1月 20日 水曜日
朝、ダイニングに向かう。
「……おはよう」
「おはようさん……」
もう出勤するのか、お袋はスーツ姿でパンを齧っていた。
親父は既に出勤したようだ。
「……潤?」
お袋が怪訝な顔をした。
「どないしてん? 体調悪いんか?」
「いつも通りだよ」
「……うちはあんたの母親やで、一目見たら分かる」
済ました顔で言う。
「無理せんと、学校休んでもええんやで?」
微熱程度なら『甘えんなボケぇ!』と言って、強引に学校に送り出すお袋がこう言うのだ。
俺の顔はそうとう酷い物になっているらしい。
だが……。
栞に思い出を作ってやりたい。
栞に残された時間を彩ってやりたい。
「……さよか」
お袋は俺の顔を見て、何かを決意していることを悟ったのだろうか。
「ま、頑張りぃ」
そう言って俺を送り出したのだった。
今日は余裕を持って登校する。
一張羅にしわが寄っては台無しだ。
校門に差し掛かったときバタバタと走ってきたのは相沢と水瀬のふたりだった。
この頃、相沢の顔を見るとイライラする。
「どうした、神妙な顔して?」
「……しまった、走らないと遅刻か!」
そういって駆け出す。
「ちょっと待て、どういう意味だっ」
「まだ5分あるよ、北川君」
「えっ?」
水瀬の言葉に驚いたフリをして、わざとらしく自分の腕時計を見る。
「あ……本当だ。てっきり遅刻ぎりぎりかと思った」
俺に思いつく皮肉はこの程度だった。
「しかし、今日は早いな」
全く、珍しい事もあるものだ。
「俺たちだって、たまには……って、何だその袋は?」
「袋って、これのことか? 決まってるだろ?」
今日は舞踏会だって事ぐらい知らない訳ないだろう?
「ゴミ袋か?」
「そんなわけあるかっ」
殺意が芽生えた。
これは……これは……!
「ごめん、わたしもゴミ袋だと思った……」
水瀬が心底すまなさそうな顔で呟く。
皮肉でも何でもなく、そう見えるのか?
「それで、中身は何なんだ?」
「タキシードに決まってるだろ」
大切なタキシードだ。
姉と学校の思い出を共有する。
そんなささやかな夢すら叶わなかった栞。
その夢を叶えてやりたい。
それが駄目なら、せめて、その代わりとなる思い出を与えてやりたい。
そのための、大切なタキシードなのだ。
相沢が何も言わず背中を向けた。
「無言で去って行くなっ!」
「まさか……出るのか? 舞踏会……?」
相沢は恐る恐る訊いてきた。
「当たり前だ」
俺にはそれくらいしかできない。
「それこそ似合わないからやめとけ」
「そんなことないぞ!」
理性は再三、警告を発している。
『こいつは何も知らない』
あの時出会った少女が何を背負っているのかを、こいつは何も知らない。
「ごめん、わたしも似合わないと思った……」
「……」
……似合う似合わないじゃないよな。
「あ……。あと2分だよ」
「しまった。ゆっくりしすぎたな」
「急いだ方がいいよ」
「よし、走るぞ」
「荷物が重い……」
相沢の相手は疲れる。
「捨てろ」
「そうはいくか」
去年仕立てた物だ。当時は予算にまだ余裕がなく、安物だった。
あの時は、このタキシードがこんなにも重い使命を担うとは思ってもいなかった。
「あと1分」
「急げ北川」
「分かってるっ」
ああ、分かってるさ。
お前は何も分かってないって事ぐらいはな!
案の定、廊下の一角に納豆の芳しい香りがした。
一応、掃除はしたのだろうが、廊下の隅や天井等に納豆とご飯粒が残っていた。
完全に取れなかったネバネバに、埃がうっすらとこびりついている。
そして天井には……何かが刺さったような穴が空いていた。
「間に合ったね」
水瀬がのんびりとした口調で言う。
チャイムは廊下で鳴ってしまったが、幸い担任の姿はなかった。
「今日はいつにも増して賑やかね……」
美坂が呆れ顔で呟く。
「今日はこいつのせいだ」
「オレかっ!」
落ち着け、落ち着け、こいつなりの冗談だ。
何も知らないだけなんだ。
「それでも、いつも間に合うから不思議よね」
美坂はそう言って着席する。
俺も自分の机に向かおうとして、足が大きな鞄に引っかかった。
このクラスにも舞踏会に参加する者が数名おり、その盛装のようだ。
そして……。
美坂の机を見るが、大きな鞄はなかった。
授業中……。
相沢は心ここにあらずといった様子だった。
相沢も舞踏会に参加するのだろうか?
