空虚な時間が過ぎていく。
   授業はほとんど身に入っていない。
   名雪はどうしているのだろうか… その事で頭がいっぱいだった。
   チャイムが鳴った事すら気付かないのも度々だ。
  「………………」
   このままだと気が滅入りそうだ。
   少し気分を入れ替えよう…
   そして、俺は中庭に来ていた。
   外の冷たい空気でも吸えばすっきりするだろうと思ったからだ。
   ここで過ごす時間は苦痛だった。
   それでも、行かなければならない。
   名雪のそばにいてやりたいが、それを理由に甘えてはいけない。
   だから、自分にもこうして試練を課す。
   これも… 全ては自分のためでもあり、名雪のためなんだ。
  「お、おい。あ、相沢…とかいったな?」
  「え…?」
   不意に声をかけられ、少しドキッとした。
   振り向くと、そこにはあまり会いたくない奴がいた。
   あの日、名雪としていた男の一人だ。
   教室を出て行く前に俺を睨みつけたデブ。
   不快なしゃべり方と鋭い目つきが印象的で、すぐに思い出せた。
  「な、なぁ。最近な、名雪ちゃんを見かけないんだけど、どうしたんだ?」
   …腹が立つ。
   名雪がああなった原因の一つはこいつにあるのに、全く悪びれた様子がない。
   まぁ、隠していてもいずれ分かる事だろうしここは素直に教えてやるか。
  「今は入院している。新学期までは来ない」
   言った瞬間、男の顔が真っ赤になった。
   怒りで歪んだ顔にどことなく恐怖を感じる。
  「な、なんでだよ! ぼ、僕は名雪ちゃんに会いに学校に来ているのに!」
   …なんて奴だ。
   ここまで自分勝手な事を言えるなんてある意味才能だと思う。
   外見がどうとかではなかった。こいつの腐った性根が外見や物腰に顕れているのだろう。
  「どう思おうが勝手だが、あまり変な行動を起こそうとするなよ」
  「な、なんだと…!」
  「万が一、何かしたら… どうなるかな」
  「ぐっ…!」
   一度殴られた事でちょっと恐怖心が植えつけられているのだろう。
   今のところ向こうから仕掛けてくる事はなさそうだ。
  「じゃあな」
   男に背を向けて歩き出す。
  「お、おい! ま、待てよ!」
  「話す事は何もない。じゃあな」
   まだわめく男を置いてきぼりにして校舎へと戻っていった。




   放課後、いつものように俺は病院に向かっていた。
   北川はバイトでどうしても抜けられないようだった。
   そういえば香里って部活に入っていたんじゃなかったか?
   自由参加だとは聞いていたけどこうも毎日だとちょっと心配だ。
  「…どうしたの?」
  「そういや、部活はどうしたんだ?」
  「…………辞めたわ。だいぶ前に…」
  「え、どうして…」
  「………………」
   …これ以上は聞いてはいけない。
   沈黙がそう理解させた。
  「………………」
  「………………」
   お互い、言葉を無くしてしまった。
   そのまま無言で歩き続ける。
   そして、すでに病院は目の前だった。
  「あ、そろそろ病院だな」
  「ええ…」
   病院…
   …そういえば、昨日はどうしてあんなふうに逃げ帰ったりしたんだ?
   また答えづらい質問かもしれないけど…
  「香里、ちょっと…」
  「相沢君、ちょうどよかった…」
  「え…?」
   商店街のほうから近藤先生がやってくる。
   …コンビニの袋を下げているところを見ると、買出しってところだろう。
   白衣という非現実じみた格好なのに、どこか所帯じみた風に見えてくるから不思議だ。
  「ちょっと聞きたいことがあったんだ、今からいいかな…?」
  「あ… はい」
  「それじゃあ、あたし先に病室に行ってくるわね?」
  「あ、頼む…」
   香里は一人、病院の中に向かっていった。
  「えーと… 僕たちも行こうか?」
  「どこで話すんですか?」
  「病室にしよう。ちょっと話しづらいことかもしれないから…」
  「え…?」




