俺、この地に骨を埋めます。
 あっそ。ご自由に。
 と、返ってきた両親の返答は実にそっけなかった。
 もう少し他に言うことはないのだろうか?
 息子抜きで外国で何やってるかなんて、こっちも知りたくない。
 ご自由にどうぞ。
 と、言い返してやったら『やだぁ、妬いてる?』とか笑われた。
 ムカつく。


 まあ、骨を埋めるかどうかはさておき、一つの場所に定住するというのはいいことだ。
 特に、春休みに実家から引き揚げてきたゲーム機の数々。
 いつ帰るか分からない状況じゃ、持ってくるわけにもいかなかったもんなあ。
 しばらく触れてないうちに話題の新作とやらもいくつか出てるし、当分ゲームにも困りそうもない。
 うんうん、飽きてきたら数ヶ月ほど封印してみるってのも乙なのかもね。
 なんてことを思いながら、今日も三月に発売されたとかいう名作RPGを片手に水瀬家への道を急いでいた。
 もちろん、中古屋でゲットした定価の半額のブツ。
 ああ、発売直後に蝶よ花よと追い回していた日々が懐かしい。
 相沢祐一は、大人的なゲームの買い方を覚えた! なんちゃって。
「ただいまー」
 靴を脱ぎ捨て、ザッザッザと階段を駆け上がる。
 階段昇降の効果音を奏でてしまうほどに、もう気分は冒険モード!
 さあ、今日は徹夜でイクぞ!
 スーパーハイテンションでゲーム機の待つ自室へ飛び込んだ。

「……ぐすん」
「何かいるし!」

 よく知った少女が一人、膝を抱えて部屋の片隅で震えていた。






ガストラ帝国の残光







 どんより。
 率直に表現するなら、これほど的確な言葉はない。
 ていうか、部屋のカーテン閉めきってるし。
「……すん、すん」
 閉めきった本人は、何か泣いてるし。
「あー、あー、聞こえるか?」
「……すん、すん」
 買ってきたソフトをベッドに放り投げ、ため息をつきながら少女の傍に近寄る。
 しかし、応答はない。
 ダメだこりゃ。
 仕方ないので、肩に手を置いて優しく語りかけてみる。
「よしよし、とりあえずカツ丼でも食うか?」
「牛丼がいい。取調室のカツ丼は自費だから」
「どっちも自費だ、ドアホ!」
 思わず、すぱーんとばかりに頭を叩いてしまった。
 何しょうもないことを真顔で返してるんだ、こいつは。
「ったく、人の部屋に勝手に上がりこんで何の用だ、舞」
「……別に」
「何もない奴が人の部屋に引きこもるかっ」
 叩かれたのに少々ご立腹なのか、ぷいっと横を向いたままの舞。
 何しにきたんだよ、おい。
「なんでもないなら佐祐理さんに引き取りに来てもらうからな」
 今はゲームがしたいんだ。ザッザッザって効果音で階段上るくらいに。
 用を話す気がないならさっさと帰ってもらう。村人Aより存在価値がない。
 そう思って部屋を出ようとすると、何かが足に絡みついた。
 しかも、ぐいっと引っ張られて危うく転びそうになる。
「だあああっ、危ないだろ!」
 右足に舞がしがみついていた。
 振りほどこうと足をバタバタやるが、舞はぎゅっとしがみついて離そうとしない。
 まるで『ええい、離さんか!』『行かないでアナタ!』と夫婦漫才を演じているような図である。
 いや、実際こいつとはそういう関係だったりするのだが。
 だが、今は俺はゲームがしたい。
 実際、こいつとはその程度の関係でもあったりするのだが。
 いやいや、別にゲームの方が大事ってわけじゃないよ?
 そりゃ、『朝まで私のこと抱きしめて!』とか言われたら、どっちが優先事項かなんて言うまでもないわけで。
 つまり、こいつとはそういう感じの関係ということだ。
 ……何に言い訳してるんだろう、俺。
「あのなあ、舞。離してくれないか?」
 普通に邪魔だし。スネなんかに抱きつかれても、やわらかいとかそういうのもないわけで。
 しかし、それでも舞は離そうとしない。
 それどころか、目を潤ませながらこちらを見上げていた。
「……だめ」
 震えながら、ふるふると首を振る。
「何が?」
「佐祐理だけは……佐祐理だけは、やめて」
 つまり、佐祐理さんは呼ぶなと?
 舞をここまで怯えさせるなんて、親友の二人の関係に何が?
「佐祐理にバレたら……また……」
 ……ばれたら、って何かやったのはお前かい。
 はぁ、仕方ない。ここは二人のためにも一肌脱ぐか。
 いずれは三人で生活する予定だし、妙なことで関係がこじれて欲しくないもんな。
「分かった。佐祐理さんには言わない」
「……本当に?」
「ああ。だから何があったのか話してくれ。な?」
 こくり、と頷き舞はようやく俺の右足を解放してくれた。
 やれやれ。どうせしがみつくなら、腕にしてくれればいいのに。
「……牛丼は?」
「出すか!」
 すぱーん、と本日二回目の実力行使。
「じゃあカツ丼」
「カツ丼なら俺が食っとく。だから舞は気にせず話せ」
 三度目の実力行使……は、そろそろ反撃が怖いので止めておこう。
 ということで、適当に誤魔化してベッドに腰かける。
「……?」
 舞は何がなんだかよく分からないようで、首を傾げていたが、やがてどうにか自分を納得させたのだろう。
 神妙な顔をしながら、こくりと頷いた。
 この誤魔化し方……使える!


