バタンと音を立ててドアが閉まった。
   その音がやけに大きく聞こえた。
   外に出ていたせいで冷え切っていた体を暖房の効いた空気が暖めてくれる。
   コートも脱がないで近くの椅子に腰をおろした。
   色々と忙しかったが、ようやく落ち着く事ができそうだ。
  「………………」
   色々な事があった。
   色々な事が次々にやってきて、休む暇なんてなかった。
   体の疲れより、心の疲れがひどい。
   ふと、リビングのほうに視線を移す。
   リビングの一角にあるテーブル。
   供えられた果物や、火の消えた線香。
   そして、黒い額縁に閉じ込められた写真と遺骨が納められた小さい箱。
   秋子さんの遺影は、見ていて辛くなるぐらいきれいな笑顔だった。
   病室で秋子さんが息を引き取った瞬間、俺は胸の中に大きな穴が開いた気がした。
   葬式を済まして秋子さんの体が炎に灼かれるまで、ただ無気力なままするべき事をこなしていった。
   思えば事故が起こってから今日までずっと、すべてが絵空事だと思える。
  

   信じたくない現実。
   でも、確かにある現実。
   秋子さんが死んだという現実。
   目の前に突きつけられたものはあまりに大きかった。
   もし許されるなら事故を起こした運転手をこの手で八つ裂きにしてやりたい。
   でも、青い炎のような怒りもこの疲れきった体を突き動かす動力にはならなかった。
   あれからほとんど食事を摂っていない。
   食べ物がのどを通らないから仕方がない。
   寝ることもすでに忘れつつある。
   寝るといろいろな事を思い出してしまう…
   時々、心配して香里や北川が来てくれる。
   それが唯一の支えだった。
   俺が、名雪が現実にいるという唯一の…
   あれから名雪は再び部屋にこもってしまった。
   俺と同じく、何も食べていない。
   たまに飲み物などをもってきて欲しいと言われるだけで、それ以外ほとんど部屋から出てこない。
   俺は何もできないんだという現実を突きつけられた。
   名雪のために何かできる事があるかもしれない。
   でも、それがどんな事かはまったく思い浮かばなかった。
   俺にできる事はただ名雪を見守る事しかできないんだ…
   何もできない事が苛立ちになり、自己嫌悪に陥る。
   名雪を守ろうとしたのに、どうして俺はこんな事をしているんだろうか…
   自分で自分が嫌になる。
   こんな自分いなくなってしまった方がいいのかもしれない…
   一時期自殺も考えた。
   それでも、踏み切ることができなかったのは名雪のおかげだと思う。
   何もできない俺でも…名雪を残して死ぬことだけはしてはいけない。
   これ以上、名雪を悲しませたくない。
   だから俺は生きる。
   抱えきれない悲しみを背負って、生きる。
  

   学校に行くにしては少し遅い時間に目を覚ました。
   最近はこのぐらいの時間に起き始めることが多い。
   顔を洗って歯を磨いて、少しだけ朝食を摂ろうとしたがダメだった。
   食べている途中で事故の現場や秋子さんの最後の言葉を思い出してしまい、食べたものを全部吐いてしまった。
   それからはテレビを見始めた。
   特に見たいものがあるわけでもない。
   沈黙が嫌なだけだった。
   流れるニュースを無感動に眺めている。
   悲しいニュース、嬉しいニュース。
   それらは直接的に俺たちには干渉しない。
   世界は、俺たちの変化では代わりなんてしない。
   俺たちがいなくても、世界は回り続けるんだ…
   それじゃあ、俺たちは何で生きているんだ…?
   …分からない。
   2階からドアが開く音がする。
   名雪が部屋から出たみたいだ。
   トイレか… 風呂か…
   どちらか分からない。
   ただ、どちらにしても俺が干渉する事なんてできない…
   俺ができるのは、あまりに小さい事だから…
   しばらく、俺はニュースを見ていた。
   やがて、番組は再放送のドラマになっていた。
   内容は気にならない。
   ただ、流れる風景を無感動に眺めているだけだった。
  

