「いくら祐一の頼みでもそれは嫌だよ〜」
相も変わらずのんびりした名雪の叫び声が水瀬家にこだまする。
もとい、充満する。
眠くなるから勘弁してくれ。
ちっとも緊迫感ないし。
「やかましい、誰のせいでこんなことになったと思ってんだ!?」
名雪のボケペースに巻き込まれないよう、必要以上に凄んでみせる。
実際ただ事じゃないのだが。
「だからって何でわたしがパンツを祐一にあげないといけないの!?」
「パンツだけじゃない、ブラもだ! ゴチャゴチャ言ってないでさっさとよこせ!」
「うー、祐一開き直らないでよ」
顔を紅潮させながら顔をしかめる名雪。
怒りと照れが半々というところだろうか。
まあ、それでも怒り爆発といかないのは自分の非を認めているからなのだろう。
ていうか、俺だってこんなセクハラまがいのことを言いたくない。
言ってて自分が凄まじく情けなかった。
従姉妹で家族の名雪でもなきゃ、こんなこととてもじゃないけど女の子相手に言えたもんじゃない。
……俺って名雪のこと女の子って思ってたんだな。
妙なところで自分の認識に感心してみる。
まあ、今はそれどころじゃない。
何が何でも名雪から下着一式をいただかないとならないのだ。
そうしないと……。
「んじゃ何か? 香里に頭下げてもらって来いっていうのか?」
「そ、そういうわけじゃないけど」
香里の名前を出した途端名雪が怯む。
よし、もう一押し。
何だかんだでこいつは他人思いの優しいやつだからな。
自分が少し我慢すれば済むことなら敢えてこらえてくれるところがある。
自分に負い目がある状況なら尚更だ。
「お前、それを頼み行く俺の身の安全を保証してくれるんだろうな?」
俯いたまましばらく名雪沈黙。
そして、次に顔を上げたときには諦めの表情になっていた。
「……分かったよ。わたしにも責任あるもんね」
そう言ってとぼとぼと自室に戻っていく。
ふう、何とか説得が通じたか。
溜息をついて額の汗を拭う。
いくら相手が名雪でも『下着よこせ』なんてのは恥ずかしすぎだ。
しかし、どう考えて諦めという結論に至ったんだろうな……。
親友の少女に失礼極まりないイメージを持たれている香里がなんとなく哀れだった。
まあ俺も人のこと言えないけど。
「取ってきたよ。これでいい?」
部屋から戻ってきた名雪が手に持ったパンツとブラを俺に手渡す。
白のブラに白のパンツ。
猫のプリント付きの物でも渡されたらどうしようかと思ったが、無難なところだしこれでいいだろう。
「祐一……そういうことするなら返してもらうよ」
「ん、ああ、すまん。サンキュな」
パンツとブラを広げてしげしげと観察していたら、顔を真っ赤にした名雪が睨んでいた。
慌ててそれらを丸めてポケットの中に収める。
まるっきり変態気分だが、見ていないというのに安心したのか名雪は胸を撫で下ろしていた。
と、そこでちょっと思い直してパンツを再び引っ張り出す。
……うーむ、見事なまでに白いな。
ひょっとして……。
「名雪、これって使用前か?」
「何で使ったのを渡さなきゃいけないんだよ! ぶつよ祐一」
色んな意味で頭が噴火寸前の名雪さん。
右手は言葉どおり『ぐー』になっていた。
どこか浮世離れしている名雪でもそういうところはデリケートな問題なんだろう。
とりあえず、名雪からもらった下着一式は新品ということだ。
心のどこかで使用済みの物を渡してもらえることを期待していた自分の変態思考にやや自己嫌悪。
俺にこんなことさせて満足か?
