2月中旬
見舞いに行く。
バニラアイスを差し入れに持ち込む。
栞は、薬の副作用で食欲がなくなっていた。
だが、好物のアイスクリームなら食べられるかもしれない。
それをきっかけに食欲を取り戻してくれたら……。そう思っての事だ。
だが、それは床に転がっていた。
栞の手が、差し出したカップを払い落としていた。
「……いらない」
どんなに寒くても、あいつと一緒に中庭で食べていたほどの大好物。それなのに。
「何も……食べたくない」
布団のカバーを握る元々白かった手は、益々白くなっている。
新陳代謝がおかしくなったのか、爪にはいびつな節がいくつもできていた。
「無理して食べても何も味を感じない。胃が、何も受けつけない!」
「いつか、治る……」
「いつかっていつよ!」
凄い剣幕で言い放ち、私の言葉を遮った。
栞がこんな態度を見せるのは初めてだった。
「いつか! そのうち! きっと! その日はいつ来るのよ!」
私は拳を握った。血が出そうなくらいに爪が食い込む。
申し訳ないくらいに……綺麗な私の爪。
「来ないんでしょ! だから! だから……」
次の言葉は冷酷に私の心に突き刺さった。
「私のこと無視したんでしょ!」
……!!
「……もういいわよ、来なくていい! あの頃に戻ればいい!」
私も思わず声を荒げる。
「あいつに会いたくないの?」
釣り上がっていた栞の眉が下がる。
「……決まってるじゃない。会いたい……会いたいよ……」
だが、自分の体を掻き抱き、呟く。
「でも、こんな体じゃ……」
ぱん!
真っ白な栞の頬に、赤い手形ができていた。
栞の襟首を引っ掴み、鼻がぶつかりそうなくらいに顔を引き寄せる。
「あいつを信じられないの? そんなことで離れて行くような男なんかじゃないわ!」
だが、答えはない。
肌は、がさがさになっている。
枕には、抜け落ちた髪の毛が沢山ついていた。
痩せこけた体、落ち窪んだ目。
変わり果てた……私の妹。
病室に入った時、私は変わり果てた栞の姿に戦慄を覚えてしまった。
あんた……誰よ?
私……あんたの事なんか知らない
あんたが、私の妹の、栞な訳がない!
そう叫びそうになってしまった。
妹なのに。私の、たった一人の妹なのに。
だが、気休めでもなんでもなく、この姿を見たとしても、あいつが離れていくことはないだろう。
私は、あいつの事をよく知っている。
普段はふざけた言動も多いが、栞がどんな姿になったとしても、最後まで連れ添う誠実さを持っている事を、私は知っている。
そうでなければ、私だってあいつの事を……。
でも一人の女として、この姿を見せたくないのだろう。
それに……。
『駄目だった時に悲しませたくない』
栞はそう言っていた。
だから、ここでこうして頑張っていることを、あいつには知らせていない。
だが、それは無駄だった。
鞄から封筒を取り出す。
私は、隠し事が下手になっていた。
栞が連絡を絶っても、私が相変わらずここに足を運び続けている事で、あいつはあっさり感づいてしまった。
私なりの行動に気付きもしない鈍感な奴だと思っていたが、余計な所であいつの勘は鋭かった。
そして、全てを悟ってしまったようだ。
だから会わせろとは言わず、ただ強引に、私に、この封筒を握らせた。
そして、あいつは今も、この病室の窓の下で……窓からは死角になって見えない所で、体に雪を積もらせながら祈っている。
自己満足に過ぎない。そう自嘲しながらも、寒風に身をさらしながら祈り続けている。
封筒をテーブルに置いた。
テーブルの上には、誕生日にあいつが贈った二つの包みがある。
一方は恐らくスケッチブック。もう一方の箱も、何らかの画材だろう。
それらはまだ包装されたままだった。
床に落ちたカップを片付け、栞に背を向けて病室のドアを開ける。
「もう、来ないで……」
栞は布団を顔まで被って呟いていた。
『また、来るわ』
それでも、そう言ってあげたかった。
私にはそうする事しかできないのだから。
だが、私の喉は言うことを聞いてくれない。
無理して口を開けば、言葉は嗚咽に変わるだろう。
私が泣くわけにはいかなかった。
栞の方が比べようもないほどに辛いのだ。
これまでどんなに辛くても私に笑顔を見せていた栞が、私に当り散らしてしまうほどに苦しいのだ。
もう一つの可能性
三章 『夢の日々』
作者 OLSON
原作 Key
清水マリコ
1月 21日 木曜日
「おはようございますっ」
