1月 9日 土曜日
2時間目の授業を受けている。
相沢に貸した教科書を後ろから覗く。
俺は視力がよくカンニングもお手の物だったりするが、それは秘密だ。
しかし、さすがに長時間やっていると目が疲れるので目を休めるため窓から中庭を見てみる。
この季節に中庭に足を踏み込む者などまずいない。
だが、真っ白なキャンパスにうっすらと一本の線が引かれていた。
降り積もる雪で埋まりかけた足跡、その先には私服の女の子がひとり。
よく見ようとすると……。
「さっきからよそ見している北川! 暇ならこの問題やってみろ」
教師の怒号が飛んできた。
こうして、相沢から返された教科書との格闘が始まった。
4時間目、あの人影の事を思い出し中庭を見ると……。
「まだいる」
相沢が呟いた。
まだ、と言ってるから相沢も気付いていたようだ。
「ずいぶん前からいた、ずっと立っていて全然動かないんだ」
「寝てるんじゃないか?」
俺の発言に相沢は奇妙なことを言う。
「水瀬じゃあるまいし」
そう言って相沢の隣を見ると、水瀬は幸せそうに寝ていた。
水瀬はよく寝る。
授業中は当然として(それはそれで問題なのだが)全校集会でも立ちながら平然と寝る。
部活では走りながら寝ていたという噂もある。
会話をしていても、食事中も、何の前触れもなく寝る。
水瀬と知り合った当初は、脳いっ血ではないかと肝を冷やしたほどだ。
そのため水瀬の顔を見ると不安になり、落ち着かなかった。
もしかしたら俺は、それを恋愛感情と勘違いしていたのかも知れない。
「……こんな特殊なのがそう沢山はいないだろ。あれは、やっぱり変だ」
淡い想いを断ち切るように言う。
「いくら晴れてても外は寒いからそのうち帰るだろ」
おほん!
と、教師の咳払いが聞こえ、会話は中断した。
だが、気になって何度も窓の外を見た。
女の子はずっとそこにいた。
まっすぐな髪、きゃしゃな体、そして、見覚えのあるストール。
チャイムが鳴ると、中庭にも聞こえたのか校舎の窓を見上げた。
どことなく寂しそうな、そして儚げな顔。
やっぱりだ!
残ったHRをすっぽかし、まだ人通りの少ない廊下を走り、階段を駆け下り、冷たく重い扉を開けて、そのまま外に飛び出す。
ここでは、雪がない季節はよくサッカーをしてた。
目印になりそうなベンチの当たりを見ると、雪のキャンパスの上に、ひとりの少女が立っていた。
「……あ、どうしたんですか?」
驚きながら小さく声を上げる。
間違いなく、昨日、相沢やあゆと一緒に出会った少女だった。
「中庭に私服の女の子が入り込んでるから、見に来たんだ」
「そうなんですか? ご苦労様です」
お辞儀と同時に、服と頭に積もっていた雪が落ちる。
ずっと同じ場所に立っていたのか足下の雪はほとんど乱れていなかった。
「君、昨日言ってたけど、ここの1年だろ?」
「そうですけど?」
少女は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
昨日は見ることのできなかった笑顔。
その笑顔は、第一印象とずいぶんギャップがあった。
「だったら何で私服で授業中にこんなところに立っていたんだ?」
「私、今日は学校を欠席したんです」
「……さぼり?」
「さぼりじゃないですよ。最近は体調を崩してしまっていて、それで、ずっと学校をお休みしていたんです」
明るくはきはきとした口ぶりに陰りが入る。
「昔からあんまり体が丈夫な方でもなかったんですけど、最近、特に体調が優れなくて……」
言われてみれば、確かにどこか辛そうな表情に見えないこともない。
「だったらこんな所にいちゃ駄目だろう? 2時間目頃からずっとここにいなかったか?」
「私、こう見えても暇ですから」
そういって笑みを浮かべる。
「いや、そういう問題じゃないだろ……」
「そうですか?」
きょとん、とする少女。
「それに、こんな場所にいると余計に病気がひどくなるぞ」
「……そうですね、気をつけます」
「そう言えば、何の病気なんだ?」
不意に、少女の顔が曇る。
あ、しまった。俺ってやっぱり無神経だな……。
「……たいした病気じゃないですよ」
小さな声で、伏し目がちにゆっくりと言葉を続ける。
「実は……」
思わず息を呑む。
「風邪です」
明るい笑顔で言い放つ。
「……」
「どうしたんですか? 疲れたような表情ですけど?」
「……もっと難しい病名が出てくるのかと思った」
「そうですか……えっと、それで最近は学校をお休みしていたんですけど……」
なるほど、昨日私服だったのはそのためか。
「今日は人に会うために、こっそり出てきたんです」
少女はまたも悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「こっそり来なくても、堂々と来たらいいだろ」
「病気には変わりないですから、外出していることが見つかったら怒られます」
「まぁ、少なくとも家族は心配するよな……」
「……はい。ですから、こっそりと、です」
口元に指をあてて、内緒話をするように声を小さくする。
だが、一瞬辛そうな表情を見たような気がした。
また、無神経なこと言っちまったか?