   ピーンポーン

   玄関からチャイムが突然鳴ったのは、ドラマがクライマックス付近になったあたりだった。
   突然鳴った機械音に一瞬驚いてしまい、反応が遅れてしまった。
   それでも2回目のチャイムが鳴るときには体は動いていた。
   玄関に着いた。
   チャイムはまだ鳴らされている。
   このドアの向こうにいる人物はもう分かっている。
   ドアを開ける。
   チェーンがかかっているため、一定のところでドアは動かなくなる。
   ドアが開いてできた隙間から冷たい空気が流れ込んでくる。
  「こんにちは」
  「香里…」
   ドアの向こうにいるのは香里だった。
  「元気か?」
   その後ろに北川の姿も見える。
   予想していた通りだった。
   それだけに少し安心した。
  「すぐ開けるよ」
   チェーンをはずして、香里と北川を迎えた。
  「お邪魔します」
  「同じく」
   そのままいつものように一緒にダイニングに向かった。
   香里と北川を椅子に座らせて、俺はコーヒーの用意を始めた。
   二人はいつもこっちに座る。
   リビングよりこっちのほうが落ち着くようだ。
   3人分のコーヒーを淹れ、二人の待つテーブルに運んだ。
  「ありがとう」
  「いただきます… あちっ」
   二人がこうして家に来るのは珍しくもない。
   制服姿なのは学校帰りだからだろう。
   それもたいして珍しいことでもなかった。
  「ん…?」
   ただ一つ、違和感があった。
   いつもの鞄に混ざってスーパーの袋があった。
   家の人に頼まれてだと思うけど、買い物の途中で寄っても大丈夫なのだろうか?
  「香里、晩飯の買い物そんなところに置いといていいのか?」
  「あ、これね? これはここで使おうと思って」
  「え…?」
   ここでって、どういう事だ…?
  「よいしょっと」
   言うが早いか、香里は腕まくりをすると、北川を連れて台所へと向かった。
   いつのまにか2人ともエプロンをつけていた。
   二人とも制服にエプロンという姿なので、調理実習を見ている気分だ。
  「台所借りるわよ?」
  「あのな、俺は…」
   俺は…
  

  「あら、手伝ってくれるの?」
   嬉しそうに笑う香里。
  「…俺、食べないって」
  「………………」
   瞬間、冷や水を浴びたみたいに雰囲気が変わってしまった。
   居心地が悪く、重たい空気に…
   ここで嘘を言っても後で悲しませるだけだ。
   今朝も食べたものをすべて戻してしまったんだ。
   無理に食べようとしても結果は同じだろう。
  「もう、ダメなんだ… 何度試しても…」
  「…っ!?」
  「だから… 俺の事は放って」

   パンッ!

   おいてくれと繋がる前に、香里の平手が俺の頬を捉えた。
   たたかれた頬が熱を帯びている。
   あまり強くは無かったが、なぜかどんな一撃より響いた気がした。
   かたや、北川は唖然としながら俺と香里を交互に見た。
  「相沢君、あなたいつまでそうやってウジウジしているつもり?」
  「…っ!?」
   香里の言葉が胸に刺さる。
   理不尽な痛みじゃない。
   正しい事を言われたときの痛み。
  「残念だけどね… 秋子さんは…」
  「………………」
  「み、美坂…」
   北川は突然のことで驚いてしまっているようだけど、冷静さは失われてないようだった。
   香里ははっとして、ばつが悪そうに視線をそらした。
  「…ごめん。でもね、大切なのは過去より今なのよ?」
  「………………」
  「今、何を守らなきゃいけないのかもう一度考えてみて?」
   気づけばいつものすました顔だった。
   俺たちと同年代なのだろうかと時々不思議に思ってしまう一面。
   だけど、自然と乗せられて調子が出てくる気がするのだ。
  「………………」
  「…頑張ってみる」
  「それと… いきなり叩いてちゃってごめんね…」
  「あ、ああ…」
   香里はばつが悪そうに視線をそらした。
   やはり叩いたのは感情的なものだったんだな。
   香里はエプロンの紐を結びなおすと、台所へと向かった。
  「それじゃあ、始めちゃいましょ」
  「おう!」
   ダイニングから見ていると、香里の料理は実に手際よかった。
   持ち寄った材料を一口大に刻んでいき、大きな鍋へ次々と放りこんでいった。
   北川は香里の指示を受け、主に力仕事を中心に働いていた。
   先ほどまで野菜を刻んでいたのだが、野菜が無残な姿になっていたため、
   仕方なく単純な仕事をやってもらうことになったということだった。
   そんな光景を見ていると、ふと思い出してしまうことがあった。
  

   …秋子さんと名雪がふたりで台所に立っていた事。
   …まだ、秋子さんが事故の会う前の事。
   …なんでもない、ごく日常の一片。
   記憶が… あふれ出してくる…
  