……栞。
とらいえーす
事の始まりは俺が栞とのデートに遅刻した事だった。
10分程度の遅刻ならまだよかったのだが……こともあろうか一時間の大遅刻。
更に悪いことに栞は久々のデートに胸を躍らせて一時間前から待っていたらしい。
まあ、栞が約束の時間より早く来ることはいつものことで、それだけ俺のことを想ってくれているのが分かって嬉しいのだが……。
それだけに今回の大遅刻はまずかった。
息を切らしながら約束の場所に駆けつけた俺に栞は笑顔で一言。
『帰ります』
である。
もちろん声が笑ってない。
ていうか外見怒ってないのが滅茶苦茶怖かった。
色々言葉を並べて謝る俺だったが、栞は聞いちゃくれない。
『いえいえ、祐一さんの気持ちはよーく分かってますから』
笑顔でその一点張り。
チクチク責められるよりもはるかに痛かった。
心が。
必死に謝った結果なんとか許しを得ることが出来たが、その条件がとんでもなかった。
『お姉ちゃんのパンツとブラを取ってきて下さい』
である。
栞というのはとにかく怒らない少女だ。
それだけ聞くととてもよく出来た彼女に思えるだろう。
ただし、本当は違う。
あくまで自分で怒らないだけである。
例えばその、姉である香里の下着一式を取って来いというのは……。
『見つかってお姉ちゃんにぶっ飛ばされてきてください』
という意味である。
いや、それだけではない。
そんなことをしたという噂がクラス中に広まったら俺の立場はどうなることやら……。
自分自身が直接怒るよりもその方が俺にはこたえるとよくわきまえている。
言われたとおり香里の下着を取って来ればすんなり許してくれるんだろうが……。
俺が失う物が多すぎる。
いや、もちろん栞のためならなんだって捨てられるさ俺だって。
俺は栞のことがどうしようもなく好きだから。
だけど失う物が少なくて済むならその方がいいって考えるのは当然だろ?
そんなわけで恥を承知で名雪に下着をよこせと頼み込んだわけである。
そもそも、今回の遅刻の原因は名雪が少なからず関わっていた。
完全に俺の責任だったら、恥もプライドもかなぐり捨てて香里の部屋に忍び込んでいただろう。
だが、そうでないのが最終手段に踏み切れない躊躇の原因だった。
で、名雪が何をやったのかというと、そんな大それたことではない。
前日、『新しい声を入れてみたいから』ということで例の目覚ましを名雪に返して別の物を借りただけだ。
運悪くその代用品に名雪が渡した目覚ましの電池が切れかけていたというわけである。
それで名雪に責任転嫁するというのも心が狭い気もするが、場合が場合だ。
香里のところに特攻したら最悪命が危ない。
それに停止寸前の目覚ましをデートを翌日に控えた俺に渡した名雪に非が無いとも言い切れまい。
そんなわけで、俺は名雪のものを香里のものと偽って栞に差し出すことにした。
……騙すのに抵抗が無いわけじゃないが、もう既にかけるだけの恥はかいてる気がする。
これだけ精神ダメージを受けていれば栞も何とか許してくれるだろう。
もとより栞の目的は俺に精神ダメージを与えることなのだから。
しかし、腑に落ちないこともある。
今まで栞はここまで聞き訳のない態度を見せたことは一度もない。
ちょっとイタズラの度が過ぎて怒らせてしまったことは多々あったが、それも怒ってみせるという程度のものでここまで本格的なものでもなかった。
遅刻はきっかけで、怒りの理由はもっと他のところにあるんだろうか?