どんっ! と体当たりするように誰かが俺の背中にくっついていた。
首を動かして、視線を後ろに向ける。
真冬の学校。
所々に残る雪。
雪解けの水で湿った赤煉瓦の上に、ひとりの少女が立っていた。
「えーっと……すみません、嬉しくて体当たりしてしまいました」
よく知った少女が、始めて見る姿で、申し訳なさそうに頭を下げていた。
俺は、とっさに言葉を返すことができなかった。
ただ脳裏をよぎったのは、公園での言葉。
『私の事を、普通の女の子として扱ってください』
「……遂に制服で来たか」
「はいっ」
丁寧に両手を前で揃えて、綺麗な鞄を大切そうに抱えていた。
「今日から一生懸命お勉強です。がんばりますっ」
ガッツポーズを取るように鞄を抱き締めた。
「……そうか」
「ところで、何で潤さんは私服なんですか?」
「制服も鞄も、その中に入っていたジャージも、更衣室の中だからな」
他にも、同様の理由で私服登校の生徒が見受けられる。
「そうですか……。あ、あの、お昼、ご一緒しませんか?」
「いいな。それ」
「それなら、昼休みには潤さんのクラスに……」
表情が暗くなる。
「あ……やっぱり、学食で待ち合わせしましょう」
「……そうだな」
教室には、会いたくても、会うと辛くなる人がいる。
「待ってますよっ。遅れたら嫌ですよっ」
「ああ」
大きく手を振りながらパタパタと駆けていく。
今の栞はどう見えるだろう?
どこにでもいる、ごく普通の女学生に見えるだろうか?
「……俺も行くか」
「出題範囲は今配った通りなので、各自勉強しておくように」
突然の総合テストだった。
栞のために、時間が欲しいのに。
昼休み……。
「……」
栞は学食入の前にある壁によりかかり、人の流れを遠巻きに見つめていた。
「おーい」
「あ、潤さん」
「こんなところで待ってなくても、先に座ってたらよかったのに」
「緊張してしまって。初めてなんです。学食に来るの」
脳裏に栞たちから聞いた言葉が蘇る。
『始業式の日に倒れた……それっきりだった』
何がいい?
潤さんと同じがいいです
俺はカレーにするけど?
それでは、私もそれでお願いします
実は辛いの駄目なんです
だったらアイス食べろ
変なふたりだった
だが、周りがどう思おうと今の俺たちは恋人同士だ。
だけどアイスばかりって訳にもいかないだろ?
それなら、明日はお弁当を作ってきます
ちゃんと潤さんの分も作りますからね
無理するなよ
私は、大丈夫ですよ
ころころと表情を変える栞。
たくさんの栞の表情を見てきた。
無邪気に笑い、悲しそうに俯き、怒って、拗ねて。
でも……。
泣き顔だけは見たことがなかった
教室に戻る途中で、中庭に立つ。
特に用事はない。
強いて言えば、ここではなく校舎の中で、栞と待ち合わせできる喜びを噛み締めるためだろうか?
と、話し声が聞こえた。
相沢と、栞のクラスメイトがいた。
何やら深刻な話をしているらしい。
立ち聞きしてはいけないと思い、早々に立ち去る。
去り際……。
「それを覚悟しておいてください」
「どういうことなんだよ、それって……」
「これ以上、私を巻き込まないでください」
という会話が聞こえた。
別れ話なのだろうか?
6時間目は体育だった。
ジャージを持って廊下を走っていると……。
「潤さん」
「……」
栞と、中庭で相沢と話していたクラスメイトだった。中庭の件は訊かない方がいいな。冗談で誤魔化そう。
「おう、栞、それと美化委員の……」
「違います」
「……風紀委員?」
「違います」
「えっと……」
「……あの、潤さん?」
栞は、ボケをかます俺と呆れ顔のクラスメイトを怪訝な顔で見ていた。
「なんだか委員会を薦められた気がして、このたび図書委員になりました」
半分冗談だったのだが、まさか現実になるとはな。
「……おめでとう」
「前に先輩が言った通りでしたね。美坂さんが、また学校に来られるようになって良かったです」
「ん……」
でも、それは……
「どうしました? 潤さん」
栞が首を傾げる。
「……何でもない」
「ホントですか?」
「本当だ、ほら、チャイム鳴るぞ」
栞の背中を軽く押した。
ふたりは、楽しそうに話しながら歩いて行った。
栞からは、これが今だけ……という悲壮感はまるで感じられない。
俺も、しっかりしなくちゃな。
そのとき視線を感じた。
美坂が遠くから俺たちを見ていた。
だが、そのまま立ち去っていった。
昼飯の後、栞にこう切り出していた。
なぁ、明日は学校サボらないか?
