栞には、ふたつの選択肢が与えられていた。
一つは……。
積極的な治療は諦めて、薬で痛みと発作を抑えるこれまで通りの方針を続ける。
当然ながら、差し迫った死を回避することはできない。
その代わり、苦痛からは開放された安らかな時間を過ごすことができる。
好きになったあいつと、満ち足りた時間を共に過ごす事だってできるだろう。
……最後まで綺麗な姿のままで。
そして、もう一つの選択肢は……。
最近になって認可された薬を試す。
うまく行けば、栞は助かる。
その代わり、激しい苦痛にさらされる事になる。
新薬の副作用は激しく、体はボロボロになる。
その結果、人前にさらせるような姿ではなくなる。
それに、鎮痛剤の投与を止めることになり、これまで薬で抑えていた激痛が一気に襲いかかる。
なぜなら栞に投与される鎮痛剤は、もはや麻薬と言っていい程に強力な物になっていた。
普通の薬では、耐性がついてしまった栞の体には効果がなくなっていたのだ。
それに、栞を苛む苦痛は……それ程までに強力な薬でなければ抑えられないくらいに激しい物になっていた。
そう遠くない未来に最後を迎えるのなら、そのような薬に頼っていてもいいのかもしれない。
だが、これからも生き続けるのであれば許されない事だった。
たとえ体が回復したとしても、心が壊れてしまっては意味がないのだ。
鎮痛剤は、あくまでも体の痛みを和らげるものであって精神安定剤の類ではなかった。
自分の運命を知ってもなお笑顔を見せていたのは、薬によるものではなく栞の純粋な強さだった。
だが、これ以上常用を続ければ、精神への影響は否定できない……との事だ。
病魔による苦痛、薬の副作用による苦痛、そして鎮痛剤の禁断症状による苦痛。
栞は、この三つの苦痛にさらされる事になる。
それでもなお、助かる可能性はあまりにも低いのだ。
そして誕生日。帰ってきた栞が決断した。
あまりにも分の悪い賭けに乗ることを。
諦めていた『これから』を取り戻すことを。
もう一つの可能性
二章 『笑顔の向こう側に』
作者 OLSON
原作 Key
清水マリコ
1月 18日 月曜日
教室に向かう途中、壁に何かを見つけた。
……竹串!?
竹串が、コンクリートの壁に刺さっている。
しかも、何やら餅のような物がこびりつき、干からびていた。
どうやら団子の串らしい。だが、こんな物をどうやってコンクリートに刺すんだ?
『気』を巡らせれば、木や紙でも鉄のように硬化させられるらしいが、それは格闘マンガの世界での話である。
一体……?
川澄先輩と相沢の仕業なのだろうか?
一時間目の授業が始まっている。
相沢は、まだ来ていない。
水瀬は普通にここに居るため、彼女の寝坊に巻き込まれた訳ではなさそうだ。
と、そのとき慌しい足音と共に相沢が駆け込んできた。
先生に事情を説明して、着席する。
注意は受けなかった。何やら特別な事情があったようだ。
「……祐一」
「あとで説明する」
不安そうな水瀬の問いに相沢はそう答えて授業を受け始めた。
授業が終わったら、ふたりは走って行った。
水瀬のお袋さんが風邪で倒れたそうだ。
そのために相沢は遅刻したようだ。
だが、水瀬は陸上部の朝錬で先に出ていたために気付かなかったらしい。
今はあゆが家に残って看病していて、その様子を訊きに行ったようだ。
あゆは、また水瀬家にお泊まりしていたらしい。
この前の金曜日、商店街で水瀬のお袋さんとあゆが親子のように仲良く歩いていたのを思い出した。
あゆも不安で堪らないんだろうな。
あれからふたりは、休み時間のたびに電話しに行った。
昼休み、俺はいつものように……。
栞と中庭で昼食を食べていた。
「なあ、栞……」
「何ですか?」
「まだ風邪は治らないのか?」
「……もう少し、ですよ」
栞はしばらくの沈黙の後、寂しげな笑みを浮かべてそう答えた。
「もう少しって、どれくらいなんだ?」
「……そうですね」
しばらくの思案の後……。
「次の……私の誕生日くらいです」
……なんだそりゃ。
「誕生日っていつだ?」
「……2月1日です」
「2月1日って、あと2週間もあるじゃないか」
「2週間も、じゃないです」
ひと呼吸おいて続ける。
「2週間しか、です」
「2週間も休むと、もう1回、1年生をすることになるぞ」
「……大丈夫ですよ、そんな事にはなりません」
吹き荒ぶ風にかき消されて聞こえなくなるくらいの小声だった。
