名雪が入院した次の日、俺は名雪の病室に見舞いに行った。
  「名雪、入るぞ」
  「あ、うん。いいよ」
   引き戸を開けて中に入る。名雪のいる病室は個室になっていた。
   病状が病状だけに、個室にした方がいいという判断からだった。
   名雪は病室で点滴を受けていた。
   その姿はドラマや映画で見た入院患者のようだった。
  「名雪、気分はどうだ?」
  「…少しよくなったかも」
  「点滴はもう少しかかるか」
   銀色のスタンドに下げられた袋に入っている液体は残り少しだった。
  「…………ごめんね」
  「え?」
  「わたしのせいで祐一にたくさん迷惑かけて… わたし、ダメな子だよね?」
   そのまま俯いて顔を隠した。
   それでも、流れ落ちている涙は隠しきれなかった。
   そんな悲しい顔をして欲しくない…
   そっと名雪に近づいた。
  「名雪」
  「えっ…? んっ!?」
   名雪の唇に俺の唇を重ねた。
   名雪の温もりを感じる。
   小さな唇を舌でそっと撫でた。
  「んっ… はぁっ…」
   唇を離すと、名雪は顔を赤くして俺を見つめた。
  「俺はこうして名雪の傍にいるのが一番好きだから… だから、安心しろ」
  「…うん」
   帰り道、ふと見上げると雲が空を覆っていた。
  「今、何を守らなきゃいけないのかもう一度考えてみて?」
   …俺は間違っているのだろうか?
   間違っているならばどうすればいいのだろうか?
   …分からない。
  「くそっ!」
   ザッ!
   足元にある雪の塊を蹴飛ばした。
   足が触れた瞬間、砕け散り雪煙を上げ散っていった。
   …何やってるんだ、俺は。
   苛ついているのが自分でも分かる。
   このままじゃあいけない。
   このまま…
  「…君」
  「えっ?」
   誰かに呼ばれた気がした。
   振り返って後ろを見てみるが、誰もいない。
   前のほうにも誰もいない。
   幻聴… なのかもしれない。
  「相当まいってるかもな…」
   ため息をひとつ。
   憂鬱な気分を払うように、足早に家に向かった。




   翌日、俺は名雪が入院したことを石橋に告げた。
   長期の病欠ということにしておいた。
   …そのほうが無難だろう。
   幸い、出席日数は十分足りていてこのまま終業式まで休んでも進級できるそうだ。
  「……そう」
  「大変な事になっていたんだな…」
   香里と北川にはある程度まで話しておいた。
   名雪が淫行に走っていたことは全て伏せておいたが。
  「名雪… 大丈夫かしら…?」
  「どうとも言えないよな…」
  「………………」
   こればかりは安易な事を言えない。
   俺は名雪を見守る事しかできないから…
   最後は名雪自身の力が必要になるんだ…
  「ねぇ、帰りに病院に行ってもいいかしら?」
  「オレも時間あるからお邪魔させてもらうかな」
  「…ありがとう」
   …今は二人の言葉に救われる。
   授業中も名雪のことが気になるばかりだった。
   集中なんて出来やしない。
   黒板に書かれた文字の羅列も今の俺にはどうでも良かった。
   そして、気が付けば放課後になっていた。




  「それじゃあ、行きましょうか?」
   ホームルームが終わるなり香里と北川が出る準備を始めていた。
  「その前に少し寄りたい所あるんだけど… いいか?」
  「いいけど、急がなくていいのか?」
  「ケーキでも持っていこうと思って」
  「いい案ね。あたしたちも何か持っていく?」
  「ゴメンナサイ… オレ、金欠です」
   北川がすごく小さくなってた。
  「…貸しにしておく?」
  「お願いします」
   ますます小さくなる北川。
   ちょっとだけ不憫に思えた。
  「バイトしてるんだろ?」
  「最近予定外の出費があってな…」
  「もう少し計画性持って生活しなさいよ…」
   香里の言葉を受けたのか、さらに北川が小さくなったように見えた。
  「そうそう、コンビニよりちゃんとした所で買ったほうがいいわよ?」
  「もちろんだ」
  「値段見るのが怖い…」
   ここまで来ると北川が哀れで仕方ない。




