二人で交互に風呂に入って一息ついた。
   今日はもう寝るだけだ。
   風呂から上がってテレビを見ていたら眠くなってきた。
  「名雪もすぐ寝るのか?」
  「うん。祐一も?」
  「ああ」
   テレビの電源を落とす。
   その足で台所の照明も落として廊下も必要な分を残して消していった。
  「ガスの元栓は締めたよ」
  「おう、ありがとう」
   最後に戸締りを確認すると二人で階段を上っていった。
   二人同じ部屋に入る。
   まるでそれが当たり前のように。
   少し前までは離れていたその温もりを欲するように。
  「それじゃあ… おやすみ」
  「ああ、おやすみ」
   隣にあるぬくもり。
   今日も変わらずある温もり。
   もう一度この温もりを近くで感じる事ができるなんてすごく幸せな事だと思う。
   一度は失いかけてしまったのだから。
   また失うと思ってしまっていたのだから。
   だから、時々不安になるのだ。
   また名雪があの時みたいになったりしないか…
   秋子さんの死は俺の心にも名雪の心にも大きな傷を作ったのは間違いない。
   俺もまだ克服できたとはいえない。
   では、名雪はどうなのだろうか…?
   あの事件以来の名雪は暗い影を背負った面影がすっかりとなくなってしまっている。
   まるで、すべて昔の事だと受け入れられたように。
   過去の事と割り切れる強さを得たみたいに。
   名雪が見たという夢はいったいどんなものなんだろうか。
   もし、俺もその夢を見たら名雪のような強さを得ることができるのだろうか…
  「くー」
   考えすぎて少し熱くなった頭が気の抜けた寝息で途端に冷め始めた。
   名雪はもう眠ってしまっている。
   …俺ももう寝てしまおう。
   分からない内にあまり考えすぎてもムダだ。
   ゆっくりでもいい、少しずつ克服していこう。
   だから…今は少し休もう…
   眠気が体を支配し始めた。
   そのまま意識は暗い闇に飲まれていく。
   いつもと同じ眠りへの道。
   同じように眠って、同じように目が覚める。
   当たり前で、変わらない行動だった…








  「バカバカバカ! どうしてそんなことするんだよ!」
   どうしてそんな言葉が出たかなんて覚えていない。
  「おばさんはバカだ! 自分のことを大事にできないやつは最低なやつなんだ!」
   俺よりもずっと年上の人のはずなのに名雪を叱るみたいに本気で怒ってしまった。
   理由は分からない。
   でも、きっとそれだけの事があったのだろう。
   相手がどんな顔をしているかも覚えていない。
   こんな事言ったなんて親に知られたらゲンコツで済むかどうかも怪しい。
   でも、そうするのが一番だと思ったから…
  「そんなことしたら…」
   俺は…
  「そんなことしたらあいつはどうしたらいいんだよ!!」
   思いっきり叫んでいた。
   ………………
   静寂がその場を包む。
   そして、ふいに体が軽くなった。
   あったかいぬくもりに包まれる。
   目の前には、はだけた上着から見える白い肌。
   俺の小さい頭は大きい胸に埋まってしまった。
   ラッキーだなんて思った瞬間、俺は聞いてしまった。
  「ごめんね… ごめんね…」
   すすり泣きが混じった、子供みたいなその人の泣き声を…