どうやら、また無神経な事を言ってしまったようだ。
話題を変える事にする。
「ところで、栞って趣味とかないの?」
「そうですね……絵を描くことが好きです。描いていると楽しいんです。最近は描かなくなりましたけど、昔はスケッチブックを持ってよく絵を描きに行ってました。あの公園も、その時に偶然見つけたんです」
「それなら、今度見てみたいな。栞の描いた絵」
「……やです、恥ずかしいですから」
顔を赤くして、足下を見る。
「大丈夫だよ、専門的なことは分からないから」
「……分かりました。今度持ってきます。でも……絶対に笑わないでくださいね」
「分かってる。笑ったりしないから」
「はい、約束ですよ。あ、そうだ、ついでに潤さんの似顔絵描きます」
視線を戻して、俺の顔をじっと見つめる。
「ついで……オレなんかがモデルでいいのか?」
「……そうですね、やめておきましょうか」
「うわ、ひでぇ」
「冗談です」
栞はそう言って去っていった。
『冗談です』……か。本当によく笑う子だな。
だからこそ、初めて会った時の思いつめたような表情が気になっていた。
校舎に戻った。風から解放されるだけでずいぶん楽になる。
「……あの」
振り向くと見知らぬ女生徒がいた。
制服のリボンは緑、一年生だ。
その女生徒には見覚えがあった。
この前、相沢が廊下の掃除をサボってナンパしていた子だ。
「……今、外から出てきましたよね?」
あ、なるほど。
「靴の泥ならちゃんと落としたけど」
「私、美化委員ではありません」
真面目そうな顔なので、上履きのままで外に出た俺を注意した、と思ったが違うらしい。
「……あの、さっき先輩が中庭でお話してた私服の人のことですが」
なるほど、最近は何かと物騒だ。例え女の子でも校内に部外者が入るのは保安上まずいだろうな。
「あの子は私服だったけど部外者じゃないよ。ここの一年生だ」
「私、風紀委員ではありません。どうして私に委員会を薦めるんですか」
「じゃあ……」
「……部外者ではないことは知っています。あなたは美坂さんと親しいんですね?」
「美坂って、栞の事だな?」
「済みません。名前までは覚えていませんが」
この子は栞のクラスメイトなのか。
学校を休んでいるはずのクラスメイトが、なぜか私服で中庭をうろうろしているのだから不審に思っても当然だ。
「オレと一緒にいた私服の女の子なら栞……美坂栞だよ」
「そうですか、それなら……」
美表情に見えたこの子の顔にかすかな笑みが浮かぶ。そのかすかな笑みであっても、それは少女を唐突に彩ってみせた。
「私は1回だけしか話をしたことないですけど、でも、さっきの人に間違いないと思います」
あれ? クラスメイトなら1回しか話した事ないなんて事はないよな。
「なんだ、栞のクラスメイトじゃないのか?」
「……いえ、クラスメイトです」
「だったら栞が風邪なのは知ってるだろ? 風邪が長引いてるらしくてさ、中庭に来るのはリハビリと言うか……」
「……風邪、ですか?」
俺が説明に困っていたら、女生徒は思いつめたような面持ちで言った。
「違うのか?」
「分かりません。私は、美坂さんの欠席の理由は知らないです」
「良かったら、君の知っていることを教えてくれないか?」
「……私が知ってるのは……」
ひと呼吸置いて続ける。
「1学期の始業式に来て以来、ずっと欠席している事だけです」
心臓が高鳴った。
「始業式だけ……?」
「本当に、それっきりでした」
悪い想像が次から次へと浮かび上がる。
『でも、病気で長期に渡って休んでいる女の子って、ちょっとドラマみたいでかっこいいですよね』
そう言って屈託なく笑う少女の、その笑顔の向こう側にあるもの。
いつか感じた形のない疑問。
「私は、人と接することを極端に拒み続け、何の感情も持たないように生きてきました。そんな私に話しかけてくれたのが、美坂さんでした。声をかけてくれたのが素直に嬉しいと思えて、本当に、久しぶりに温かい感情を抱くことができました。美坂さんの笑顔があの子に似ていて、美坂さんと付き合うことで吹っ切って、乗り越えて、自分は変われるかもしれない……そう思ったのですが」
一息に語った後、少し踏み込んだ話をしすぎたと思ったのか気まずそうな顔をする。
「……あ、すみません。とにかく、友達になりたい。そう思えた人なんです」
『あの子』……自分の妹かなんかだろうか?