絶対あるんだろうな……。
あいつの言動はいつもその向こう側に深い意味が込められているから。
翌日、昼休みになると同時に俺は栞の教室に直行した。
そして適当な女生徒を捕まえて栞を呼んでもらう。
女生徒を選んだのは別に下心からではなくて、その方が話が通りやすいからだ。
結構男女の壁が薄い我が校だが、それでも同性同士で固まっていることは多い。
ていうか、後輩とはいえ男子生徒に自分の彼女を呼びにいかせるなんてあまりいい気がしないのも事実だ。
程なくして、窓側の席に座っていた栞が廊下に出てきた。
……笑顔で。
変に刺激すると怖いので、何もいわずビニール袋を差し出す。
中には昨日名雪からもらったモノが入っている。
「……持って来たぞ」
げっそりした雰囲気を装って一言。
ここで達成感を見せつけてはいけない。
あくまで栞は俺が困っているところを見たいのだから。
「早いですね。それじゃあ、中身を拝見させてもらいますー」
「あ、待て、ここで……」
『ここで出すな』と言おうとした時には遅かった。
嬉々とした表情で袋の中身を高々と持ち上げる栞。
ただでさえ上級生と下級生の逢瀬という注目浴びる構図を廊下に作り出しているのだ。
そこに来て栞の嬉しそうな声が響き渡れば視線が集まるのも当たり前だろう。
そして栞の右手にはパンツとブラがこれでもかと分かりやすい具合に握られていた。
「やだ……何かしらあれ?」
「パンツとブラ?」
「あの先輩やるなあ」
下級生の皆さん、こっち見ないで。
マジでお願いだから。
どういう想像をされているのか考えると心がしくしくと痛む。
だが、目の前の彼女はもっと残酷だった。
「祐一さん、これは誰の物ですか?」
「いや、誰ってもちろん香里の……」
「名雪さんのものですね」
有無を言わせぬ視線が俺を射抜く。
ああ、なんてミスを犯してたんだろう。
はじめから栞に俺ごときのちんけな嘘が通じるはずなんてなかったのだ。
何しろ俺の彼女は……。
誰よりも嘘つきで、誰よりも正直者の顔を持った女の子だから。
「はい、そうです」
素直に負けを認める俺。
下手に誤魔化せば誤魔化すほどドツボにはまる。
本能的にそんな危険を感じ取った。
「お姉ちゃんはこんなの持ってませんし、おまけにこれは新品です」
「……何でそこまで分かるんだ?」
特に後半部分。
「脱衣かごに入ってるの見ますし、思春期の女の子のものは色とか匂いとかが……ってもう、何言わせてるんですか!」
なんだそのわざとらしい身をよじった恥ずかしがりようは。
ていうか色と匂いって何だよ。
女の子の使用済みパンツと新品パンツはそんなに違いがあるっていうんだろうか?
『思春期の』という言葉に何か甘美なものを感じる。
……やば。
想像するとすごく気になってきたぞ。
今度こっそり名雪のを……。
って、俺はアホかーーっ!
「それじゃ祐一さん、お姉ちゃんのモノ待ってますよ。それとこれはせっかくなのでいただいておきます」
にこっと、それはもう爽やかな笑顔で栞さんは教室に帰っていっちゃいました。
名雪さんからいただいた下着一式を大事そうに抱えて。
……ていうかあんたそんなもん持って教室で何言いふらす気だ!?
ピシャリと閉じられた扉の向こうが気になって仕方ない。
いや、どう考えても俺にとって都合のいい展開があるはずない。
もう国に帰ろうかな……俺。
なんて思ってると、再び教室の扉が開く。
出てきたのは栞だった。
ああ、栞。
やっぱり考え直してくれたんだな。
君ならそろそろ『やりすぎた』と許してくれると思ってたんだ。
その暖かな笑顔が天使の微笑みに見えるぜ。
「ああ、そうそう祐一さん」
そう言って栞から何かを手渡される。
鍵だった。
自転車とかのものじゃなくて、たぶん扉用の。
「おうちのスペアキーです」
「……は?」
おうちのスペアキー。
つまり美坂家の鍵ということか。
「頑張ってくださいね」
にこー。
鍵で頑張るって何を?
って、まさか……。
ノオオオオオッ!?
スニーキングミッション(潜入任務)『香里の下着を奪え!』の補助アイテムですかい!
