凄いな……。
会場となる体育館に入り、俺は呆然としていた。
去年、準備していた時につくづくそう思ったのだが、参加してみると、また別の趣がある。
昼休みにバスケで遊んでいた時の熱気が嘘のようだ。
去年はテーブルやカーペットをえっちらおっちら運んだ記憶がある。
あの時は、水瀬を告白の後で舞踏会に誘おうとして、あっさりと玉砕したために余計に重く感じていた。
「どうしたんですか?」
何を考えている。栞がすぐそこにいるのに別の女の子のことを考えるなんて。
栞の時間は2週間もないのに。
「やっぱり似合ってませんよね……」
涼しげなマリンブルーを基調にしたドレスは、栞の栗色の髪によく映えていた。
首のチョーカーは簡素なデザインだったが、全体をよく引き締めていた。
「嫌……ですか?」
目を合わせようとしないため、避けられていると思ったらしい。
「そんなことはない。ただ……その……」
「ただ……?」
「胸……が……」
「あ……」
栞が赤面する。
目の毒だった。
身長やら胸やらを散々気にしていたくせに、凄く似合っている。
それどころか、胸は……その、思ったより……。
胸を大胆に開いて強調されたデザインは男にとって暴力的ですらあった。
目を向けると、視線は嫌でも谷間に向かう。男の悲しい性である。
お互いに顔を真っ赤にして一方は俯き、もう一方は上を向いていた。
「ドレス作る時、お姉ちゃんがこれで男どもを悩殺しろって言って、強引にこのデザインで押し切ってしまって……」
……美坂よ。
「お姉ちゃんが……」
姉のことを口にするとたちまち落ち込んでしまう。
「踊ろうぜ」
「……え?」
栞の手を取り、強引に中央へ向かう。
回りを見回すが美坂の姿はなかった。
……仕方ない。
悲しいことは忘れて、楽しい思い出を作ろう。
栞の両手を取り……何を踊るんだ?
ダンスと言ってもモンキーダンスぐらいしか知らない。どうしたものか?
と、考えていたら何やら軽蔑するような視線を感じた。俺たちか?
俺のタキシードはこの場にそぐわないほどの安物だったのか?
と、思ったが、視線は俺たちの向こう……。
相沢と川澄先輩だった。
やはり相沢も参加してたのか。
授業中のそわそわした態度も頷ける。
しかし何故、軽蔑するような視線を……?
……モンキーダンス!?
ふたりは掴んだ両腕を交互にぶんぶんと振っていた。
やはり格式ある場ではふさわしくないか。
危ない所だった。栞に恥を掻かせずに済んだようだ。
しかし、俺と相沢は似ているのかもしれない。そう思うと気が重くなった。
周りには、誰も踊っている人はいなかった。
どうやら、しばらくは色々な人と会話して会場内を回るらしい。
俺たちは案の定、参加していたクラスの連中に冷やかされて、そのつど栞の顔は赤くなっていた。
相沢は……川澄先輩と倉田先輩につきっきりのようだったが。
「おや、君は……」
野太い声に振り向くと、古めかしい燕尾服に身を包んだ……。
……物理の長瀬先生!?
普段はネクタイをきちんと締めない、だらしない格好の長瀬先生が、こうも変わるとは!
まるで金持ちに仕える執事のようだった。
何かの冗談なのか髪を染め、ご丁寧に付け髭までしている。
それに、改めて見てみると凄い身長だ。
教室に入る時、頭を敷居にぶつけないように首をすくめていた記憶がある。
彼は栞を怪訝な目で見ていた。栞が危惧していたように、部外者として見咎められるのだろうか?
「美坂……栞君だったね」
長瀬先生は合点がいった表情でそう言った。
栞のクラス担任なのだろうか?