 って、そんなことはどうでもいい。
 今すべきことは尋問だ、尋問。ただし、カツ丼は俺が食った。
「で、何があった?」
「あれが出た」
 あれとは何だ。
 電話でのっけから『俺だ』とか言うのと同じくらいに不躾な。
「『あれ』じゃ分からない」
「あのあれ。黒いのが……」
 あのあれで、黒いの?
 言うのも憚られる黒いのと言うと。
「陰毛か!」

 ぽかっ!

 ……チョップされた。
「持ってきたから見て欲しい」
「陰毛をか!」

 ぴしっ! ぱしっ!

 十字チョップが飛んできた。
 ちょっと殺意がこもってた気がする。
「……これ」
「何だよ?」
 ごそごそっと、俺の座ったベッドの下から何かを取り出す。
 見覚えのある小型のカゴのようなものを手渡された。
「虫カゴ?」
 見覚えがあるはずだ。
 子供の頃、虫採りに使った必携アイテムではないか。
 これが一体どうしたって言うんだ。
 ん? 中に、何か黒い奴が……。
 ぴろろーんと、カゴの隙間から黒いアンテナみたいなのが飛び出してる。
 ちょっと待て。何だコイツは?
 何でコイツがここにいる!?
 虫カゴに入れるような奴だったか、コイツは!?