つまり……逝ってこいと。
悪魔の微笑を残して栞は教室へと帰っていった。
もう過去も国も捨ててどっかに逃げようかな……。
「……というわけなんだ、何とかしてくれ名雪」
「もうそんなのわたしの手に負えないよ〜」
至極もっともです、名雪さん。
ていうか俺の手にも負えない。
自分の教室に戻った俺は、名雪に事の顛末を話していた。
ついでに下着は奪われてしまったということも。
イチゴサンデー一つで許すと言ってくれた名雪が女神様に見える。
あのパンツとブラのお値段はその数倍はするとか。
「名雪……すまん、胸貸してくれ」
そう言って名雪の両肩を掴む。
間近に迫った顔に名雪の顔がぼっと熱を帯びるのがわかった。
「え、ええっ?」
「お前の胸に顔を埋めて泣きたいんだ、頼む」
「え、えっと……」
顔を赤くして言葉に詰まる名雪。
しばらく躊躇していたようだったが……。
「う、うん、いいよ。わたしでよかったら」
そう言って目を閉じた。
俺はその胸に顔を……。
顔を……。
どうしても埋めることが出来なかった。
それどころか、両肩を掴んだところから1センチも名雪に近寄ることが出来ない。
軽い冗談と割り切ってるのに、それでも無理だった。
相手が母さんや秋子さんだったらその距離を詰められたかもしれない。
でも、名雪相手には無理だった。
名雪は大事な家族だけど……やっぱり女の子だから。
俺は息を吐き出し、名雪の両肩から手を放した。
「祐一……?」
恐る恐る名雪が目を開ける。
「すまん、やっぱいい。俺、どうしようもないくらいに栞が好きみたいだ」
無理難題を言われても……。
周りから変態呼ばわりされても……。
俺はどうしようもないくらいに栞が好きだった。
「うん、祐一らしいよ。ちょっと残念だけど」
深い意味はないよ、と付け足しながら名雪がやわらかな微笑を見せる。
その姿が一瞬秋子さんに重なって見えて、恥ずかしいものを感じた。
「というわけだ北川、ちょっと背中貸せ!」
「何がだ? こらおいっ、何なんだ!?」
教室の後ろで財布の中身を勘定していた北川を捕まえ、無理矢理柱代わりにする。
名雪への照れ隠しのために。
「祐一、素直に香里に言った方がいいと思うよ。栞ちゃんが何を考えてるのか分からないけど、誤魔化されるのは気分良くないと思うし」
背中越しに聞こえてくる名雪の声に溜息をつく。
「はぁ……もうそれっきゃないか」
本気で気が進まないが、下着泥のような真似をするくらいならその方がマシだ。
ていうか、スニーキングミッションを実行したらマジで殺される。
運良く見つからなかったとしても事後処理で絶対に。
「なあ、なんかよく分からんがオレはジュースを買いに行っていいのか?」
財布から小銭を取り出す音をさせながら背もたれの柱となっている北川が俺に尋ねる。
俺は返事代わりに尻相撲のごとくいいケツを一発入れてやった。
「ぐわっ!? 何しやがる!」
「まあまあ、怒るな。これでジュースでも買って来いボウヤ」
振り返って怒鳴る北川の手に小銭を握らせる。
「オレは缶ジュースを買いたいんだが」
「お前はちっさな紙パック牛乳で十分だ。精がつくぞ」
「いや、腹下すだけだって。牛乳で精がつくわけないだろ」
「ケツの穴の小さい奴だな。俺のおごりが受けられないっていうのか?」
「なんで偉そうなんだ。って、休み時間が!」
『休み時間が終わる!』と言いたかったのだろう。
北川は慌ただしく教室を出て行った。
ちなみに、結局北川は缶ジュースを買ってきた。
俺のやった金は募金箱に入れてきたらしい。
北川……お前『武士(もののふ)』だ。
放課後、俺はラスボス、もとい香里を校舎裏に呼び出した。
言い訳や理屈なんかこねまわしたってこいつには無意味だろう。
だから俺は最初から本音でぶつかった。
当たって砕けろだ。
「香里、パンツくれ、パンツ」
あ、いかん。
パンツだけもらっても意味がないんだった。
「ついでにブラも。あるだけ全部」
うむ、決まった。
これ以上にないくらいにシンプルイズベストだ。
これなら香里は『理由はあとで訊くわ』と黙って渡してくれるに違いな……。
ガツッ!