どうしたんですか? 急に……
学校サボって、朝からずっと一緒にいよう
……
時間があれば、いろんな場所に行けるし
……潤さん
そんなことを言うと、まるで……
もうすぐ会えなくなるみたいじゃないですか……
栞はそう言って笑った。
毎日、放課後、一緒に遊びましょう
……そうだな
約束ですよ。放課後の校門で待ってますから
最後の言葉。
俺は栞の顔を見ていない。
だから、その言葉を紡いだ時の栞の表情を、俺は知らない。
そして、俺は校門で待っている。
と、見知った人影。
川澄先輩と相沢が話している。
『……もうこの学校の生徒じゃないから』
そんな言葉が聞こえた。
遂に退学になってしまったらしい。
6時間目の体育は急遽雪中マラソンに変更されていた。
復旧に思いの他手間取っているらしく、体育館は今だに使用不能だったのだ。
あれだけの問題を起こせば……。
全て彼女が起こした……と、見なされれば当然の事なのだろう。
深刻そうな話が続く。
立ち聞きはいけないと思い、場所を変えようとしたら……。
「潤さんっ!」
「うおっ!」
突然タックルを食らい、倒れた。
「えーっと……すみません、嬉しくて体当たりしてしまいました」
「……何がだ」
「待っててくれた事です」
「……約束……だからな」
「はいっ!」
真っ赤に染まった商店街を歩く。
栞と手を繋ぎ、ウインドウショッピングをする。
栞への、誕生日プレゼント。
何かいい物が見つかるといいのだが。
最初で、最後のプレゼントなのだ。
最初で、最後……。
くそ、考えるな。
「……どうしました?」
「いや、何でもない」
さて、何を買おう?
遠回しに探りを入れる。
仮に、宝くじで1億円当たったらどうする?
びっくりします
……そして?
夢じゃないかどうか確かめると思います
……そして?
たぶん貯金します
……遠回し過ぎたようだ
まあいい、時間はまだあるんだ……
まだ……
「あ、あのぬいぐるみ可愛いと思いません?」
そう言って、骨董品やら、おもちゃやらでごちゃ混ぜのよく分からない店を指差した。
ぬいぐるみか、プレゼントにいいかもな。
……!?
でかい。1、5メートルはある。
だが、何のぬいぐるみだ!?
大きな爪、口……らしき所から垂れ下がるミミズ……舌なのか?
デフォルメし過ぎで、原型がさっぱり分からない。
しかも、値札には50万円という金額が赤線で消され、8000円と書かれていた。
栞は、この怪し過ぎる呪いのぬいぐるみがお気に召したらしい。
そう、呪いがかかっているとしか思えない。
栞の美的センスは、通常の少女のソレを大幅に逸脱しているようだ。あの絵の腕前も頷ける。
「栞ちゃんっ!」
「きゃうっ」
失礼極まりない思考は、挨拶と悲鳴で中断した。
その方向を見ると、あゆが栞にタックルして、転倒していた。
お互いに驚き、謝罪し、和解して立ち上がる。
タックル……あゆにタックルされる相沢を羨ましく思ったが、俺も栞にタックルされるようになったんだな。
「久し振りだな」
「うんっ、またふたりで……」
あゆはかすかに赤面する。
「その……デート?」
「……はい」
「……ああ」
改めて言われると照れるな。
「それで、あゆは何をしてるんだ?」
「ボクは探し物だよ」
「……まだ探してるのか?」
「うん。もう少しで見つかるような気がするんだよ」
今回は表情が沈まない。本当に見つかりそうな予感がするのだろう。
「そっか……見つかるといいな」
「うんっ」
「事情はよく分からないですけど、がんばってくださいね」
「ありがとう、栞ちゃん。ボク、がんばるよ」
手を振って、そして走っていく。
その姿をじっと見送る栞。
結局、プレゼントも決まらないまま、1日が終わる。
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