「何でゴキブリなんか虫カゴに入れてるんじゃーっ!」

 『どうぐ』→『すてる』→『虫カゴ』
 その中に潜む魔性に気付いた瞬間、俺はそのプロセスを一瞬のうちに行っていた。
 すなわち、全力で投げ捨てた。
「……」
 が、さっと手を出した舞によって受け止められた。
 そして、こっちをジロリと睨んでくる。
「何をするの?」
「こっちのセリフだ! よりにもよって、そんなもん人様のベッドの下に置くな!」
 ゴキブリを虫カゴに入れて持ってくる神経も理解できないが、人のベッドの下にそれを置いておこうなんて神経はもっと理解できない。
「……?」
「ハテナじゃないっ!」
 本気で何考えてるんだ、コイツは。
「大丈夫」
「何がだ!」
「この中にいる限り、害はないから」
 一秒たりとも同じ空気を吸っていたくない。
 そんな嫌悪感を催す何かがゴキブリという種にはある。
 あの温厚な秋子さんをも、殺意の波動に目覚めさせるほどだ。
 いわんや一般人をや、である。
 虫カゴに入っていようが、ソイツの姿は十分目に毒だ。
「いいから貸せ! そんなやつ、外に捨てろ!」
「……」
 しかし、虫カゴを奪い取ろうとした手は、さっと舞にかわされた。
 何度手を出しても、ひょいひょいひょいとかわされる。
 『あれは何だ!』と向こうを指差してみたら、振り向きがてら足払いをかけられた。
 虫カゴを掴むどころか、天井を拝まされてしまう。おしり、いたい。
「はぁはぁ、何がしたいんだ、お前は」
 魔物と戦ってた達人相手に、これ以上の攻勢しかけても無駄だと悟る。
 というか、もっと早くそのことに気付け、俺。
 下手なことをやってたら、今頃クロスカウンターで伸ばされていたかもしれない。
「別にこの子達は悪くない」
「……ああ、そうだろうよ」
 見た目が気持ち悪い。
 そんなの人間側の勝手な理屈なのは百も承知だ。
「でもな、それでも嫌だからゴキブリとかアブラムシって言うんだよ」
「そんなことはない。よく見れば、かわいいところもあると思う」
 ほら、とばかりに虫カゴを突き出された。
 何が悲しくて、そんなヤツをしげしげ観察しなきゃならん。
 思いっきり顔を背けていると、舞が悲しそうに溜息をついた。
「……私は昔、ゴキブリと呼ばれたこともあった」
「うっ」
 卑怯だぞ、そこでそういう過去話持ち出すのは。
 少し考えれば、子供時代にお前が何を言われてたかとか想像もつくけどさ。
 ゴキブリの気持ちが分かる女の子だってことも……。
 ……そうなのかもしれないが、何か嫌過ぎる。
「見た目とか、そういうことだけで嫌うのは良くないと思う」
「ああ、そうだよ。お前の言うとおりだ。分かったよ」
 両手を上げて降参する。
 正論過ぎて反論のしようがない。
 俺は諦めて虫カゴの中のそいつと向かい合った。
 確かに、よく見ればこのつぶらな瞳はバッタやトンボのそれよりかわいいのかもしれない。
 俺に気付いたのか、羽を広げてこちらに向かって飛ぶ姿も……。
「ただ……」
「ん?」
「飛びつかれて顔を這われると怖い」
 光速の速さで虫カゴを払いのけた。
 また当然かわされたけど。
「やっぱり、お前も嫌なんじゃないか!」
 カゴがなかったら、今のは間違いなく顔に張り付かれてたぞ。
 ガサガサとあの六足で顔を這われる感覚を想像して、背筋に冷たいものが走る。
 ううっ、全身に寒イボが……。
 って、待てよ? こんな最低最悪の昆虫にラブ&ピースを主張してるような奴が、『怖い』とか言うなんて、まさか……。
「……お前、這われたのか? コイツに」
 こくり。
 今にも泣きそうな顔で、舞は頷いた。
「……怖かった」
 そりゃ怖いわ。
 俺なんか想像だけで既にやばいんだから、実体験がどれほどの悪寒かは想像に難くない。
 できれば、そんな体験とは一生縁がないことを祈るのみだ。
「……でも」
 しかし、舞はきゅっと顔を引き締めてカゴの中の黒いのを見つめた。
「共存の道はあると思う」
「俺は今すぐにでも最終戦争(ハルマゲドン)の選択肢を選びたい」
「祐一、私はそれを探りたい」
「話聞け! 虫ケラなんかと対話と協調路線とか、ゴキブリ以前の問題だろ!」
 そんな共存探るくらいなら、もっと他に重要な共存問題があると思う。
 何故今ゴキブリなのか。何故今更ゴキブリなのか。
 俺には理解不能。
「そんなことはない」
「何がだ」
 虫カゴからはみ出し、何かを求めるかのように揺れている触角を、ぴっと舞が指差す。
 本当に、救いようのないくらい嫌なてかりのある黒い触角を。
「このアンテナを見て」
「触覚って言うんだよ、それは」
「どっちでもいい」
「はいはい」
 俺もどっちでもいい。
 ゴキブリの器官名なんて、足だろうが羽だろうが口だろうが肛門だろうが……全て同様に価値がない。
 だからアンテナだろうが触覚だろうが、どっちでもいい。
「昔、長いアンテナを持ったカミキリムシさんとは会話できた」
「はいはい、って何ぃ!?」
「アリさんとかは駄目だったけど、アンテナが長い虫さんなら気持ちは通じると思う」
「……それも舞の力の一つなのか?」
「そういうものだと思う」
 確かに、こいつの力は何でもありといえば何でもありなのは、昔見せてもらったから知ってたが……。
 相手は昆虫だぞ?
 ていうか、アリは駄目だったとか、何その微妙な制約。
「ちなみに、カミキリムシとはどんな会話を?」
「帽子が木に引っかかって困ってたら……」
「あのアゴで枝を切り落としてくれた、か?」
 先を予想して、言ってみると、舞はこくりと頷いた。
「他には?」
「それだけ」
 ……あのさ、あんまり言いたくないけど。
 どう考えても、それってただの偶然。
「だから、お願いしてみようと思う。私の顔を這わないで欲しいって」
「ああ、できたらいいな。うん」
「だから、協力して欲しい」
「ああ、うん」
 もうどうでもいい。
 こんなアホらしい話は適当に切り上げて、俺はゲームをする。
 さっさとゴキ助連れて帰ってもらおう。
「……ありがとう、祐一」
「おう。って、何ぃ!?」
 買ってきたソフトを袋から取り出そうとして、慌てて舞の方を振り返った。
 何か今、聞き捨てならないことを言わなかったか?
「おい、ありがとうって何が?」
「協力してくれるって言った」
「何の?」
「私がこの子と分かり合うために」
 虫カゴをずいっと差し出される。
 目に毒も極まりない黒いのが、また視界に……。
「協力も何も今頼めばいいだろ。それで、帰って仲良く暮らしてくれ」
 ふるふる。
「何でだよ」
「無理だった。力を使うのは久しぶりだから……」
 絶対違う。舞は勘違いしている。
 力に慣れる慣れない云々以前に、昆虫と会話なんて、そもそもからして成り立ってないんだ。
 ……と言っても聞きはしないだろうが。
 明らかに固い決意を秘めた目をしてこっち見てるし。
「ああ、もう分かったよ。それで俺は何をすればいいんだ」
 半ばヤケクソだ。
 これが惚れた弱味? 何か違う。
「何もしなくていい」
「って、おい!」
「ただ、この子を部屋で預かって欲しい」
「ゴキブリの飼い方なんて知らないぞ」
「大丈夫。ここから出せば、一人で生きられると思うから」
 そう言って、舞は虫カゴの口を床に向ける仕草をする。
 つまり、『預かれ』とはゴキブリを俺の部屋で放牧しろとの意味だ。
「どういう拷問だ!」
 何が悲しくて、ゴキブリの存在を知りつつ一緒の部屋で暮らさなきゃならないんだ。
 普段なら一目見るだけで、小一時間家捜ししてでもサーチ&デストロイの対象だぞ。
「アルバイト料も出す」
「いくら?」
「時給30円」
「殴るぞ!」
 そんな、はした金でゴキブリとの共同生活なんて割に合わんわ!
「祐一は勘違いしている」
「勘違いしてるのはお前だ。色んな事象に対して」
「時給は祐一が寝てても出る」
「ん? 寝てても?」
 つまり、部屋で放牧さえしていれば24時間時給は発生している、ということだろうか。
 となると、一日のバイト料は30円×24時間で……720円。
「お前な、そういう時は日給720円って言うんだ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わないっての。どこの世界に時給30円で求人広告出すやつがいるんだ」
 しかし、720円か。
 正直、ゲーム買ったばかりだから、金が入るのはありがたい。
 一週間も耐えれば、今日買ってきたゲームの代金は余裕で取り返せるし……。
「720円、払えるのか?」
「私は時給850円でアルバイトやってるから」
「佐祐理さんと一緒にか?」
「佐祐理は株とか投資とか総会とか、色々……よく分からないけど」
 何その億単位で金が動いてそうな世界。
『あははーっ、三人で暮らす段取りは佐祐理に任せてください』
 って笑顔で言ってた理由が垣間見えた気がする。
「お金の心配はしなくていい。そのためのアルバイトだから」
「ゴキブリ放牧のバイト料出すためにバイトやってるのは、世界でお前だけだよ」
 何かもう、受け取るこっちが惨めに思えてきた。
 いや、もちろん、もらえるものはもらっておくけど。
「じゃあ、そろそろ帰らないといけないから」
「あ、おい! 返事はまだ……」
 舞が虫カゴを開けると、中の黒い奴はカサカサカサとばかりにベッドの下に潜り込んでいった。
 舞はというと、その隙にすたこらさっさと退散してしまっている。
 このバイト、何としても拒否すべきだったんじゃないだろうか。
 人として失うものが、あまりに多いような……。


