医局に水瀬さんが尋ねてきたのは、1時間ほど前だった。
僕はコーヒーを出し、水瀬さんは特等席のベッドに座った。
それから、僕は水瀬さんから話を聞いた。
話から推測すると、彼女は友達と派手に喧嘩をしたみたいだった。
それも、普通の喧嘩ではないようだ。
痴話喧嘩の類になるみたいだが、詳しくは話してくれなかったのでよくわからない。
ただ、彼女の沈んだ表情や喋り方でその事がどのぐらい深刻なのか推し量れる。
「………………」
「僕からはあまりアドバイスはできないけど… 少し、落ち着いて考えるべきだと思うよ」
水瀬さんはうつろな目で僕の言葉を聞いている。
「わたしは…」
「おや、どうしたのかな?」
水瀬さんの体が、左右に揺れ始める。
眠くなったときに見せる兆候だ。
もう夜も更けている、彼女にしてはかなり夜更かしという時間帯なのだろう。
「にゅ…」
どさっ
そのまま、ベッドに倒れこむ。
「………………」
彼女の飲んでいたコーヒーを見る。
わずかにとけ残った白い粒が底に溜まっていた。
彼女の心はまるで砂の城のようなものだろう。
わずかな力で崩れ去ってしまう、儚く美しいもの。
彼女を救わなければならない。
僕にできる事はなんでもしよう。
「そう… このままじゃ、いけないね…」
水瀬さんを起こさないように、そっと彼女に近づく。
カチャッ
ゆっくりとドアが開いた。
「え… 君… は? ぐっ!? な、なにをっ!?」
病室に名雪の姿は無かった。
ちょっと出ているだけなのか、それともかなり長くあけているのか…
この病院で名雪のいる場所を大急ぎで思い出していく。
トイレ、浴室、医局…
ここにいないとなると、次にいそうなのは…
足は自然とその場所へと向かっていた。
近藤先生が普段いるはずの医局。
時間的に浴室はありえないし、トイレだとしたら少し待っていれば来るはずだ。
走ったせいか、驚くほど速く医局の前に着いた。
扉は閉ざされ、中から光が漏れていることもない。
時間はかなり遅い。もしかしたら帰っているかもしれない。
でも、調べるのはタダだから少し調べていくか…
ドアノブを回すと、鍵がかかっていた。
…まぁ、遅いし仕方が無いかもな。
ここではないと判断して離れたその時、中からわずかに声が聞こえた。
その声は間違いなく名雪の声だった。
名雪がいるのか…?
ドアに近づき、隙間に耳を当ててみる。
声はわずかに漏れている程度だが、意識を集中すれば問題なく聞けそうだ。
「んっ!? いやぁ!」
っ!?
何を… しているんだ?
「…けないだ…う?」
男の声が聞き取りにくい。
どこかで聞いた事があるはずなんだが、どうにも思い出せない。
「いや… どうして?」
「これは全部……と…のため…」
ドクン
ヤメロ
「あいつの事は……てくれ。そのかわり…全力で……てあげる…」
「嫌… 祐一は…」
「…もう忘れた……がいい。…大丈夫、…忘れ……てあげるよ」
ドクン
サワルナ
「いや… 来ない… で…」
「しょうが……な、それじゃあ……になれるように僕が……してあげるよ」
「い、いやぁっ! んむぅっ!?」
「ふふふ、かわいい表情… その顔が…好きなんだ」
「はぁっ… ひど… どうして…?」
「愛を確かめ合う…さ。さぁ、もっと… 夜はまだ…」
「んむっ!?」
ドクン
コロシテヤル
「やぁっ、離し… もうや…て」
「すご…な… まだ……しか触れてないのに…濡……いるよ?」
「やめて… 言わないで…」
「うれしい… そんな顔を……見せてくれるかな?」
何かが頭の中ではじけた。
理性は余計だった。
この純粋な怒りを力に変える。
それが、今一番大切な事だった。
助走をつけ、ドアに力一杯体当たりする。
ドガッ!
「っ!」
体中に痛みが走る。
ドアはまだびくともしない。
もう一度…!
ドガッ!
ドアが軋み、金具が悲鳴をあげる。
あと一度同じ事をすれば…
ガチャッ
その時、ドアが内側から開き、中から人が出てきた。
その姿を見るなり、俺は駆けていた。
「な、なんだ…?」
「このっ…!」
バキッ!
「ぐっ!?」
言い終える前に、拳が顔面を捕らえていた。
頬がゆがみ、ゆがんだ顔のままで男は倒れた。
「名雪っ! どこだっ!?」
近くにあったスイッチをつけると、部屋が一気に明るくなった。
そして、少し先のベッドに名雪はいた。
名雪はベッドにロープで縛り付けられていた。
「ぁ… ゆういち…」
俺を見る名雪の目は焦点が合っていなかった。
胸がはだけられてる。
ズボンを下ろそうとした形跡もある。
「テメェ…」
ゆっくりと起き上がる男を睨みつける。
光に照らされ、ようやく男の姿が分かった。
そう、俺はこいつを知っている。
「本当に懲りていなかったんだな、豚野郎」
ゆっくりと立ち上がろうとする男にはき捨てるように言う。
「と、当然の事をしたまでさ。お、お前じゃ名雪ちゃんを不幸にするだけだよ。お、俺が名雪ちゃんを…」
「黙れ! 勝手な事並べてるんじゃねぇよ」
「か、勝手なことか… それにしても、随分とよ、余裕だなぁ?」
男は気味の悪い笑みを浮かべている。
「君は邪魔をしただけじゃなくてお、俺に暴力をふるったな?」
「それがどうした? 今度は骨でも行くか?」
「あ、あまり調子に乗るなよ? お、俺は今日は本気なんだ」
「へぇ… 本気、ねぇ…」
数日前は殴られて吹っ飛んでそのままだった。
それを忘れたのだろうか。こいつは…?
