香里はしばらく泣いたあと、俺から離れた。
   その時にはすっかりいつもと同じすまし顔だった。
  「ごめんなさい、いきなりあんなお願いしちゃって…」
  「いや、これぐらいだったらたいした事じゃないから気にするな」
  「あたしはすごく助かったわ」
   香里は一瞬すごく悲しそうな表情を見せた。
   そして、今まで見たこともない真剣な表情で俺に向き合った。
  「…少し、あたしの独り言に付き合ってくれる?」
  「ああ…」
   雪は、まだ止まなかった。
   俺たちはフェンスの近くにあったベンチに腰掛けた。
   お互い、向かい合わずに空を眺めている。
  「栞って名前は聞いた覚えはあるかしら?」
  「…ああ」
  「…その子、あたしの妹なの」
   …やはり、そうだったのか。
   あの子の言った事は正しかったんだな。
   でも、それならどうして「妹なんていない」なんて言ったんだ?
   それだけの事を言うのにもそれだけの理由があると思うんだが…
  「妹がいたんだな… 知らなかった」
   会った事を説明するのもあれなので、知らないふりをすることにした。
  「ええ… いままで言った事がなかったから知らなかったでしょうね」
   確かにそうだ。
   香里との会話の中では一切そういう話はなかった。
   やはり不思議だ。
   仮に兄弟がいたとして、そういう事を一切会話に出さないなんてことはあるのだろうか?
   もし、俺が知らないとしても名雪が知っているという事もありうる。
   香里と名雪の付き合いが長いのは何度も耳にしている。
   もし、名雪が知っていたらそういう話題も出てくると思うのだが…
  「名雪にも言っていないの。だから知らなくて当たり前よね…」
  「………………」
   それだけで事の重大さがよく分かった。
   名雪にもいえない事。
   自分のもっとも深いプライベートな部分だといえるもの。
  「…いずれ、名雪にも北川君にも話そうと思うわ」
  「ああ…」
   それを聞いて、少し安心した。
  「あの子… 栞は昔から重い病気を患っていたの。外を歩く事も満足にできないし、すぐ熱を出して倒れちゃう。
  小さい頃からあたしはよくお見舞いに来ていたわ。たくさんの本と、二人分のアイスを持って…」
   …それは微笑ましい光景だろう。
   決して、幸せとはいえない状況でもそれはすごく暖かい光景だと思う。
  「…思えば、あの頃が一番幸せだったかもしれない」
  「…それで、栞って子はどうなったんだ?」
   今までの会話を元に推測すると、栞という子は既に死んでいるだろう。
   だが、それはあくまで俺の憶測にしか過ぎない。
   直接、香里からそれを聞く必要があった。
  「…2月1日に栞はいなくなったわ。16才の誕生日の日に…」
  「………………」
   憶測が外れてればいいと思っていた。
   でも、それも空しい願いでしかなかった。
   現実はただ残酷に、事実だけを紡ぐ。
   それは俺たちだけではなく、隣に座っているこの少女も例外ではなかった。


  「あたしね、栞の死期が近づいてくるたびに逃げてきたの。栞が苦しむ姿を見るのも、死んでいるように眠っている姿も見たくなかった」
   香里の瞳に涙が浮かぶ。
   泣きながら香里は自分を責めていた。
  「最低よね… 勝手な理由で逃げて、傷つけるような真似をしたんだから…」
   ぽろり、ぽろりと涙がこぼれている。
  「…逃げちゃダメって言ったのは自分に言った事かもしれないわね」
   涙はそのまま頬を伝い、ケープに落ちて染みを作った。
  「なぁ、香里は栞の事を嫌いじゃないんだろ?」
  「ええ…」
  「それじゃあ、今からでも遅くはないんじゃないか?」
  「え…?」
  「今からでもできる事だってあると思うぞ。香里が頑張ったら、きっと栞も許してくれると思う」
   自分でも気休めだと思う。
   でも、こんな言葉で少しでも楽になってくれるなら…
  「…ありがとう」
  「…気休めだよな、こんな言葉」
  「ううん、今はそういう言葉が一番うれしいわ。頑張ろうって気になれる」
   香里が俺に体を預けてくる。
   香里の体温が俺に伝わった。
   見た目以上に小さい体と、シャンプーの香りがわずかにする髪の毛が香里が女の子である事を主張している。
  「…これで、相沢君がフリーだったらどうなっていたかしらね」
  「はははっ、随分と悪い冗談だな」
  「あたしはそれでもいいかな… なんてね」
  「………………」
   冗談で言っている事を祈りたい。
  「もう少しだけこのままでいいかしら…?」
  「いいぞ」
   外は雪が降るぐらい冷えていたけど、今はこの寒さが心地よかった。
   しばらく俺たちはその場にいた。
   数分後、香里の控えめなくしゃみを合図に、俺たちは室内に戻った。




