翌日、俺は看護婦さんに起こされた。
   ついでにこっぴどく叱られた。
   ベッドに倒れこむように寝ていたらしい。
   寝入った記憶が全くない。
   名雪とキスをした事は覚えているのだが、その後の記憶がないのだ。
   俺が起こされてからすぐに名雪は看護婦さんに連れられて病室を後にした。
   これから検査を受けるらしい。
   一週間も昏睡状態が続いて、目を覚ましたばかりなら検査で大忙しだろう。
  「ふぁ…っ」
   変な体勢で寝ていたせいか、微妙に寝不足だった。
  「じゃあまた来るな。名雪」
   数分前まで名雪のいたベッドに向かってそう言った。
   コートを羽織って病室を出た。
  「あ…」
   廊下に出た途端、香里と北川に出くわした。
   二人とも慌てた様子だった。
   30分ぐらい前に電話で名雪の意識が戻ったって電話したのだ。無理もないだろう。
  「水瀬は…?」
  「今は検査で出てる。傷がしっかりふさがれば問題ないって」
  「よかった…」
   香里は力が抜けたのか、壁に体を預けた。
  「お、おい… 大丈夫か?」
  「大丈夫なわけないじゃない…」
  「全力疾走だったんだぞ…」
   それは悪い事をしてしまった…
  「とりあえず帰るか? 名雪は夜ぐらいまではかかるみたいだし…」
  「え、そうなの?」
  「それじゃあ走ってきたオレたちって…」
   喧騒が逆に気まずい空気を作っている。
  「…すまん」
  「ふふふっ、それじゃあこの分はちゃんと返してもらわないとね?」
  「期待しているぞ」
  「………………」
   逃げ道はなかった。


  「そう、名雪… 目が覚めたのね」
   病院から百花屋へと場所を移し、俺は香里と北川に名雪の状態を説明した。
   名雪が昏睡してから数日経ったある日、俺は香里と北川を呼んだ。
   これまでの事を改めて話すためだった。
   今までとは違って、一切の事を隠さずに…
   香里も北川も真剣に話を聞いてくれた。
   名雪の了解無しに話す事に最初は躊躇いもした。
   だが、どうしても知っておいてもらいたい事だったから…
   知らずにいる事で辛くなって欲しくなかったから…
   だからこそ、話す事にしたのだ。
  「水瀬… 早く退院できるといいな」
  「そうだな… いつまでもあの家にひとりっていうのも寂しいからな」
   あの家は一人では辛すぎる。
   温かみが苦しみなってしまう。
   だから、俺は求めてしまうのだろう…
   ただ一人、欠けてしまった存在を…
  「はぁ… 本当に幸せね、あなたたち」
   香里の言葉は羨望か皮肉か…
   どちらにしてもちょっと気分がよかった。


   ガチャッ

  「………………」
   しんと静まり返った空間。
   あまりに寂しくて、冷たい空気。
  「…ただいま」
   声は冷たい空気を伝わって、廊下に響いた。
   "おかえり"の言葉がないという事の寂しさを改めて知る事になった。
  「なんだか情けないな、俺…」
   しっかりしなきゃいけないって誓ったはずなのに…
   どうしてこうなんだろうな…
  「…あゆ、俺は本当に強くはなれないよ」
   こんな俺をあゆはどう思うのだろうか…?
   名雪は俺を嫌いになってしまうのではないだろうか…?
   …何を心配している、しっかり自分を保つんだ。
   両頬を軽く叩き、気合を入れなおす。
  「俺ががんばらなきゃいけないんだ…」
   ここで停滞しているわけにはいかない。
   だから… 俺は前を向かなければ…
   スイッチを切り替えて明かりをつける。
   スイッチと一緒に俺の気持ちも入れ替える。
   ここからは、強い俺でいるんだ…