過去に辛い思いをして、ふさぎ込んでいたらしいこの子が変わろうとしたきっかけが、栞なのだろうか?
「欠席の理由を、先生も誰も教えてくれません。だからずっと気になっていて、そんな時に窓から姿が見えました。それで……」
「栞と居るオレに、事情を訊こうとしたんだな」
「はい」
はい、という返事に印象的な響きを漂わす子だった。
「美坂さんは、本当に風邪なのですか?」
一度会っただけの栞の事を、こんなにも気にかけてくれている優しいこの子を心配させてはいけないな。
「少なくとも、本人はそう言ってるよ。栞は今は元気みたいだから、近いうちに学校に戻ると思うよ」
無理して笑顔を作り、そう答えた。
「……そうですか」
かすかな笑みが戻る。
「ありがとう……って、オレが言うのは変だけど、今度会ったら、心配してる友達がいたこと、伝えとくよ」
「ありがとうございます。また教室で会うのを楽しみにしてると伝えて下さい」
では、と、お辞儀をして去って行く。
彼女の姿が見えなくなってから、俺も走り始めた。
教室に駆け込んだ。
「美坂っ! 栞の病気はどうなっている?」
美坂に詰め寄る。
「まだ言ってる。だから、栞って誰なのよ?」
「すっとぼけるな! 美坂の妹だろう? 何で知らない……いや、居ないかのように振る舞うんだ!」
苛立ちに任せ、思わず机を叩いていた。
「お、おい、何やってるんだ」
「ちょっと、ふたりともどうしたの?」
電話してきたらしい相沢と水瀬のふたりが、教室に駆け込んで来るなり戸惑っていた。
「だから、あたしに妹は居ないって言ってるでしょう?」
にらみ合いはチャイムが鳴るまで続いた。
6時間目終了……。
「祐一は先に戻ってて。わたしも必要な指示を出してすぐに切り上げるから」
「分かった!」
相沢はHRをすっぽかしていった。
水瀬だってすぐに帰りたいに違いない。だが部長という立場上、相沢のようにはいかないのだろう。
不安で引き裂かれそうな悲痛な表情だった。
そして美坂もHRをすっぽかし、無言で去っていた。
一階の廊下を歩く。
学食の前にさしかかると、向かいにある扉が開いて美坂が出てきた。
部室に居たようだ。
「美坂……」
「北川君、ちょっといいかしら?」
「……ああ」
「あたしに妹は居ないけど、あなたの言う栞って子を、北川君は好きなの?」
栞の事が……? 俺は……。
ひと呼吸置き、その問いに力強く答える。
「好きだ」
初めて逢った時からだ。
頭に雪を載せて呆然としていた色白のきゃしゃな少女。
有無を言わさず巻き込こまれ、結成された即席のお笑いトリオとその観客。
まるでギャグ漫画のような出会いだが、その直前の怯えた顔が気になり、心を揺すられた。
そして中庭で再会し、奇妙な逢瀬を繰り返すうちに、栞は俺の心の奥深くに入り込んでいた。
そして今日、栞が一日だけしか登校できなかったという話を聞いて、俺はこれほどまでに取り乱していた。
「……そう」
「だからオレは栞が心配だ。栞の体も心配だし、大好きな『お姉ちゃん』に嫌われてると思うと可哀相だ」
「……」
美坂は無言で去って行った。
バイトに行く途中の商店街で、スーツ姿のお袋と出くわした。
「潤、これからバイトか?」
「ああ、母さん。……保育所、早く終わったんだね」
「今日は珍しく子供らの親が早よう迎えに来てな。せやから、今夜は久々にうちの手料理食わしたる」
お袋は、既に買い物を済ましたのか食材が入ったスーパーの袋を持っていた。
「うちの愛情が胸焼けするくらいに仰山入ったビーフシチューや」
不敵な笑みを浮かべて言う。実際お袋の料理は美味い。だが、もう少し美味そうな表現をしてほしい。
「……楽しみにしとく。それにしても機嫌いいね」
「この前に入ってきた新人がおもろい娘でな。名雪ちゃん、知っとるやろ? あの子のお母ん、秋子の紹介や」
もしかして……。
「沢渡真琴……言うてな。ま、色々事情があるみたいなんや」
「そっか、母さんの保育所でバイト始めたのか」
「ん? 知っとるん?」
「その子、コンビニの常連なんだ。で、仕事はうまくやれてるの?」
「どやろな。手先が不器用で、子供らと折り紙とかで遊んでやったり、よう出来へん。それに、人付き合いが苦手なんか知らんけど、子供らに積極的に話しかけられへんのや」
「それじゃ仕事にならないじゃないか」
「いや、そうでもないで。仕事の手順をあれこれ教えたるの面倒でな、子供らの群れの中にいきなり放り込んだったんや」
「……ひでぇ」
「ほしたら子供ら、あっさりと真琴に懐いてしもてな。まこちゃんあそぼう〜言うて、もみくちゃにしとったわ」
「……ひでぇ」
「髪の毛掴んだり、飛びついたり追っかけたりしてな。真琴とではなく、真琴で遊んどった」
「……ひでぇ」
「本人は逃げだそ思ても、子供らが群がってどもならん。無理やり構われとる猫みたいでな、めっさおもろかったわ」
「……ひでぇ」
お袋は真琴の凄惨な光景を心底楽しそうに語る。
そんな状態では、どんな人間でも折り紙とかで遊んでやる体力も、話しかける余裕もないんじゃないだろうか?
