2月下旬

 栞が好物のバニラアイスを食べている。
 体は相変わらずやつれている。
 だが、少しづつだが食欲も戻り、複数繋がれてた点滴の内の一つは外されていた。
 とはいえ、栞はまだまだ安静にしなくてはならず、TVは見られない。
 そのため好きなドラマも見られず、私がそれらのノベライズ版を持ちこまされていた。
 テーブルの上には開封されたあいつからの贈り物(案の定、スケッチブックとパステルだった)が置いてあった。
 だが、誰かをスケッチする事はない。
 モデル(またの名を犠牲者または餌食と言う)1号は、あいつだと決めているのだろう。
 他愛もない話をして、私たちは笑っていた。
 私たちは……どこから見ても姉妹だった。
 どこにでもいる、仲のいい普通の姉妹だった。
 それに、私は新たなる希望を見い出していた。
 ついさっき、秋子さんの意識が戻ったのだ。
 『奇跡』は起こるのだ。
 『起きないから、奇跡って言うんですよ』……とは、栞の悲しい口癖だったが、『奇跡』は起こるのだ。
 名雪は、秋子さんにしがみついて泣きじゃくり、秋子さんは名雪の頭を優しく撫でていた。
 そして、相沢君が苦笑しながら、名雪に代わって経緯を話してくれた。
 だが、相沢君がどうやって名雪を支えたのか訊くと、顔を赤くして口篭もった。
 名雪も同様だった。
 どうにか訊き出せた断片的な情報から推測すると、どうやら相沢君は、どさくさ紛れに名雪にプロポーズらしき言葉を口走ったらしい。

「あのチョーサクさんがそんなドラマみたいな事するなんて意外……」
「……だから、チョーサクじゃなくって祐一よ」
「そうなの? 普通の名前ね」
 栞とあいつの出会いは、相沢君と『あゆ』という女の子の奇妙な漫才がきっかけらしい。
「『ジュン』って名前で3人組だからって、何もレツゴー3匹にすることないじゃないの……」
「あはは……芸名だったんだ」

 ごぽ

「……え?」
「……あれ?」
 何の前触れもなく栞の口からクリーム色のどろりとした液体が流れ出した。
 栞は汚れたパジャマの胸元を呆然と見続ける。
 咳き込む事もなく、吐き出そうと体を折り曲げる事もなく、ただ液体が流れ出した。
 まるで液体自身が動いているようだった。

 ごぼ

 次に出てきた液体はピンク色だった。
「……も、もう……お、落ち着いて食べなさいよ、イチゴアイスは逃げないから……」
「……あ……あはは……」
 理性はこう告げている。
 栞はもう、子供じゃない。慌てて食べて吐き出すようなみっともない真似はしない。
 それに、私が差し入れたアイスは純粋なバニラだ。名雪の好物のイチゴ尽くしにする趣味はない……と。
 だが、なおも私の感情は逃亡を試みる。
「名雪、出てきなさいよ……あなたぐらいしか居ないわよ? こんな差し入れするの」
 だが、当然ながら物陰から名雪が照れながら出てくるわけがなかった。そして、栞の口と鼻からごぼごぼと黒ずんだ赤色の液体が流れ出し、私の意識は嫌でも現実に引き戻される。
 私の手は信じられない位に素早くナースコールを握っていた。
 震える手で、ひびが入る程にボタンを押し込む。
 もしかして、私は勘違いをしていたのではないだろうか?
 栞が激痛にのたうつ事はなくなった。
 だが、それは治りつつあるからではなく、鎮痛剤によるものだったのではないか?
 とっくの昔に投薬は止めて、治療を諦めて鎮痛剤で痛みを抑える、これまで通りの方針に切り替わっていたのではないか?

 シ オ リ ハ 、 タ ス カ ラ ナ イ

 どうしてよ? やっぱり奇跡は起きないの?
 名雪の元には奇跡が起きたのに!
 秋子さんは助かったのに!
 なんで! なんでよ!
 私が……栞に意地悪したから?
 いないって思い込む意地悪したから?
 その罰なの?
 だから私から栞を取り上げるの?
 あの世に連れて行くなら私を連れて行きなさいよ!
 私自身に罰を与えるのが筋ってもんでしょ!?
 何で栞なのよーーーーっ!