   カチャッ
   近藤先生は鍵を閉めると、椅子に腰掛けた。
  「さて… 聞きたいことなんだけど」
  「はい…」
  「…水瀬さん、どうしてああなってしまったのか君は知っているだろう?」
  「…っ!?」
   …そうだ、近藤先生には話してなかったんだ。
   産婦人科の先生から、精神科の近藤先生に担当が変わってからまだ日も浅いから、尚更だ。
   それに… あんな事、安易に話せることなんかじゃない。
  「治療に必要な情報なんだが… 分かる範囲でいいから聞かせてもらってもいいかい?」
  「…はい」
   俺は、話せる限りの事を近藤先生に話した。
   秋子さんが亡くなった事は知っているみたいだが、あの日した事の詳しい内容は教えていないはずだ。
   話すのは辛かった。
   一つずつ話していくほどあの日の悪夢が脳裏をよぎって、心を深く抉っていく。
   名雪だけじゃない、俺もあの事を受け入れていかなければいけないんだ…
  「………………」
   近藤先生はずっと黙ったままで俺の話を聞いていた。
   長い時間をかけて、ここしばらく起こった事をできる限り話した。
  「俺から言えるのはこれぐらいです…」
   近藤先生はしばらく黙っていた。
   その場が緊張した空気でいっぱいになる。
  「…こういうケースは珍しくはないんだ」
  「え…?」
  「強い悲しみがあるとき、人は何かに逃避したりする。時にそれは酒であったり、薬であったりするけど…」
  「名雪の場合は…」
   逃避する対象は『性的な事』だという事か…
  「そして、彼女は逃避をしていた事を悔やみ始めている。彼女を治すためには、それらを全てまとめて受け入れさせる事が大事なんだ」
  「………………」
   全てを受け入れる…
   俺はそのつもりだ。名雪がどんなことになっても俺は名雪を愛し続ける。
   だが、名雪は俺の気持ちを理解してくれるだろうか…?
   秋子さんが事故にあってからしばらくの間名雪は俺を、俺の言葉を避けていた。
   そして、今もその状況に近いといってもいいだろう。
   それなら、俺はどうやって名雪の心を取り戻せばいいのだろうか…?
   俺は…
   どうする事もできないのか…?
  「…さて、少し喉も渇いたよね?」
   近藤先生はコンビニのビニール袋から缶コーヒーを出すと、それを俺に差し出した。
  「え? それって近藤先生が飲むために買ってきたんじゃ…?」
  「外に出て買い物するときはまとめ買いするようにしているから、僕の分もあるよ」
   と、言って取り出したのは紙パックのコーヒー牛乳だった。
  「本来なら飲食は他の所でするべきなんだけど、これぐらいなら大丈夫だよ」
   …近藤先生を見ていると、医者の持っている堅苦しそうなイメージが無くなっていくようだ。
  「あれ、飲まないの?」
  「いや、いただきます…」
   なんだか雰囲気に飲み込まれていく感じがした。




   何もできないことの苛立ち、失意、焦り…
   それら全てが今の俺を攻め立て、取れることのない棘となって俺の胸に刺さっている。
  「………………」
   あれから名雪の病室に向かってみたが、入浴中という事で帰ることになった。
   名雪は今頃、何を思っているのだろうか…?
   俺の事だろうか…? それとも、秋子さんの事だろうか…?
   考えても、考えても答えが出てこない。
   まるで、出口のない迷宮に迷い込んだみたいだ…
   そして、気が付くと俺は昨日と同じ場所へとたどり着いていた。
   奇妙な既視感と、なんとも言えない気味の悪さを感じた場所。
   普通なら二度と立ち寄らなかっただろう。
   だが、足が自然とこの場所へ向かっていた。
  「………………」
   俺は、昨日確かにここで何かを見た。
   それが何なのか、既に見たものなのか初めて見るものなのかも知らない。
   ただ、昨日見た女の子は確かに俺を呼んでいた。
  「…君 ゆういち君」
   そして、今日も声は聞こえてきた。
   声のする方はまだ曖昧で分からない。
   ただ、近くに大きな森が見えた。
   辺りを見回しても、隠れられるようなスペースはない。
   もし、隠れているとしたら森の中だ。
  「………………」
   だが、普通に考えてそんな小さい子がこんな時間に森の中にいるわけがない。
   気のせいかもしれない。
   …でも、確かめないと胸の中の靄は晴れないだろう。
   一歩ずつ、森に足を進めていく。
   その途中で感じる奇妙な圧迫感。
   軽い頭痛を感じてきた。
   でも、歩くのをやめない。
   行かなければ… この先にあるものを確かめないと…
   頭の中にネガのような映像が流れ始める。
   それはぼんやりと浮かび、そして…
   光がはじけた。
  「ぐぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
   頭が割れてしまうのではないかと思うぐらいの強烈な頭痛と、ネガのような映像が網膜を焼く。
  「…っ!? ぐぁっ…!」
   次々と流れる映像は、俺にひとつの事を思い出させた。
   …俺は、この子を知っていると。
  

NEXT

SSTOPへ



感想いただけると嬉しいです(完全匿名・全角1000文字まで)