですよ――って、何で残念そうな顔なんですか?」
「いや……」
 何が残念だったのか、自分にも分からなかった。
 俺が席を離れると、栞は入れ替わり椅子の隣に立ち、お願いします、と会釈した。男も立ち上がり、こちらこそよろしく、お嬢さん、と一度深く頭を垂れる。二人は同時に坐った。
 息が合ってるな。祐一は溜息を漏らした。こういうのが本当の礼儀っていうのかも知れない。
 栞の肩は柔らかい曲線を描いており、緊張は全くない。育ちの良さが滲み出る彼女の所作に、そう言えば病気が治ってから、栞が自分以外と相対するのを見たのは初めてだったな。そう気が付いた。
 これからも栞の新しい面を、きっと知って行くだろう。俺も、彼女に相応しい男でありつづけないとな。

 ――きみは今、欲しいものがあるみたいだね。今日探せば、それはきっと見つかるよ。

 そう言って、男は微笑んだ。老人然とした、柔和な笑顔だった。



「駄目ですよ、私以外の人にみとれては」
 近所のお姉さんがちょっと悪戯を咎める。そんなにこにこ顔で栞は言った。
「いや、そう言うんじゃなくてだな。あれは――」
 不意打ち気味に、祐一の脇の下に両腕を伸ばしてくる。服の背中をぎゅっと掴むと、そのまま身体ごと唇を寄せてきた。
「本日二回目です。そして、これでおしまいです」
「今度は随分求めてきたな」
 俺がからかうと、栞は意外と澄ました顔で答えてきた。
「ちょっとお願いができたものですから」
「お願いって――もしかして、さっきの占いの――」
「正解です」
「何だかよく分からない占いだったじゃないか」
「そんなこと言って、祐一さんも結構本気だったじゃないですか」
「心から信じてるってわけでもないけれど、はなから否定してるってわけでもないから」
「はい。きっと、そんなものですよね。あるとは言えない――でも、ないとも言えない」
 栞は、絡めた腕に力を込めた。
「心霊とか占いとかって、非科学的と言われるじゃないですか。――でも、本当はそんなことは無くて、科学的に見ても、そういったことは『あるのかどうか検証がまだ為されていない』って状態なんですよね」
「そうだな」
 それに奇跡も、と内心で付け加えた。きっと彼女も同じ事を考えているのだろう。
「そ、こ、で」
 今までは楽しんでいる内心が自然に滲み出ているような、そんな笑顔だったのが、今度は意図的にそれを増量したような満面の笑みに変わる。
「丁度私、探し物があったんです。占いを信じて付き合ってくれませんか?」
「ちょっと待ってくれ。よりにもよって今日なのか!?」
 今日はデパートの客が殆どいない。何故なら――
 俺はフロア全体に散りばめられたガラス窓の一つに目をやる。
 ――窓の外では巻き上げられた砂塵が街を白く染め、更にそれらが光を乱反射し、街に異様なまでの明るさが漲っていた。



 二人無言で歩く。
 流石に峠は越したものの、掌で押さえずに口を開けば咥内があっという間にしゃりしゃりしてしまう程の風の強さだった。
 そんな中でもコンビニやガソリンスタンドは営業していて、時折懐かしいヒットチャートが風の音の隙間から漏れ聞こえてくる。車はワイパーとヘッドライトを付けっぱなしにして、徐行で走っていた。
 風の強い日、光に満ちあふれた日。道を歩き、暗い路地に入り、いや増す風の音に、心臓の鼓動がまけじと高鳴る。
 4歩半先を歩く栞のジーンズが、左右に揺れている。
 突き出される。栞がぽんと塀をよじ登ろうとしたからだ。
 届かないよー。と栞がぴょんぴょん跳びはねるので、今度は左右に揺れる。
「ちょっと、祐一さん、押してくれませんか?」
 そう言うので押した。
「きゃっ」
 え?
 栞は尻餅をついていた。
「ちょっと、祐一さん」
 またか。
「その……押すのは背中にして欲しいんですけど」
 足首を引っ張り上げた(背中を押して栞の体を上に持ち上げることは、どう考えてもできなかった)その時、彼女の背中に太陽の光が偶然当たった。雲や砂塵のせいで所々遮られたのだろう。翼のような、複雑な模様になっている。


