「………………」
  「………………」
   さっきから無言が続いている。
   自然と空気が重苦しく感じてくる。
   もしも、名雪のあの状態がなにか危険を知らせる予兆だとしたら…
   そんな根拠のない不安が胸を押しつぶし始める。
   もしも名雪がこのまま…
   …何を考えているんだ、俺は。
   そんな事考えるな…
   名雪はきっと助かる…
   そうでなきゃおかしいんだ…
   気が付けば、診察室や医局のある場所に来ていた。
  「昨日、検査したときに一緒に精神方面の検査も行ったのだけれど…」
   突然近藤先生は話を切り出した。
  「水瀬さんの精神面… これまでにないぐらい安定していたよ」
  「え…?」
   安定している…?
   つまり、それは…
   近藤先生は足を止めてこちらを向いた。
   その顔は人を安心させるような穏やかな笑顔だった。
   近藤先生の言葉が予想できる。
   そう、名雪は…
  「水瀬さんはもう大丈夫。傷がふさがったらすぐに退院できる」
   退院できる…
   それは、ずっと夢見ていた事。
   ここでの生活もずいぶんと長くなった。
   でも、それももうすぐ終わるんだ…
  「…ありがとうございます」
  「いや、精神面の回復は水瀬さんの頑張りのおかげだよ。心の病気を治すのは周りの環境もそうだけど、
  一番大事なのは本人の意思なんだよ。だから… 退院したら頑張ったねってほめてあげて欲しいな」
  「はい…」
   名雪のあの笑顔は間違いなかったんだ…
  「ただ、完全というわけではないから退院後も定期的に来てもらう事にはなるね」
   やっぱり完治ではないんだな…
   でも、名雪が帰ってきてくれる…
   それが一番大事なことだった。
  「そういえば、水瀬さんちょっと変わった事を言っていたよ」
  「え?」
  「すごく大切な人に会った。名前も顔もどこで会ったかも忘れたけど、すごく大事だって事は覚えている…
  その事について詳しく聞いてはみたけど、記憶がおぼろげで穴だらけのようだね」
  「臨死体験ってやつですか…?」
  「そうだね… それに近いものがあるかもしれないね」
   名雪が体験した事はどんな事なのだろうか…?
   いくら想像してみても分からないけど、ただひとつ分かることがあった。
   名雪にとって、その体験は心にかかった靄を消し去ってしまうぐらい大事なものだったと。
   そう、俺があゆと会ったあの日のように…
   話はそれで終わりだった。
  「…ありがとうございます」
   近藤先生に頭を下げてお礼を言った。
  「それじゃあ、ついでにちょっと付き合ってもらえるかな?」
   近藤先生は近くのドアを開いた。
   何度も行った事のある診察室だ。
  「次はなんですか?」
  「ちょっとした、ひとりごとさ」


  「あの日… 水瀬さんがケガをした日なのだけど、事件が起こる前に僕は水瀬さんと話をしていたんだよ」
   診察室に入るなり、コーヒーと椅子を出された。
   つまり、話はそこそこ長いということだろう。
  「水瀬さんが相談に乗りたいことがあるって事で… ね。察しは付くだろう?」
   …もちろんだ。
   あの日、名雪は香里と大喧嘩をした。
   その事や、俺にかかっていた疑いのこと… 色々な要因があったはずだ。
  「その話を聞いて、僕はある決心をしたんだ」
   近藤先生の顔が厳しい表情になった。
   一瞬、回りの温度が下がった気がした。
   いつもの医者らしくない近藤先生はそこには居なかった。
   そこに居るのは医者らしく、そして冷たいオーラを纏った近藤先生だ。
   あまりに冷酷で、表情が読み取れないその顔に気圧された。
  「水瀬さんと君… 相沢君を引き離そうと」
   …え?
   一瞬、近藤先生の言っている事が分からなかった。
   俺と名雪を引き離す。それは、どういう事だろうか?
   言葉どおりの意味だとしても、それが何を意味するのかが分からない。
  「分からない… よね? 分からなくて当たり前だと思う」
   まるで全てを見透かしているような言い方。
   普段なら癪に障ることだが、なぜか今は… 近藤先生がそうすると恐れが先行する。
   普段のあの医者らしくない近藤先生はなんだったのだろうか…?
  「水瀬さんから聞いた話、そして君の行動。それら全てをまとめると… 当時の君は水瀬さんにとって足枷でしかなかった」
   言われてはっとする。
   …そうか、そういうことだったんだ。
   あゆに会う時まで、俺は迷っているばかりだった。
   何をしたら名雪のためになるのか、俺はどうしたいのか。
   それら全てが迷いのせいで見えなくなってしまっていた。
  「水瀬さんは拒否するだろうけどね。でも、しっかりと言い聞かせる覚悟はあった。
  水瀬さんのためにも、君のためにも。そして、僕自身のためにも…」
   どこか悲しげな目で、近藤先生は窓の外に目をやった。
  「自分自身の… ためですか?」
   その理由はなんだろうか?
   医者としてのプライド? 義務感? それとも他のなにか?
  「そう、自分自身のため。エゴかも… しれないけど。ついでに聞いてもらえるかな。ちょっとした昔話を」
   俺はそのまま静かに頷いた。