  「ん…」
   ふと、目が覚めて天井を見上げる。
   部屋はまだ暗いままで空気は冷え切ったままだ。
   目覚まし時計に目を移すとまだ夜中。
   変に目が覚めてしまったようだ。
   もう一度寝なおそうと思って寝返りを打って気付いた。
   名雪がいない。
   名雪は一度寝たら朝までぐっすりと眠るはずだ。
   もしかするとトイレに起きたのかもしれない。
   …でもなんだろうか、この胸騒ぎは。
   無性にじっとしていられなくってベッドから降りた。
   それからどうするのか。
   こうして起きてしまったら寝なおすのも面倒だ。
   仕方がない、適当に寝酒でも飲んで眠くなったら寝ることにしよう。
   酒が置いてある居間に向かう。
   誰もいない廊下はすごく冷え切っていて寂しさで埋められている気がした。
   居間に着いてすぐ違和感を感じた。
   誰かいる気配がする。
   もしかして泥棒だろうか…
   戸締りはしっかりしたはずだが、運悪く入られてしまったのかもしれない。
   できる限り足音を立てないように忍び足で気配のある方に向かう。
   何かしら武器があればいいのだが、生憎それらしいものは見当たらない。
   仕方がない、いざとなれば俺の鉄拳で…
   ぎゅっと拳を握り締めて一歩踏み出す。
   気配のある方向は台所からだった。
   ここから先は気を抜けない。
   向こうが何かしらの行動を起こす前に俺が…
   一挙一動を見逃さないように緊張状態でさらに一歩踏み出す。
   壁で体を隠しながらゆっくりと台所を覗き見る。
   そこには確かに人影があった。
   髪が長い…女だろうか。
   赤い服は上下とも長い。
   あれは…パジャマか?
   …って。
   何をやってるんだか、俺は。
   台所にいたのは名雪だった。
   普段ならいてもおかしくはないけど、こんな時間だと不自然だ。
   どうしたのだろうか…?
   名雪に近づこうとしたとき、小さな嗚咽が聞こえた気がした。
   それは名雪の声だった。
  「名雪…」
  「ふぇっ?」
   名雪はまだ大粒の涙が残る目で俺を見た。
   慌てて袖で涙を拭うと急に笑顔になった。
  「どうしたの? こんな時間に」
  「俺はなんとなく目が覚めちまったんだ。それより名雪は…」
  「わたしも目が覚めちゃって…」
   あははと笑ってみせる名雪。
   でも、その笑顔は不自然だった。
   普通の人なら気付かないかもしれないけど、俺なら分かる。
   何か言いづらいことがあるのだろうか?
   いまさらそんな事はないなんて思っていただけに少し不安になる。
  「なぁ、名雪。さっき泣いてなかったか?」
  「そんな事ないよ? いきなり失礼だよ」
  名雪の抗議も今は虚勢に感じてしまう。
  「………なぁ、本当のことを言ってくれないか?」
  「えっ…」
   名雪の顔に困惑の表情が浮かぶ。
  「俺はいつだって名雪のために頑張りたいんだ。だから遠慮はしないで欲しい」
  「そんなっ、わたし… 遠慮なんてしてないよ」
  「してる。今だって泣いてないって嘘付いてるだろ」
  「………………」
  「名雪は女の子なんだから甘えたっていいんだ。辛いときは泣いたっていいんだ」
   名雪の目に涙が溢れ始める。
  「ダメだよ… そんなに甘えてたら、わたし… 祐一に迷惑かけちゃうよ…」
   迷惑をかける。
   それは確かに避けたい事かもしれない。
   俺だって誰かに迷惑をかけるような事はできるだけしたくない。
   でも、それは…
  「いいんだ、俺はそれを迷惑だって思わない」
   仕方がないことではないだろうか。
   人は一人では生きていけない。
   本当に一人で生きていける人はとてつもなく強い人だと思う。
   でも、実際にそんな人はいなくて…
   人は何かしらの形で他人を頼っている。
   でも、大事な人に頼られるのは迷惑だとは思わない。
   むしろ、頼られる事が嬉しい事もある。
   少なくとも、俺はそう感じている。
  「辛いからって一人で背負うなんてダメじゃないか」
  「ダメ… だよ… そんな事言っちゃ…わたし、強くなれないよ…」
  「強くなれなくたっていいさ。泣きたいときはいつだってそばにいてやる。俺の胸で泣いたっていいんだぞ」
  「うぐっ… ゆういち…」
   それから、名雪は俺の胸に飛び込んできた。
  「ひっく、えぐっ… うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
   まるで子供みたいに、大きな声で力いっぱい泣きじゃくっていた。
   俺の胸の中、腕の中にいる存在は時々こんなにも弱くて…
   時々ものすごく強くあるんだ。
   そのどちらも俺は愛していきたい。
   片方でも欠けてしまったら全て失ってしまうものだから。
  「ひっく、ぐすっ…」
   感情を直接ぶつけるような泣きかたをしている。
   そんな名雪を見て子供みたいだなと思い、笑う。
   この温もりをずっと守っていこう。
   今度は離れないように。
   ずっと、寂しくないように…