 祐一君。


 声が聞こえたような気がした。








「じゃあ、あたしは帰るから」
「もっとゆっくりしていけばいいのに……」
「明日からまた授業あるし、向こうはこの街の学校ほどのんびりしていられないのよ」
 話したいことは山ほどあったが、香里も同じ思いだとは限らなかった。
 だから、名雪は笑顔で家の扉を開いた。
「この街の夕日を見るのは久しぶりね……綺麗だな」
「本当、今日は風もないし、ものみの丘がここからでも見えるよね」
 駅まで送るよ、という名雪の言葉は、道知ってるからいいわ、という香里の言葉に行き場を失い、空気の中に消えた。
 何の未練も残さず消える香里。
 結局、彼女もこの街から消えてしまった。そう思うと涙が出そうになって、ふぁいとっ、だよ、と自分を慰める。
 そういえば、祐一はどこに行ったのだろうか?
 お母さんは夕飯にでかけたまま、帰ってこない。
 夕日の赤が、何か不吉なことを連想させる。そして、あの日の雪ウサギの目の色を。
 ひとりぼっちは嫌だった。
 だから、祐一を迎えに行くことにした。








「到着ですっ」
「一応、目的地はあったんだな」
 その場所は、林を丸く切り取ったように、ぽっかりと開けていた。
 夕日の光彩が、周りの木々と、平にならされた大地と、それから今だに吹き付ける風の砂塵さえもオレンジ色に染めていた。
 そして、そこには僅かに石が並んでいた。銘の刻まれた石。墓石だった。
「ここに昔、切り株が生えていたというのはご存じですか?」
 少し離れたところから、栞が寂しそうに言う。
「今年の初めについに引き抜かれて、ここから数百メートル離れたお寺の、離れの墓地に変わったそうです」








 結局、香里も祐一の時の繰り返しだった。
 突然良く分からない理由でこの街を離れる。
 本当に大切な人で、相手も自分を大切に思ってくれてると感じてたのに、自分では支えにもなれなかった。
 それが悔しかった。いつも頑張っているのに、何の力にもなることができない自分が。
 結局、お母さんに甘えて泣くことしかできない自分が。
 だけど、だから、今は祐一を捜そうと思った。
 きっと自分が外に出ている間に、祐一は帰ってこない。
 そんな予感があった。
 もし帰ってきていたら、ただいま、と笑顔で言えばいい。








 夕日を背に、彼女の姿は黒ずんで輪郭しか分からなかった。
「さっきの風船、覚えていますか?」
「ああ」
「あの風船は、風送りって言うんです」
「今日みたいな日にぴったりだな」
「ああやって風船を飛ばすことで、自分の不幸や呪いを洗い流して、新しい自分に生まれ変わる、そんな儀式なんだそうですよ」
 それから、お墓のひとつの前に立ち、手招きをした。
 近付く。それと共に、文字の輪郭が明らかになっていく……。
 お墓には、月宮あゆと書かれていた。
「ここに木があったって言いましたよね。その理由は、一人の女の子が――」
「いやいい。思い出した」
 ようやく、自分が何を覚えていなかったのかに気付くことができた。
 頭の中の霧に、太陽が射し込めた気分だった。
 そして、もう一つのお墓の前に立ち、また手招きする。
 見なくても、その文字は分かっていた。
 美坂栞。
 何故だろう。
 本当に様々なことが一片に起こって、今だに全ての感情が同時に沸き上がっているかのようなのに、出る言葉は一つしか思い浮かばない。
「ありがとう」
「どういたしまして。――そして、さようなら、祐一さん」
 どうして別れを告げられるんだろう? 何故今?
 ああ、俺が気付いてしまったら、もう終わりなんだ。
 風が吹き付けてきた。自分の心を本当に洗い流してくれるかのように。
 あまりに激しくて、目を開けていられなくなって――暫くして突然静かになり、祐一は目を開けた。


 ――そこにはもう、誰もいなかった。








 そこに彼はいた。
 その顔を見て、名雪は安堵した。安堵があまりに深くて、立っていられないほどだった。
「名雪、今までずっとごめんな」
 最初に祐一は、そう言った。
「それから、話したいことがあるんだ。沢山……今夜だけじゃ話しきれないくらいに」
 次に祐一は、そう言った。
「うんっ」
 名雪は、涙に頬を濡らしながら、頷いた。



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