「今なら許してやる。もう二度と俺たちの前から消えるって約束したらな」
「ゆ、許してやる… か」
男の顔が狂気を帯びたように歪んだ。
「ふふふふふ… あははははははっ!」
「っ!?」
まるで狂人のように笑う男。
なんだ… こいつは?
「ひ、跪くのはお前の方だ!」
男が走って俺の方に詰め寄ってくる。
上等だ。
返り討ちにしてやる…っ!
「ダメだ! 避けろ!」
「…えっ?」
一瞬、判断が遅れた。
けど、遅れた判断はとっさの機転で取り返せた。
キラリと光るもの。
それがさっきまで俺のわき腹があった部分を掠めていた。
コートが切り裂かれ、ぱっくりと穴が開いた。
「ふふふふ… よ、避けたなぁ? 避けたなぁ? あははははははっ!」
「マジかよ…」
男が持っているのは折りたたみ式のナイフだった。
刃渡りは結構ある。
アレでやられたら本気でヤバいだろう。
「相沢君… 無事かな?」
「近藤… 先生?」
近藤先生がカーテンで隠されていた部屋の隅から這い出てきた。
白衣が真っ赤な血で染まっている。
俺と同じく、わき腹を狙われたんだ。
揉みあった時に打ち付けたり切りつけられたのか、頭や肘にもケガがあった。
「くそっ! くそっ! くそくそくそくそっ! ど、どうして邪魔が入るんだ! せ、せっかくの計画が台無しじゃないか!」
男は血走った目を俺に向けてきた。
次にあのナイフの餌食になるのは俺らしい。
でも、そんなのはゴメンだ。
悪いが、計画は壊させてもらう。
「お、お前はいつもお、俺を馬鹿にしやがってぇ!!」
男が突進してくる。
その巨体からは想像もできないほどのスピード。
「っ!?」
最初の一太刀は首元を狙ってきた。
間一髪でそれをかわす。
続けざまにナイフが斜めに走った。
後ろに引く事でなんとかかわす。
いつまでも逃げてばかりではいけない。
なんとか相手を無力化しないと。
「はぁっ、はぁっ、し、死ね!! ウ、ウザイんだよお前!!」
ナイフが空を凪ぐ。
紙一重でそれをかわす。
だが、これでようやく分かった。
男は喧嘩慣れしていない。
一つ一つの振りが大振りすぎるのだ。
一発は大きくても軌道さえ見抜けば…っ!!
縦に一閃。
それを横に移動してかわす。
俺の体を追うように横凪に一閃。
それを後ろに引きながらかわす。
そして、そのまま蹴りを腹にぶち込んだ。
「ぐぇっ!?」
たまらず男は体をくの字に曲げる。
そのままナイフを叩き落して、顔面に一撃を浴びせる。
「うがっ!?」
男はそのまま壁にぶつかり、悶えた。
「はぁっ、はぁっ…」
ナイフを部屋の隅に蹴飛ばした。
足音が近づいてくる。
一人や二人じゃない。何人もの足音だ。
どうやら騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたようだ。
「な、何をやっているんだ!?」
「け、警察を! 早くっ!」
「こ、近藤先生! 大丈夫ですか!?」
慌てて医者の一人が近藤先生の傷口を調べる。
「近藤先生は大丈夫なんですか…?」
「傷が深いが幸いにも内臓はそれてる。これならなんとかなるだろう。ところで、これは一体…? 君がやったのか?」
うっ、さすがに疑われるよな…
「いえ、違います… 犯人はあそこで倒れている男です。彼… 祐一君は僕たちを助けてくれました」
良かった。ちゃんと真実は伝わったようだ。
「うっ…」
男が立ち上がろうとした。
それをすかさず医者達が押さえ込む。
「ぐっ!? や、やめろ! は、離せ!」
「このっ! 暴れるな!」
何人もの医者や看護士に羽交い絞めにされて、男は病室の外に出された。
「近藤先生、手当てをしましょう」
「ええ、お願いします…」
近藤先生は医者に肩を借りて病室を出て行った。
ふぅ… なんとか、なったようだ… な。
一気に全身の力が抜けて、腰が抜けてしまった。
「お、おい! 大丈夫か!?」
「は、はい。なんだか一気に疲れがきました…」
周りの医者から笑い声が漏れた。
…ってそうだ! 名雪は!?
慌てて名雪の寝ているベッドに向かい、名雪を抱き上げた。
「名雪、大丈夫か?」
「う、うん。まだキスぐらいしか… されて… ないから…」
震えながら話す名雪の目に涙が浮かんでいた。
「名雪…」
名雪を抱きしめた。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だ」
「ひぐっ、祐一… ゆういちぃ…」
俺の胸の中で名雪はすすり泣いた。
もう少し早ければよかったな。
ゴメンな、名雪…
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