「……はい」
「よく来たね。楽しんでいきなさい」
彼も慣れない格好の上に意中の女性を誘おうとして緊張しているためか顔は妙に強張っていたが、目は柔和だった。
「……はいっ!」
栞は満面の笑顔だった。
良かった。栞を連れてきて本当に良かった。
余談だが、後日、長瀬先生は『セバスチャン』という愛称で呼ばれる事になる。
音楽が変わって、弦楽器の音色が流れ始めた。
「それでは……」
軽く咳払いする。
「姫、お手を拝借致します」
そう言って、妙に格式ばった仕草で、改めて栞の手を取った。
「恥かしいです〜」
「わたくしめで宜しければ……ぷっ!」
「くくく……変です〜」
「駄目だ……オレはそんなキャラクターじゃないな」
「自然体でいきましょう」
「おう」
回りの見よう見真似でステップを踏む。
「え……と、こうか?」
「そうですね……きゃ!」
足が引っかかりバランスが崩れる。
だが、お互いにたたらを踏んで持ちこたえた。
「……悪い」
「あはは……ゆっくりやりましょう」
その後も、大外刈り、大内刈り、膝車などの足技を繰り出してしまったが、栞はその都度持ちこたえた。
「柔道部入れ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
そう言って拗ねるが「でも、嬉しいです……こういうの憧れてましたから……」と、すぐに笑顔に戻った。
「ドラマじゃあるまいし」
「はい……王子様にしてはちょっとアレですけど」
「……ひでぇ」
こういう時に『うぐぅ』と言うのか。
それからしばらく、周りの見よう見まねでのステップを続ける。
……。
栞の表情が優れない。
栞の鞄を持った時に気付いたが、ドレスは意外に重量があった。
ゆっくりとしたステップでも、意外と体力を消耗するのかも知れない。
まして、今の栞は……。
「少し休憩す……」
誰かにぶつかった。
「きゃ!」
ふたりとも疲労が足に溜まっていたようだ。
大幅にバランスが崩れた。
栞が右側に倒れこむ。
咄嗟に右足を大きく踏み出し、右手を離して栞の腰を支える。
栞の左手は俺の首にかかり、互いにがしっと支え合う。
ふう……どうにか持ちこたえた。
「あの、潤さん……」
「……?」
「……恥かしいです」
……! この体勢は……!
「今の私たちって、ドラマでよくありそうなシチュエーションですよね?」
「……お約束すぎ」
「でも、そういうお約束は嫌いではないです」
「……オレもだ」
「潤さん……」
「……栞」
お互いに腕に力を込め、顔が近づいてきて……。
目を閉じ、唇が触れ合う寸前……。
カシャン!
グラスが割れる音が響き、お互いにビクッ! と硬直する。
「あ、あはは……」
「キス寸前に茶々が入るのも、お約束か……」
ばつが悪そうに体勢を直し、体を離す。
気まずい沈黙。
考えてみれば、普通は人前でキスなんて大胆な事などできない。
まして、これはファーストキスだ。
その場のノリとは恐ろしい物である。
ガシャアアアアアーーーーーンッ!!
「今度は何だ!?」
周りを見回すと、2階の窓ガラスが粉々に割れ、破片が降り注いでいた。
幸い、その辺りは音響装置だけで無人だった。
ガガッ!
大きなノイズと共に音楽が止まる。
落下した破片が音響装置のケーブルを切断したか、装置その物を破壊したようだ。
栞の表情に怯えが走る。
場内は騒然として、あちこちから悲鳴が上がった。
今度は何かがぶつかるような鈍い音。
女性が突き飛ばされるように倒れた。
淡いブルーのドレス。
相沢と一緒にいた……倉田先輩!?
「な、な、何ですか? これって……?」
「分からない、とにかくここを出よう!」
栞の手を握る。
「舞、やめておけ!」
相沢の声だった。
倉田先輩を抱きかかえている相沢の目線を追うと……。
銀色の輝き。
一振りの剣。
それを握り締めた川澄先輩だった。
場内の騒ぎは更に大きくなる。
噂は本当だったのか!?
非常口に駆け込む生徒たち。
剣を振り回す川澄先輩。
両断されるテーブル。
落下するシャンデリア。
食器と共に台無しになる料理。
「そこのふたり、ぼやぼやしてるんじゃない!」
栞に声をかけていた長瀬先生だった。
怪我人らしい純白のドレスを着た少女を背負って、非常口に走って行く。
非常口には人ごみができていた。
「行くぞ! 栞!」
俺たちも駆け出した。……だが。
ドカッ!