子供の体力は侮れない。
筋力や持久力と体重のバランスが絶妙で加減や疲れを知らないから、嘗めてかかると大変な事になる
俺がバイトしていた時よりも人手不足に拍車がかかっているようだ。大丈夫かな?
「猫言うたら、今日、真琴は保育所に猫連れて来よったな」
猫? あの時のか。結局飼う事になったんだな。
「子供らの興味がそっち向いて、少しは楽になる思たんかな」
職場でそんなことされたら迷惑なはずなのに、温かく見守る母親のように真琴の行動を語る。
「確かに子供らの情操教育には悪ないんやけど、あいにく猫アレルギーの子がおってん。せやから、仕方なく猫は帰りまで段ボール箱の中で箱入り娘や」
「……ひでぇ」
「まあ、箱入り娘言うてもオスだったんやけどな」
いや、そういう問題じゃない。
「そない言うたら、秋子ん所の名雪ちゃんも猫アレルギー言うとったな。真琴は居候しとるみたいやけど、どないするんやろ?」
猫アレルギー? この前、水瀬が顔を真っ赤にして、『ねこー』と呟きながらぐしゅぐしゅとしゃくりあげていたが、そのためだったのか。
「そうそう、名雪ちゃんの様子はどないやった?」
「水瀬? 今日はお袋さん……秋子さんが風邪で倒れたらしくて心配してたな」
「……そやろな、秋子は仕事休むて連絡を電話の短縮ダイヤル間違うてうちの保育所にかけてきたくらいや。かなりひどかったみたいや」
そう言った深刻なお袋の顔は突然に悪戯っぽい不敵な笑みに変わる。
「ほんで心配になって電話かけ直したら、あゆって女の子が出てな。名雪ちゃんの友達なんかな? 自分のことボク言うたり、困ったら『うぐぅ』って唸ったりしよるおもろい子やった」
「ああ、そんなこと言ってたな。お泊りしてて看病してたみたいだ」
「さよか。で、心配になって何回か電話入れてみたら、名雪ちゃんもそうしとったみたいや。名雪ちゃんは雑炊の作り方を教えたったらしいんやけど、あゆちゃん、料理が基本からさっぱり駄目らしゅうてな、うち特製アッチッチの雑炊の作り方を改めて教えたったんや。あれを食べればすぐに治るやろ」
俺が子供の頃、高熱出した時にお袋は仕事を休んで看病してくれたっけ。あの時も雑炊作ってくれたな。
お袋が素手で土鍋のふた取って火傷していたのを覚えている。なんだかんだ言っても結構慌ててたんだよな。
「おっと、バイトの時間やったな。晩飯はコンビニで食わんと早めに切り上げて帰ってきぃ。潤が帰ってくるまで待っといたるさかい」
そう言ってお袋は帰宅し、俺もコンビニに向かった。
バイト仲間から奇妙な話を聞いた。
昨日、肉まん2個を1個分の値段で売ってくれないか? と、つまり半額に値切ろうとする大胆な女の子が来たそうだ。
『肉まん』という単語に何か引っかかる物を感じた。
相沢は夜食にケーキを買っていった。
やはり2個だった。
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