…名雪が登校を再開してから二週間ほど経った。
   前のように、クラスメイトと笑いあったり、遅刻しそうになっては香里に突っ込まれたり…
   以前とまったく変わらない。
   …変わらないはずだった。
   …でも、最近何か不安を感じるようになった。
   そして、俺は放課後に香里を誘って百花屋に来ていた。
   店内には俺たちと同じ学校帰りの学生や、休憩に来ているサラリーマンがほとんどだった。
  「こうやって相沢君から相談事を持ちかけられるなんて不思議ね…」
   目の前の席に座る香里はコーヒーのスプーンをかき回しながら笑みを浮かべた。
  「俺だって普通の人間だぞ… 悩みの一つや二つはあるぞ」
  「ふーん… で、どんな事なの?」
  「あぁ……」
   今日、名雪は進路関係の話で放課後、石橋に呼ばれた。
   …正直、この話は名雪がいるときにはできない。
   名雪には悪いが…
  「…名雪さ、俺に依存してるんじゃないかって」
  「…やっぱり」
   香里の顔はもうすでに事態を察していると言っているようだった。
  「え…? どうして…?」
  「クラスの一部でもう話題になってるわよ…」
   呆れられたような顔をされた。
   気づかないのは当事者だけって事か…
  「確かに、頼れるのは相沢君だけだろうけど…」
  「………………」
   …確かに、だから名雪は…?
   最近、名雪は俺がどこかに行こうとすると、どこまでも着いて行った。
   軽い用で出るにもいつも着いて来るのだ。
   そして… もう一つ、捨て猫のような弱々しい、誰かに助けを請う瞳。
   ポツリと呟く一言…
  『…離れないで…』
   …そして、さすがに言えないがここ最近の名雪はまるで何から逃げるようにセックスを求めてくる。
   最初は日に1〜2回だったものが、最近は衝動的に求めてくることもしばしばで、日に4〜5回はしてる。
   …俺も体の限界がある。
   それでも、一度拒んだときの顔は… あまりに痛々しかった。
   だから、それからは断れずにいる。
   名雪の求めるまま、何度も…
  「…香里、質問していいか?」
  「あたしに答えられるものだったらね」
  「…辛いとき、何かに逃げることってあるか?」
  「………………」
   こういうことを聞くのは酷いだろう。
   辛いときの記憶を蘇らせ、古傷を抉るような事なのだ。
   香里には申し訳ないと思う。
   でも… 今の俺は答えを欲していた。
   沈黙がしばらく続いた。
  「…そうね、一度だけあったわ」
   そして、それを破ったのは香里だった。
  「どうしょうもなく自分が嫌になって、世の中の物全てが嫌になって… 冷蔵庫にあったお酒を飲んでみたり…」
   それから少し間を置いて、小さな声で呟いた。
  「…一人でしてみたり」
  「…え?」
  「…相沢君や北川君が毎夜の如くしてる事よ」
   顔を赤らめてそっぽを向く。
   俺と北川が毎晩してる事…?
   ………………
  「…ちょっと待て、それはいくらなんでも失敬だぞ」
   思いつくものは一つしかなかった。
  「…ごめん」
  「な、なんかそうやって素直に謝られるとかえって恥ずかしいような…」
   …っと、話が逸れたな。
  「…俺、このままずっと傍にいたほうがいいのかな…?」
  「…いずれはそれも無理になるわ。就職とかもあるし」
  「そう… なんだよな…」
   窓の外に見える茜色の空を見上げ、ため息を漏らす。
   俺たちはどこへ向かっていくんだろうか…?
   そんな問いかけをしても、空は何も答えてはくれない。
   答えを出すのは俺たち以外にないから…