  「僕が水瀬秋子さんと知り合いだった事は… 知らないだろうね」
  「…初耳です」
   驚いた。
   なんていうか、あまりに唐突過ぎてリアクションも取れないぐらいだ。
  「水瀬秋子さんとは… 学生時代にちょっと付き合っていた事があったんだ」
  「付き合うって、それは…」
  「ああ、恋人同士だった」
   秋子さんは謎の多い人だったけど、まさかこんな謎があるとは…
  「きっかけはちょっとした事だったんだ。最初は綺麗なクラスメイトだなって思うだけだった。
  それが、いつのまにか恋人になっていた。気がつけば付き合っていたってやつだろうね。彼女は… 太陽のような人だった」




   彼女は自然と笑いを作る、不思議な人だった。
   当時の僕はあまり感情を表に出さない奴でね。そんな僕でも彼女と一緒にいると自然と笑えたんだ。
   一緒に登校したり、作ってもらったお弁当を食べたり、下校途中で寄り道をしたり… ごく普通の恋人だった。
   でも、そんな普通の日々はあまり続かなかった。
   …父親の都合で海外に行く事になったんだ。
   いつ帰るのか、そもそも帰る事ができるのか分からない。
   だから、彼女を待たせて辛い思いをさせるぐらいなら…
   そして僕は別れを選んだ。
   本心じゃなかった。できる事ならずっと、一緒にいたかった。
   でも、そのときの僕はまだ一人で状況を覆せるほどの力はなかった。
   彼女は笑顔で僕を送り出してくれた。
   別れを告げたときも笑顔だった。
   僕の都合で勝手に別れてしまったのに、それでも彼女はそれを責めなかった。
   それからも僕は彼女の事が気になっていた。
   それほど僕は彼女の虜になってしまっていた。
   別れて改めて気付かされて、泣いたときもあった。
   そして僕は向こうの大学で医師の資格を取り、しばらく各地の病院を転々として… 生まれ育った町に戻ってきた。
   最初はあまりに様変わりしていてちょっと悲しかったけど、懐かしさがそれを消してくれた。
   そしてこの町に戻って… 彼女が結婚している事を知った。
   その時すでに旦那さんは亡くなってて、彼女には一人娘の名雪さんがいた。
   僕は考えた。もし、今彼女に逢えばまたやり直せるのではないか… と。
   だが、その考えはすぐに捨てた。今更… という思いが先行してしまって、結局踏み出せなかった。
   やがて、彼女は… 事故で…
   そして… 彼女が遺した大切な証… 名雪さんの事を聞いて、僕は決心した。
   今僕には救う力がある。あの時力がなくて、抗えなかった僕じゃない。
   だから、せめて名雪さんは救いたい… たとえ、どんな手を使っても…
  



  「だから、僕は悪人になる事を覚悟で名雪さんと相沢君を引き離そうとした。
  名雪さんを救うため… 僕の誓いを守るため… もっとも、今の状況からするといらないお世話だろうね」
   そう言って笑う近藤先生はいつもの医者らしくない近藤先生だった。
  「そんな事が… あったんですね」
  「意外、かな? 自慢できるようなものじゃない、三流のラブコメだけどね」
   綺麗な思い出話がラブコメで片付けられてしまった。
  「でも、最初に名雪さんを見たときはびっくりしたよ… 当時の秋子さんにそっくりだ」
  「そうなんですか?」
   やっぱり親子だから、なんだろうか?
  「…もし、僕が道を誤っていたらあの男の子のようになっていたかもしれないね」
  「え…?」
   あの男の子… つまり、事件を起こしたデブだ。
  「それぐらい、僕の中で秋子さんの存在は大きいんだと改めて気付いたよ。いい大人なのに、何やってるんだろうね… 結婚もしないで」
   近藤先生がすごく身近な人だと感じてしまう。とても、不思議な感覚だ…
   …って待てよ? 近藤先生と秋子さんがクラスメイトって事は年齢が一緒なんだよな…?
   近藤先生をじっと見つめる。
  「ん? なにか気になることでもあるのかな? もしかしてチャック開いてる…?」
  「あ、いえ。気にしないでください」
   近藤先生といい、秋子さんといい… 実年齢が本当に分からない…
   いくつなんだろうかこの人は。
   なんだか聞くのが怖い気がする…


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