   日の光で目を覚ました。
   体を起こそうとして違和感を感じる。
  「んっ… あれ…?」
   ぼんやりとした意識で周りを見回すと、そこは俺の部屋ではなくて居間だった。
   ついでに、俺はソファーに座った状態で眠っていたようだ。
   どうしてこんなところで寝てたんだ…?
   立ち上がろうとしたときに何か重いものが乗っているのに気づいた。
  「あっ…」
   そうだ、思い出した。
   昨日、名雪が泣き止むまで傍にいてやろうとしていて…
   気がついたら俺の膝枕で名雪が寝て…
   俺も眠くなってそのまま寝てしまったんだ。
   傍から見るとおかしな光景かもしれない。
   でも、こういうのも悪くないなと思う。
   なんとなく、幸せを感じる。
  「んっ…」
   名雪が身じろぎした。
   そのままゆっくりと瞼が開く。
   起こしたつもりはないのだが、起こしてしまったらしい。
  「よっ、おはよう」
  「ん… おはよう、祐一」
   寝起きを見られて恥ずかしかったのか、頬を赤らめて返事をする。
  「今何時だ…?」
   壁にかけられた時計を見て驚いた。
   朝の7時。
   とても健康的な時間だった。
  「名雪、眠いか?」
  「ううん、大丈夫だよ」
  「それより祐一は…?」
   心配そうに見つめる。
   こんな体勢で、しかも膝枕したままだったのだ。
  「いや、俺も大丈夫だ」
   寝なおしてもいいのだが、せっかくこうして起きたのだから起きてしまいたい。
   だって、やらなきゃいけない事はまだまだあるんだから…




  「飯食ったらさ、昨日の掃除の続きしような」
   俺たちには今がある。
  「それで一息ついたらどこか遊びに行かないか?」
   そして、これからの未来がある。
  「香里たちを誘ってもいいな。みんなで倒れるまで遊んだりさ」
   過去は過去、過ぎてしまった事。
  「せっかくの春休みなんだから楽しまなきゃな」
   ときどき振り返るのも大事かもしれないけど、最後は…
  「………うん、そうだね」
   しっかり前を向いて。
  「立ち止まってちゃ… いけないよね」
   時間は戻せない。
  「それじゃあ、まずは朝ごはんだねっ」
   だから、今は立ち止まらずに振り返らずに。
   一緒に走ろう。
   迷路の出口はもうすぐ。
   俺たちだけの出口を見つけに行こう。








   この街に来て、色々な事を経験していった。
   7年ぶりに来た街は記憶の中とは少しずつ違っていて…
   それでも、変わらないものもあった。
   いろいろな出会いがあった。
   いろいろな別れもあった。
   突きつけられた残酷な現実。
   ようやく知った残酷な過去。
   辛い事がたくさんあった。
   何度も心が折れそうになった。
   それでも、前を向いていられたのは…
   大切な人を守りたいという気持ち。
   それがあったからだと信じている。
   そして、頑張った結果は幸せな日々として帰ってきたのだ。
   これからも頑張れる。
   辛い現実も、辛い過去も全部引き連れて立ち向かっていける。
   だから、傍には君を。
   いつまでも、笑顔を向けていて欲しい。
   冬はいつまでも続かないから。
   いつか雪は解けて、日が差すから。
   その日まで立ち向かっていこう。




   …………そして、長い冬は終わった。
   季節は春へと移ろい、街はその姿を変えていった。


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