名雪を部屋に連れて行く途中で、名雪は目を覚ました。
「んにゅ…」
…最近、この寝ぼけ声も聞いてなかったな。
「ん… あ、あれっ!? 祐一…?」
驚いて動こうとした拍子にバランスが崩れる。
「おわっ!? ちょっ、待てっ…!」
後ろに重心が傾き、腰が悲鳴を上げる。
「ぐっ…!」
何とか持ちこたえ、そのまま元の体勢に戻す。
「ご、ごめんね…」
「いや、いいさ」
そのまま病室に向かう。
「そういえば… わたし、どうして祐一におんぶされてるの?」
名雪に、先ほど近藤先生から聞いた事と、俺が負ぶって病室に連れて行こうとしたことを話す。
「そうだったんだ…」
ちょっと申し訳なさそうに声のトーンを落とした。
「…この状態も悪くないから気にしなくていいぞ」
「え? どうして…」
答えを言う前に、名雪がそれに気づく。
「…エッチ」
結局、病室まで名雪を負ぶっていく事になった。
「お見舞いに来たというのに見せ付けてくれるわね」
病室に入るなり第一声が香里の言葉だった。
「………」
名雪は明らかに恥ずかしそうにうつむいていた。
ベッドに名雪を下ろすと、隅のほうにあった丸椅子を2つ持ってきた。
香里と俺が椅子に腰掛けたところで、俺は名雪に話を聞くことにした。
「そういえば、近藤先生のところに行ってたのって、治療のひとつなのか?」
「うん…」
名雪の顔が沈んだものになる。
その顔を見て、近藤先生の言葉を思い出す。
「彼女を治すためには、それらを全てまとめて受け入れさせる事が大事なんだ」
…それは、名雪の心に深く刺さった痛みも全て自分のものとして受け入れなければならない事を意味していた。
それは、どのぐらいの時間がかかるだろう。
刺さった痛みが小さなものなら、それはすぐに風化して思い出となるか、または数多の記憶から消え去っていく。
だが、刺さった痛みがあまりに大きく、抜けない楔のようにいつまでも残ってしまうとしたら…
それは、あまりに酷い拷問だ。
…俺には、そういう記憶があるのだろうか?
大切な人をなくした記憶が…
意識を集中してここ最近掘り起こされかけた記憶を探る。
…血。
…赤い血
…横たわる少女。
「っ…」
これ以上思い出そうとしても、頭の回路がそれを拒む。
まるで、これ以上思い出しては頭が焼き切れてしまうとでも訴えているようだ…
「そういえば、昨日のミートソース美味しかったけど、あれって名雪が作ったの?」
「そうだけど、どうしたの…?」
香里は昨日の経緯をできるだけ細かく名雪に教えた。
俺自身詳しく知らされていなかっただけに、こうやって聞くとかなり危ない状況だったという事が分かった。
まだ冷え込むこの時期の、しかも夜に道の真ん中で倒れていたのだ。
下手すれば凍死していた。
あらためて、二人に感謝するべきかな。
ふと、名雪を見る。
「………」
名雪の表情が険しい。
…心配させたわけだし、怒るのも当然だろうな。
「……しないで」
「え、どうしたの?」
「…なんでもないよ」
それきり、名雪は黙ってしまう。
…ただ、俺は気づいた。
「余計な事しないで」
名雪のつぶやいた言葉には憎悪が込められていた。
それは明らかに友人に向けるものではない。
相手を妬み、その怒りをぶつける感情。
時に、人の命を奪ってしまう感情。
…一番の友人のはずだろ?
それなのに、どうしてそんな憎しみをぶつけるんだよ…?
煮え切らない気持ちを抱えたまま、他愛のない話は続いた。
笑顔という仮面で感情を押し殺したまま…
面会時間も終わり、香里と二人一緒に病室を出た。
「少しずつでも回復していってくれるといいわね…」
「ああ…」
香里の顔をまともに見れない。
それに加え、考える事が多すぎて思考が一つにまとまらない。
香里と、夕日が射しはじめた病院の廊下を歩く。
俺の後ろを香里がついてくる形だった。
名雪… お前の事をこんなにも心配してくれてるのに、あんな目で見るなよ…
まるで、全ての原因が俺の責任であるかのように、罪悪感が心を押しつぶしていく。
その時、遠くのほうに前に会った看護婦さんを見つけた。
会うなり、香里が逃げるように帰ったあの人だ。
香里はまだ気づかない。
話を聞くなら今のうちか…?
そう切り出そうとしたとき、俺たちに気付いた看護婦さんがこちらに向かってきた。
「美坂さん…」
「っ!?」
逃げるように距離をとろうとする香里。
だが、足が動くより先に看護婦さんの言葉が香里を引きとめた。
「ごめんなさい… 私たちのせいで、栞ちゃんは…」
「…っ!?」
栞…?
