1月 31日 日曜日

 明け方に救急車の音で目が覚めた。
 電話をかけようと飛び起きる。
 だが、美坂の言葉を思い出した。
『栞に本当に何かあったら、その時こそ電話するから。寝てたら叩き起こすし、バイト中なら店長さんブチのめしてかっさらってくから安心して』
『ゆっくり寝て、体力を回復させて、楽しい思い出を作ってあげて』
 電話は、かかって来ない。
 安心……は、できないが頑張って眠る。
 栞と楽しむために。
 栞と、最後の一日を過ごすために。
 その一日を充実させるための体力を得るために。


「遅刻ですっ!」
「ごめん!」
 あれから、なかなか眠れず、ようやく眠れた……と、思ったら寝過ごしてしまった。
「せっかくいい天気なのに勿体無いですっ」
「まあ、アイスでも奢れば機嫌も直るだろう」
「考えてる事口に出してますっ。……そういうこと言う人、嫌いです」
 そう言った後はお決まりの……。
「……でも、アイスクリームは大好きです」
 悪戯っぽい笑みを浮かべるのだった。
「それでこそ栞だ」
 そう言って頭をわしわしと撫で……!?
 掌に伝わる不自然な温もり。
「栞!? 熱があるんじゃないか?」
 顔色も悪く見える。
「……えっと」
「えっと……じゃない!」
「ちょっと、だけです……」
「でも……」
「本当に、ちょっとだけですから……」
 普通の人にとっては、ちょっとだけかもしれない。
 しかし、栞にとっては……。
「今日は、ずっと潤さんと一緒にいます」
「……」
「お願いします……」
 栞にとっても、俺にとっても最後の日……。
「本当に……大丈夫なんだな?」
「はい」
「分かったよ……」
「嬉しいですっ」

 映画、水族館、ゲームセンタ―、レストラン……。
 普通の、これ以上はないというくらいに、普通のデートをする。
 それが、少女の望みだから。
 俺が栞にしてやれる、たったひとつのことだから。
 流れるように、時間が過ぎていった。
 そして、巡り巡って商店街に戻って来た時……。
「……あ」
「どうした?」
「アイスクリーム、奢る約束忘れてます」
 ……。
 アイスを買う。
 栞は色々迷っていた。
 両方食えと言う提案は……。
『……太りますから』
 と、却下された。
 女の子らしい、普通の女の子らしい悩みだった。
「さて、問題はどこで食うかだな」
「いつもの公園……も、いいですけど」
「たまには違う所……か?」
「はいっ」
「とは言っても、今からじゃな……」
 いつもの放課後デートの時間帯だった。
 これまでと変わらない所しかないだろう。
「……でしたら、潤さんの家がいいです」
「オレの家?」
「はい。潤さんの家、見てみたいです」
「普通だぞ」
「それでもいいですよ」
「散らかってるぞ」
「でしたら、お片付け手伝います」
「それでいいんなら」
 エロ本だけは片付けておいて正解だった。
 ……もっとも、この頃はとても使う気にはならなかったが。