場合によってはそこで浮気が発覚し、修羅場を迎えるだろう。
まあ、自業自得だ。
俺と栞に迷惑をかけなければ、別にどうでもよい。
昼休み。
「ふわ〜」
水瀬が眠そうな顔で筆箱にシャーペンをしまっている。
その後ろでは、美坂がぼんやりと外を眺めていた。
「ふたりともぼーっとしてるな……」
「あたしはぼーっとなんかしてないわよ」
「わたしもそうだよ」
相沢の声に、美坂は窓を見たまま、水瀬は相沢の方を向いて、それぞれ反論する。
「ちょっと早起きしたから眠たかっただけだよ」
「早起きって……2分ほど早かっただけじゃないか」
「その2分が貴重なんだよ」
平和なやり取りをする相沢と水瀬。お気楽な人生送ってるな。
「香里は? お昼どうするの?」
「あたしはいいわ……食欲ないから……」
「ダイエットか?」
「……そうね」
どうでもいいというように、相沢に気のない返事をする。そんな美坂を水瀬が不安げに見ていた。
「北川君はどうするの……?」
「オレは行くところがあるから」
「……そう」
美坂は力なく返事する。
「北川君は、あの女の子と食べるんだよね」
「……なんで知ってるんだ、水瀬」
「なんでって、当たり前だろ。ここから中庭見りゃ誰でも分かる」
相沢が呆れたように言う。
……それもそうか。
「わたしたち、北川君のこと応援してたよ」
あの水瀬がこんな事に考えを回すとは意外だった。
「それじゃ、わたし行ってくるね」
財布を持って、そそくさと立ち上がる。
「じゃ、俺はパン買って行くか」
水瀬と一緒に、相沢も教室から出ていく。
また先輩とご一緒するようだ。
水瀬は教室から出るとき、一度振り返り、美坂を心配そうに見ていた。
結果的に、俺と美坂だけ取り残される形になった。
視線を合わせることもなく、同じ窓の外だけを見ている。
「……じゃあ、オレも行ってくるから」
「お昼は中庭で食べるのね?」
「……ああ」
「確かに休み時間にお弁当を広げるには最高の場所……。雪のない季節の話だけど」
「そう言えば、美坂の弁当にボールを蹴り込んじまった事があったな」
「それからしばらく学食奢らせたわね……」
「またそんな事になるのかな」
「あたしがその時この学校に居たら……ね」
「転校でもするのか?」
「……そうね」
曖昧に首を動かす。
「この街は、悲しいことが多かったから……」
「……」
「暖かくなったら、あの場所で一緒にお弁当を食べるって約束したこと。そして、そんな些細な約束をあの子が楽しみにしていたこと……」
まるで独り言のように、最後の台詞を囁く。
「全部、悲しい思い出」
「だったら……いい思い出を作ればいいだろ。今日だって……な?」
「……」
「じゃあ、オレ行くから」
「……」
去り際に見えた美坂の横顔は悲痛なものだった。
中庭に出る。
「……忘れてた」
手にはひんやりとしたアイスクリームがふたつ。しかし、それを食べるべき雪女はいない。
昨日……栞に、昼は学校に来るな。と、釘を刺しておいた。
舞踏会の開場は5時、それまで体力を温存しておいた方がいいと思ったのだ。
意を決してアイスの蓋を取る。
お袋のしつけが厳しかったため、食べ物を粗末にすることは本能的にできなかった。
栞がいないから腹痛になっても保健室に行くしかないだろう。
もしかしたら、それがきっかけで真冬にアイスを置いてある学食が問題視されて、営業中止になるかもしれない。
社会やアニメ、ゲーム等、行動を選択した本人が接触していた物に何かとヒステリックに責任転嫁する風潮では、充分に考えられる事態だ。
などと、とりとめのない事を考えて自分が雪女ではない事を忘れようとしていたら……。
「私にあの子の友達になれと言うのですか」
強張った、聞き覚えのある声。
決して大きくはないが凛と響く、ややハスキーな声。
栞のクラスメイトだった。
相沢と話をしている。
「……そんな酷なことはないでしょう」
相沢は先輩とメシ食いに行ったんじゃなかったのか?
あの子はとても辛そうな表情だった。喧嘩か?