   暖かい部屋に醤油系の美味しそうな匂いが広がっている。
   それだけで自然とお腹がすいてきてしまうのだ。
   腹時計は今日も快調だった。
  「おかあさん、これでいいのかな?」
   包丁一本で見事なまでな飾り切りをする名雪。
   どうやったらあんなふうに包丁を扱えるのか不思議でたまらない。
   秋子「ええ。それじゃあそっちにある物も頼めるかしら?」
   たおやかな笑みでそれを見守る秋子さん。
   名雪の作業を見ながらも手は一切休んでいない。
   この親子は只者ではないと改めて思った。
  「そういえば祐一って人参苦手だったよね?」
   ちょうどオレンジ色の人参を刻みながら名雪がそんな事を言った。
  「いや、食べられるぞ。苦手だったなんて子供の頃だって」
  「えっ、そうだったっけ?」
   本当に不思議そうな顔で首を傾げる。
  「あのなぁ… いつまでもガキのままじゃないんだぞ?」
  秋子「そうよ、名雪。祐一さんも名雪もちゃんと成長しているんだから」
  「う〜ん… わたしはあまり実感ないかも…」
  「お前はもう少し自覚を持てっ!」
   まったく… 無防備にもほどがあるぞ。
   だから、つい守ってやらなきゃなって気持ちになるんだよな…
  「…祐一」
   包丁を置いて名雪が俺を見つめていた。
  「ん、なんだ?」
  「祐一は… わたしが成長したって思う?」
   ………………
   成長… か。
   確かに名雪はびっくりするぐらい変わったと思う。
   客観的に見て美人な方だし、体も限りなく大人に近づいてきている。
   いとこって関係だからこうやって気軽に話せるんだろうけど…
   もしそうじゃなかったら…
  「う〜 どうしてそこで黙っちゃうの?」
  「判断に困るからだ。素直に言ってもいいなら言うが」
  「う… 遠慮しておくよ」
  「はっはっは… そうかそうか、では回答はお預けだ」
  「ず、ずるいよ〜」
   俺達のやり取りを見て、秋子さんは笑っていた。
   幸せそうに、笑っていた。
   記憶が途切れていく…
   暗い闇に塗り潰されて、そこから先に進めなくなる…
   記憶が… 終わる…
  

   些細な思い出だった。
   名雪が秋子さんの手伝いをするなんてごくありふれた事。
   普段生活していれば何度も目にするような日常。
   それでも、今の俺には痛すぎる思い出だった。
   胸がチリチリと痛む。
   激しい動悸と目眩を覚え、俺は立っていられず、椅子に腰掛けた。
  「はい、出来上がり」
   香里がそう言って湯気がのぼる皿を持ってきたのはそれから間もなくだった。
  

   皿の中には色とりどりの野菜が入ったシチューが入っていた。
   おそらくしばらく食事をしていない事を気遣ってくれたのだろう。
   ホワイトソースの美味しそうな匂いが空腹を誘っている。
  「………………」
  「とりあえず一口だけでも食べてみて」
   優しく心に響くような一言。
   自然と不安が薄れていくような気がした。
   スプーンを持ち、シチューを一掬いする。
   いままでできなかったはずのその行動をごく自然に行えた。
   スプーンに入ったシチューをこぼさないように、そのまま口へと運び… 食べた。
  「………………」
   舌に伝わる優しい感触。
   体が、心が温まる。
   ああ、何だ。こんな簡単なことだったんだ…
   食べることが苦痛だったのが信じられなかった。
   気がつくと、皿は空になっていた。
  「香里…」
  「どうしたの?」
  「…ありがとう」
   「はい、どういたしまして」
   香里の微笑みは最初からわかっていたようだった。
   勝てないな… 香里には。
   それから俺はおかわりを頼み、北川と一緒に久々の食事を楽しんだ。
  

  「それにしてもうまいな…」
   お世辞抜きでこれは美味しい。
   おそらく名雪と競い合ってもいい勝負をするだろう。
  「これだけは自信があるの」
   自信がありますとばかりにいい笑顔で答えてくれる。
  「何か秘訣とかあるのか?」
   北川も気になるらしい。
   確かに何か秘訣があるなら教えてほしいものだ。
  「ふふっ… それはね」
   少し意地悪そうな笑顔。
   ちょっと嫌な予感がするが、ここは気にしないでおこう。
  「それは?」
   スプーンを咥えたまま北川が聞いた。
  「あたしのお乳」
   ぶっ!
   二人同時に噴き出す。
   二人とも口の中にシチューが入っていたのだから始末が悪い。
   当然、テーブルの上は凄い事になっていた。
  「わっ! ちょっと、汚いじゃないっ」
   慌てて香里がふきんを取りにいこうとする。
  「…その前に突っ込むところがあるんだが」
  「俺もだ」
   近くにあったふきんでテーブルを拭く俺と北川。
   情けない光景だった。
  「へ? 何の事?」
   本当に何のことか分からないらしい。
  「この中に美坂の… その… お乳が…」
   よく言った、北川。
   俺はそこまで直接的には言えない。
   言われた香里は一瞬固まった。
   と思ったらいきなり笑いをこらえ始めた。
  「あ、それ嘘よ」
  「何だ、嘘だったのか」
  「びっくりしたぜ。まったく… 嘘だなんてひどいじゃないか」
   ………………
   ちょっと待て。
  「…なぁ、さっき言ったことは嘘なのか?」
  「しかも笑いこらえているのが気になるんだが」
  「………………」
   笑いをこらえ続けているようだが、一分も経たないうちにぷっと息が漏れた。
  「あははははははっ! やぁ〜っおかしい〜!」
   香里はこれでもないかというぐらい笑い転げた。
  「だぁっ! 笑うな!」
  「やだぁ… 本気にしたの?」
   ああ、本気にしたとも。
   悔しいが完全にやられた。
  「ば、馬鹿っ! そんなわけないだろ…」
   ここはメンツを守りたいのだろう。
   でも、やはり隠せないのは…
  「北川、顔が赤いぞ」
  「…人のことが言えるか?」
  「ぐっ…」
   お互い、顔に出るタイプのようだ。
  「あはははっ…」
  「はははっ、やられたな」
  「ああ、本当にやられたよ。はははっ」
   それから、3人で久々に笑った。
   こんなに笑ったのは本当に久しぶりだった。
  

