「えーと、ちょっといいかな?」
   遠慮したような声が背中からかけられた。
  「一応ケガがないか診察したいんだけど…」
  「あ、はいっ」
   俺も名雪も茹で上がったみたいに真っ赤になってた。
   医者が名雪の体を指先で触診し始めた。
  「あの… 名雪は大丈夫なんですか?」
   もし、何かあったらそれこそ最悪だ…
  「心配ないよ。ケガもないようだし、あとは彼女次第って所だ」
  「よかった…」
   今日の事は早く忘れたい。
   名雪にとっても、俺にとっても嫌な思い出だ。
  「さて、水瀬さんを病室に連れて行かなきゃいけないね」
  「あ、それなら俺がやります」
  「助かるよ。やっぱり若いっていいねぇ」
  「はははっ…」
   微妙に恥ずかしいなぁ…
  「名雪、歩けるか?」
  「うん。大丈夫だよ」
  「よし、それじゃあ行くか」
   名雪の手を引いて病室を出た。
  「手伝います?」
   香里と話していた看護婦さんがいた。
  「いいえ、大丈夫です。これは俺の仕事ですから」
  「あらあら、やっぱり仲がいいですね〜」
  「………………」
   名雪は真っ赤になって黙ってしまった。
   うぅ… 恥ずかしい。
  「まったく、君も頑張らなきゃダメだぞ」
  「な、何を言っているんですかっ!」
   周りから笑い声が沸く。
   俺もつられて笑ってしまった。
   看護婦さんは不服そうに頬を膨らませて抗議していた。
   俺は名雪を背負い直し、医局を出た。
   その時、通報を聞きつけた警官が数人、病室へと歩いてきた。
   同時に何人かの医者が警官に話をする。
   事情を聞いた警官は医者に取り押さえられている男に話し掛ける。
   もう一人の警官は周りにいた人に事件の経緯を聞き始めた。
  「そうですか…」
  「それで、彼はどうなるのでしょうか?」
  「少し事情を聞く必要はありますが、正当防衛で済みますよ」
   どうやら警察の厄介にならないで済んだみたいだ。
   どうせならもうすこし殴っておいた方がよかったかもしれない。
  「さて、病室までひと頑張りだ」
  「うん。がんばるよ〜」
   名雪をしっかりと支えて歩き出そうとしたとき、後ろからカーキーのコートを着た初老の男の人が俺に近づいてきた。
   男の人はポケットから手帳を出すと、俺に見せた。
   それは、黒い皮製の警察手帳だった。
   刑事さんみたいだ。
  「えーと、相沢… 祐一君かな?」
  「あ、はい」
   探しているのは俺みたいだった。
  「えーと、ちょっと事件について話を聞かせてくれるかな?」
  「あ、はい。その前に…」
  「ああ、なら彼女を病室に連れて行ってからで構わないよ」
  「ええ、じゃあちょっと待っててください」
   少し急いで病室に向かう。
  「あっ」
   名雪がつまづきかけた。
   肩を掴んで転ばないように支えてやった。
  「名雪、大丈夫か?」
  「うん。ちょっと眠くって…」
   そういやもういい時間だ。
   よくよく考えたら名雪も俺も寝ている時間。
   明日また出直したほうがいいかな。
  「凶器はこれか…」
   周りを見回すと、刑事や増援の警官が集まり、関係者以外はみな元の持ち場に戻っていった。
   そんな中、警官に取り押さえられていた男の元に、一人の刑事が近づいていった。
   身だしなみに気をつけない人なのか、髪はボサボサでコートは皺だらけだった。
   だが、逆にそれが格好よさになる人だった。
  「ったく… こんな夜遅くにやってくれる」
   刑事が面倒くさそうに腰から手錠を取り出そうとした。
  「ふふふふふ…」
   男が笑う。
   それは、普通の笑い方ではなく明らかに何かを秘めたものだった。
  「お、おい? どうした?」
   警官が身構える。