……覗き見しちゃいかんな。
アイスを一気に腹の中に流し込み、その場を立ち去る。
頭痛がするし、腹が悲鳴を上げるが堪える。
「私はあの子とは友達になりません」
後ろからあの子の声が聞こえていた。
俺は新たなる疑問にぶつかった。
栞のクラスメイトの言葉。
『私にあの子の友達になれと言うのですか』
『……そんな酷なことはないでしょう』
『私はあの子とは友達になりません』
彼女の言葉が引っかかっていた。
彼女は、決して人との繋がりは拒んでいないはずだ。
これまでずっと、一度話したきりの栞のことを気にかけていたのだから。
それではなぜ、相沢の紹介をあんなにも拒むのだろう?
そして彼女の言う『あの子』とは誰なのか?
友達になることをなぜ拒むのだろう?
……友達?
この前、相沢は真琴を栞に向けて突き飛ばして、友達を作らせようとしていた。
『あの子』とは真琴のことなのだろうか?
真琴は……いい子だと思うが、なぜ拒むのだろう?
謎は深まるばかりだった。
5時間目、チャイムが鳴り響くが授業は長引いていた。
栞と早く会いたい。栞の傍に居たい。
そう思い、落ち着かなかった。
ようやく教師は引っ込む。
それと共に相沢は立ち上がって駆け出した。
相沢は相沢で放課後には思うことがあるらしい。
だが。
「相沢、教室の掃除だろ。どこにいくんだ?」
誰と、どう付き合おうがお前の勝手だ。だが、やるべき事はちゃんとやれ。
「……トイレだよっ」
「鞄持ってか?」
「鞄抱いてする癖があるんだよっ」
「そりゃ、気持ち悪い癖だな」
モップを差し出す。
「ほら」
牛丼やら納豆やら匂いの強い食い物を拭きまくり、ろくに洗っていなかったため熟成し切った濃厚な芳香を放っていた。
「わぁったよっ」
しぶしぶと掃除を始めた。
「うむうむ、よろしい」
この匂いで少しは自分のしている事に自覚を持て。
相沢は少しでも早くしようとして水瀬と衝突した。
全く、何やってんだか。
「すみませ―ん、モップは他にありますかーっ?」
天真爛漫な声に振り向くと……倉田先輩だった。
「あははーっ。みんなでやれば早く終わりますよ―っ」
彼女はそう言って有無を言わさず俺が持っていたモップを奪い取り、相沢の方に向かった。
俺は呆然としていたが、教壇の方から聞こえた小さな悲鳴で我に帰る。
小柄な女子がモップを取り落として腰を抜かしていた。
目線を追うと……ムカデ? 何で真冬に?
と、思ったら……。
ばしっ!
「……もう大丈夫」
川澄先輩がホウキでムカデをかっ飛ばした後、腰を抜かした女生徒の頭を撫でていた。
「はわわっ……」
女生徒は初め強張っていたが、やがて恍惚とした表情を浮かべ、撫でるに任せていた。
川澄先輩は……変だけどいい人なんだろうか?
あくまでも噂は噂で、川澄先輩も、それに付き合う相沢も、いい奴なんだろうか?
女にだらしないように見えるが、相沢なりの事情があるんだろうか?
相沢はふたりの先輩を連れて逃げて行った。
数名の女子が、川澄先輩を見送っている。
何やらうっとりとした、怪しげな目だった……。
栞との待ち合わせはいつものように中庭だった。
「あ、潤さん!」
「おう!」
「楽しみです」
「それは良かった。しかし……」
「何ですか?」
栞は大きな鞄を重そうに持っていた。
「急な提案なのに、よくドレスの用意できたな」
バイトは、バイクを買うために始めたので貯金はそれなりにある。
だから、少し早めの誕生日プレゼントとしてドレスを贈ろうかと提案したのだが、辞退された。
「似合わないとか言いながら、ドレス持ってたんじゃないか」
「……お姉ちゃんに」
表情に陰りが入る。
「去年、お姉ちゃんに舞踏会の事聞いて、いっしょに参加しようと思って、入学した時に作ったんです」
「……そうか」
「さあ、行きましょう!」
気をとりなすように笑顔で言った。
栞の鞄も持ちながら、会場となる体育館に向かう。
「でも、先生に見つかったらと思うと不安です」
「見つかったっていいだろ。昨日も言ったろ? 生徒が学校に来るのは当然のことだ。それを咎める教師こそ問題だって」
「……そうですね」
「堂々としてろ」
「ここまで堂々とされても困ります……」
いつの間にか女子更衣室の前だった。
「栞のドレス姿……楽しみにしてるぞ」
「はい」
着替える時に気付いたが、盛装は教室に持ち込まず、事前に更衣室に預けておく者の方が多数だった。
もしかしたら美坂も?
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