 ん? そういえば、何で舞のやつ佐祐理さんに怯えてたんだ?
 ゴキブリがいるってのがバレると都合悪いってことは想像つくけど。
 見つけたら剣持って暴れまわるとか?
 まさか、舞じゃあるまいしそんなことない……と思いたい。
 しかし、あいつの出現と存在は人を豹変させるほどの威力だからなあ。
 その日の夜、就寝中に何かに顔を這われた気がするけど、気のせいだ。
 きっと俺は夢でも見ていた。そうに違いない……と思いたい。
 もういっそ、今日の出来事自体が夢だった……と思いたい。
 そういえば、昔こんなことを尋ねられたことがあった。
 カレー味のウンコと、ウンコ味のカレー、食うならどっちかと。
 その質問が現実で持つ本当の意味が分かった気がする。
 でも、どっちも嫌だという俺の気持ちに変わりはない。






 翌日、舞は再びやってきた。
 また虫カゴを持って。
 中身は……言うまでもない。
「もう二匹預かって」
「増やすな!」
 伸ばした手をひらりとかわし、オープン・ザ・バスケット。
 黒い悪魔がまた二匹、本棚の影へとカサカサカサと消えていった。
 この仕事、本当に引き受けてよかったのだろうか。
 いや、そもそも承諾もしてないけど。
「俺はいつまでこの生活を続けなければならないんだ」
「まだ一日しか経ってない」
「昨日の夜だけで十分悪夢だったよ!」
 ああもう、思い出すだけでも背筋が凍る。
 アイツの存在をはっきりと感じながら眠る夜の恐怖なんて、誰にも分かるまい。
 さりとて、秋子さんや名雪を巻き込むわけにもいかず、ドアの隙間には律儀に詰め物をしたりしてる俺の人の良さ。
 おまけに外には『Don’t disturb』の張り紙とか、馬鹿馬鹿もう俺の馬鹿。
 しばらく秋子さんを掃除に入らせるわけにもいかない。
「頼む。さっさと対話と協調路線を成功させて、連れて帰ってくれ。追い出すのでもいいから」
「努力はする」
 何その『善処する』的な、希望の欠片もない決意表明。
 もうコイツには任しちゃおけん。
 帰ったら、こっそりハルマゲドンのスイッチを押してやる。
 勝手にいなくなったことにしてしまえば……。
「祐一」
「な、何だ?」
「バルサンはしばらく控えて」
 心読まれた!?
「は、ははは、当たり前じゃないか。これは仕事、そう仕事だろ」
「……?」
 読まれていたわけではないようだ。
 ただの注意だったらしい。
「それで、どうするんだよ」
 もうこうなったらヤケクソだ。
 早く終わることを願いながら、舞に次の行動を促してみる。
「まずは呼び出さないといけないと思う」
「ああ、隠れているもんな」
 こくり。
 小さく頷いて、舞は部屋の中央で足を組んで座った。
 目を閉じ、集中し、口をモゴモゴと動かす舞。
 これが黒い悪魔召還の儀式だと言うのだろうか?
 インチキ宗教のようにも見えるが、舞が真剣な顔つきでそれをやると一味違う。
 何かこう雰囲気みたいなものがあるのだ。
 これはもしかして、もしかするかもしれない。
 舞の力が本物なのは、他ならぬ俺が一番よく知ってるじゃないか。
 しかし、一体どんな呪文を唱えているのだろう。
 ちょっと、耳をすまして聞き取ってみよう。
 舞の邪魔をしないように、そっと横から覗きこんでみる。
 ええと、なになに……?

「ガストラ皇帝……おいでください……ムニャムニャ」

 ずてっ!
「祐一、うるさい」
 じろっと不快そうに舞がこっちを睨んでくる。
 しかし、一言言いたいのはむしろこっちだ。
「何を唱えてるんだよ!」
 聞き取って思わずこけたわ!
 誰だよガストラ皇帝って。
「別に。気持ちの問題だから」
「そんな呪文唱えてたら、ゴキブリでも怖がって逃げるわ!」
「そんなことない、見て」
 ぴっと舞がナナメ45度上方を指差す。
 そこには、今まさに天井から羽を広げて羽ばたこうとするガストラ皇帝……いや、一匹のゴキブリの姿が……。
「うおっ、アブネ!」
 とっさに身をかがめて地面に伏せた。
 ぶいーん、とかどす黒い音が耳元を通過した気がして悪寒。
 い、今、少しでも躊躇していたら、ヤツは俺の首筋に張り付いていたぞ!?
「はぁはぁ、あいつはどこ行った?」
「……カーテンに張り付いて、クローゼットに入っていった」
 じっくり見てないで止めろよ!
 ううう、何てことだ。クローゼットの隙間を塞ぐのを忘れるなんて。
 しばらく着替えを取り出したくなくなりそう。
 いや、待て。そうだ、今のが舞の力なら……。
「舞、連中を呼び出せるか?」
「よく分からない」
「今のは会話が通じたんだろ?」
「……たぶん」
「じゃあ、連中を呼び出してくれ。まずは同じ席につかなきゃ交渉にならないじゃないか」
「……分かった」
 これでいい。
 舞が三匹呼び出したら、その隙に入り込まれたくないとこの隙間は全部埋める。
 あの平べったい奴らにそんなのは無意味かもしれないが、気分の問題だ。
 ベッドの下、植木鉢の下、本箱の裏……奴らに貸してもいいのはそのあたりだけだ。
 いや、もちろんそれらだって嫌には違いないが。
 ウンコ味のカレーか、カレー味のウンコか、現状は俺にその選択を迫っている以上、仕方がない。
 しかし……。