「ただいまー」
「……お邪魔します」
 玄関に入ると奥の部屋のドアが開き、スーツ姿のお袋が出てきた。
「お帰り潤……」
 そう言ったお袋は珍しく真剣な眼差しをして、栞を見た。
 そして、しばしの沈黙の後……。
「……何や、ナンパして来たんか」
 目を怪しげに細めて言った。
「違うっ!」
「お父んに似て、手ぇ早いんやな」
「あ、あはは……」
 栞は気まずそうに笑う。
「話聞けぇっ!」
「あ……栞です、美坂栞」
「美坂……栞ちゃん、か。何もない家やけど、ゆっくりしたってや」
「ありがとうございます」
「母さん……出かけるの?」
「そのつもりやったけど……やっぱやめとこかー」
 心底楽しそうに言う。変なことを考えてるな……。
「栞ちゃん」
 先ほどとはうってかわって真剣な顔と口調になる。
「もし、潤に変なことされそになったら悲鳴上げるんやで?」
「あのなぁ!」
「はい、分かりました」
 栞も素直に頷く。
「……ひでぇ」
「ケダモノになった潤はうちがシバキ倒したるさかい」
「はいっ、お願いします」
「……ひでぇ」
「冗談ですよ」
「いや、冗談ちゃう。男はみんなオオカミや」
「そうなんですか?」
「せや、アレは……うちがまだ栞ちゃんみたいなうら若き乙女だった頃の出来事や」
「……戦前の話か」
「んな訳あるかいっ!」
 拳骨が来た。
「ぐはっ!」
「あ、あはは……」
 児童(?)虐待の光景を栞は冷や汗を流しながら見ていた。
「黙って聞き」
「……大丈夫ですか?」
「痛てて……」
「潤、お父んは今でこそタダのおっさんやけど、あの頃は結構ええ男だったんやで? そのルックスにつられて、つい、フラフラ〜と」
「フラフラ〜ですか……」
「せや、フラフラや。そして今の栞ちゃんみたいにあいつの部屋連れ込まれて……」
「連れ込まれて……?」
「調子に乗って一線越えてしもたんや」
 俺と栞は硬直した。
「しかも、その時に大当たりして授かったんが……潤、あんたや」
 発言の内容はともかくとして、温かいまなざしで言った。
「せやから、気ぃつけなあかんで?」
 ……そんな事があったのか。
「あは、あははは……」
 またも気まずそうな栞の笑み。
 俺はそうやって生まれたのか……って事は出来ちゃった結婚なのか?
 気まずそうな沈黙。どうリアクションすりゃいいんだ?
 なおも続く沈黙。
「……2階の一番奥のドアが、俺の部屋だから」
 仕方なく強引に話を打ち切った。
「分かりました」
 栞もリアクションに困っていたのか素直に頷き、とたとたと階段を登って行く。
「……潤」
 まさか、本気で釘刺されるのか?
「栞ちゃん、どっか悪いん?」
「……え?」
「具合、悪なって、家で休ませに来たん?」
 俺が気付いていないだけで、今の栞は一目見て分かる程に良くない状態なのか?
「……いや……大丈夫。顔色とか、栞は……元々白いから」
 俺の足は、みっともないくらいに震え始めていた。
「……さよか。余計な心配やったな、堪忍な」
 そう言って自室に戻って行く。
 本気で監視のために残るようだ。
 と、お袋は振り返り……。
「大事にしたりや」
「……ああ」

 階段を駆け上がると、ドアの前に栞の姿があった。
「先に入ってて良かったのに」
「何も知らずにドア開けたら、色々な物が雪崩れを起こすかも知れません」
「いくらなんでもそれ程じゃないよ」
 そう言ってドアを開ける。
「……ここが、潤さんの部屋ですか……散らかってますね」
「だから言っただろ……」
 とりあえず、大まかに散乱する雑誌などをどけるが座布団すらない事に気付く。
 ベッドをベンチのようにして隣り合って座った。
 アイスを食べながら他愛のない話をする。
「ストールを座布団代わりにすれば良かったのに」
「ストールは、敷くものではないです。それに、このストールは私のお気に入りですから」
「だから、いつも羽織ってたのか」
「1枚しか持っていないんですけどね」
「それなら今度、オレが編んでやろう」
「わー、嬉しいですー」
「いや、冗談だけど」
「とても嬉しいです」
「いや、だから……」
「潤さんの手編みのストール、楽しみです」
「……オレ、編めないって」
「大丈夫ですよ、本を読めばできるようになります。時間はかかるかもしれませんけど、いつか、きっと……」
 寂しそうに最後の言葉を締めくくる。
「いつか……」