問答無用で殴られました。
鞄の角で。
痛い……。
香里の奴、何も鞄の角で殴らなくてもいいだろうに。
しかも本気で。
そりゃ、冷静に考えると言い方がまずかったかなと思ったさ、俺も。
……かなり。
家に帰ると、大きなこぶが出来ていた。
マジ痛い。
リビングのソファーに腰掛け、冷凍庫から取り出してきた氷嚢を頭に当てる。
ほんとに水瀬家は何でも揃ってるな。
用意がいいというかなんというか、さすが秋子さんだ。
しかし、どうしたもんだか。
香里に謝ってもう一度ちゃんと頼むか?
それとも……。
ポケットをまさぐりスペアキーを取り出す。
こいつを使ってスニーキングミッション開始と行くか……。
どっちにしても待っている結果はあんまりいいものに思えない。
むしろどっちも最悪。
はぁ、と溜息だけが出る。
ていうかなんで栞もここまで俺に酷い仕打ちをするんだろうな。
あいつはそんなに聞き訳のない奴じゃないのに。
そう思えるからこそ俺は栞を好きでいつづけているわけだが……。
やっぱり何か深い意味があるんだろうか?
伊達や酔狂であいつがこんなことを俺にさせる訳がない。
そんな奴ならとっくの昔に見限ってる。
「はぁ……いったい何なんだろうな」
と、俺が呟くと同時にチャイムが鳴った。
来客か?
俺は立ち上がって玄関に向かった。
扉を開けると目の前にいたのは……。
「頭、大丈夫だった?」
意外にも、俺の頭頂部を襲っている痛みの原因を作った人物だった。
両手には大きく膨れ上がったビニール袋が下げられている。
「相沢君、いくら物分りがいいつもりのあたしでもあれは怒るわよ。まるっきり下着強盗じゃない」
「う……すまん。後で殴られて当然って気が思いっきりしてた」
ビニール袋を俺の前に下ろし、腕を組んで呆れてみせる香里。
俺は素直に頭を下げた。
「話は名雪から聞いたわ。まったく、あの子にも困ったものね」
やれやれと言わんばかりに香里が溜息をつく。
あの子とは栞のことだろう。
「名雪から聞いたってことは、ひょっとしてこのビニール袋の中身は……」
香里の下着が入ってるのか?
そう思ったら香里はにこっといたずらっぽく微笑んで……。
「違うわ、入ってるのは栞のモノよ。ちなみに全部使用済み。よかったら手に取って匂いをかいであげたら?」
と言った。
「……え?」
思わず言葉に詰まる俺。
何で栞の下着なんか持ってきたんだ?
