1月 19日 火曜日
ベッドに朝日が差し込む。
よく眠れなかった。
当然だ。
『1学期の始業式に来て以来、ずっと欠席している事だけです』
あんな話を聞かされて眠れるはずがない。
だが、起きねばならない。行かなくてはならない。
栞と会いたいのだ。
重い体にムチ打って登校する。
今朝は校門で水瀬たちと出会った。
真琴も一緒に歩いていて何か相沢と話をしている。だが、真琴は慌てて引き返して行った。
水瀬の家から保育所とこの学校は正反対の位置にある。
これでは遅刻だろうに、真琴は一緒に通いたかったようだ。
猫騒ぎの時、相沢に激しく罵られたにも関わらず、あっさり仲直りしただけではなく前より仲良くなったらしい。
「よお」
「あ、北川君、おはよう」
「北川、今何時だ?」
どうも馴れ馴れしく感じてしまう。
だが、水瀬の前で無下にする訳にもいかない。
「あと3分で予鈴ってとこだな」
素直、かつ簡潔に、『27分』と答えてやればいいのに。
いつの間にか、ふたりは帰りに寄り道をする相談をしている。
時間は刻一刻と過ぎていく。
相沢は放っておいてもいいが水瀬がそれに巻き込まれたら可愛そうなので、『遅れるぞ』と忠告してやった。
1時間目終了のチャイムと共に、相沢が勢いよく立ち上がった。便所だろうか?
「祐一さん、いますかーっ」
倉田先輩だった。
教室は騒然となる。
もう限界だ。余計なお世話だろうが何だろうが放っておけない。
「おい! 説明しろっ」
お前はいったい何人と付き合っている?
夜に川澄先輩と何をしている?
水瀬のことをどう思っている?
あゆと真琴になぜ意地悪する?
次から次へと女の子に手を出して、お前に節操ってものはないのか?
相沢の肩を引っ掴む。
このままでは相沢の周りの女の子がかわいそうだ。
今度こそ、せめて一言は言ってやりたい。
だが相沢は強引に振り切り、倉田先輩と逃げていった。
……くそ。
八つ当たりだ。
自分が好きになった女の子が重病かもしれなくて、その子が、大好きなお姉さんと話もできなくて、それなのに自分は何もできなくて。
なのに相沢は、手当たり次第に女の子に手を出して、能天気に生きていて、夜な夜な妖しげな行為に耽って。
でも、俺とは関係のない話なのに。
激しい自己嫌悪に陥っていた。
昼休み……。
「あっ。こんにちは、潤さん」
中庭のベンチに歩いていくと、栞も駆け寄ってくる。
「やっぱり来たか」
「来ますよっ、絵を見せる約束でしたから」
頭に雪が載っていた。授業中、少し降っていたらしい。
とりあえずお約束のアイスクリームを渡す。
「はあ……。それにしても何時から待ってたんだ?」
足跡は積雪で形がぼやけている。
「確か、ここに来たのは11時くらいだったと思います」
「早すぎ」
お互いにアイスクリームを食べながら他愛のない会話をする。
「あはは……やっぱりちょっとだけ早かったですよね」
「ちょっとじゃない、よく待っていられるな」
「でも、私は待つことは嫌いではないです。そうすることさえできない人だっているんですから」
「どういう意味だ?」
「意味なんてないですよ」
風にかき消されそうな小さな声で続ける。
「……何の意味も」
そう言って俯く栞の顔は見ることができなかった。
「何となく格好良かったので言ってみただけです」
「……」
「見ないんですか?」
「そうだった、栞の絵を見たいって言ったんだっけ」
「恥ずかしいですけど、約束ですから」
栞がどこかから空色のスケッチブックを取り出し、恥ずかしそうに俺に手渡す。
やはり某アニメで聞き覚えのある効果音が聞こえたが無視した。
スケッチブックを開く。
……。
「ラーメンセットひとつ」
「わー、何ですかそのコメントは!」
脳が海辺の夏の町に飛んでいたらしい。
「……まあ、本人が描いてて楽しいんならいいんじゃないか?」
「そうですね。趣味ですから、ヘタでも気にしません」
「ずっと描いてたら、いつかは上手くなるって」
「いつか……。そう……ですね」
途切れ途切れに呟く。
「折角だから似顔絵、描いてくれるか?」
「え?」
「練習ってことでさ、描いて欲しいな」
「そうですね。モデルがモデルですから、逆に美男子に描き上がるかもしれません」
「……ひでぇ」
なるほど、こういう時に『うぐぅ』と言うのか。
シュッ………。
シュッ……。
シュッ…。
静かな中庭にコンテの音だけが響く。
「そう言えば、普段は誰を描いてるんだ?」
「そうですね……」
シュッ………。
シュッ……。
シュッ…。
「家族、です」
声が少し沈んだような気がした。
また、無神経なことを言ってしまったか。
「こう言うのってドラマでよくありそうなシチュエーションですよね?」
確かに、その、恋人のスケッチってのはありがちかもな。
「栞、ドラマとか見るのか?」
「私こう見えても放送されているドラマは全部見てますから。家にいると、本を読むかテレビを見るくらいしか、やることがないんです」
シュッ………。
シュッ……。
シュッ…。
「……できました」
「お、できたか?」
「……見るんですか?」
おずおずと訊いてくる。
「絵ってのは見てもらってなんぼのもんだろ」
「分かりました」
……。
「ガッツ」
「励ましてるんですか? それともおちょくってます?」
「そうとしか言いようがない。オレ、不器用だから。でも、折角だからこの似顔絵貰っていいか?」
「いいんですか? こんな絵で」
「栞がオレのために描いてくれたものだからな」
「……嬉しいです」
栞と別れ、教室に戻った。
「何持ってるんだ?」
相沢が目ざとく似顔絵を見つける。
「お、似顔絵か」
そして素早く俺の手から取った。何をしやがる!
