1月 12日 火曜日
相沢は息も絶え絶えに、水瀬は涼しい顔で教室に駆け込んで来た。
相沢もいずれは優れた陸上選手になる事だろう。
HRの後ジャージを手に立ち上がると、美坂が相沢に素敵なニュースを聞かせている。
そう、1時間目は体育なのだ。
俺たち男子は……マラソンである事を知らせてやるべきだろうか?
4時間目は物理。
1時間目から相沢はずっと死んでいる。
が、突然むくっと生き返り、授業に復帰した。
だが、長続きせず窓の外を眺め始める。
そして振り返り、小声で話しかけてきた。
「あの子、またいるぞ」
「……本当だ」
今日はいつからいたのか分からない。
「この学校の7不思議なのか?」
「……7不思議?」
「中庭の雪女伝説」
確かに、どんなに寒くても雪女なら中庭でアイスぐらい食えるよな。それにしても突飛な発想をする奴だ。
だが、俺が興味ないだけなのか、そういったオカルトじみた話など知らない。当然ながら7不思議も聞いたことがない。
この新校舎は出来て3年くらいの新築だし、建設前は墓地でもなんでもなく、ただの麦畑だった。
もっとも、学校7不思議や事故が多発する魔のカーブの類の怪談の前振りとして、そこは以前は墓地だったってなネタが多いが、墓地は土地が安いため学校や高速道路がその跡地に建てられる事は珍しくないらしい。
「……どこかで見たような気がする」
相沢が首を捻る。
仕方ない。
ノートを1枚ちぎり、こう書きこんだ。
『今すぐ帰れ!』
乱暴だが、これくらいでないと帰らないだろう。
さて、風に飛ばされないように重りが要るな。
重り……金属の塊……金属……金!?
自分の財布やポケットから、ありったけの小銭を出して包む。
……夏目さん1枚だけになり、懐が寂しい。
窓を開け、放り投げようとしてふと思い立ち、手を引っ込める。
『帰りにこれで温かい物でも飲んで体を暖めろ』
こう書き加え、今度こそ放り投げる。
その直後、後頭部に衝撃が走った。
振り向くと、物理の長瀬先生が楽しそうに分厚いファイルを持っていた。ハリセンの要領で突っ込みの道具にしたようだ。
そして宿題という素敵なプレゼントを頂いた。
昼休みに入った。
「相沢! 早く学食行こうぜ!」
「学食へ行く事は決まっているのか?」
弁当持参って訳ではあるまい。
「当然だろう。新メニューが入るんだ」
相沢も頷き、走り出した。
が、相沢は廊下に出た時に、立ち止まる。
「ところで、この学校には魔物がいるのか?」
「魔物?」
他愛もない会話に、突如差し込まれた非日常的な単語に当惑した。
雪女の次は魔物か……そういった怪談めいた思い出を欲しているのだろうか?
確かに、この新校舎は建設段階から物品の破損や作業員の負傷が相次ぐという学校の怪談の前振りにはうってつけの出来事があったらしい。
だが、その出来事はとある人物の仕業と確定していた。
「……何でもない。早く学食行こうぜ」
「おう」
そう言って再び駆け出した。
魔物……か。
この学校には、そんな異名を頂くほどに容姿に恵まれない者も、凶悪な戦闘力を有する者もいない。
どこかの学校では、そんな異名を頂けそうな化け物じみた食欲を持つ盲目の少女がいると聞いた事があるが……それこそ学校の怪談である。
それにしても、『魔物』という単語に妙に引っかかる物を感じた。
「……大盛況ね」
美坂が肩を竦めた。
学食は大勢の生徒で溢れている。4時間目が長引き、スタートが遅れたのが致命的だった。
「蹴散らしたらテーブルのひとつくらい空くだろ」
相沢が腕まくりをしてそう豪語した。頼もしいな。
だが……。
「蹴散らさないの」
と、水瀬がたしなめた。
仕方なく新メニューは諦め、パンで済ますことになる。
そして、ここの戦い方をあっさり飲み込んだ相沢が手早く買い終えた。
昨日、俺が栞と飯食ってる間に美坂がレクチャーしておいたようだ。
相沢は邪魔にならないように、先に教室に戻っていった。
……はずだった。
先に戻ったはずの相沢が、いつまでたっても戻ってこない。
食べずに待ってたが、いい加減時間がなくなってきたので食べ始める。
「ところで北川君、4時間目は何やってたの?」
「窓からゴミ捨てちゃダメだよ」
美坂の問いと水瀬の忠告。
「ゴミじゃない……そうそう、美坂、中庭に栞ちゃんが来てたぞ。風邪、大丈夫なのか?」
美坂はしばらくの沈黙の後……。
「栞って、誰?」
「誰って……」
一瞬辛そうな表情をしたようだが……気のせいか。
「聞いたことない名前だけど、北川君の知り合い?」
「妹じゃないのか……?」
「妹……? 誰の?」
「だから、美坂の」
「香里、妹が居たんだ」
羨ましそうな水瀬。
「知らないわ、あたしはひとりっ子よ」
「へ?」
栞は、確かに美坂のことを自分の姉だと言ってたよな?
だが、美坂は自分に妹はいないと答えた。
どういう事だ? どちらかが嘘をついている? それとも……隠し子?
