名雪にしてやれること…
   考え抜いてとりあえず出た答えは、ちゃんと食事をさせる事だ。
   最近の名雪のやつれ具合は見ていてとても辛い。
   だから、少しずつでも元の生活スタイルに戻してやらないといけない。
   それが正しいのかはわからないが、俺は今一番正解に近い行動だと思った。
   昨日の香里のシチューの暖かさ。
   名雪も香里のシチューを食べたなら分かってくれるはず…
   まずはスーパーで食材を買っておくことにした。
   名雪や秋子さんならもっと安くていい食材を専門店で見つけ出せるんだろうけど、
   生憎俺にはそういう眼力はなかった。
   もう一つ心配なのは、無事に料理として完成させられるかどうか。
   上手いほうではないが、食えない物になることは無い… と思う。
   そこそこ中身の詰まった買い物籠をレジまで持って行って会計を済ませた。
   思いのほか安かったのでうれしかった。
  「さて、急いで帰るとするか」
   きっと名雪はお腹を空かせてるだろうな。
   俺もそこそこ腹が減り始めていた。
  「よいせっ… と」
   荷物が詰まって膨らんだスーパーの袋を持ち直して歩き出す。
  「おかあさん、今日のご飯なににするの?」
   子供の無邪気な声が耳に入った。
   数メートル前に小さな子どもと母親が手をつないで歩いていた。
   手をつなぎ、楽しそうに話している。

   どこにでもあるはずの光景。
   どこにでもあるはずの幸せ。
   その光景はいつか見た光景。

   甘くて残酷な日々がフラッシュバックする…
  「くっ…」
   親子が俺を通り過ぎる。
   楽しそうな話し声が聞こえる。
   記憶が暴走し始め、いくつもの記憶があふれ出す。
   制御できずに勝手に俺の頭の中を暴れまわる。
   止めろ…っ!
   止めてくれ…!!
   叫びは空しく、記憶は再生されていく…
   古いビデオテープを見ているように、ノイズ混じりの映像が頭の中で再生され始めた。



   夕日が差す商店街。
   この日はたまたま秋子さんの仕事が速く終わり、名雪の部活も休みだった。
   せっかくだからと3人で買い物に行くことになった。
   こうして3人で歩いていると本当の親子のように見られるんだろうな…
   それとも、仲のいい姉妹と他一名だろうか。
  「こうしてみんなで歩いていると昔を思い出しますね…」
   秋子さんはいつもの仕草をして、微笑んでいる。
  「俺はとんだやんちゃ坊主だったからすごく迷惑かけてたかもしれないっすね…」
  「今も時々やんちゃ坊主になる気がするよ〜」
   む、名雪にしてはなかなか鋭いツッコミをするな。
   だが名雪よ! 今の俺はやんちゃ坊主なんかじゃない! 悪戯好きの少年だ!
   …うわ、最低人間じゃん。
  「そういう名雪だって子供の頃と大して変わっちゃいないと思うけどな」
  「う〜 それは失礼だよ〜」
   二人でああだこうだと言い合う。
   ケンカとも言えない、楽しいじゃれ合い。
   日常のどこにでもある一コマ。
  「あらあら…」
   俺たちのやり取りを見て楽しそうに微笑む秋子さん。
   とても楽しい時間。
   まぶしい笑顔。
   幸せってこんな事なんだなって思っていた…
   日常はそこで終わった。
   夕焼けに包まれていた商店街は月明かりの差す、深夜の病室に変わった。
   秋子さんの微笑みは、死の淵に立つ苦悶の顔に変わった。
   体中につながっているケーブル。
   腕全体に巻かれた包帯や、顔の傷を隠すガーゼ。
   無機質な機械音以外、ほとんど音のない空間。
  「…ゆき、ゆう… さん…」
   苦しそうに喘ぎながらゆっくりと言葉を紡いだ。
   瞬間、心臓の鼓動を示すメーターが一本の直線になった。
   ピーッという機械音が残酷に死を告げる。
   閉じられた瞳は、二度と開くことはなかった。



  「…っ!」
   気がつくと全力で走り出していた。
   ここに居たくない。
   幸せだった頃の記憶を思い出したくない…!
   道行く人と肩がぶつかる。
   振り返り、罵声を浴びせられた。
   それでも走るのを止めなかった。
   振り返ることもなく、ただひたすら走り続けた。
   風景が流れていく。
   気がつけばすでに商店街を通り過ぎ、いつも通っている通学路に出ていた。
   雪道に躓きそうになりながらも走り続ける。
  「っ…!!」
   情けない。
   何で涙が止まらないんだよ!
   俺はこんなに弱かったのか…!
   名雪を守るんじゃなかったのかよ…!!
   涙や鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら走り続けた。
   体裁を気にする余裕すらない。
   溢れ出た感情がただひたすらにこの体を突き動かしていた。どうして…
   どうしてこんなにも涙が出るんだよ!
   何でだよ…!
   ちくしょう! ちくしょう!

