翌日も俺は病院にいた。
   無機質な空間が当たり前の日常に組み込まれてしまって随分経った気がした。
  「あ、相沢君。ちょうどよかった」
  「あ、こんにちは」
   何度か顔を合わせた事のある小太りの看護婦さんに軽く会釈をする。
  「近藤先生がちょっと用事があるって言っていたから寄って行ってくれないかしら?」
  「分かりました。わざわざすみません…」
   きっと名雪に関わってくる事なんだろう。
   看護婦さんに再度礼を言って、俺は近藤先生のいる診察室に向かった。
   とりあえず安定はしている。
   近藤先生から告げられた言葉は俺にとってすごく救いになった。
   このまま快方に向かえばまたもとの生活に戻れる。
   もっと名雪の傍にいてやれるんだ…
  「彼女自身も徐々に自分の状況を受け入れ始めているみたいだよ。ただ…」
  「ただ… どうかしました?」
   嫌な予感がする。
   こういう場所での嫌な予感は本当に嫌だ。
  「いや、たいした事はないのだけど… 時々妙な事を言う事があるんだ」
  「妙な事?」
   嫌な予感がその色を濃くしていった。
  「友人が君をどうこうするという内容だが… 身に覚えは?」
  「…ありません」
   俺は決してやましい事なんてしていない。
   香里とは友人として接しているつもりだ。
   …不安定なときだから仕方がないのかもしれない。
   だが、これはあまりによくない傾向だ…
  「…分かった。とりあえず、この件に関しては置いておこう」
   それから、近藤先生がいろいろと話していた気がするが、ほとんど聞き流していた。
   物事に集中できない悪い癖だ。
   …このままじゃいけないのに、俺は何をやっているんだ。




   言いようのない疲れをまとったまま、名雪のいる病室に向かう。
   そのとき、目の前に昨日会った看護婦さんの後ろ姿があった。
   そして、少し先には香里がいた。
  「…もう、構わないでくれますか?」
  「ごめんなさい、それはできません…」
  「…偽善ですか?」
  「そう思ってもらってもいいです。でも、私は本気で悔やんでいるんです…」
   いつもとは会話の調子が違う。
   あんな直接的に責めるような言葉は香里の口からは聞いたことはない。
   このまま聞いておけば何かが分かるかもしれない…
   でも、俺にそれを知る権利はあるのだろうか…?
   そんな事を考えている間にも、二人の会話は進んでいた。
  「…もういいです。こんな事をしても意味ないですから」
  「ダメっ、あなたはまだどこか吹っ切れていませんよ!」
  「…今ここでどうしようと栞が戻ってくるなんて事はないのよ!!」
  「っ!?」
  「もう… 何も考えたくない…」
   そのまま香里は廊下を走った。
  「美坂さんっ!」
   看護婦の制止を振り切って、香里は駆けていく。
   そして、今日はその方向が分かった。
   俺は何を話すべきなのだろうか?
   慰める?
   そんな事をしても無駄に傷つけるだけかもしれない。
   俺は…
   …止めた、考えているだけ時間の無駄だ。
   とりあえず、香里の元に向かってからだ。
   俺は香里が行った方へと歩き出した。
   多分、香里はあそこにいるだろう。


   ギィ…
   鉄製の扉を開けると、肌寒い空気が室内へと入ってきた。
   中がいかに暖房が効いているかが分かる。
  「誰かいるの?」
   はっとしたように香里が振り向く。
  「俺だ」
  「どうしたの? 気分転換にでも来たのかしら」
  「そうだな…」
   そのまま香里の隣に並んで、フェンス越しに見える街並みをを見た。
   空は赤一色で地上にあるものをすべて同じ色で染めてしまいそうなぐらいに赤かった。
  「…さっきの会話、聞いていたでしょ?」
  「………」
   妙なところで勘が働くんだな…
  「俺には何も言えない。知らない事が多すぎるし… 知る権利もない」
  「そう…」
  「けど…」
   そこで一度言葉を止める。
  「けど、色々とお世話にはなっているから、簡単な相談役ぐらいなら喜んで引き受ける」
  「…ありがとう」
  「一人で抱え込むな… なんて俺が言っても説得力ないけどな」
  「まったくその通りね」
   香里が笑った。
   つられて、俺も笑顔になった。
   やっぱり、気を許せる人と一緒だと張り詰めていた心がほぐれるな…
   しばらく香里と話をしていると、先ほどまで胸の中にあったプレッシャーはだいぶ軽くなっていた。
   ギィ…
   音のしたほうを見ると、ドアがわずかに動いていた。
   誰か他に屋上に来たのだろうか。
   病院の屋上って関係者以外立ち入り禁止だから見つかるとヤバイんだけどな…
   まぁ、見つかったときは謝ればいいか。
   腕時計に視線を移すともうそろそろ日が落ちる時間だった。
   そろそろ名雪の病室に行かないとまずいな。
   香里に声をかけ、一緒に屋上をあとにした。
  「…心当たりがない、か」




