「あなたは、もう体がないから戻るのは無理なの…」
   少女の宣告。
   低く、感情を押し殺した声で告げられたその事はもう知っていた。
   もう、自分は戻れないという事を。
   でも…
   せめて1日だけでも戻れたら…
  「…どんな奇跡でも、過ぎてしまった"死"は覆せない」
  「世界をひっくり返すような奇跡でも…」
  「停止した時間を動かす事はできないの」
   少女は淡々と冷酷な事実を伝えている。
   それはもう過ぎてしまった事として、もうどうする事のできない事として。
   現実という残酷さはここでもまだ存在し続けるのだ。
  「あなたがこうしていられる事自体も奇跡なのだから…」
   私は、もうあの子を救う手段はないのだろうか…?
   叶わぬ願いなのだろうか…









  「………………」
   真っ白い光が視界を包んで朝だと教えてくれた。
   本来なら気持ちよく目を覚ますところなんだろう。
   でも、今の俺はそうもいかなかった。
   目覚めは最悪だった。
   鈍い頭痛が続いている。
   吐き気も止まらない。
   精神状態もかなり酷いだろう。
   最近はこんな事無かったのに…
   まだ精神が不安定なのだろうか…?
   ピーンポーン
   一階からチャイムが鳴る。
  「………………」
   行きたくない。
   とても行ける状況じゃない…
   今はそっとしておいてくれ…
   それから数回チャイムが鳴ったが、諦めたのか音はしなくなった。
  「…ごめん」
   そう、小さく呟くのが精一杯だった。
   そのまま瞼を閉じてもう一度眠り始めた。



   オレンジ色の光が窓から差し込んでいる。
   どうやら今は夕方頃なんだろう。
   随分と寝こけてしまったらしい。
  「起きるか…」
   ゆっくりと体を起こし、数回体を捻る。
   ぼきぼきと音が鳴り、すっきりした。
  「腹… 減ったな」
   朝から今まで何も口にしていない。
   腹だって減る。
  「………………」
   気がつくと台所に向かっていた。

   ジャーッ!

   勢いよく蛇口から出た水が野菜に当たって水しぶきを上げている。
   そうして野菜を洗っていると、キッチンタイマーから電子音が鳴り始めていた。
   すぐさま麺を茹でている鍋の火を止めて、シンクにざるを用意する。
   大鍋から立ち上る熱気にやられながらも無事麺の水切りが終わった。
   茹で上がった麺に軽くオリーブオイルをまぶし、かき回す。
   野菜を適度な大きさに刻んで、一緒にフライパンに入れて炒める。
  「一人だったら間違いなくインスタント麺だったな」
   悲しいかな、自分の行動が分かってしまう。
   この野菜スパゲッティーは向こうにいたときに考え付いたものだ。
   動く気力があるときはこうして少し手の込んだものを作って食べたりしていた。
   数分炒めれば完成してしまう。
   手の込んだといっても随分と簡単なのだ。
   炒めあがったスパゲッティーを二皿に分け、お盆に載せた。
  「あとは…」
   お盆の上のスパゲッティーをひっくり返さないように気をつけながら、2階に上がった。



  「名雪、晩飯出来たから起きてこないか?」
   軽くノックをしながら呼びかける。
   すると、扉はノックだけで開いてしまった。
   半開きだったようだ。
  「…入るぞ?」
   ぎぃ…
   体を使ってドアを開けた。
  「…電気もつけないで」
   名雪がこうなってからしばらくするが、こうして部屋には入れたのは数えることが出来るほどだった。
   ベッドの方からすぅすぅと小さな寝息が聞こえてきた。
  「………………」
   どうやら本当に寝ているようだ。
   テーブルにお盆を載せて、名雪の体を揺すった。
  「名雪、晩飯だぞ?」
  「う… うぅん… あ… 祐一」
   びっくりするぐらいあっさりと起きてくれた。
   「おはよう」
  「なぁ、晩飯食べないか?」
  「………………」
  しばらく無言が続いた。
   名雪の返事をずっと待つ。
  「…うん、食べる」
   その返事が聞けてとても嬉しかった。
   作った甲斐があるというものだ。
   下に降りるのは面倒だったのでここで食べることにした。
  「どうだ、美味しいか?」
  「…ちょっとしょっぱいかも」
  「ぐぁ… 塩の量間違えたか?」
   やはりブランクが長すぎたな…
  「でも、美味しいよ」
  「あ… ありがとう」
   うわ… かなり恥ずかしい。
   しばらく名雪を直視できなかった。