「ガストラ皇帝……おいでください……ムニャムニャ」
「ガストラ皇帝……おいでください……ムニャムニャ」
「ガストラ皇帝……おいでください……ムニャムニャ」

 結局ガストラ皇帝……いや、ゴキブリは二度と表舞台に姿を現すことはなかった。
 きっと、新しく加わった二匹と子作りにでも励んでいるのだろう。
 ……ということはないと思いたい。
「疲れたから帰る」
「ああ、俺も疲れた」
 もう今日はゲームする気も起きない。
 疲れたと言う割には、何事もなかったかのような顔をして部屋を去っていく舞をただ呆然と眺めていた。
 今日も楽しいゴキブリのいる夜……か。
 アホーアホーというカラスの鳴き声で無性に腹が立った。






 翌日……また舞はやってきた。今日も虫カゴ片手に。
 新しいファミリーがまた増えて、もうどう喜びを表現すればいいのか分からない。
「ガストラ皇帝……おいでください……ムニャムニャ」
 で、舞は相変わらず妙な呪文を唱えて儀式を続けていた。
 もちろん、ゴキブリは一度たりとも姿を現してない。
 もう断言してもいい。
 こいつに昆虫と会話するような力はない。
 昔助けてくれたというカミキリムシも、昨日ひょっこり現れたゴキブリも……ただの偶然だ。
「舞、言いにくいんだけどな……」
「静かにして」
「お前にそんな力は……」
 ないんだ、そう言おうとした。
 しかし、その前に舞がこちらを振り向いた。
 今にも泣き出しそうな顔で。
「……祐一は信じてくれないの?」
「いや、舞には不思議な力があるのは知ってる」
「もう少しだから」
「舞! 力にだって限界ってものがあるんだよ!」
「限界なんてない!」
 舞は強い意思のこもった瞳で俺をにらみつけ、肩に置こうとした手を払った。
 そのまま背中を向け、こっちを見ようともしない。
 ただ、俺は見てしまった。
 顔を背ける瞬間、舞は確かに泣いていた。
『…魔物がくるのっ』
 あの別れの日、電話の向こう側でこいつはそんな顔をしていたのだろうか。
『ウソじゃないよっ…ほんとだよっ』
 顔を腫らしながら、必死に電話を握り締めていたのだろうか。
 昔の舞が意固地になって拒絶した力を、今の舞は意固地になって証明しようとしている。
 俺には、もう何もかける言葉がない。
 かける言葉が思いつかない。
 舞のやろうとしていることを、黙って受け入れてやるしかないのだろうか。
 こんな馬鹿馬鹿しい状況でも、舞は必死なのだ。
 馬鹿げているなんて一笑に伏して、また過ちを犯すなんてできるわけがない。

「ガストラ皇帝……おいでください……ムニャムニャ」

 舞はまた例の呪文を唱え始めた。
 こうなったら、付き合ってやるしかないだろう。
 まずは少し話でもして緊張をほぐそう。
 気持ちを切り替えれば通じるかもしれないし、何より今の空気は俺が耐えられない。
「ガストラ皇帝……おいでください……ムニャムニャ」
 舞の呪文を聞いてて、一つちょうどいい話題があったことを思い出した。
「なあ、舞。その呪文だけどさ」
「……ムニャムニャ、なに?」
「北川ってクラスメートに聞いたんだ。ガストラ皇帝って、ちょっと前のゲームに出てるキャラなんだってな」
「……」
 ぴたり、と舞の呼吸が止まる。
 あ、とばかりに口が小さく開かれていた。
「そういえば、佐祐理がやっているのを見ていた」
「ああ、それでか。何でお前がそんなの知ってるんだろうって、北川に聞いたときから不思議でならなかったんだ」
「傍で見ているのは嫌いじゃないから」
 佐祐理さんがプレイしているのを見るのは好き、という意味なのだろう。
 まあ、見ているほうが楽しいってヤツもいるよな。いかにも舞らしい。
 コントローラー持たせたら、まずは逆さに持ちそうなヤツだし。
 ていうか、事実こいつは携帯電話を逆さに持って佐祐理さんを慌てさせてる。
「それにしても、佐祐理さんがゲーマーだったなんて意外だな」
「祐一からゲームの話を聞いて、それから色々やってた。結構気に入ってるみたい」
「ああ……そういえばそんな話してた気がする」
 実家からゲーム持ち帰ったとき、ちょっと興奮気味に報告してたっけ。
 話題についていけない雰囲気だったから、その話をするのは控えてたが……。
 ハマったのは意外とはいえ、ハマってるのがレトロゲーってのは、なんとも佐祐理さんらしい気がする。
 しかし、その話を聞くと、うずうずしてくるこの気持ちはなんだろう。
 ガストラ皇帝なるゲームはやってないが、俺もレトロゲームはそれなりにやってきたクチだ。
 ここは是非とも語り合ってみたい。
「ちょっと、ゲームの話をしてみたいな。少し電話してきていいか?」
「……っ!」
 今度会う約束でも取り付けて、お茶でもしながら……なんてつもりで軽い気持ちで言った発言だったが、途端に舞の顔色が変わった。
 がたっ、と青い顔で立ち上がり、ふらふらとドアの方へと歩いていく。
「おい、どうした?」
「もう帰る」
「おいっ、舞!? ちょっと待て!」
 慌てて手を掴もうとするも、舞は疾風のごとく俺の視界から消えていた。
「……虫カゴ、忘れていってるそ」
 これ以上ゴキブリファミリーを持ってこられても困るが。
 しかし、どうしたっていうんだろう。
 俺と佐祐理さんが接触するのは何かまずいのか?
 ……そうとしか思えない逃げっぷりだった。