栞は俺の前に転がった。
誰かがぶつかったらしい。
いくらパニックを起こしていたからといって、栞を突き飛ばすなんて!
栞を起こした後、そいつをぶん殴ってやるつもりで振り向いたが、周りには他に誰もいなかった。
だが、何かにつまづいたにしては不自然な転び方だった。
その時、大きな衝撃と共に視界が暗転した。
「潤さんっ! 潤さんっ!」
視界が元に戻ると、不安そうに俺の顔を覗き込む少女……栞だった。
俺は倒れたテーブルにもたれかかっていた。
テーブルの近くまで吹っ飛ばされたらしい。
「……栞……大丈夫か?」
「それはこっちのセリフですっ!」
「……それだけ元気なら……大丈夫だな」
差し出された栞の手を右手で掴み、立ち上がる。
「痛っ!」
左手の甲がざっくりと切れていた。
ガラスの破片か何かが当たっていたらしい。
しかも、指先に妙な痺れを感じる。
もしかしたら、神経がやばい事になってるのかもしれない。
だが、栞を安心させるためにやせ我慢する。
場内は相変わらず騒然としていた。
非常口の人ごみは相変わらずだ。
どうやら気を失っていたのは一瞬らしい。
川澄先輩は暴れ続け、あらゆる物を破壊して……!?
変だ。先輩とは離れた所でも、誰もいないのにガラスが割れたり、物が壊れたりしている。
そもそも、栞と俺を突き飛ばしたのは誰だ?
それに、先輩の剣の振り方が変だ。
振り下ろした剣が、意味もなく空間に静止している。
寸止め? 一体何のために?
いや、おかしい。
剣のあの勢いを考えれば、何もない空間にピタリと静止させる事などできるはずがない。
そこに、『目に見えない何か』がない限り。
「こっちだ! 立ち止まるな!」
非常口では、邪魔になりそうな物をどけながら他の生徒の避難を誘導し、他のスタッフに冷静に指示を出している男がいる。
生徒会の久瀬だった。
そして、非常口の人ごみは見る見るうちに小さくなっていく。
「栞、行こう!」
改めて栞の手を取る。
「はい……あれ?」
栞の目線を追うと、テーブルの影に女の子が倒れていた。
「大丈夫かっ!」
「ん……う……」
「……くそ」
気を失っているようなので抱きかかえる。
予想外に軽かった。
無理もない、この子の身長は低かった。どう見ても小学2、3年だろう。
参加者の妹だろうか? 生徒の家族やOBも参加する事があるらしい。
それにしても地味な格好だ。黄色のワンピースは髪の長い少女によく似合っていたのだが、舞踏会には場違いだ。
それ以前に、これは夏物である。
「……可愛いうさぎさんですね」
少女はウサギの耳のカチューシャを着けていた。
「とにかくここを出よう」
「……そうですね」
俺たちは行列の最後尾だった。
体育館を出る時に久瀬とすれ違う。
「問題だぞ、これは! ただで済むと思うなっ!!」
川澄先輩を指差し、怒鳴っていた。
無理もない。テーブルやカーペット、各種の機材や料理、これらは一級品であり、調達は並大抵の苦労ではなかっただろう。
それらを台無しにされて怒らない方がどうかしている。
「どうしましょう?」
参加者は中庭に避難していた。
「とりあえず、この子の父兄を探すか」
どう考えても、ここの生徒ではないだろう。
「……と、その前に」
少女を栞に預け、タキシードの上着を脱いで少女の細い肩にかけてやった。
「……見つからない」
「そうですね……」
色々話しかけてみたが、結果はこの通りだった。
俺たちの他に、誰かを探している者はいなかった。
「寒いです……。それに」
今頃になって気付いたが、この少女は至る所に怪我をしていた。
「手当てしないといけませんね……」
俺は周りを見まわし、校舎に入る鉄扉を見つけた。
「よっ……と」
机をどけて、少女を横たえる。
「すぅ……すぅ……」
少女の怪我はさほど酷い物ではないらしく、穏やかな寝息を立てている。
よく見ると、この少女は川澄先輩に似ていた。妹なのかもしれない。
この子を探すべき父兄は彼女なのだろう。
だが、彼女は今、職員室で教師や生徒会の連中に囲まれ糾弾を受けているるはずだ。
しばらく時間を潰してから会わせた方がいいだろう。
「さて……と」
栞を見ると、包帯、消毒薬、湿布、絆創膏……。
「どこから出した?」
「ポケットですけど?」
着脱可能? それともスペア?