   お土産を買って、3人で病院に着いた時は空は夕焼けで赤く染まり始めていた。
   病院の中も夕日で赤く染まっていた。
   夕日に照らされる、真っ白い壁。
   無機質なその空間はなぜか息が詰まる。
  「名雪の病室は…」
   名雪は精神系の疾患なので、一般病棟とは離れたところにいる。
   …つまりは隔離病棟だ。
  「こっちだ。行くぞ」
   3人揃って病棟へと歩き出した。
  「………………」
  「…美坂?」
  「…え?」
  「いや、何か辛そうにしてたからどうかしたのかと思って」
  「…大丈夫よ」
   2人のやり取りを背に、同じペースで名雪のいる病室へと歩き続けた。
   しばらく歩くと、名雪のいる病棟に着いた。
   名雪の病室はここの3階だ。
   エレベーターの前に着くと、ちょうど1階に降りてきた所だった。
   みんな乗り込んだのを確認して、3階のボタンを押す。
  「………………」
  「………………」
  「………………」
   3人とも無言だった。
   やがて、エレベーターが3階に着くと、真っ先に名雪のいる病棟に向かった。
   コンコン
  「はい、開いてますよ」
   ちょうど、看護婦さんが中にいたみたいだ。
   ドアを開け、病室に足を踏み入れた。
   改めて病室を見ると、意外なほど広かった。
   部屋の隅のほうに大きな機械が何台かあるが、どんな機能をするものかはまったく分からない。
  「あら、お友達も一緒?」
  「はい」
  「それじゃあ、ゆっくりしていってね」
   折りたたんだシーツを持ち、看護婦さんは病室を出た。
  「名雪、気分はどうだ?」
  「…わからない」
   ベッドの上で体を起こしたまま、そう答える。
   少し不安そうに、何かに怯えているような顔だった。
  「そうか… あ、香里と北川が来てるぞ」
  「こんにちは」
  「よかった、思ったより元気そうで」
  「…ありがとう、来てくれて」
   少しだけ表情に明るさが戻った。
   やはり連れてきてよかったみたいだ。
   丸椅子を香里と北川に勧め、俺は折りたたみ式の椅子を出し、それに座った。
  「そうだ、ケーキ買ってきたから食べないか?」
  「…北川君は借金したけどね」
  「それ言わない約束だろ…?」
   北川が可哀想に思えてきた。
   足元に置いていたケーキの箱を出し、別に買っておいた紙皿に乗せていく。
   買ってきたのはイチゴのショートケーキだった。
   白一色のデコレーションに、赤いイチゴが花を添える。
  「あ… あぅ…」
  「名雪、イチゴ好きだったでしょ? これが一番いいかと思って…」
  「あ… あぅ… い… いや…」
  「名雪… どうしたの?」
   っ!? もっと早く気付くべきだった…!
  「ゴメン。香里、ケーキ仕舞ってくれ」
  「え? えっ?」
  「名雪、それダメなんだ…」
  「そ、それならしょうがないけど… どうしたの?」
  「…事故のとき、現場に落ちてた」
  「………………」
   香里はケーキを箱に仕舞い、近くのテーブルに置いた。
   気まずい空気を感じる。
   最近はずっとこんな空気ばかりだ。
  「…ごめんなさい」
  「いや、いいんだ…」
  「………………」
  「………………」
   名雪はケーキを仕舞ってから症状が安定した。
  「名雪、大丈夫か?」
  「…うん」
   名雪は何かに怯え、不安そうな顔のまま頷いた。
   …早く良くなってほしい。
   また、前みたいに笑って話をしたい…
   それから1時間ほど4人で話したあと、俺たちは病院を後にした。




  「…名雪、かなり不安定そうね」
  「……ああ」
   北川と別れ、しばらくして香里がぽつりと呟いた。
   やっぱり傍目から見ても良くはないんだな…
  「…ねぇ、どうしても理由が言えない?」
   ………………
   言ってもいいのだろうか…?
   あの事を話すのは、相当香里に踏み込ませる事になる。
   できれば知らないでこのまま過ごしてもらいたい…
  「…それを聞くだけの覚悟が必要だぞ?」
  「…力になりたい。あたしにできることを少しでも探したいの」
   香里の目は真剣だった。
   どんな事があっても真正面から受け止める。
   そんな強い意思が込められていた。
  「…分かった」
   住宅街の方に入り、人通りが少なくなったところで話を始めた。
   名雪が俺に対し、激しくセックスを求めた事。
   俺だけでは足りなかったのか、数人の男たちを相手にし始めた事。
   そして、その結果…
  「………………」
   覚悟はしていただろう。
   それでも、この事実はあまりに重すぎたようだ。
   香里の顔が悲痛で歪んでいた。
  「…名雪は悪くないんだ。俺が…」
  「…誰も責められないわ。二人とも正しいのよ」
   香里は辛そうに、ただしっかりとそう呟いた。
  「…俺はどうあっても名雪と一緒に居たい」
  「ただ、名雪はそれを信じてくれるのか心配なんだ…」
   俺の気持ちは本当だ。
   だが、それが実際に伝わるかどうかは別問題。
   俺の声は名雪には届くのだろうか…
   また、あのときみたいに拒絶されてしまうんじゃないのか…?
  「…簡単じゃない、素直な気持ちを伝えればいいのよ?」
  「え…?」
   香里は笑顔だった。
   笑顔で、ぐさりと突かれる言葉が来た。
  「でも、信じてくれなかったら…!?」
  「まずは自分を信じなきゃ。相沢君は名雪のことが好きなんでしょ?」
  「…………そう、だよな」
   目が覚めた。
   そうだ、俺は名雪をずっと守っていくと決めたんだ。
   ここで挫けてなんていられないよな…
   それから少し歩いたところで、香里は脇の路地に入って行った。
  「それじゃ、あたしこっちだから」
  「ああ。もし… 暇だったらまた来てくれないか?」
  「ええ、そうさせてもらうわ」
   やがて、香里の姿は闇の中に消えて行った。
   さて、俺も早く帰ろう。
   足を家のほうに向けた。
   その時、不意に風が吹いた。
  「…君」
  「っ!?」
   慌てて振り返るが、そこには誰もいなかった。
   気のせい… にしてははっきりと聞こえたような?
   どのみち誰もいないことには変わりはない。
  「早く帰ろう…」
   雪で白く染まる道を家に向かって歩き出した。


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