 カサコソカサコソカサ。
 一匹いるだけでも存在感抜群なアレが、今はこの部屋に六匹もいる。
 正気じゃいられないって、こういう状況を言うのだろう。
 横になって目を閉じると、ヤツ特有の臭いを感じた。
 いる。ヤツは間違いなく俺の近くにいる。
『私、メリーさん。今あなたの後ろにいるの』
 そんな声を聞いた気がして、慌てて枕に顔を押し付けた。
 口を開けて寝ていたら、ヤツはそこに進入してくるかもしれない。
 もうダメだ。こんな生活、耐えられそうにない。
 舞のためとはいえ、いつまでこんなこと……。
 これがコオロギやスズムシあたりならまだ我慢できた。
 でも、何でよりによってゴキブリなんだ。
 俺の手には負えない。
 つまり、それを耐えるすべが俺のほうにないのだ。
 ウンコ味のウンコを食べさせるようなことはやめてくれ。
 そんなものは、食べようがないのだ!
 ……そろそろ精神衛生的にマズくないか、色々と。






 次の日の学校帰り。
 俺は百花屋の前であたりの様子を伺っていた。
 よし、クリア。偶然の遭遇という事故は起こらない。
 別にやましいことをしているわけではないが、見つかったら見つかったでそれは面倒だ。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「あ、お構いなく」
 丁寧に出迎えてくれた店員に軽く一礼して、店内へと入った。
 さて、いるかな……?
「あ、祐一さん。ここですよーっ!」
「わあ、声が大きいってば佐祐理さん!」
 よりにもよって店の奥で嬉しそうに手を振ってるし。
 他の客が一斉に好奇の目でこっちを見つめていた。
 この視線の中を奥まで進めというのか?
 いや、進むしかない。多少の恥ずかしさなんて、今の俺には……。
 半ば開き直りつつ、俺は佐祐理さんの席へと歩いていった。
「突然呼び出してすみません」
「あははーっ、別にいいですよ。佐祐理も祐一さんの顔を見てなくて寂しかったですから」
 店内の視線がまた集まった気がする。
 我慢だ我慢。
 ましてや、ゲームに夢中で引きこもり気味でしたなんて言えやしない。
「それで、どうしたんですか? 舞のいない所でお話があるって」
「ああ、うん、それなんだけど」
 こういうところは話が早くて助かる。
 さすが佐祐理さん。
 そこで、俺はここ数日のことを佐祐理さんに打ち明けたのだった。
 口止めされているので、話したことは内緒にしておいて欲しいと説明した上で。
「はぇ〜……そんなことが」
 全て話し終えると、佐祐理さんはぽかんと口を開けて言葉を失っていた。
 そりゃ、呆れもするだろう。親友がゴキブリなんかと協調外交やろうとしてたのだから。
 普通に引く。
「最近大人しいからおかしいと思ってたんですけど、そういうことだったんですね」
「え?」
 と、思ったら、どうも様子が違った。
 困り顔でため息を漏らしている。
 何か心当たりがあるのだろうか?
 いや、そもそも元はと言えば舞が佐祐理さんに怯えていたのがコトの発端だったのだ。
 佐祐理さんに心当たりがあるのは、別に不思議でもないじゃないか。
「どういうことなんだ?」
「ええ、この前のことなんですけど、舞の部屋に太郎さんが出たのでちょっときつく叱っちゃったんです」
「太郎さん?」
「祐一さんの言ってた黒い虫のことです。ここは飲食店ですから、その名前は控えた方がいいかなぁって」
「ああ……」
 既に説明で何度もゴキブリ連呼した俺って。
 気付くとマスターがしかめっ面をしてこっちを睨んでいた。
 佐祐理さん、お願いだからもっと前に注意して。
 入店の時から無用の恥ばかりかかされてるのは気のせいか?
「やっぱり、佐祐理さんも太郎さんは嫌い?」
「好きな人はいないと思いますよ」
「……どう考えても馬鹿らしい質問だった。ごめん」
 笑みが完全に消えた佐祐理さん怖いよ。
 どれだけ嫌か、言葉以上によく分かった。
「ちゃんとお掃除してるのに出てくると、どうしてって思っちゃうんですよねぇ」
「ああ、なるほど。佐祐理さんらしいや」
 ゴキブリと言えば、やはり不潔の代名詞。
 掃除にもマメであろう佐祐理さんからすれば、そんなのが部屋に湧くのは我慢ならないものがあるのだろう。
 ていうか、秋子さんが豹変する理由もよく分かった気がする。
 眉間にシワを寄せながら包丁を投げた時のあの形相、もうあれ本当に秋子さんなのかと思うくらいに別人。
 にっこり笑顔を浮かべながら『そろそろ買い換えようと思ってたのよ』と、ヤツを磔にした包丁を引き抜く姿には名雪ともども恐怖した。
 ……思い出してチビりそうになってきたぞ。
 もうあのことは忘れよう。
「とりあえず、舞へのおしおきは後で考えるとして、まずは祐一さん部屋をどうにかしないといけませんね」
「え? おしおきって、別にそこまでしないでも」
「あははーっ、こっちの話ですよ。六匹もいたなんて、ちゃんと原因はあるはずですから」
「……はぁ」
 原因って何だろう。
 舞のやつ、何かやらかしたのか?
 確かに連日ゴキブリ捕まえて持ってくるなんて、普通に考えればマトモな状況じゃないが。
「そうですねぇ、さしあたっては会話を諦めさせましょう」
「いや、それは昨日説得してみたけど」
「あははーっ、そういうのはタイミングが重要なんですよ」
「はぁ、そうなんですか」
 あんな意固地になってる舞を、そう簡単にどうにかできるとは思えないが。
 でも、長い付き合いの佐祐理さんの言うことだ。
 ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。
「とりあえず、試してみるよ。何て言えばいいの?」
「それはですね……」