栞が要求してるのは香里の下着なのに。
「何であたしが相沢君に下着を渡さなきゃならないのよ。夫婦喧嘩に他人まで巻き込まないでちょうだい」
「うう、悪い」
香里のむっとした表情に思わず謝ってしまった。
栞も怖いけどお姉さまはもっと怖いです。
「栞にお灸を据えるつもりで持ってきたのよ。今ごろ顔真っ赤にしてこっちに向かってきてるんじゃない?」
だが、そんな俺の姿をくすっと笑いながら香里はそう言った。
それではっとする。
ああそうか、なるほど。
「なるほど、栞も自分の下着を持っていかれたら恥ずかしいってことか」
「そういうこと。いい薬になるでしょう」
部屋の下着がすべて消えているのを見てパニくる栞の姿を想像して二人で笑った。
「まあ、今回一番悪いのは相沢君よ」
「え?」
笑うのを止めて、腕を組んだ香里が真面目な顔をして俺を睨む。
「あなた、栞を忍耐強くて聞き分けのいい子ってイメージに甘えてない?」
「そんなこと……ないことないな。思いっきり甘えてる」
香里の一言はまさに、俺が栞に対して持っている認識の核心を突いていた。
今回のことの発端となった遅刻に関してもそうだ。
遅刻してもちゃんと謝れば許してくれると思ってた。
栞は忍耐強いし聞き分けのいい彼女だから、理由をちゃんと説明すれば分かってくれると。
一度や二度の失敗くらいなら笑って許してくれると今までも結構甘えているところがあったかもしれない。
相手が名雪だったらそう簡単に許してもらえないのではないかということですらも。
「それは大きな間違いよ。あの子だって人並みに独占欲とかは強いの。ううん、ほんとは人並み以上に我儘」
「え……そうなのか?」
「あの子はね、病気で他人に迷惑をかけるようになってからそんな自分を出さないようになったのよ。相沢君が知らないのも無理はないわ」
子供の頃、あの子のバニラアイスを食べちゃったら取っ組み合いの喧嘩を仕掛けられたこともあるわよ、と香里が付け足す。
正直、『あのおとなしそうな栞が?』と驚く気持ちがある反面、理解できる面もあった
栞はおとなしいように見えてかなり意志が強い。
それは言い換えると、内に秘めた『我』は相当強いとも言えるのではないか?
「我儘にさせてやれってわけじゃないけど、もっとありのままのあの子と向き合ってあげて」
香里はそう言って一歩下がり、扉に手をかける。
「あの子の姉としてのお願いよ」
そして、満面の笑顔で微笑んだ。
俺はそれに対して照れ隠しに頭を掻く。
「ああ、色々悪かったな。それとありがとう」
「ふふ、名雪にも忘れちゃだめよ」
「分かってるって」
「それじゃ、そろそろ栞が来るでしょうしあたしは帰るわ。しっかりやるのよ」
「じゃあな、また明日」
パタン。
片手をあげて小さく手を振る俺の姿を見てから、香里は帰っていった。
玄関先で栞が来るのを待ちながら考える。
まったく、香里の言う通りだな。
よく考えたら今回の件は栞が快く思わないことばかりだった。
遅刻、しかもその原因は名雪。
そして誤魔化しにも名雪の手を借りた。
俺が栞の立場だったら、遅刻も許せないし、他の異性が近くにいるっていうのも気持ちのいいものではないだろう。
でも俺は栞だったらそれくらい気にしないでくれると甘えていた。
今回の件に限らず、細かいところでは再会の日からずっと。
それにしても……。
『香里の下着を盗ってこい』とは、うまいな。
全てが見えてみると栞の頭のキレにほとほと感心した。
それの効力を考えるともちろん嬉しくはないけれども。
もし今回の計画が栞の目論見どおりに進んでいたら……。
名雪、香里はおろか、学校中の女生徒全員が俺に対して一歩引いていたに違いない。
色々尾ひれのついた噂のせいで。
そして、俺の側にいられる女の子は栞一人になるという寸法だ。
本当に怖い女の子に恋しちゃったみたいだな俺は。
でもそれと同時に思うこともあった。
栞らしくてかわいらしい嫉妬だな、と。
嫉妬もかわいく思えてしまうってのは、これが惚れた弱みってやつなんだろう。
自室にこもり、ベッドの上で枕を抱えて『むーっ』と唸りながら常々こういう計画を考えていたであろう栞の姿を想像して笑う。
本当にかわいいやつだ。
扉が小さな手で慌ただしく叩かれる。
顔を合わせた俺達の最初の言葉は……。
「ごめんなさい」
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