 明日は、栞の誕生日。
 今日が、最後の日。
 『いつか』は俺たちにはない。

「……栞」
「きゃっ!」
 栞の小さな体を、力いっぱい抱き締めていた。
「……そんなことする人、嫌いです」
「オレは、栞が好きだ」
「……」
「栞のこと、ずっと好きでいる」
「……」
「これからも……いつまでも、だ」
「潤さん、恥ずかしいこと言ってますよ……」
 赤面しながらそう言った後、深呼吸して口を開く。
「でも……嬉しいです」
 歓喜の笑みを浮かべた栞の手が俺の背中に回る。
 トクン……トクン……トクン……。
 栞の鼓動、暖かく、柔らかい体……栞が生きている事を全身に感じる。
 トクン…トクン…トクン…
 早まる鼓動、荒くなる息……そして……。
「……あ」
 栞はハッと目を見開く。
「何か……硬い物が……」
 気まずそうに言う。
 体は正直だった。
 お袋の……本気なのか冗談なのか、事実なのかホラなのか判りかねる忠告は、現実問題になりつつあった。
「ごめんっ!」
 抱き締める腕を解き、栞を開放しようとするが……。
 俺の背中に回る栞の腕には力がこもる。
「潤さん……」
 潤んだ目で俺を見つめる。
 白かった顔は紅潮し、荒い息を吐く。
 トクン、トクン、トクン、
「私は、いいです。潤さん……ですから。好きな……人ですから……」
「栞……いいのか?」
「……はい。普通の女の子として、扱って下さい」
 笑顔でそう言った。

 ドクン、ドクン、ドクン……

 鼓動は更に早まる。
 卑怯な考えが浮かんだ。

 好きな男に抱かれるのだから幸せだろう。
 栞は普通の女の子としての扱いを望んでいる。
 この状況の男女なら抱くのは普通の事だ。

 そして……。

 ドクッ、ドクッ、ドクッ……

 栞にはもう、今日しかない。

 目を瞑り、力を抜く栞。
 栞の肩に、改めて手を添え……。
 ……。
「駄目だっ!」
 栞の体を押し戻した。
 栞は済まなさそうな目で俺を見る。
「栞の体……負担は、かけられない」
「今日しか、ないんですよ?」
「それでも、それでも……傷つけられない!」
 頭を下げる。
 どっちにしても卑怯な選択だった。
 俺は……逃げてしまった。
「……ごめんなさい」
「ごめん……ごめん……」
 崩れ落ちる。
 栞の膝に顔を埋め、倒れ込む。
 腰に手を回し、しがみつく。
 すると、栞の手が俺の背中に添えられた。
 支えてやらねばならないのは、俺なのに。
 栞は、気丈に俺を支えてくれている。
 栞は、ぽん……ぽん……と、まるで泣いている子供をあやすように、俺の背中を優しく叩いていた。
 俺は泣いた。
 声もなく泣いた。
 本当に泣きたいのは、栞の方なのに。
「今日まで、本当に……ありがとうございました」
「やめてくれ……そんな言い方……」
「ごめんなさい。でも、幸せでした」
 淡々と続ける。
「生まれてきて、良かったです。お姉ちゃんの妹に生まれることができて嬉しかったです。チョーサクさんや、あゆさんや、水瀬先輩や川澄先輩と友達になれて楽しかったです」
 物語を語るように、あの時の美坂のように淡々と続ける。
「そして……潤さんに会って、潤さんを好きになって、潤さんが私を好きになってくれて幸せでした……」
「……栞」
 膝にうずめていた顔を上げる。
 栞は慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。
「……今更、こんなこと言ってごめん。でも、聞いてくれ。諦めるな。これからだって幸せだから、楽しいから……だから……だから……」
 ぐっ、とこみ上げてくるものを必死で飲み込み、口を開く。
「過去形なんかに……しないでくれ……」


 互いに言葉もなく、手を繋いで歩く。

 商店街
 駅前
 夜の学校
 中庭
 出会いの並木道
 噴水の公園

 雪が降り始めた。
 そして……栞が俺にもたれかかってきた。




NEXT

SSTOPへ