……もう、深くは考えまい。
まさかとは思っていたが、栞がこれらの医薬品を持っていると思ったからこそ大混雑の保健室は避けて適当な教室に入り込んだのだ。
とりあえず、少女の左手の切り傷の消毒を始めると……。
「く……う」
「お、気がついたか?」
「……」
「ちょっとしみるけど我慢してね?」
「……」
少女はこく、と頷いた。
変化に乏しい表情と無口さは、川澄先輩そっくりだった。
やはり妹に違いない。
栞と俺の手当てを、少女は大人しく受けていた。
「これで……終わり……と」
少女の額に絆創膏を貼り終えた。
「泣かないでよく頑張ったな」
少女の頭を撫でてやると、無表情のまま赤面して一歩下がる。
「あらあら」
「ちぇ、嫌われちゃったな」
「……あたしの事……恐くないの?」
少女は初めて喋った。
「恐いって……あなたが?」
栞の問いに、少女は再び、こく、と頷いた。
「どこにでもいる普通の女の子じゃないか」
「そうですね、普通……と、いうより可愛い女の子ですけど」
再び少女は顔を赤くする。
「……ありがと」
そう言って栞に抱きついた。
……羨ましい。
「さて、と」
立ち上がる。
「戻りましょうか?」
「そろそろ川澄先輩も解放されてるだろ」
「あの……剣を振るってた人ですか?」
「ああ、色々と事情があるんだろうがな」
「事情……ですか?」
「ああ、とりあえず行くか。灯りを消して……と」
あの破壊は、全てが川澄先輩の仕業……と言うわけではない。
栞に攻撃をしかけた『何か』がいる。
川澄先輩も、そして誰もいないはずの場所でも破壊が行われていたのだから。
そして、この少女との出会いで、前々から引っかかっていた事を思い出していた。
『ところでこの学校には魔物がいるのか?』
以前、相沢がそう訊いてきた。
『何か』が『魔物』なのだろうか?
相沢は『魔物』に出会っていたのだろうか?
そして、『魔物』という単語と、この少女が古い記憶を呼び覚ましていた。
俺がまだ小学生、まさに、この少女くらいの年齢の頃……夏休みの終わり頃の出来事だった。
やがてこの新校舎となる麦畑の近くにあった公衆電話で、切実に何かを訴えている少女がいた。
『魔物が来るの』
……と。
あの少女は、このウサ耳の少女とうりふたつだった。
あの子は、小さい頃の川澄先輩だったのだろうか?
……考えていても仕方ないか。
「君のお姉さんなら大丈夫……!?」
少女がいたはずの場所を向くと、誰もいなくなっていた。
いや、一瞬、あの子が透けていたような気がした。
……気のせいだろう。
そこには、少女にかけてやったタキシードの上着が落ちていた。
辺りを探したが見つからず、職員室にも顔を出すが、さっさと帰れ! と追い出された。
緊急を要する事後処理はあらかた終わっていたらしく、相沢も川澄先輩も帰宅していた。
しかも、参加者には小学生のような子供はいなかったそうだ。
仕方ない、帰ろう。
そう思い、栞の手を握った……!?
痛みを感じてなかったためにすっかり忘れていたが、俺は左手の甲をざっくりと切っていたはずだ。
その証拠に、そこには大きな……かさぶた!?
恐る恐る剥がしてみると、傷跡すらなかった。
試しに指を動かしてみるが、麻痺らしい痺れもなく正常に動いた。
「……どうしたんですか?」
栞の怪訝な声。
『ヒーリング』
治癒を行うという超能力の名称が頭に浮かぶ。
まさかあの少女が!?