   次の日、病院にいくと相変わらず名雪は検査漬けだった。
   それも夕方になる前には終わり、ようやくゆっくりと話ができるようになった。
  「検査でもうくたくただよ〜」
  「はははっ、そりゃ災難だったな」
  「もうバリウムは嫌だよ〜」
   あれは相当きついらしいからな…
  「イチゴ味でも嫌だよ〜」
   …説得力がないような気がするのは気のせいだろうか。
  「そういえば…」
   ちょっと気になった事があって話を切り出したとき、ノックのあとでドアが開いた。
   ドアの向こうから姿を見せたのは香里と北川だった。
  「こんにちは」
  「今回は土産つきだぞ」
  「あ、それってもしかして…」
  「お、さすがは詳しいな。チョコレートケーキで有名なあの店のケーキだぞ」
  「おお、それはうまそうだな」
   甘いものは苦手なんだがチョコレートケーキはなぜか食べられる。
   とくにそこのケーキは結構俺好みの甘さでお気に入りなのだ。
  「名雪…」
  「………………」
   香里は名雪の座っているベッドに向かっている。
   名雪は無言のままだ。
   名雪と香里が言い争ったあの日から二人はこうして向き合う事ができなかった。
   つまり、あの日から関係は変わっていない。
   香里と名雪の距離がほぼゼロになった。
   その瞬間だった。
   俺も北川も名雪もびっくりするぐらい突然だった。
   香里は名雪を抱きしめた。
  「………………」
  「か… おり…」
   まるで、時間が止まったような気分だった。
  「名雪が無事でよかった…」
  「えっ…?」
  「大事な親友なんだから… 心配するわよ」
  「………………」
  「でも、こうして無事でいたからいいわ」
  「………………」
  「香里、あの時は…」
  「ううん、いいの。あたしもあの日はブレーキ利かなかったから…」
  「でも… ごめん」
  「…うん」
   …よかった。
   もしも、このまま香里と名雪の関係が終わってしまったらと心配していた。
   でも、そんな心配必要なかったんだ…
   二人の絆はびっくりするぐらい強くて…
   見ていて妬けてしまうぐらいにいい関係だとあらためて分かった。
   でも、こうしているのが一番名雪と香里らしい。
   あんな事もこうしてちょっとのやり取りで許せてしまうぐらいなんだから…
  「………………」
  「あの二人、なんかいい感じだな」
   北川の言葉をなんとなくやましい方向へと受け取ってしまった。
   …ちょっと自己嫌悪した。


  「入院生活って退屈なんだな…」
  「そうよ? 誰かさんみたいに『入院したら学校行かなくて済む』なんて考えは甘いんだから」
  「そんな事言うのはもう誰か予想付くんだが」
  「え、誰なの?」
  「………………」
   みんなでお土産のケーキを食べながら話をしている。
   こんなに楽しく話ができたのはすごく久しぶりな気がする。
   そう、こんなに楽しく話ができたのは…
   ………………
   何考えているんだ、俺は…
   やっぱりバカだ、俺…
   そのとき、突然ドアが開いてバインダーを持った看護婦さんが入ってきた。
  「水瀬さん、検温の時間ですよ」
  「わ、もうそんな時間だったんだ〜」
  「ぜんぜん気付かなかったわ…」
   それぐらい話に没頭していたのだ。
   俺も壁にかけられた時計を見てびっくりした。
  「もうすぐ日が沈む頃だな…」
  「それじゃあそろそろおいとまとするか」
   検温を終えたらすぐに面会時間が終わってしまう。
  「そうね… 続きはまた次の機会という事ね」
  「そうだね〜」
   名雪は看護婦さんから体温計を受け取るとパジャマのボタンを外し始めた。
   見えないようにはしているらしいが、どうも見ていて恥ずかしい…
   名雪が検温をしている間にみんな出る支度を済ませていた。
  「あ、そういえば名雪…」
  「え、どうしたの?」
  「検温終わったあとでちょっといいかしら…?」
  「大丈夫だけど面会時間そろそろ終わっちゃいそうだよ」
  「それじゃあ手短でいいわ」
   二人きりで何か話したいのだろう。
   俺と北川は退散することにしよう。
  「それじゃあまた明日な」
  「遅刻するなよ〜」
  「その言葉そっくりそのまま返してあげる」
   北川はうなだれた。
  「名雪、明日も学校帰りに来るつもりだけど大丈夫か?」
  「うん。歓迎するよ〜」
   明日は俺が何か土産を用意しておくとするか。
   香里と名雪に手を振って病室をあとにした。


   廊下をエレベーターのあるほうに向かって歩いている。
  「それにしても、今日の水瀬… いつもと変わらない気がしたぞ」
  「やっぱり北川もそう感じたんだな」
   それは俺も感じていた事だ。
   一時期の心を隠した明るさではなく、本当の明るさだった。
   無邪気なんて思うぐらいの名雪だった。
   なにかきっかけがあったのか…
   なにかの予兆なのか…
   エレベーターがちょうど目と鼻の先に来たときだった。
  「やぁ、相沢君」
  「え…?」
   振り返った先にいたのは白衣姿の近藤先生だった。
   近藤先生もナイフでケガを負わされていたせいで、ここしばらく姿が見えなかった。
  「あの、ケガはもういいんですか…?」
  「はははっ、まだ本調子ではないけどね。いつまでも寝ているわけにもいかないよ」
   タフだなぁ…
   結構血も出ていたししばらくは休むかと思っていた。
  「さて、ちょっとお話しておきたい事があったのだけど… 今は大丈夫かな?」
  「はい、大丈夫ですけど…」
   名雪に関わる事だろうか…?
   もしかすると、名雪の状態について何か知っているかもしれない。
  「という事でまた明日だ」
  「おう」
   北川はちょうど来たエレベーターに乗っていった。
  「それで、話は… 名雪の事ですか?」
  「ああ。ちょっと場所を移そうか?」
   近藤先生は俺が歩いてきた方向とは逆の方向に向かって歩いていった。
   近藤先生の後について行く事にした。


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