「この森はね、抜けられる人と抜けられない人で分けられるの」
   少女の声が静まり返った森に響く。
   葉のある木はなく、辺りには雪が積もっている。
   だが、この森… この空間には"寒さ"という概念が存在しない。
   どこまでも深い闇に包まれ、月明かりのようなぼんやりとした光に照らされた深い森。
   そこに、少女はいた。
   森に存在するのは死んだ人間だけ。
   それ以外のモノは存在しない。
   その森はすべての時間が凍りついたように静まり返っていた。
   隣にいる少女は淡々と事実を述べている。
   無表情で語る姿は、歳相応の幼さをすべて隠してしまっている。
   事実以外の事を語らないように、抑揚を極力抑えられた言葉は機械か何かの言葉に思える。
  「そして、抜けられない人でも2つのパターンがあるの」
  「一つは、来たときすでに戻れない状態にある人」
  「そして、もう一つは…」
   少女はそこで言葉を止めた。
   胸の奥の悲しみをかみ締めるように、一瞬だけ辛そうな表情を見せた。
   その顔も一瞬の事で、すぐに元の無表情に戻る。
   そして、少女は感情が込められていない冷たい言葉で言った。
  「…抜けるのを、あきらめた人」
   少女の声は、生きるもののない森によく響いた。

 

 

 

 

   朝日が網膜を刺激して、起床を促す。
  「………………」
   自然と体が目覚めていくのを感じる。
  「…ん」
   体を起こしてカーテンを引く。
   カシャァ!
   気持ちよくカーテンが左右に開け、朝日と雪で染められた白い風景が視界に飛び込んできた。
   日を全身に浴び、大きく伸びをする。
   目覚めはここ最近の中では割といい方だった。
   廊下に出ると、名雪の部屋の前に何か置いてあるのに気づいた。
  「あ…」
   それは空になった食器だった。
   食べ終わったところで眠気がピークになったのだろう。
   そして、盆の上には紙の切れ端があった。
  「香里に会ったら『ご馳走様でした』って…」
   ほんの数行でも心が温かくなる。
   名雪の想いがこの一枚の紙切れから溢れてきた。
   そうか… よかった…
   最近の中では一番弾んだ気持ちで階段を下りていった…
   もしかしたら、変われるかもしれない。
   俺も、名雪も…
   そんな予感を感じた。
  

   ピーンポーン

   1階に下りたところで玄関からチャイムが鳴った。
  「はい、今開けます…」
   念のためにチェーンをかけて鍵を開ける。
   そのままゆっくりとドアを開けた。
   ドアの向こうにいる人物は誰なのか知る余地もなかった。
  「おはよ、相沢君」
   ドアの隙間から顔を出したのは香里だった。
   いつものように制服姿に黒い鞄を持っていた。
  「お、おはよう…」
   意外な来訪者に少し驚いた。
   放課後に来ることはあってもこんな朝早くに来るなんて始めてだ。
  「眠い…」
   北川もいる。
   どうやら無理矢理起こされたな。
  「あ、チェーン外すから」
   一度ドアを閉めてからチェーンを外し、再びドアを開け放った。
  「あら、まだパジャマじゃない…」
   香里に言われて気づいた。
   着替えないままで降りてきちまったんだな…
  「今起きたばかりなんだ」
   まぁ、これは本当の事である。
  「オレは美坂に起こされたというのに…」
  「災難だったな…」
  「あら、まるで悪者扱いじゃないの…」
  「あ、それより、どうしたんだ? こんな朝早くに…」
   何かしら理由があるに違いない。
   その理由が分からないのだからどうしようもない。
  「…学校、行かない?」
  「………………」
   いつかは言われると思っていた。
   いっそこのままでいられたら… なんて甘えもあった。
   でも、このままではいけないんだって昨日知ったんだ。
   だから… 少しでも前に向かわないと。
  