 ……本当にそんなのでいいんだろうか?
 百花屋密談を終えて、自分の部屋に戻るといつかのように舞が上がりこんでいた。
「ガストラ皇帝……おいでください……にゃもにゃも」
 おい、呪文が一部変化してるぞ。
 そろそろヤケになってきたんだろうか?
「おい、舞」
「ガストラ軍曹……なに?」
 軍曹って誰だっ。
 ていうか、皇帝からどこまで没落したんだよガストラさん!
「呪文、違ってるぞ。何か色々」
「臨機応変に変えてみた」
 分からん。どのへんが臨機応変になってるのか、さっぱり分からん。
 どういう世界がコイツの頭の中では繰り広げられているんだ。
 いやいや、何余計なこと突っ込んでるんだ。
 佐祐理さんのアドバイスにツッコミの指示はなかっただろ。
「あのなあ、舞。言いにくいけど、やっぱり無理だよ」
「そんなこと……ない」
 気のせいか、昨日より舞の口調が弱い。
 まずは優しく否定の言葉をかけること、そう佐祐理さんに言われたが、そのせいだろうか。
「ゴキブリって連中は品が悪いんだ。お前の言うことが聞こえてても、知らんフリしてるんだよ」
「……」
「お前が嫌がっても、飛びついて顔を這ったんだろ? そんな嫌がらせをする奴に話をしても無駄だって」
「……そうかもしれない」
 一言二言反論があると思ったら、あっさり舞は俺の言葉に頷いた。
「祐一、ごめん」
「気にするなって。もう疲れただろ、帰ってゆっくり休め」
 こくり、としおらしく頷く舞。
 昨日とまるで別人だ。どうなってるんだ、これ?
「ほら、虫カゴ」
「ありがとう。祐一、じゃあ、また」
「ああ、またな」
 投げた虫カゴを両手でキャッチし、ちゃんと挨拶までして舞は帰っていた。
 人によってはそうは思わないかもしれないが、舞は何も言わずにいなくなったりすることも多い。
 ちゃんと挨拶まで返すなんてのは、よっぽど機嫌のいい時くらいのものだ。
 それがよもやこんな場面で飛び出すとは、にわかには信じられない。
 ううむ、どうなってるんだ?
 本当に佐祐理さんの言った通りになったぞ。
 これが噂の佐祐理マジックか!?
 いや、そんな噂があるなんて聞いたことないけど。
「まあ、とりあえず解決ということで……」
 一つ胸を撫で下ろす。
 さて、後は……。


 その日、俺は躊躇なくハルマゲドン(バルサン)という選択肢を実行した!






 翌日、再び百花屋にて。
「と、いうわけで本当に佐祐理さんの言ったとおりになったよ」
「あははーっ、それはよかったです。これで祐一さんも安心して寝られますね」
「まったくだよ。でもさ、何でそうなるって分かったんだ?」
 無駄だってことは俺も言ったのに、全然舞の反応は違っていた。
 そこがどうしても腑に落ちない。
「それはですね、祐一さんも覚えがありませんか?」
「何が?」
「子供の時って、意固地になると何が何でもって気持ちになるじゃないですか」
「あ……あーあー……」
 言われてはっとした。
 まだ人のことを言えるような年でもないけど、確かにそうだ。
 子供の時って、できるとか宣言してしまうと意地でも曲げたくなくなる時がある。
 どんな正しいことを言われても、聞く耳持たず……まさに、このあいだの舞がそれだった。
「だから、そういう時はやさしく否定してあげるといいんですよ」
「分からせようって必死になってたのがいけなかったのか」
「ええ。本当は本人だって無理なのは分かってるんです。でも、逃げ道を封じちゃったら、無理を通さないといけなくなっちゃいます」
「だよなあ。完全に説得の方法間違ってたよ。ありがとう、佐祐理さん」
 逃げ道封じて、追い込んで……結局俺は昔と同じことをしようとしてたんだ。
 ちょっと屁理屈に付き合ってやるくらい、別にいいじゃないか。
 俺たちの仲なら、間違いなんて後でゆっくり直す時間がある。
 それくらいの余裕がないんじゃ、赤の他人と何も違わないじゃないか。
 何でそんな単純なこと、俺は気付かなかったのだろう。
 ほんと、人のこと言えるような年じゃないよな……。