 いるかどうかもわからない神様に私はまくし立てていた。




もう一つの可能性


終章 『これから』

        作者 OLSON

        原作 Key
            清水マリコ






 病院の窓の下に立つ。
 空を見上げる。
 沢山の窓の内のどれか、その中に栞がいる。
 きっといる。
 だが、俺には何もできない。
 ここで待ち続けるしかない。
 雪が降り始めた。
 重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
 病院の門は消灯されている。
 高齢の守衛さんは、もう俺のことを黙認するようになっていた。
 時々、コーヒーを差し入れてくれる事がある。
 ありがたかったが、それにより、尿意を促されるので辞退する。
 『帰るか病院の中に入るか、とにかく屋根のある所へ行け』と、言うことなのだろうか。
 時間はもう、日付が変わる頃だ。
 それでも俺は、ここを離れられない。
 今日はまだ、美坂が出てきていないのだ。
 雪が俺の体に降り積もる。
 心なしか眠くなってきたような気がする。
 頑丈な俺でも、さすがに……無理が……あったか……な……?


「潤君っ」
 ……。
「潤君てば」
 ……?
「潤君、こんな所で寝ちゃ駄目だよっ」
「……ミナミハルオ、か?」
「うぐぅ……違うもん、あゆだもん」
「……久し振り……だな」
「うんっ、お久し振り」
 そう言って微笑むあゆ。
 ……どこだ? ここは。
 麦畑……?
 しかも、周りにいくつかの獣の目……狐?
「……何なんだ? あの狐の群れは?」
「分からない。ボクたちのお友達になりたいのかな?」
「……そうかもな」

 ちりん……。

 聞き覚えのある鈴の音。
 一番手前にいる一匹、こいつの首に、猫の首輪のように鈴がついていた。
 なぜか、こいつの事を知っているような気がした。
「……ところで、探し物、見つかったのか?」
「うん、見つかったよ」
 あゆは満面の笑みを浮かべて続ける。
「潤君が見つけてくれたんだよ」
「俺が……? ……じゃあ、あの人形か?」
「うん、ありがとう。本当に、本当に……ありがとう」
「……そうか」
「それともう一人、潤君にお礼言いたいって子がいるんだ」
「もう一人?」
「……」
 ウサ耳の少女……舞踏会の時のあの子?
「恐がらないでくれて嬉しかったって、それに、ケガの手当てもしてくれて嬉しかったって。あと、潤君の上着が暖かかった……」
 ウサ耳の少女は無表情のまま顔を真っ赤にして、あゆにチョップを入れた。
「わ、痛い痛い!」
 やっぱり、川澄先輩にそっくりだった。
 少女が落ち着いてから、あゆは告げた。
「あのね、潤君。ボクたち、これでさよならだと思う。潤君にも、祐一君にも、名雪さんにも、秋子さんにも、栞ちゃんにも会えなくなっちゃうと思う」
「会えなくなるって……なぜだ?」
「ボクたち、大事な人を助けるために沢山の力を使っちゃった。だから、力はもう、ほんの少ししか残ってないんだ」
 寂しげな顔でそういったが、
「でもね、栞ちゃんならもう大丈夫だから、もう一息だから……。ボクたちの残りの……ほんのわずかな力でも絶対に助かるから。だから、栞ちゃんの事信じて、待ってて」
力強くそう言った。
「それじゃあ……お前たちはどうなるんだ?」
「分からない……ボクたちが本来居るべき所……どこかは分からないけど、そこに行く……いや、戻るんだと思う」
「本当に、会えなくなるのか? それじゃ栞も悲しむぞ!」
「……仕方ないよ、こうするしかないから」
 悲壮な顔はまた笑顔になる。
「ボク、みんなのこと大好きだから……笑っていて欲しいんだ。いつまでも、元気に笑っていて欲しいんだ。だから……」
歩み寄ってきたウサ耳の少女が、あの時の栞にそうしたように俺に抱きついてきた。
「……さようなら」

 ちりん……。

 狐の群れが、少女と共に何処かへ去っていく。
 そして、周りが光に包まれた。
「……ばいばい、潤君」
 あゆが背負ったリュックの羽飾りが本物の翼となる。
「おい! 待てよ!」
 そして、空高く舞い上がっていった。
「待てって!」

「ま……」
 病院の前だった。
 いつの間にか眠っていたようだ。
 立ったままで。
 これでは、水瀬がよく寝るのを笑えないな……。
 それにしても、何とも都合のいい夢だな。
 ……あゆと、ウサ耳の少女が天使になって、誰かを救って、残りの力で栞を救う?
 まさか……な。
 でも、そんな夢にでもすがりたかった。
 ……俺は、無力だ。


