薬の匂いがする。
   …この匂いは嫌だ。
   この匂いがある所はよくないことばかりあるから…
   早くここから出よう…
   まずは起きないといけないな…
   起きるという意思を働かせ、体を同時に動かす。
   目の前に広がる光景は何度か見たことのある風景だった。
   いつもと変わらない保健室。
   保健の先生はその場にいなかった。
  「今何時なんだ…?」
   長い間寝ていたせいか、時間の感覚はすっかり狂っていた。
   壁にかけられている時計が示す時間は3時半。
   既に授業は終わっている。
  「嘘だろ…」
   どうしてこんなにも眠っていたのだろうか…?
   確か、授業を受けていてそれから…
   ………………
   …そうだ、俺は昔の事を思い出してから意識を失ったんだ。
   断片的に残っている記憶をまとめていく。
   あの木は昔、事故があったせいで切られてしまった。
   そして、俺はその事故の事を知っている。
   赤い雪。
   むせ返るような血の臭い。
   あふれる涙。
   それら全てが昔あった事として思い出せる。
   そして、事故にあったのは…
  「あゆ…」
   それじゃあ、俺が1ヶ月ぐらい前に会ったあゆはいったい何なのだろうか?
   他人の空似は絶対ありえない。
   ケガ自体は大した事がなく、そのまま退院できたのだろうか?
   いや、今でも入院しているって話だよな…?
   …何かが引っかかる。
   それが何かは分からないが、この考えにはどこか決定的な落とし穴がある気がしてならない。
   もう少し思い出したら分かるだろうか…?
   今夜も森に行くべきかもな…
   その前に病院に行かなければいけない。
   鞄やコートは教室に置きっぱなしだろうと思っていたが、すぐ近くの椅子に全てまとめられていた。
   香里か北川がやってくれたんだろうな…
   急いで支度を済ませ、学校を出ることにする。
   すでに日は沈みかけ、あたりは薄く赤に染まっていた。




   病室の前に着いた。
   いつものようにドアを二回ノックする。
  「空いていますよー」
   そして、いつものように名雪が返事をする。
   ガチャッ
   ドアをゆっくりと開ける。
  「よう、元気か?」
  「微妙に挨拶が違う気がするよー」
   …名雪につっこまれた。
   近くにある丸椅子を引っ張り出し、そこに腰掛けた。
   それから、俺達は取り留めない話を始めた。
  「ちゃんと自炊できてる?」
  「善処している」
  「本当かなぁ…?」
   心配そうに、でも楽しそうに俺を見つめている。
  「そういう名雪こそ、ちゃんと朝起きれているのか?」
  「………にゃう〜ん」
  「看護婦さんも大変だなぁ…」
  「う〜」


  「学校は何か変わったことはないの?」
  「ああ、テストが近いぐらいで特に何もないぞ」
   名雪はいつもと変わらないように見える。
   こうして話していると、普通に学校に行けそうな気もするのだが…
  「…そういえば、香里は?」
  「病院では見てないな。学校では会ったけど」
  「そう…」
   一瞬、名雪の顔に翳りがさす。
   近藤先生が言っていた事が頭をよぎる。
   名雪は本当に香里の事を疑っているのだろうか…?
   そうであって欲しくはない。
   香里を… そして、俺を信じて欲しい。
   でも、それも今の名雪には無理なのだろうか…?
  「それじゃあ、また明日来るからな」
  「うん、おやすみ〜」
   名雪が小さく手を振ってきたので、それに笑顔で返した。
   バタン
  「…早くよくなるといいな」
   名雪と一緒にいる時間が少しでも長くなるようにしたい。
   責任感とかそういう余計なものを取り払って、ただ純粋に名雪を愛したい。
   …こんな事なかなか口に出して言えないな。
   ふと気がつくと、屋上に繋がる階段の入り口まで差し掛かっていた。
   なんとなく風に当たりたい気分だったので、自然と足は屋上へと向かっていた。
   屋上から見た風景が好きだということも足を運ばせる動機のひとつだった。




   ギィ…
   鉄の扉を開けると、同時に冷たい風が肌に突き刺さる。
   今はその冷たさが気持ちよかった。
   フェンスの近くまで歩き、少し身を乗り出してそこから見える景色を眺めた。
  「………………」
   屋上から街並みを覗くと、鳥になったような気になれる。
   できたら名雪もここに連れて来たいな…
   空を見上げると、夕焼けの赤に混じって夜の深い蒼が広がっていた。
   ここについた時間も結構遅かったからな…
   この時期は日が短いという事を実感する。
   さて、そろそろ帰らないといけないな。
   扉に向けて足を進めたときだった。
  「あ…」
   香里が扉を開け、屋上に立っていた。
  「お、奇遇だな」
  「そうね…」
   気のせいかもしれないが、少し元気がないような気がする。
   下手に干渉しても相手のためにならなかったりする。
   確証が得られるまでは触れずにおくのもやさしさの一つだと思う。
  「そろそろ暗くなるから出た方がいいと思うぞ?」
  「………………」
  「……香里?」
   なんだか様子がおかしい。
   どこか弱々しい雰囲気を感じてしまう。
  「お、おい… どうしたんだ?」
   どんっ
  「えっ…?」
   声をかけた瞬間、軽い衝撃と温もりが俺の体に来た。
   香里が、俺に抱きついてきた。
  「か、香里…?」
  「…ごめん、少しこのままでいて」
   香里は泣いていた。
   そんな顔を見ることなどないと思っていた。
   しかし、目の前にいるのは今にも折れてしまいそうなぐらい弱くなった一人の少女だった。
   今こうすることで少しでも楽になるならこの胸を貸してもいいだろう。
   誰だって、弱い部分はあるはずだから…
   気がつくと、空からは無数の雪が降り注いでいた。
  「…っく」
   香里が泣き止むまで、俺はその場に立ち尽くしていた。


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