「人に会いに……って、誰に?」
「秘密です」
口元に指を当てたまま、小さく微笑む。
「余計気になる」
「秘密です」
「せめてヒントだけでも」
「秘密です」
「分かったよ。まぁ、どうせオレが知ってる名前じゃないだろうしな」
「あ、あはは……」
何だか気まずそうに笑う。
「しかし、風邪なんて大変だよな」
俺はそれほど風邪をひく方ではないが、体が弱いなら冬は本当に辛いと思う。
「でも、病気で長期に渡って休んでいる女の子って、ちょっとドラマみたいでかっこいいですよね」
「自分で言うな」
「もちろん、冗談です」
病気がち……にはあんまり見えなかった。
「大体、長期って言ってるけど、ついこの前まで冬休みだったろ? 昨日と今日休んでいたら、誰だって長期だ」
「……それもそうですね」
表情をほころばせながら、うんうんと頷く。
初対面の時のどこか怯えた雰囲気とも違う。
今日、雪の上で校舎を見上げていた寂しそうな表情とも異なる、明るく元気な仕草。
不思議な女の子だ。
実際に言葉を交わしてみて、本当にそう思う。
「おっと、自己紹介がまだだったな」
「北川……潤さん、ですよね?」
「何で知ってるんだ?」
「昨日、もうひとりの男の人がそう呼んでました」
「あ、そうだったな」
「あの人は……えっと、チョーサクさんでしたっけ?」
あゆが『祐一君』と、連発してたはずだが……?
面白いから訂正しないでおこう。
「私は栞です。美坂栞。休んでばかりですが、ここの1年生です」
「みさか、しおり……? みさか……」
「どうしたんですか? 難しい顔をしていますけど……」
「美坂……香里」
「……え?」
「そういう名前の同級生がいる」
あいつの名前がそうだった。鈴木とか佐藤とかならまだしも、美坂なんてそうそうある名字ではないはずだ。
「もしかして、美坂の妹か?」
「……えっと」
「それか、姉」
「そう見えますか?」
「まあ、妹より姉の方が幼く見えるってこともあるだろうな」
「……そういうこと言う人、嫌いです」
「冗談だ」
自分でボケといてなんだが、美坂より一学年下なのに姉な訳ないよな。
……待てよ? 体が丈夫でないって言ってたな。
だから、なかなか登校できなくて出席日数が足らず、留年してしまったんだろうか?
そして、妹(?)の美坂……香里に追い抜かれてしまったんだろうか?
……突っ込まない方がいいな。
「お姉ちゃんを知っているんですか?」
杞憂で済んだようだ。
「ああ、よく昼飯一緒に食ってる」
「そうですか……」
複雑な表情で言葉を濁しながら、ゆっくりと校舎を見上げる。
「もしかして、美坂……香里に用があったのか?」
「……いえ、そう言うわけではないです」
視線を校舎に送ったままそう呟く。
「……あの」
「何だ?」
「今日はこれで帰ります」
「誰かに会うんじゃなかったのか?」
「あ、あはは……」
気まずそうな笑みを浮かべた後、一呼吸置いて続けた。
「今日はもういいです。元々、大した用事ではないですから」
「そうか」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、オレが勝手に来ただけだから」
「えっと、それでは帰ります」
くるっと振り返って、雪の道を歩いていく。
「あ、それと、私のことは栞でいいですよ」
「分かった、オレも潤でいい」
「分かりました、潤さん」
『お兄ちゃん』……などと呼ばせる趣味はない。俺にそういう属性はないからな。
それに、俺には『お兄ちゃん』と呼ばれる資格など、もうないのだ。
俺のお袋は保育所で働いていて、俺もそこでバイトした事があった。
その時、そこの子供たちに『おじさん』と呼ばれた。
まだ17歳なのにである。
子供たちの純粋な目から見て、そう認識されたという事は、俺という人間の本質的なものは既に『おじさん』なのだろう。
それに、以前、お袋は無理矢理に俺を晩酌に付き合わせようとした。
俺は未成年なんだからと断ったら……。
「潤、重大な秘密を教えたろ」
何やら怪しげな目で俺を見たお袋は、
「実はな、あんたの出生届、出すの十年も忘れとったんや」
シレッと言い放った。
「だから、オッケーや」
そう言ってお猪口を突きつけてきた。
……本当なのかも知れない。
ちなみに、『歳いくつだ?』と突っ込んだら容赦無くシバキ倒された。
「……どうしたんですか?」
栞の声で我に帰る。
「いや、何でもない」
「そうですか。分かりました、潤さん」
微笑んで、そしてお辞儀をして、雪の中を歩き出す。
「それでは、これで」
「風邪、早く治せよ」
「……はい」
その後ろ姿を最後まで見送った。
あの子……結局、何しに来たんだ?
それに、誰に会いに来たのか訊いたときの気まずそうな微笑は何だったのだろう?
不思議な女の子だった。
栞と話をしているうちに、ずいぶん時間が過ぎていたようだ。
教室に戻ると……。
「ほうきと雑巾どっちがいい?」
相沢が待ち構えていた。
今日は掃除当番だったのだ。
美坂に栞のことを訊こうと思ったが、先に帰ってしまっていた。
また今度でいいか。
一旦帰宅した。
水瀬や美坂の家に似ているらしいが、典型的な建て売り住宅なので別に不思議はあるまい。
時間を潰した後、バイト先のコンビニに向かう。
商店街を歩いていると、スーパーから相沢が出てきた。お使いのようだ。
そして……相沢の前に古びた毛布を被った人が立ちはだかった。
毛布を投げ捨てると、女の子だった。
そして相沢に殴りかかった!?
あいつ、あの少女に恨まれる事でもしたんだろうか?
少女の目は真剣で、冗談でそんなことをしているのではないことが分かる。
だが少女は喧嘩に不慣れらしい。拳はほとんど当たらず、当たっても大したダメージは与えていないようだ。
そして息を切らせてるうちに力尽きて倒れた。
ふと、周りを見ると相沢を囲むように人だかりができている。
まあ、当然だろう。
どうするのかと思っていたら、相沢は少女を背負って逃げ出した。
一体どうするんだろう?
NEXT
SSTOPへ