いい匂いがする。
そういえば、夕飯がまだだった気がする。
匂いに釣られるように目を開ける。
「んっ… あれ…?」
なぜか俺は居間のソファーで寝ていた。
俺、家に帰っていたっけ…?
「確か、さっきまではあの森のところにいたよな…?」
そこでなにか強烈なイメージが頭に入ってきて、気を失って…
体を起こそうとすると、ダイニングのほうから北川がやってきた。
「お、目を覚ましたか?」
「俺、どうしてここにいるんだ?」
体を起こしながら、制服姿の北川に尋ねる。
「お前、道端で倒れていたんだぞ?」
「え…?」
改めて見ると俺は私服に着替えさせられていた。
森にいた時からの記憶が途切れているのか…?
「北川が運んでくれたのか?」
「ああ、そうだ」
「それで、この美味しそうな匂いを出す物もお前が?」
「無理に決まっているだろ、美坂が作ってるんだよ」
やはりそうだったか…
北川と香里には本当に世話になっているな…
「ありがとう」
「いや、放って置くわけには行かないから当然の事だ」
ちょっと照れくさそうに視線を逸らす仕草は北川が照れ隠しをしているときの癖だった。
「あら、起きたの?」
エプロンをした香里が台所から来た。
「今日のメニューは?」
「ミートソーススパゲティだけど、それでよかった?」
「ああ」
そういえば、ミートソースはかなり手間かかるって聞いたが、それをさっきまで作っていたのだろうか?
「おそらく名雪が作ったんだろうと思うけど、さすがは秋子さんの血を引いてるだけあるわ…」
「そのまま店開けるんじゃないか?」
たぶん、名雪がその場にいたら「そんな事ないよ」なんて言いながら慌てるだろう。
「香里、晩飯ありがとう」
「どういたしまして」
その時、台所からタイマーの音が鳴った。
おそらく、麺を茹でる時に使ったのだろう。
「あ、そうそう。オレたちもご馳走になるつもりだったけどいいか?」
「いや、もう決定しているような言い方だろ」
「あたし達、まだ晩御飯食べてないのよ…」
苦笑を浮かべる香里。
確かに、それなら腹も減るな…
「まぁ、一人で食べるよりはいいから食べていってくれないか?」
一人で食べるよりは、誰かと食べたほうが料理もおいしくなる。
やがて、食卓には久々に俺以外の人も座ることになった。
昼休み一つ前の休み時間、今日も俺は中庭に来ていた。
昨日はとんだ邪魔が入ったが、ここは気分転換にはちょうどいい場所だ。
夏になったらここで弁当ってのもいいかもな。
こうして一人になるとついいろいろな事を考えてしまう。
名雪のこれからの事。
俺の過去の事。
どちらも乗り越えていかなきゃいけない問題だ。
痛くて苦しいけど、これが現実なんだ。
「乗り越えなきゃ… いけないんだよな…」
吐いた息が白く煙り、空に昇っていった。
そろそろ寒くなってきたな。
時間的にもそろそろ教室に…
「…み、見つけたぞ。相沢」
…またか。
あまり会いたくない奴。
精神的に不安定な今、ちょっとした事で爆発してしまうかもしれない。
できればこのままやり過ごして…
「お、お前! な、名雪ちゃんの入院している病室を教えろ! み、みんなに黙っているみたいじゃないか!」
「………」
やはり名雪の事か。
言いたい事が分かりすぎて悲しくなってくる。
「みんなに心配かけたくないからだよ」
「じゃ、じゃあ俺だけにでも教えろよ! き、気のきかない奴だなぁ」
………イラついてくる。
本当ここまで自分勝手だと一種の才能のように思える。
もっとも、相手している分には迷惑なだけだが。
「お前に教える義理はない。教えるつもりもない」
もうこれ以上話をしたくない、疲れるだけだ。
おもいっきり突っぱねた言い方をしてやった。
そして、そのまま帰ろうとした。
なのに、当の本人は何も気付いてなかった。
「な、なんだと! お、俺は名雪ちゃんに会いたいんだよ! 名雪ちゃんもそれを望んでいるはずだ!」
………
「お、お前は何も分かっちゃいないんだよ! あ、あのとき名雪ちゃんはお、俺のことを愛していたんだ!」
………
「は、初めてだったんだ! あ、あんなに愛されたのは! な、名雪ちゃんが初めてだったんだ!」
………
「そ、それをお前は奪おうとしているんだ! い、今も俺のことを邪魔しているだろ! じ、自分の立場を利用して!」
………
腹の底が煮え繰り返って仕方ない。
何でこんなイカれた奴を相手にしなきゃならないんだ。
だが、元はといえば名雪が……いや、俺達が撒いた種。
こいつにしてみれば名雪に弄ばれたも同然なわけだ。
「お、お前じゃ名雪ちゃんを幸せになんてで、できないんだよ! 名雪ちゃんが入院してるのはお前のせいなんだぞ!」
ぷつんって 音が 頭の中で した。
本当に そんな 音が したんだ。
「ひぶっ!?」
さっき まで べらべらと 喋っていた 男が 吹っ飛んでいた。
拳に 肉を 殴った 手ごたえ が 残っている。
「はぁっ、はぁっ…」
…だから嫌だったんだ。
こうなるのは分かっていたから。
自分で自分の軽率さが嫌になる。
もっと解決方法はあったはずだろ…?