   今日の名雪はいつもと変わらなかった。
   昨日感じたあの刺すような視線を向けることもなく、終始普通の会話だった。
   あれは気のせいだったのだろうか?
   そう思えてしまうぐらい、今日は何事もなかった。
  「それじゃあ、また明日ね」
  「ああ、じゃあな」
   香里は脇道に入ると、小走りで家に戻っていった。
   それから俺はまっすぐあの森のある方向に向かった。


   ガサ… ガサ…
   小さい木のトンネルをくぐって進む。
   子供の頃だったらもうちょっと簡単に行けたんだろうな…
   そして、トンネルが終わると同時に、視界にあの大きな切り株が飛び込んできた。
   俺はそこで目を閉じる。
   過去を受け入れるために。
   自分自身を知るために…








  「祐一君はこの街にはずっといないの?」
   木の上からあゆの声が聞こえてくる。
  「遊びに来ているだけだから、あと4日ぐらいしたら帰っちゃうぞ」
  「そうなんだ…」
   表情を見なくても、あゆが残念そうにしているのが分かった。
  「でも、来年もここに来るからそのときはまた一緒に遊ぶぞ!」
  「え、来年も来てくれるの!?」
  「ああ、ちゃんと来るぞ」
  「えーと、それじゃあ…」
   あゆが器用に木を降りていく。
   降りきった時には、空の色は黒に染まりかけていた。
  「指きり、してくれるかな?」
  「ああ、約束だからな」
   小さい指にさらに小さい指が絡む。
   絡み合った指はそのまま上下に揺れて、離れた。
  「指切った」
  「よし、それじゃあ来年会うときはここで会うぞ!」
  「うん!」




   …ゆびきりの約束。
   …次の年も会う約束。
   分からないことが多すぎてどうしても話が噛み合わない。
   ただ、一つだけ確実に分かった事があった。
   俺とあゆは7年前にこの森で遊んでいたという事。
   …それなら、あの木はどうして切られたのだろうか?
   わざわざ切る必要もないと思うのだが、何かしら理由があったのだろう。
  「…早く帰るか」
   気がつくと、随分と冷えてきている。
   風邪を引く前に早く家に帰ろう。




  「おはよう」
   いつものようにクラスメイトに挨拶をかける。
  「おはよう、相沢君」
   いつものようにクラスメイトから挨拶が返ってくる。
   そして、そのなかに珍しい男がいた。
  「よう、早いな」
  「それはこっちの台詞だ」
   北川はいつもよりなぜか早かった。
   いつもならもう30分ほどあとに登校してくるのだが…
  「実はな…」
  「ああ、何だ?」
  「昨日買った本が思ったより楽しくてさ。読んでいたら朝になっちまった」
   それでか。
   どうやらナチュラルハイも入ってるようだ。
  「授業はちゃんと受けろよ」
  「安心しろ、十中八九寝る! はっはっは!」
   …俺は起こさないからな。


   1時間目、歴史の授業。
   案の定北川は寝ていた。
   俺も宣言どおり起こさないことにする。
   教師は寝ている北川に気づかないのか、そのまま授業を進めていった。
  「…と言うわけで、死者の塚に使われたのはその大木だったというわけだ。そうそう、大木といえばこの街の大木がどうして切られたか知っている者はいるか?」


   ドクン


   心臓がひときわ大きく動き出した。
   胸がキリキリと痛みだす感覚はよく覚えている。
   最初にあの森で過去を見たときに感じたのと同じ感覚…
   過去への扉が開かれる。
   膨大な記憶が俺の頭に流れ込んでいく。




  「確か、女の子が木から落ちたのが原因だったはずですよね?」


   ドクン


  「当たりだ。その事故の後で同じ事故が起こらないようにと切ったのだが…」


   ドクン


  「一応聞いた話なんですけど、確かその子まだ入院していたはずですよね?」


   ドクン

  「ああ、7年間ずっと目を覚まさずに眠り続けているらしい」


   ドクン




   その…


   その少女の名は…




   あ ゆ




   月 宮 あ ゆ




   意識はそこで途切れた。
   一瞬で深い闇の底に堕ちていった。
  「ちょっと、相沢君!?」
   香里の声が聞こえたが、それも一瞬だった…


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