   …今日はついてなかった。
   石橋先生に呼ばれなければ放課後からずっと祐一と一緒だったのに…
   …でも、最近の祐一は前のように真っ白になる感じを与えてくれない。
   頭の中が真っ白になっている間は嫌な事を全て忘れられる。
   …おかあさんの事も、何もかも…
   あ… 鞄、教室に置きっぱなしだった。
   進路を教室に向け、人もまばらな学校を歩く。
   教室の前、扉は開いている。
   まだこの時間だと、部活の真っ最中。
   …そうだ、今度陸上部に顔出さないと。
   教室に入ろうとしたとき、中から変な声と音が聞こえてきた。
  「…っ! はぁ… はぁ…っ 水瀬さんっ…!」
   わたしを呼んでる…?
   気づかれないように中を覗き見る。
  「えっ…」
   そして、わたしはその場で硬直した。
   わたしの席に座り、わたしの体操着を握り締めている男の子がいた。
   男の子の顔は真っ赤で、夕日の赤にまざって溶けてしまいそうな気がした。
   そのとき、視線に気づいた男の子はびっくりしたようにわたしを見た。
  「み、水瀬さんっ!?」
   その顔は見る見るうちに青く染まり、恐怖していることが見ただけでわかった。
  「あ、あのっ、僕っ… こんなつもりは…」
   泣きそうな顔で弁解する男の子。わたしはゆっくりと、一歩ずつ近づく。
   わたしが近づくたび、男の子は逃げようとするが、足がすくんで動けないようだった。
   顔に手が届く距離まで近づいた。わたしはそのまま…
  「んっ…!?」
   男の子の頬に手を沿え、そっとキスをした。
  「ねぇ… エッチ、したいな」
  「えっ…?」
   どんっ!
   わたしは男の子を押し倒した。




  「ただいま〜」
   明かりがついてる。
   名雪がいるのか…?
  「あ、おかえりなさい」
   エプロン姿の名雪がダイニングから出てきた。
  「あ… ごめんな、ちょっと寄り道してたから…」
  「ううん、わたしもすぐに帰れなかったから…」
   そういや進路がどうとか言ってたっけ…
  「名雪、進路はどうするんだ?」
  「…もう少し考えてみようと思って。先生にもそう言ったら『そうか』って…」
   まぁ、今すぐ決めろというものではないからな…
  「それより、晩飯は… シチュー?」
  「正解だよ〜」




   テーブルの上に並ぶ皿は二人分。
   もう一つの皿が並ぶはずの場所はぽっかりと穴が開いてるようだった。
  「そういえばこの前のシチューの事なんだけど…」
  「あ、香里の特製シチューのこと?」
  「香里のやつ、笑えない冗談言ってさ…」
  「え? 確か、お乳を入れるって事でしょ?」
  「あ、ああ…」
   ストレートに言われるとかえって恥ずかしくなる。
  「あれって本当なんだよ?」
  「へぇー… あれってやっぱりそうだったんだ…」
  ………………
  「…マヂ?」
  「香里に教えてもらってわたしもやってみたらとっても美味しかったよ〜」
   ちょっと待て、母乳は子供ができないと出ないはずじゃ…
   それとも、ある程度の年齢に達すると出るようになっているとか?
   そんなまさか、牛乳じゃあるまいし…
  「まさか… 今晩のも?」
  「うん、これがそうだよ」
   と、言いながら名雪が液体の入ったボウルを見せる。
   中は白い液体で満たされていた。
  「…牛乳?」
  「違うよ〜」
  「わたしの… お乳だよ」
   ………………
   お乳を作る工程を思わず想像してみる。
   胸を出してそのまま牛の乳絞りのようにするんだろうなぁ…
   テレビで見た牛の乳絞りの光景を名雪に当てはめてみる。
   ………………
   うわ…これってなんだか…

  「………………」
  「のわっ!?」
   気がつくと、ジト目で名雪が俺を見ていた。
  「祐一の… エッチ」
  「し、仕方がないだろ!? だって… その…」
  「………………」
  「…名雪?」
  「あははははっ… やっぱり騙されたね〜」
  「え… って事は?」
  「これ、生クリームだよ」
  「………………」
   見事にしてやられた。
   って言うか悔しい… 騙しやがって…
  「…おりゃっ」
   むにっ
   笑いこけていた名雪の両頬を掴む。
  「わっ!? ひらいよ〜」
   情けない声で講義する。
  「この口か!? この口が嘘をつくのか!?」
  「ふわぁ〜ん、はらひへほ〜」
   もはや何を言ってるのかわからない。
   うーむ、そろそろ離してやろう…
   両手を同時に離すと、一気にまくし立てられた。
  「ひどいよ…」
   それからしばらく名雪は不機嫌なままで、イチゴサンデー一個奢りでかたがついた。
   いつものやりとりがなんとなく嬉しかった。
   財布の中身が少し寂しくなるが…


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