 ちょっと情けないし、今回の件は大目に見てもらうように頼んでおこう。
「あのさ、佐祐理さん」
「はい」
「昨日おしおきとか言ってたけど、舞も反省していると思うし勘弁してやってくれないか」
「はぇっ!?」
 何が不思議なのか、佐祐理さんはきょとんとしていた。
「いや、だからゴキ……じゃなくて太郎さんの件」
 ゴキブリ、と言いかけて慌てて言い直す。
 睨むなよ店主! 二日連続で嫌なのは分かるけどさ!
「佐祐理さんが怒ったら、俺が言ったのもバレるし。今回だけは頼むよ」
「はぇ〜」
 この通り、って感じで両手を合わせて頭を下げたが、佐祐理さんは気まずそうに目を泳がせるだけだった。
「ひょっとして、俺何か勘違いしてる?」
「あははーっ、そんなことはないですよ。もちろん、太郎さんのことでは怒りませんから安心してください」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
「そんなことをしたら、祐一さんが舞に嫌われちゃいますもんねぇ」
 やっぱり、チクったって思われると舞と顔合わせ辛いもんな。
 佐祐理さんが聡明かつ寛大でよかった。
 ん? 待てよ? 何かおかしくないか?
 今、確かに佐祐理さんは言った。
 『太郎さんのことでは怒らない』と。
 つまり、佐祐理さんの怒りの本命は別にある?
「あのさ……」
「何ですか?」
「じゃあ佐祐理さん、舞の何に怒ったの? 舞のヤツ、尋常じゃない怯え方だったけど」
「ああ、それはですね……」
 はぁ、と珍しく佐祐理さんがため息をついた。
「最近、舞ったら部屋にお菓子を持ち込んでるんです」
「ひょっとして、油っぽいの?」
「ええ。こないだ、お掃除しようと舞の部屋に入ったら、何か黒い塊が床に落ちてて……」
 ……想像ついた。
 俺も多分経験ある、それ。
「何だろうなぁ、って掃除機で突付いたら太郎さんが六匹くらい、もわっと」
 両手をがばっと広げて、佐祐理さんはそのときの状況をこれでもかというくらい分かりやすく伝えてくれた。
 つまり、あれだ。こぼすか踏み潰すかしたスナック菓子に、ゴキブリどもがたかってたと。
 そして、突付いたら蜘蛛の子散らすように逃げ出したと。
 遠目に見ると、ただの黒い塊にしか見えないからタチが悪い。
「いくらなんでも目に余ったので、言っちゃったんです。お菓子を食べるならご飯抜きだよ、って」
「そんなに酷いの?」
「食べ散らかすくらいですから、それはもう」
 こんなんですよーとばかりに、くしゃくしゃぽいっ、ばりぼりばりという感じの動作をしてみせてくれた。
 なるほど。それはひどい。
「最近大人しいから分かってくれたかなって思ったんですけど、隠れて食べることを覚えてたんですねぇ」
 フフフ、と魔王を思わせる不気味な笑みを浮かべる佐祐理さん。
 もう、ゴゴゴゴゴゴと効果音まで聞こえてきそうだ。
「まずは留守中に部屋を徹底的に調べ上げて、証拠を押さえますか。今回ばかりは佐祐理も、ちょっとプチッと来ましたよ〜」
 こ、怖っ! その魔王の笑み、怖いよ佐祐理さん!
 舞がビビるのも無理はない。
「さ、佐祐理さん、できたらもう少し穏便に……」
「はぇ? 怒らなくていいんですか?」
 いつもの仏の顔に戻ってこちらを振り返る。
 よかった、あの顔で邪悪な微笑み向けられたら俺がチビる。
 佐祐理さんはいつもの笑顔がいい。
「そりゃ、やっぱり二人には仲良くしていてもらいたいしさ」
「本当にいいんですか? 祐一さんがいいって言うなら、佐祐理も怒りませんけど」
「へ…?」
 どういうこと? それじゃまるで、俺のために怒ってるような口ぶり……。
「舞ったらバイトのお金で色々食べてるんですよ。このまま放っておいたら、祐一さんと暮らす頃には凄いことになっちゃうと思いますけど」
 ……そうだった。
 舞は色気よりも食い気満開なやつだった。
 でも、食べるのは舞の自由だ。
 ましてや自分の金でやってるなら、言うことなんてない。
 食事抜き、と言われて大ショックを受けていたであろう舞の姿は、想像するだけで胸が痛む。
 それはきっと、俺が舞のことを好きだから。
 俺は、そんな物知らずなヒロインに振り回される日常を自分から選んだんだ。
 だから、俺は舞に強制なんてしたくない。
 舞には、ありのままの姿で生きて欲しいんだ。
「佐祐理は祐一さんと舞には幸せになって欲しいんです。でも、余計でしたか?」
 しかし、気持ちと反対に俺の右手はサムズアップ。
「あははーっ、祐一さんは佐祐理の分も舞に甘えてもらってくださいねーっ」
 グッジョブ、佐祐理さん。
 きっと、この親指立ててる右手も俺の本心。
 それも、やっぱり舞が好きだからってことだ。


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