  「あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!!!!!」
   狂人のような笑い声を上げ、男は回りの警官を跳ね飛ばした。
  「おい!止まれ!」
   警官が男を追う。
   男は一直線にある場所へむかう。
   そのスピードは、恐ろしいぐらい速かった。
  「なんだ…?」
  「犯人が逃げた! 誰か捕まえろ!」
  「銃はダメだ! 早くっ!」
   周りが騒がしくなった。
   奴が… 逃げている?
   喧騒はこっちに近づいてきている。
   少し先、騒ぎの元が走ってくる。
   止めようとする警官や医者を振り切り、こちらに一直線に向かってくる。
  「え…?」
  「君っ! 早く逃げるんだ!」
   刑事が拳銃を取り出そうとする。
   だが、拳銃が突きつけられるよりも先に男が刑事を突き飛ばしていた。
   あまりに突然のことで、体が動かない。
  「くっ!?」
   逃げようと体を動かしたときには、すでに手遅れだった。
  「ひゃはっ! 死んでくれぇ!」
   男の動きは速くて、とてもじゃないがその動きについていく事ができない。
   懐から光るものを取り出す。
   それは刃の大きめのナイフだった。
  「っ!?」
   もう一本もってやがったのか…っ!?
   あまりに突然の事で、体が動かなかった。

   ヒュンッ!

   ナイフが風を切る。
   音がはっきりと聞こえるほど、それは早かった。
   大きめの刃は一直線に俺の腹に向かっていた。
   気がついたときには、男の腕は振り切られていた。
   鮮血が舞う。
   だが、痛みは感じない。


  「あ… あ…」
   男の顔が変わる。
   ナイフが通ったはずの場所。
   そこには無残に切り裂かれた俺の体ではなく…
   俺をかばい、背中を切り裂かれた名雪がいた。
   強引に体勢を変え、男に背を向けるようにしたのだろう。
  「な… ゆき」
  「ゆ… ういち、大丈夫?」
   声が聞こえる。
   すべてが、一瞬だった。
   デブがナイフを振るったのも一瞬。
   名雪が俺をかばったのも一瞬。
   ナイフが名雪の背を切り裂いたのも一瞬。
   時間が凍り付いていた。
   名雪が笑顔を見せる。
   そのまま、俺に体を預ける。
   名雪の体から、力が抜けていく。


   ドクン

   視界いっぱいに赤が広がる。

   ドクン
   鮮血に染まった名雪が、あの日のあゆと重なる。

   ドクン
   名雪が言葉を紡ぐ。


  「ゆ、ゆういちが… ぶじで、よかった…」




  「名雪ぃ!!」
   叫び声が冷え切った空気を切り裂いた。
   俺の腕の中で、大切なものが失われようとしている。
  「す、すぐに手術だ! 輸血の用意を頼む!」
  「あぁぁああぁぁぁぁぁあぁぁっ!!」
  「な、なんて事だ…」
  「容疑者の確保を! 早く!」


   周りの声が、ずいぶん遠くから聞こえてくるような気がする。
   まともに意識を保てない。
   正常でいられない。
   名雪が…
   どうして、名雪が…
   俺は…
   誰かを失うことしかできないのか…?
   あゆも…
   秋子さんも…
   名雪も…
   みんな…


  「君! 彼女をこっちへ!」
  「は、はい…」
   名雪を担架に乗せる。
   名雪を乗せた担架は遠くのほうにある手術室に向けて、走っていった。
   俺は、遠ざかる名雪を見ているしかできなかった。
   俺は、何もできなかった…
   また、守れなかった…
   また、失った…
   まるで絵空事のように、声は遠くから聞こえる。
   すべて作り物の世界の中に俺一人がいるような気分。
   俺も、そんな作り物の一つなのだろうか…?
   ただ悪戯に翻弄されるだけなのだろうか…?
   ふと、空を見上げる。
   空は雲で覆われ、月の光は僅かだった。
  「…俺は、何も望んじゃいけないのか?」
   いるはずのない人に問う。
   もう、消えてしまった人に問う。
  「俺は… 失う事しかできないのか?」
   答えは返らない。
   答えになるものもない。
   今ある現実がすべて。
   それが、確かな答え…
   俺は、ゆっくりと歩き出した。
   たとえどんば絶望的な状況だとしても…
   それでも、俺は信じたい。
   少しの可能性でも信じたい。
   失うなんて信じたくない。
   だから、行く。
   現実と向き合う。
   俺ができる事のすべてをする…
  

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