   そんな笑い声に混じった音が聞こえてきたのは小さな足音だった。
   ゆっくりと、弱々しい足音。
   廊下のほうからこっちに向かってきている。
   この家にいるのは居間にいる俺たちを除けばたった一人しかいない。
   名雪だ。
   やがて、足音はダイニングの手前で止まり、ドアがそっと開いた。
  「………………」
   少し離れた場所に立つ名雪は今にも消えてしまいそうな儚い空気を纏っていた。
   俺たちとは違う、悲しい感情で埋め尽くされた心。
   心の奥が軋んで痛みを発した気がした。
  「………………」
  「名雪…」
   二人とも心配そうに名雪を見つめている。
   俺は… どんな顔で名雪に向き合っているんだろうか…
   名雪はしばらく俺たちを見た後、台所にある大鍋を見た。
  「いい… 匂い」
   ぽつりと呟いた声はふだんの名雪とは比べ物にならないぐらい寂しいものだった。
  「名雪、シチューでもどう?」
  「このシチューうまいぞ。水瀬も食べてみろよ」
  「…名雪。少しでも食べたほうがいい」
   香里の声に助けられて一緒に食事を勧めた。
   辛いだろうけど、食べないのはやはり良くない事だ。
   押し付けることはできない。
   一歩踏み出してくれるのを待つしかできない…
   名雪はしばらく俺たちと台所にある鍋を交互に見つめていた。
   やがて、ただ申し訳なさそうに小さく頭を下げると…
  「………………」
  「…ごめんね」
   辛そうな顔のままで背を向けた。
   手を伸ばし、ドアノブを掴んで去り際に閉めていった。
   バタン
   無機質なドアの閉まる音だけがただ空しく部屋に響いた。
  「………………」
  「水瀬…」
   二人とも辛そうに名雪の去ったあとのドアを見つめていた。
   純粋に、二人とも名雪の事を心配してくれている。
   でも、まだ名雪には乗り越える勇気は…
  「………………」
  「今は… そっとしておいてくれないか?」
   酷い奴だと思う。
   自分では何もできないくせに、親切に差し伸べてくれる手も払おうとする。
   責められたほうが楽だと思う。
  「そうね…」
   俯いた香里の横顔はただ心配をしているだけではない何かが含まれている気がした。
  

   それから香里は後片付けを済ませ、北川と一緒に帰っていった。
   帰り際、玄関で香里が振り返り話しかけた。
  「相沢君…」
  「………………」
  「…辛い時もあるけど人はそれを乗り越えないといけないの」
  「………………」
   何も言えない。
   正しい言葉に心が軋んでいるから… 俺が言えることは何もないから…
  「辛さから逃げたり、目を背けちゃダメ…」
  「痛みも自分の思い出に変わるから辛さを乗り越えないと…」
  「相沢君も、名雪も… 頑張って乗り越えてね…」
  「…ああ」
   香里の言葉の一言一言が心に響く。
   まるで、自分が今辛さと戦っているような気がした…
   後片付けを済ませ、就寝の準備を全て済ませた。
   いつのまにかこの作業が俺の仕事になりつつあった。
   もともとは秋子さんがしていたことなんだよな…
   部屋に戻るなりベッドに横になって、暗い天井を眺めていた。
   以前ならまだ寝るには早い時間だけど、今は起きている理由もない。
   自然と寝ている時間が多くなっていた。
   今日もいつものように眠気が体を包んでいく。
   黒い闇のような眠気に襲われる。
   やがて、意識は深い闇に堕ちてゆく…
   ぎぃ…
   床のきしむ音。
   どこから聞こえてくるのだろうか…?
   やがて音も気にならなくなった。
   そして、闇に包まれた瞬間眠りについた。
  

 

 

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