 慌しく医師や看護婦が出入りする。
 何を言っているのか?
 音としては私の耳に入るのだが、言葉にならない。
 言葉に変換して理解するのを拒否して……逃避しているのかもしれない。
 ただ呆然と、ぐったりしている栞を見つめていた。
 その時、不意にあいつの姿を思い出した。
 今も窓の下で、祈り続けているあいつの姿を。
 呼ばなきゃ。
 あいつを呼ばなきゃ。
 最後に……逢わせてあげなきゃ。
 私は、苦しむ栞に背中を向けた。

 一歩、右足を出す。
 栞もあいつも、もう充分に頑張った

 一歩、左足を出す。
 自分の命を粗末にした事、神様だって許してくれるよ?

 一歩、右足を出す。
 ふたりとも立派だったよ!

 一歩、左足を出す。
 だからもう……いいよ。楽になろう?

 足に力を入れ、駆け出し……。

「駄目ぇっ!」

 私を止めたのは栞だった。
 起き上がっていた。
 汗びっしょりになっている。
 そして……瞳には力強い意思を感じた。
 目にはくまができ、頬はこけ、乾いた血の塊がついているが、それでも強い意思を感じるその顔は美しかった。
「お姉ちゃん……私……会いたいよ! 潤さんに会いたい。だけど……さよならを言うためなんかじゃない! ここにいるのは、一緒に生きるためだから!」
 声に力がなくなる。
「……だから……元気になってから……じゃないと……駄……目……」
 力尽きたように倒れる栞に跳び付き、体を支える。
 まだ、暖かい。
 心臓の力強い鼓動を感じる。生きようとする意思を感じる。
 そして、栞は力強く微笑んでいた。
 それなのに私は……また、逃げていた。
 ふたりのため、そう思い込んで、終わらせようとする事で、苦しむ栞の傍に居る事から逃げていた。
 でも、栞が求めているのは『よく頑張ったね』というねぎらいの言葉なんかじゃない。
 あいつと共に過ごす『これから』なのだ。
 まだ、栞は何も成し遂げていない。
 何も残せていない。
 それなのに、いなくなる訳にはいかないのだ。
 栞の決意を、女としての意地を、あいつに対する愛情を、私の安っぽい闘病物メロドラマなんかで台無しにしてはいけない。
「……お姉ちゃん」
 ゆっくりと、非常に重そうに手を伸ばしてきた。
「何? ……栞」
 たくさんのチューブが繋がれた手を優しく握る。
「……私、夢を見たの」
「どんな夢?」
「たくさんの狐さんと、ふたりの天使が、少しだけ力を分けてくれる夢」
「……少しだけ? けちねえ」
「……仕方ないよ、みんな……本当なら死んじゃう人を助けるために一生懸命だったから」
『栞は……どうなのよ?』
 私は思わずそう言いそうになった。
「……力は少ししか残ってないって言ってたの」
 残念そうに言ったがすぐ笑顔になる。
「でもね、私ならもう大丈夫だからって、あともう一息だから、これだけでも充分だよって言ってたの」
「……そう、そうなの……」
 正夢ならいい、そう願わずにはいられなかった。
「でも、やっぱりけちね、変なの」
「うん、天使のひとりは無愛想でうさぎの耳がついてた、もうひとりはリュックを背負っていて、よく転んで……居た……の……」
「……! 大丈夫!?」
「大丈夫、友達の女の子に似てた事に気付いただけ……」
「天使と狐の取り合わせ……栞が好きなドラマ……に、しても奇妙なシナリオね」
「ふふっ」
 少し笑って……。
 眠った。
 体力を回復させるために眠った。
 栞を抱き締める。
 今度こそ逃げない。
 今度こそ目を逸らさない。
 私は……あいつを恨む事になるだろうか。
 栞が、この決断をするきっかけを作ったあいつを。
 私は祈った。
 栞にこの決断をする勇気を与えたあいつに、感謝できる日が来る事を。
 栞が分の悪い賭けに勝つ事を。
 諦めていた『これから』を取り戻す事を。
 テーブルの上に置かれたプレゼントの隣に、一通の封筒がある。
 取り出された便箋には、少しくせのある字で短く、こう書かれていた。

『共に生きたい。だから頑張れ』




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