  「祐一」
   食事も終わりくつろいでいたころ、突然名雪が話しかけてきた。
  「どうしたんだ?」
  「昨日… どこにいたの?」
  「学校だけど…」
  「………………」
   どうして? という表情の名雪。
   不思議に思うのも無理はないな。
   「この間香里に言われたんだ、『何かやろうとする事は大切な事だから…』って。
   だから… 少しずつでも前と同じように… 変わっていこうと思って」
  「…わたしにもできるかな?」
   小さくつぶやいた声はとても弱々しくて儚げだった。
  「できる。がんばれば無理なことなんて無いんだから」
  「………………」
   がんばっても無理な事なんて本当に僅かなんだ。
   無謀といわれる事なんて本当に少しの事なんだから…
   だから、一緒にがんばりたい。
   期待を込めて名雪をじっと見つめる。
  「…ごめんね。わたしにはまだ無理かも」
   やっぱりすぐには無理… か。
   でも、こうして話をできるようになっただけでも少しずつ進んでいるのだと思う。
   少しずつでもいいんだ。
   それがやがて大きな一歩になるから。
  「無理しないで、ゆっくりでいいからがんばろうな」
  「…うん」
   名雪はうつむいたまま、口を閉じてしまった。
   それからしばらく、部屋は人がいないように静まり返ってしまった。



   バタン

   少し大きな音を立ててドアが閉まった。
   まるで、わたしの部屋と外の世界を遮断するように。
   祐一は食器を持って台所へ行った。
   わたしがやろうとしたけど、『いいから、ゆっくりと休んどけ』と言われた。
   祐一は変わろうとしている。
   お母さんが死んだことを忘れ、前と同じように笑っていこうとしている。
   わたしは…
   わたしはどうすればいいのかな…?
   このままじゃあ…
   わたし、置いて行かれちゃうよ…



   あれから少しずつではあるが、学校へいけるようになっていた。
   毎朝ギリギリまで名雪を連れて行こうと粘っているのだが、今だ成果は無い。香里の呼びかけにも…
  「ごめんね…」
   そう、答えるだけだった…
   …どこで間違ったのだろう?
   何がいけなかったのだろうか?
   どうしてこの街は…
   悲しみを生むのだろう…?
  「………………」
   自然と目が覚めた。
   起きるには不自然な時間だが…
  「あ……」
   どうやら泣いていたようだ。
   目じりに涙がたまっていた。
  「…っ!」
   手の甲で涙をぬぐう。
   …やっぱり俺も堪えてるかもな。
   寝なおそうと体を横に向けたとき、ドアがわずかに開いているのに気づいた。
  「名雪?」
   ドアのほうに向かい、半開きのドアを開け放つ。
   そして… 開いた扉の向こうに名雪はいた。
  「な… ゆき?」
   名雪の目の前に来てギョッとした。その目は濁り、光を映していなかった。
   何か様子が変だ。
   俺は名雪の肩を掴むと、軽く体を揺すった。
  「名雪、俺だ。判るな?」
  「うん」
   一見して変わらないように見える笑顔。
   しかし、その中にはなぜか怯えが含まれていた。
   名雪は俺にもたれかかって来た。
   見かけより大きな胸が当たる。
   名雪の息遣いが間近に感じられた。
   そして、名雪の手は俺の胸から腰に降りていった…
  「私が祐一にしてあげられる事はこれぐらいしかないから…」
   そう、つぶやきながら…
   そして、名雪の手は俺の胸から腰に降りていった。






   その夜は燃え上がるような欲望に押されて…
   久しぶりに、名雪を抱いた。






  「わたし… 不安だったんだ…」
   シャワーを浴びて一緒の布団で眠ろうとしたとき、名雪が突然呟いた。
   すぐ近くにある名雪の顔。
   その表情はどこか寂しさを含んでいた。
  「祐一がどこか遠くに行っちゃいそうで… わたしを置いて一人で…」
   言葉はそこで途切れた。
   名雪の瞳が潤んでいる。
   涙を堪えているのだろう。
   …そんなにも寂しい思いをさせていたんだな。
  「馬鹿」
  「きゃうっ」
   軽く額を小突いてやる。
  「…目覚ましの事、もう忘れたのか?」
  「あっ…」
   思い出したように表情がぱっと明るくなった。
   同時にほんのりと頬が赤く染まる。
   きっと俺も顔真っ赤なんだろうな…
  「覚えていてくれないと困るぞ… あれと同じ事言うなんて恥ずかしすぎてできないからな…」
   思い出しただけで耳まで真っ赤になる。
   心の中で確かな決意としてあっても、言うとなるとやはり恥ずかしいものだ。
  「祐一…」
   安心しきった、幸せそうな表情で見つめてくる。
   無邪気なその瞳に吸い寄せられそうになる。
  「わたしたち、ずっと一緒だよね?」

   ズットイッショダヨネ?

   …っ!?
   一瞬、得体の知れない寒気が走った気がした。
  「ああ…」
   …なんだ? さっきのは…
  「…よかった」
   それから名雪は安心したように眠りに落ちてしまった。
  「………………」
   さっき、一瞬感じた感覚。
   あれは… 何なんだろう?
   …いいや。考えたところで判らない。
   俺も寝ることにした。
   次に目覚めたとき、幸せになれることを祈って…
  

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