「……そんな訳ないか」
家路を歩む。
「……あ!」
「どうしました?」
「着替えるの忘れていた!」
「……そうでした」
場所はもう、ここから引き返すよりは、そのまま帰った方が近かった。
「……どうする?」
「……どうしましょう?」
「忘れ物は……明日、取りに行くか」
「そうですね……って、ここは……?」
「ん?」
「折角ですからあの場所に行きましょう」
「……ここか」
「はい。ここは夜の方が綺麗ですよね」
前に来た噴水の公園だった。
「折角、この格好なんだから踊ろうか?」
「はい。そう思ってここに来ました」
「栞」
「潤さん」
手を取り合い、ステップを踏む。
俺たち以外は誰もいない、夜の公園で踊る。
多少は慣れてきたのか、柔道の試合にはならなかった。
この調子なら、来年の舞踏会は……。
来年は……。
動きが止まったので栞は怪訝な顔をした。
「どうしました?」
「……寒くてな、動くのが辛くなってきた」
「……私もです」
「栞は寒いの平気だろ? 外でアイスクリーム食べるくらいだ」
「アイスクリームは好きです。けど、この季節に食べるものではないです」
「……そうだろうな」
「もっと暖かくなってから、食べたかったですよね……」
『食べたい』ではなく『食べたかった』
過去形。
「そうだよな」
「……?」
「昨日、美坂に……栞の姉さんに会った」
「……!」
ハッと目を見開く。
「話……聞いた」
「そう、ですか……」
「本当は、風邪なんかじゃなかったんだろ?」
「はい……」
病名は……覚えていない
名前なんて知っていてもどうにもならない
妹は、全てを諦め、受け入れて、笑っていた
姉は泣いていたのに、妹は笑っていた
少女は謝った
俺を好きになった事を謝った
悲しくなるのが分かっているのに
好きになった事を謝った
そして、いつものように、ただニコッと笑う
この少女は、泣くことはないのだろうか
ふと、そんなことを思う
いつの間にか、俺たちは踊りを再開していた。
考えねばならないことが多すぎて、体の緊張など吹っ飛んでいた。
そのために、皮肉なことに、会場にいた誰よりも優雅なステップを踏んでいた。
残された命を燃やし尽くすような、美しく、そして悲しいステップだった。
私の事を、普通の女の子として扱ってください
学校に通って、みんなと一緒にお昼を食べて……
好きな人と、商店街を歩いて……
お休みの日は、遠くまで出かけて……
夜遅くなるまで遊んで……
お父さんとお母さんに怒られて……
でも、お姉ちゃんがかばってくれて……
そんな、平凡なドラマの主人公にさせてください
お話の中でくらい……ハッピーエンドが見たいです
辛いのは……現実だけで……充分です
幸せな結末を夢見て……
そして……
物語が生まれたんだと……私は思っていますから
でも、誕生日までです
2月1日……私は、潤さんの前からいなくなります
それ以上の時間は
潤さんにとっても
私にとっても
悲しい思い出を増やすだけですから
何とかならないのか……
もう、どうしようもない状態なのか……
…………
奇跡でも起きれば何とかなりますよ
……でも
起きないから、奇跡って言うんですよ
だから、残りの時間……
本当に私を受け入れてもらえますか?
その時、足が滑り、咄嗟に体を支え合う。
「また、お約束のポーズになってしまいましたね」
「では、お約束の続きをやるか」
「……そうですね」
「これが……答え、だ」
抱き締めた栞の体は温かかった。
唇も温かかった。
栞は、一生懸命に生きていた。
『ふたりっきりにさせてあげた』
「……欺瞞ね。逃げただけね」
自分を責めさいなむ表情で、ただ一人、香里は家路を歩いていた。
彼女は、一つの鞄を持っていた。
栞が持っていた鞄と同じくらいの大きさの、でも、栞のそれとは異なる鞄。
二章『笑顔の向こう側に』 終わり
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