   バタン

   後ろ手でドアを閉めた。
   いつの間にか家にたどり着いていた。
  「はぁ… はぁ…」
   ここまで全力で走ったなんて久しぶりだ。
   体が酸素を求めている。
   荒い息が止まらない。
   涙は止まっていた。
   でも、ここまでずっと泣きっぱなしだった。
   …情けねぇ奴だな。
   ジャーッ…
   洗面所で顔を洗う。
  「………………」
  「ひどい顔してるな… 俺」
   泣きはらした顔はとてもじゃないけど人に見せるような顔じゃなかった。
   買った物を仕舞った後、ソファーに倒れるように横になった。
   とてもじゃないが、飯を食う気にはならなかった。
   まともに意識が保てない。
   視界はぼんやりとして、焦点が定まらない。
   居間はしんとして、誰もいないようだった。
   そう、俺自身も空気のようだった…
   自然と眠気が俺の体を支配し始めていた…









   ついこないだまで二人きりだった家に親戚が集まっている。
   葬儀場を借りることができなかったので、ここで葬儀をする事になった。
   俺の両親は仕事の関係でこれなかった。
   …まぁ、期待はしていなかったが。
   秋子さんの遺体が収められている棺の前にたくさんの人が集まっていた。
   みんな黒い格好をしている。
   ひそひそ声が四方から聞こえてくる。
   重く密度のある空気で満たされている。
   …嫌な気分になる。
   大切な人が死ぬのは嫌だ。
   同情なんてされたくない。
   どんなケガをしていたって…
   後遺症が残っていたって…
   生きていてくれた方がいいに決まってるじゃないか…
   血が滲むぐらい拳を握り締める。
   名雪はまだ来ていない。
   少し落ち着いてから来るそうだ。
   それがいいだろう。
   葬儀なんてただでさえ辛いんだ。
   少しでも耐えられるように支えてやらないと。


  「…や」
   声が聞こえた。
   冷たくて、感情的な声。
   その声に、一瞬鳥肌が立った。
   俺の知っているその声はそんなに冷たい声じゃないはずなのに…
   振り返ると、入り口のほうに名雪が立っていた。
  「…名雪」
   名雪は黒い喪服を身に着けていた。
   名雪は何を着てもよく似合う。
   たとえ、それが死者を弔うためのものだとしても…
   黒いスーツは悲しいぐらい似合っていた。
   名雪はゆっくりと棺に向かって歩いていく。
   その目は感情というものがなく、視線も虚ろだった。
  「いや…」
   ゆっくりとした歩みはとても頼りなく、今にも倒れてしまうのではないかと心配になる。
  「いや… おかあさん…」
   震えながら、一歩ずつ棺に向かっている。
   虚ろな目には涙が溢れるぐらい溜まっていた。
  「嫌…」
  「どうして… こんな…」
   名雪の目からぽろぽろと涙がこぼれ始めていた。
   その姿はあまりに悲しく、見ているのが辛かった。
  「………………」
   名雪は虚ろな目で棺を見つめ続けている。
   その瞳からは感情を読み取ることはできない。
   あるとすればそれは… 深い悲しみ…
  「どう… して…」
   名雪はさらに一歩踏みしめた。
   ゆらりと名雪の体が動いた。
  「こんなの嫌ぁぁぁぁぁぁ!!」
   がたんっ!
   名雪は秋子さんの眠る棺に飛びすがった。
   周りにあったものが倒れて床を転がった。
  「お、おい!」
  「どうして!? 一緒にいるって約束したのに!」
   涙を流しながら、顔を歪ませて泣いている。
   悲しい、悲しい泣き顔。
  「ひどいよ… う… ひど… う… うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
   それからは大変だった。
   半狂乱の名雪は大の大人も敵わない位手がつけられなかった。
   念のためか医者が待機していたので、それからすぐに鎮静剤を打たれて眠ってしまった。
   秋子さんが亡くなった日もそうだった。
   あの時は今日より酷かったかもしれない…
   それこそ、そのまま自殺してしまうんじゃないかってぐらいだった。
   じゃあ、どうして俺は平静を保っていられるのだろうか…?
   名雪が苦しんでいるのに、どうして俺は…









   泣いていた。
  「ひぐっ、ぐぅ…」
   泣いていた。
  「ぐすっ、くそぉ…」
   泣いていた。
  「どうして、どうして涙が止まらないんだよ…」
   枯れていたと思っていたはずの涙は容赦なく溢れ、ぬぐっている袖を濡らしていく。
   感情にブレーキが利かない。
   涙が止まらない。
  「なんで… 俺が泣いているんだよ…」
   俺は泣いてちゃいけないのに…
   名雪を守らなきゃいけないのに…
   ゆっくりと立ち上がり、ふらふらと歩き出した。
   体はいうことを聞いてくれない。
   ただ本能のままに、動くだけ…
   廊下を歩いて階段を上って、部屋にたどり着いた。
   ばふっ
   涙を流したまま、無意識のうちにベッドに倒れこむ。
   真っ暗い部屋に少し埃が舞った。
  「おれ… ばかだ…」
   つぶやいた声は自分でも聞き取れないぐらい小さかった。
   そのままスイッチを切るように意識は途切れてしまった。


NEXT

SSTOPへ



感想いただけると嬉しいです(完全匿名・全角1000文字まで)