でも、沸騰した頭では何も思いつかなかったようだ。
ただ一つ、思い浮かんだのは暴力という強攻策だった。
情けない。
本当のことを言われたから?
…情けない。
自分が嫌になる。
「…もう話しかけるな」
倒れたままの男に背を向けて校舎に向かった。
足は自然と速くなっていき、いつの間にか走っていた。
今日も名雪に会おう。
このささくれ立った心を少しでも癒したい…
そして、今日も俺は病院にいた。
俺にできる事はせめて、こうして毎日お見舞いに来るぐらいだ。
「…全てを受け入れる、か」
一見簡単に見えて、すごく難しい事。
楽しい事だけじゃなくて、痛みも全て自分の物として受け入れなければいけない。
たとえ、痛みがどんなに大きいものだとしても…
名雪に課せられた事はあまりに辛い事になってしまう。
それを、名雪は乗り越えていけるだろうか…?
ドアをノックし、中に入る。
「名雪、起きてるか?」
話しかけながら病室に入っていく。
だが、中には誰もいなかった。
「…あれ?」
おかしい、いつもこの時間には病室にいたはずなんだけど…
一時的に出ているような気配もない。
長い間空ける用事でもあったのか…?
「相沢君、こんにちは」
「うわっ!?」
いきなり後ろから声をかけられたせいで予想以上に驚いてしまった。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか〜」
ちょっと悲しそうにする看護婦さん。
いや、気配がなかった気がするんですが…
「で、どうしたんですか?」
「えーと、水瀬さんなら近藤先生のところにいますよ?」
「え、近藤先生の?」
コンコン
「ん、誰かな?」
「相沢です」
「相沢君か、どうぞ」
ドアを開けると、そこには近藤先生と…
「どうして名雪がここで寝ているんですか?」
寝ている名雪がいた。
しかも、机に突っ伏すような形で寝ていた。
まるで居眠りだ。
「水瀬さんに今後の治療の事を話していたんだけど…」
なるほど。
難しい話を聞いているうちに眠くなって、居眠りをしてしまったのか。
「まぁ、昨日は寝不足みたいだったからしょうがないと思うけど…」
「え、寝不足って…?」
「…あの日の夢を見たらしい」
「っ!?」
名雪の中で今も残っている痛み。
その痛みは色々な形で名雪を責めていく。
それは夢であったり、その他のものもある。
ただ、それら全てが名雪を苦しめ、心をを抉っていく。
それを乗り越えなければいけないという事は、かなり酷な事ではないだろうか…?
「………」
「気持ちよさそうに寝ているね…」
近藤先生の横顔が酷く冷たく、冷酷な笑みを浮かべていた。
だが、それも一瞬だった。
「でも、このままここで寝かせておくのも考え物だよね?」
困ったように名雪を見下ろす姿は、頼りなさそうに見えてくる。
…この人は本当に医者なんだろうか?
とりあえず、俺が名雪を病室まで運ぶことにした。
名雪を背負い、診察室を出ようとする。
「なんだか、仲のいい夫婦みたいだね。羨ましいなぁ」
「…茶化さないでください」
恥ずかしくなって早足で診察室を出た。
「……仲がいい、か…」
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