そういえば少し前に中庭にいた子… 美坂栞って名前だったよな?
あの時香里は妹なんていないって言っていたけど、やっぱり関係者じゃないのか…?
「…違う、お医者さん達や看護婦さん達はみんな頑張ったのよ… でも… それでも…っ!」
そこまで言って、香里が走り出す。
「香里っ!?」
慌てて、俺も香里を追いかける。
一瞬見た香里の横顔。
辛い事を隠して、強がっている顔。
でも、瞳からは涙が溢れていた。
…今の俺に、話を聞く事ができるだろうか?
気が付くと、足は止まっていた。
「………」
先ほど、香里に話しかけた看護婦さんが俺のほうへと向かってくる。
「…香里、何かあったんですか?」
「以前に、ちょっと……」
口調が重い。
香里にどんな事があったのかは分からないが、少なくともかなり重い事という事は分かった。
それ以上俺から聞くことはできそうもなかった。
「…それじゃあ、俺も帰ります」
看護婦さんの返事を待たずにそのまま病院を後にした。
茜色が支配する時間。
全てが茜色に染まる世界。
雪の白も全て茜色に染まり、まるであたり一面が燃えているように見える。
…赤い色は嫌いだ。
秋子さんの事故現場に残されていた大量の赤い血。
そして、それ以外にも俺は何かを失ったときに赤い血を見ていた。
その何かはまだ分からない。
だが、少しずつながらその何かがつかめてきた。
7年前、大切何かを失った日があった。
俺はその日を自分の中に永久に封じ込めようとした。
そして、それは今まで心の奥底で眠っていた。
だが、封印が解け始めている。
必要だから、思い出す事で道が開けるから少しずつ思い出していく。
心が壊れないように少しずつ…
そして、俺は今日もこの場所にいた。
気がつくと足は鬱蒼と茂る森に向かっているのだ。
たぶん、記憶の行き着く先はここなのだろう。
一歩ずつ足を踏み入れる。
森の入り口は比較的広かったが、奥に続く道はだんだんと狭くなっている。
歩くたびに狭くなっていく道に苦労しながらも先に進む。
そして、生い茂る木々を抜けた先にその場所はあった。
まるで、この気がこの場所の主だったかのように周りには他の木がなかった。
中央辺りにあるはずだった大木は、今は切り株として存在しているだけだ。
子供の格好の遊び場所になっていそうだが、その場所は数年間も人が来ていないような寂しさがあった。
「………」
…俺はこの場所を覚えてはいない。
だが、この場所が何かの答えになるのかもしれない。
「…君 ゆういち君」
声が聞こえる。
いつも、俺を呼ぶ声。
幼い女の子の声。
やがて頭痛が始まり、脳内にイメージが入り込む。
意識は自然と侵入してきたイメージに取り込まれていった…
「もう、大丈夫だよ」
後ろから、それも高さのある場所から声が聞こえる。一体なんだって後ろを向いていなければいけないのか…?
後ろを向いても姿は見えない。まさかと思い、上を見る。
「すごくいい景色だよ」
「ば、ばかっ! 早く降りろ!」
「えーっ?せっかくのいい景色なのに…」
「見ていて危なっかしいんだ!」
俺は高いところが苦手だった。それは自分が高いところに上るだけじゃなく、誰かが高いところに上るという事も同じなのだ。
現に、俺の足はわずかに震え始めている。そんな俺の状態も分かってないのか、木に登ったままで遠くの街並を眺めている女の子。
「いいから降りろ! 落ちたら死んじゃうだろ!?」
「大丈夫だよ。ボクって意外と運動神経いいんだよ?」
自信満々に微笑む姿を見て、これ以上言っても無駄だと思った。
「はぁ… 適度に切り上げろよ? あゆ…」
「うんっ!」
気がつくと、俺は走って森を抜けていた。
視覚がはっきりとしてきたのはいつも通っている道に出てからだった。
「はぁっ… はぁっ…」
荒い呼吸を繰り返して、大急ぎで身体に酸素を取り込む。
今見たものは、俺が昔に体験した事なのだろう。
そして、木に登っていた少女…
あの顔、声、そして…
「あ… ゆ…」
木に登っていた少女は数ヶ月前にこの街で再会した少女にあまりに似ていた。
確かに、昔あゆと遊んだという記憶はおぼろげながらあった。
だが、それがなぜこういう形で俺を苦しめるのだろうか…?
わからない事が多すぎる。
先ほどの森に行けばもっと先を見れるのかもしれない。
だが、今の状態であの続きを見る事は無理そうだ。
とにかく疲れている。
できる事なら早く家に帰って眠ってしまいたい。
…あの続きは明日見る事にしよう。
歩く方向を家に向け、ゆっくりと歩き出した。
帰るべき場所に…
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