1月17日

   商店街付近で事故があった。車が歩行者に突っ込んだも
  ので、車は歩行者を轢いたあと電柱に激突した。運転して
  いた男性は全治2ヶ月の重傷。車は廃車になった。そして、
  車に轢かれた被害者の女性は意識不明の重体だった。


  水瀬秋子。

   俺が、お世話になっている家の家主。そして、名雪の母
  親。俺にとっても秋子さんは母親同然の存在だった。それ
  だけ、秋子さんの存在は大きかった。心の傷は深く、癒す
  にはあまりに辛すぎる事だった。


   教室で秋子さんが事故にあったことを知らされ、俺と名
  雪は病院に向かった。その途中で、事故の現場を見る事に
  なった。普段何気なく通っている商店街の入り口。変わら
  ない風景の隣で、ひときわ目立つ場所があった。


   散乱したガラス、辺りに飛び散る真っ赤な血。そして…
  潰れたショートケーキ。今朝、何気なく食べたいと言った
  もの。何もなければあのまま食卓に上っていたはずのケー
  キ。あまりに生々しく事故の現場を見せ付けられた。悲し
  さと吐き気が同時に胸の奥を焼く。


   病院に着いて、俺たちは真っ先に秋子さんのいる病室を
  聞いた。奥のほうから来た看護婦が案内をした先は、俺た
  ちの想像を超えた場所だった。軽いケガだと信じていた心
  が打ち砕かれた。


  ICU

   集中治療室と呼ばれるそこは、おもに重篤患者が治療を
  受ける場所だった。その事が、絶望に拍車をかける。あま
  りに、残酷な現実を見せられる。名雪は、その場に膝を着
  いた。俺も、立っているのがやっとだった。


   大きなガラス越しに見た秋子さんは見ていて痛々しかっ
  た。人工呼吸器やさまざまな医療器具のケーブルが秋子さ
  んの体から奥にある機械へと繋がっている。ドラマでしか
  見たことのない現実味のない光景がそこに現実として存在
  していた。


   俺たちは、目の前にある現実を受け止めるしかなかった。
  絶望するにはまだ早い。でも、楽観はできない…あまりに
  不安定な状態が続いている。こんな状態がいつまで続くの
  かはわからない。名雪は、心を閉ざしてしまった。自分の
  殻に閉じこもり、これ以上傷つかないようにしている。


   俺も、そうすれば楽なのかもしれない…でも、俺はそう
  はしなかった。きっと、何かできる。俺にも何かできるん
  だ…そう信じて、俺は色々な事をした。名雪の心を開こう
  とした。

 

  でも、名雪に俺の声は届かなかった…

  どんなに手を伸ばしても…

  その手は虚空を掴むだけだった…

 

 

 

 

 

   雪が降っていた。
   あの日と同じ雪… 世界の全てを白く染め変えてゆく… 悲しみに似た白い結晶。
   吐いた息も凍りつくほどの氷点下の世界。
   ふと見上げた時計の針がさす時間は午前0時。
   名雪はまだ来ない。
   最後の望みにかけて、名雪から借りていた目覚まし時計にメッセージを録音して、名雪の部屋の前に置いてきた。
   あまりに希薄で頼りのない希望かもしれない。
   それでも、俺はここから離れられなかった。
   信じたかったんだ、名雪を。
   名雪はきっと分かってくれる。だから、こうして信じて待っていられる。
   ただ名雪のことを想いながら、降り続ける雪を眺めている。
   吐いた息は白く煙り、空へと昇ってゆく。代わりに空からは降り止まない雪が帰ってくる。
   すでに手先の感覚はない。軽い凍傷になっているのは間違いないだろう。
   俺はどのくらいここにいるのだろうか?
   名雪がくるまでずっと?
   もしかしたら永遠の時をこの場所で過ごすかもしれない。
   そんな気さえした。
   視線を地面に落とした。
   真っ白い雪で染められた大地が視界いっぱいに広がる。
   街灯に照らされた雪は周りの雪に比べて、なお白く映える。
   その雪に影が降りた。
   人の形をした影だった。
   華奢な少女の影だった。
   落とした視線を上に上げた。
   そして、俺は少女の姿を見た。
   俺が待っていた少女。
   誰よりも大事で、誰よりも守りたい少女…
   名雪が…
  

  「ギリギリセーフだよね?」
   名雪が目の前にいる。
   大粒の涙を瞳にためて、俺を見つめている。
  「バカ、もう少しでアウトになるところだったぞ」
   涙が落ちる。
   落ちた涙は地面に落ち、雪を溶かした。
  「祐一、…ありがとう」
  「メッセージ、聞いてくれたんだな」
  「うん…」
   名雪が頷く。
  「…一回しか言わないからな」
  「うん」
  「俺は名雪が…」
  「名雪のことが、好きだ」
  「わたしも祐一の事が好きだよ」
   想いが溢れる。
   暖かい想いが、胸からこみ上げる。
  「待たせちゃってごめんね…」
  「ああ」
  「…遅れた、お詫びだよ」
   唇が重なる。
   熱い吐息を感じる。
   …届いた。
   今、やっと名雪に俺の声が届いた。
   涙が溢れ、頬を伝い、雫となって落ちていく。
   不器用だったけど、必死に伝えた言葉。
   俺と名雪はここで、ようやく一つになれた。
   降り止まない雪の中、俺たちは長い間口づけを交わしていた…
   …閉ざされた瞳からすっと一筋涙が伝った。名雪の涙だった。
   そして、俺の瞳からも涙が流れていた。
   涙の粒が宝石のように輝いていた。
   冷え切った体に、名雪の温もりがなにより嬉しかった。
   もし、神様がいるのなら願いたい。
   一番大切な人を… 秋子さんを助けてください…
   もし叶うのなら俺は…
   俺は… これ以上何もいらない。
   金も、くだらない名誉も。ただ、そこにある小さな幸せをください。
   氷点下の澄んだ空、星が瞬く夜空に祈りをささげた。
   祈りが届くように、心を込めて…
  

 

  でも…

  運命はあまりに非情だった…

 

 



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