   まだ雪は降りつづけている。
   この分じゃ朝まで降るんだろうな…
   家に帰る途中の道で、そんな事を思いながら歩いている。
   そろそろあの森への入り口だった。
   もちろん、今日も行くつもりだ。
   俺には過去を知る義務がある。
   そして、その過去は自分自身で切り開いていかないといけないんだ…
   森に着いた。
   降り積もり雪が辺りを白一色に染め替えていく。
   降り続く雪で切り株も真っ白に染まってしまっている。
   雪… 真っ白で、赤い雪。
   赤… 赤が侵食していく…
   視界を埋め尽くすほどの赤い雪。
   血の匂い、消えていく命、子供の泣き声。
   意識はモノクロから真っ黒な世界へと堕ちていった。








  「祐一君、遅いよっ!」
  「すまん、遅刻した…」
   あゆはいつものように枝の上に腰掛け、俺を待っていた。上のほうから覗く顔は明らかに不機嫌だった。
  「それじゃあ、祐一君は罰掃除だね」
  「ぐあ…」
   それはリアルで嫌だった。できることならそのまま逃げて遠くへ行ってしまいたい。
  「じゃあ、すぐ降りるから待っていてね」
   いつものように、あゆは身軽に木から降りていく。降りたあとは、いつものように遊ぶ。ただそれだけだった。

   ビュウッ!

   風が吹いた。ただそれだけの事だった。でも、ただそれだけの事がそれだけでは済まされなかった。
  「ぁ…」
   一瞬、何が起きたのか分からなかった。視界がモノクロになり、全ての時間がスローモーションで流れていく。
   あゆの小さい体はあっという間に地面に堕ちていく。それは、羽を無くした天使が堕ちていくようにも見えた。

   ごすっ

   鈍い音がした。硬いものがぶつかるような音がした。そして、雪は赤に染まっていった。


   赤い色は止まらない。
   白が赤に侵食されていく。
   命が内から外へ流れていく。
   視界がモノクロからフルカラーになったとき、俺はあゆの元に駆けていた。
  「あゆっ! あゆっ!」
  「………………」
   返事はない。あゆは小さく、息を漏らすだけだった。それでも、俺は声をかけるのを止めなかった。それを止めてしまえば、全てが壊れてしまう気がしたから…
  「あゆっ! 返事しろよっ! あゆっ!」
  「………………」
  「どこが痛いんだ!? ちゃんと言ってくれっ!」
   泣いていた。
  「嫌だっ! 死んじゃうなんて嫌だっ! あゆっ! あゆっ!」
   泣いていた。
  「まだやっていない事だってたくさんあるんだぞ!」
   泣いていた。
  「それに… まだ、渡していないものもあるのに…」
   俺も、あゆも泣いていた。
   声が聞こえる。
   大人たちの声が聞こえる。
   何を言っているのか分からない。
   大声で何か叫んでいる。
   何を言っているのだろう?
   何も分からない。
   ただ、俺は…
   あゆに声をかけるしかできなかった。








   全て… 思い出した。
   やっと全て思い出した。
  「…俺は、…俺は何もできなかった」
   あゆを抱きしめて、力いっぱい叫ぶだけで何もできなかった。
  「ぐっ… どうして… 何も…」
   涙が溢れてきた。
   悔しくて、悲しくて、思い出すたびに鈍い痛みが俺の心の奥を突き刺していく。
  「うわぁぁぁぁぁ!! うぐっ、あぁあああぁぁぁぁああぁっ!!」
   そのまま俺は子供のように、ただ泣きじゃくった。
   涙が止まらない。
   いくら泣いても、涙が止まらない。
   全てを思い出した。
   やっと全てを思い出した。
   でも、思い出した事は終わりの無い後悔と果ての無い悲しみだった。
   俺は…
   俺は何をするために、何を守るために生きているのだろうか…?




  「…なるほど」
  「………………」
   水瀬さんは、声を押し殺して泣いている。
   仮に、何かしらの誤解があったとしても二人が抱き合っていたのは紛れも無い事実だった。
   彼の考えている事はわからない。
   ただ…
   このこの事はハッキリさせておかないといけないだろう。
   彼や、水瀬さんのためにも…
   自分のためにも…
   冷え切った部屋に、コーヒーの湯気が立ち上っていた。
   気が付くと、水瀬さんは椅子代わりにしていたベッドで眠っていた。
  「…そろそろハッキリさせておいたほうがいいかもしれないね」


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