その時、予鈴が鳴って思考は中断した。
ようやく相沢が戻ってきた。早目に見切りを付けて食べておいて正解だった。
「うそつき、教室で待ってるって言ったのに」
水瀬はまたもふくれっ面。相沢に突っ込む事が多いな。
「しまった……すっかり忘れてた」
「どこ行ってたの?」
美坂が問う。
「ふたりの先輩とお茶してた」
なんだそりゃ。
「嬉しそうだな……女の人か?」
全く、俺たちを待たせておいて何やってるんだ。
「ああ。倉田と川澄って言ってた」
「ええっ!」
「……何だ?」
「そのふたり、ここの有名人だぞ」
「そうなのか?」
「転校生だから知らないのも無理はないけどな。倉田先輩は美人だし、確か議員のお嬢様で、学校側とも繋がりがある人だ。で、川澄先輩は……」
野犬の虐待、備品や校舎の破壊など、あまり評判はよくない。
そう。学校の怪談の前振りのような出来事は、彼女の仕業とされていた。
「ま、そのうち分かる……」
相沢は知らなかったとはいえ、よくその人と一緒に食事できたな。
でも考えてみたら噂だけで、俺が『問題となる行動』とやらを実際に見たことはなかった。
あの人は、先入観抜きで付き合えば案外いい人なのかも知れないな。
それにしても、栞と美坂……一体何なんだろう?
放課後、さて帰ろうと立ち上がると、美坂が相沢に話しかけていた。
「最初、相沢君はもしかして怖い人かと思っていたけど、違って良かった」
「怖い人なの? 祐一が?」
水瀬はきょとんとしている。
「もちろん、名雪から色々話は聞いていたから違うだろうとも思っていたわよ」
確かに。水瀬のノロケ話は中途半端に聞いたらそんな風にも受け取れる。
「いや、わかるよ。俺も最初はかたくなってたし」
転校初日の電話番号の一件か。やっぱり迷惑に思ってたんだな。
「実は俺、子供の頃に何度かこの街に来てたんだけど、その頃の記憶が穴だらけでさ。分からないけど、きっとここで何かとんでもなく嫌なことがあったせいだと思ってて、だから、この土地にはなじめないと思い込んでいたんだ」
「……そうだったの」
美坂は神妙な顔で頷いた。
「へえ」
転校初日の態度はそのためか。電話番号の件で警戒されていた訳ではなかったんだな。
「まあでも、この頃は少しずつ思い出してることもあるし、いつまでも暗くなってったってしょうがないだろ。変わった奴なら俺のほかにもいくらでもいるし」
そう言って不敵に笑った。
「誰のこと?」
水瀬が首を傾げる。自覚なしか。しかし、ほかには誰だ?
「誰なんだそれ」
水瀬の他には……あゆや真琴か?
「……そうね」
いつもはクールな美坂が、しばらくの沈黙の後、吹き出していた。何で美坂が笑うんだ?
「ちょっとずつでも、思い出せてるならよかったね」
水瀬が満面の笑顔で言った。やっぱり変わり者の自覚なしか。
しかし誰なんだ? 水瀬のほかに変わった奴って……?
バイト中……。
雑誌を補充している時に声をかけられた。
振り向くと真琴だった。
「どうしました?」
「エロ本くださいっ!」
元気にそう言い放った。
「……」
「ワクワク興奮するらしいんだけど、どんな本なのかよく分からないの」
「……」
「で、エロ本ってどれ?」
我に返った。どうやらあまりの異常事態に脳がフリーズしていたらしい。
「ちょ、ちょっと待って」
「……?」
きょとんとしている真琴。
どうする? どうやら相沢にからかわれたようだが。
記憶喪失だと言っていたが、それでエロ本とはなんであるかという知識が抜け落ちてるんだろうか?
……それとも相沢とグルになってる?
「エロ本、ちゃんとした本屋さんじゃないと置いてないの?」
一応……というか、たくさんある。
店員である俺が言うのも何だが、スペースの関係で仕方ないとはいえ、普通の漫画と官能小説、普通の週刊誌とエロ本を隣接させるってのは考えものである。
「エロ本がたくさんあるんなら、店員さんのお勧めがいいんだけど」
真琴はさっきから、全く恥かしがらずに『エロ本』という単語を連発している。どうやら演技ではないようだ。
「あるけど子供には売れないよ?」
思わずこう言ってしまった。
普段はそんなの気にせず、自販機ではなく店頭で買おうとする勇気に敬意を表し、中学生にも売ってしまうのだが……女の子の場合は全く予想外の事態だったのだ。
「真琴は大人よっ!」
子供扱いされてムキになるのは、やっぱり子供だと思うが。
「大人だから売って!」
仕方ない。
周りを見回すと、幸い他には誰も客はいなかった。
そこで、「エロ本って、こんな本だぞ?」と言って『お勧め』を真琴に手渡す。
真琴は興味津々の面持ちで広げた。
パラ……。
呆然。
パラ……。
羞恥。
パラ……。
驚愕。
パラ……。
恐怖。
パラ……。
激怒。
「ゆ、ゆ、祐一〜〜〜〜っ!!」
怒髪天をつく勢いで店を飛び出して行った。
と思ったら引き返してきて……。
「ぜー、はー、ぜー、はー」
息を切らせながら、肉まんと少女漫画(普通の)を買っていった。
いつの間にか敬語でなくタメ口で話していた。
そろそろ上がりって時に、相沢がおにぎりを買いに来た。夜食にするようだ。
「あんまり真琴ちゃんに意地悪するなよ」
レジを打ちながら忠告する。
「意地悪されてるのは俺の方だ。毎晩なぜか襲撃されるんだよ」
「それくらい大目に見てやれって。記憶がなくて不安なんだろ、その不安をそうやって紛らわしてるんじゃないか?」
「……俺んとこ居座るための演技だろ」
そう言って去っていった。なんか冷たいと思う。
まあ、あの子はめまぐるしく表情が変わるから、からかうと面白いんだろうがな。
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