  「…なぁ」
  「何?」
  「授業受けてたらある程度は辛さから逃げられるのかな…?」
  「………………」
   言ってから最低だって思った。
   結局は前に向かうという建前を使って逃げるんじゃないか。
  「ゴメン、変な事聞いて…」
   昨日みたいに叩かれても構わない。
   ぐっと拳を握り締めた。
   しばらくしても平手はこなかった。
   その代わり、厳しい顔のまま見つめられていた。
  「逃げることはいけないけど…」
  「何かやろうとする事は大切な事だから…」
   …やっぱり香里には勝てない。
   一つや二つ先輩なんじゃないかって本気で思ってしまう。
   こんなことを言うと失礼ねなんて言われるんだろうな。
  「………………」
  「そうだな…変わらなきゃいけないんだ…」
   そうだ、このままじゃあの時と同じだ。
   辛さから逃げて、拒絶して、忘れて…
   ………………
   …あれ? あの時っていつだっけ…?
   ………………
   いや、今はいい。
   とりあえず… 動くんだ。
  「少し待っててくれないか?」
  「ええ」
  「学校、行くのか?」
  「ああ」
   階段に足をかけ、階段を上り始めた。
  「あ… 名雪」
   一歩踏み出そうとしたとき、香里の呟きが聞こえた。
  「………………」
   そうだった。名雪も連れて行かなきゃな…
   俺だけ変わっても意味がない。
   二人で… 変わるんだ。
  「一応呼んでみる…」
  「…お願い」
   香里は辛そうな顔で頷いた。
   そんな表情を見るのが嫌で、少し急ぎ足で階段を上った。
  

   手早く制服に着替え、教科書の準備も済ませた。
   ここまで早く動けるなんて少し驚いた。
   今まで無駄に使っていた時間を取り戻すことはできるだろうか…
   また、笑いあえる日を取り戻せるだろうか…
   不安は尽きなかった。
   2階に上がってすぐにある部屋。
   そこが名雪の部屋だ。
   硬く閉じられたドアの前に立ち、そのままドアを見つめていた。
   『なゆきの部屋』
   そう書かれたネームプレートがかかっているドア。
   最近、このドア一枚で世界が隔てたれているような感覚に囚われる。
   …何言ってんだよ、俺は。
   そうさせないために今こうしているんじゃないか。
  「名雪、起きてるか?」
   軽くドアをノックする。
   コンコン
   無機質な音が響く。
   ………………
   でも、聞こえてくる音は俺がドアをノックする音だけ。
   名雪からの返事は… ない。
   なんとなく予想はついていた。
  「………………」
   もう一度呼んでみる。
   コンコン
   今度はさっきより回数を増やしてみた。
  「名雪、朝だぞ」
   ………………
   しばらく待っても返事はなかった。
  「………………」
   期待はしていた。
   きっと名雪も変われるきっかけがあるんだって…
   だからだろうか。
   いつもよりも空しく、悲しい気持ちで胸がいっぱいになるのは。
  「…俺、今日は学校行くから」
   小さく、掻き消えてしまいそうな声だった。
   自分でもどうしてこんな声になったのか不思議だ。
   拒絶されるのが怖いから?
   それを否定できない自分がいる。
   ………………
   頭の中で渦巻いている思考を振り払った。
   このままじゃダメなんだ。
   せめて俺が。
   せめて俺が道を開かないと。
   少し遅れてもいい、そのときは待ってるから。
   手を引いて一緒に先に進むから。
   少しだけ、前に進む力が出てきた。
  「まだシチューは残ってるから腹減ったらちゃんと食べろよ」
   さっきよりも大きく、はっきりとした声で言えた。
  「それじゃあ… 行ってきます」
   ドアに背を向け、階段を降り始めた。
   どこまでやれるかはわからない。
   でも、やるしかないんだ。
   逃げてばかりの自分はここで終わりにしよう。
   降りる途中で振り返り、名雪の部屋のある方を見上げた。
   そこだけが置いてきぼりにされたようで寂しかった…
  

  「…やっぱりダメだったようね」
   辛そうに目を伏せる香里。
   俺の気持ちを理解してくれる友人。
   その存在が今はすごく嬉しかった。
  「水瀬… 大丈夫なのか?」
  「…しばらくは無理かもしれない」
   しばらくがどのぐらいかは分からない。
   明日かもしれないし、もしくは…
  「…もうそろそろ行かない?」
  「そうだな…」
   時間的にもそろそろ出たほうがいいだろう。
   制服をチェックして鞄を持った。
   靴を履いて立ち上がる。
   まるで、誰もいないかのように家の中は静まり返っていた。
   音のない世界はあまりにさびしく、辛かった。
  

 



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