「う……」
広げた相沢は凍った。
近くにいた水瀬や他のクラスメイトも、つられて絵を覗き込み、次々に言葉をなくした。
「凄い……絵だね……」
水瀬がどうにかコメントした。
「凄いじゃなくてひどい絵じゃないか」
その発言につられて何人かが笑う。
今の発言は、相沢の声ではないような気もする。
だが、このタイミングでこんな事を言う奴は相沢以外に考えられない。
硬く握った拳は激しく震え出す。
栞は一生懸命に描いたんだ。
残念ながら、ひどい絵……と、言えなくもないような気がするのは事実なのかも知れないが。
「だがしかし、今時小学生でも描かない絵だな」
「なんだと!」
拳を、にやけた相沢の顔に叩きつけようと引いた。
まさに、その瞬間。
肩を誰かがすっと押さえた。
「いい絵じゃない」
振り向くと、美坂がそこにいた。
「技術じゃないわ。描いた人の心がこもっている暖かい絵よ」
美坂は、さらし者のようになっていた絵を手に取り、丁寧に巻いて俺に渡した。
「まあ、その通りだな」
相沢がすぐに美坂に同意し、他のみんなも美坂の言葉に納得したのか謝罪してきた。
教師が入ってきて、生徒たちはめいめいの席に着く。
ちらりと美坂を見た。
美坂は、あの絵が栞の描いたものだと知っていたのか?
それとも姉である香里には、そうと知らなくても栞の絵のよさが分かるのだろうか?
5時間目終了……。
「どうしておまえは、そんなにも清々しい顔をしていられるんだ。あたかも本日の授業をすべて受け終えた後のような」
相沢が呆れたように言う。やっぱりこいつは能天気だ。
栞が辛い思いをしていると思うと、能天気な相沢にはいらいらする。
「実際すべて受け終えたからな。お先に」
HRはすっぽかすことにした。このままここにいると、相沢を殴ってしまいそうだ。
「あ、ちなみに」
相沢の前に戻る。
「今日は、五時間目で終わりであることを忘れていて言ってるんなら、笑ってやるが」
「忘れていた」
「それは面白い」
俺には、この程度の皮肉しか思い浮かばなかった。
相沢並みに軽口をポンポンと連発する事はできない。
笑えてきた。
相沢の愚かさに、そして、それ以上に愚かな自分自身に。
相沢の前を立ち去る。
薄々とだが感じてた栞の背負った物、それによる苛立ちを相沢にぶつけているだけかも知れない。
栞は、あの中庭でどのような思いを抱きながら、校舎を見上げていたのだろう……。
……!?
まだ人通りの少ない廊下を走り、階段を駆け下り、冷たく重い扉を開けて、そのまま外に飛び出す。
既に帰っているはずだ。なのに、あの人影は……。
雪のキャンパスの上に立ち続けていた、ひとりの少女。
「……あ。潤さん、また会いましたね」
「何やってるんだ?」
「帰ろうとは思っていたのですが、同じ1年の人たちが、体育館に沢山の荷物を運び込んで飾り付けをしているのが見えて、大変そうですが、楽しそうなので見物してました」
「そうか。そう言えば舞踏会の飾りつけは一年の仕事だったっけ」
「舞踏会? あ、お姉ちゃんが話して……」
俯く。
「……何でもないです」
姉のことを口にするのは辛いのだろう。
あれからずっとここにいたのか。体は冷え切っているに違いない。
「これからどうする? もう放課後だけど」
「……そうですね」
「どっか、行きたい所あるか?」
「……」
何が見えるのか、校舎の方をじっと眺めているようだった。
「オレの知ってる場所で良ければ今から連れていってやるぞ」
「行きたい場所……」
しばらくの沈黙の後、ぽつりと呟く。
「……学校」
「学校がどうかしたのか?」
「学校に、行きたいです」
とつとつと言葉を呟く。
脳裏に栞のクラスメイトが語った話が蘇る。
『1学期の始業式に来て以来、ずっと欠席している事だけです……本当に、それっきりでした』
栞は校舎から視線を逸らす事もなく、どこか泣きそうな表情だった。
時折、笑顔の合間に栞が見せる表情
そして、そんな表情を覗かせたときの、栞の次の台詞はいつも一緒だった。
「……冗談です」
見せたくない表情を笑顔で覆い隠すように……。
「……潤さん?」
「今から行くか」
「……え?」
栞の小さな手を引っ張って、昇降口に向かう。
今日は舞踏会と無関係の部活や委員会はないため、他の生徒はさっさと帰宅し、誰もいなかった。
「見つからなくて済みそうですね」
「見つかったっていいだろ」
「え?」
「大体な、生徒が学校に来るのは当然のことだ、それを咎める教師こそ問題だろ」
「……そうですね」
とある教室、乱雑に教科書やプリントが突っ込まれた机。
かつては、そこが栞の席だったのだろう。
栞は、それを撫でながら呟いた。
「1学期の始業式の日、ひとつ前の席の人に、思い切って話しかけたんです。私もひとりだから、これから友達になろうって」
俯く。
「私、小さい頃から入院しがちであまり学校に来れなくて、友達もいなくて、周りに溶け込めなくて。その人も、私みたいに誰とも話せず、ひとりでいて。まるで、もうひとりの私のようで」
一呼吸置いて続ける。
「だから、これから変わろうって、いっしょに変わっていこうって思って。……その人、ほんの少しですけど微笑んでくれたのに」
「栞のこと、ずっと心配してたみたいだぞ」
「え?」
驚いたように、栞が俺の顔を見上げる。
「偶然、その子と会ったんだ。また教室で会うのを楽しみにしてるって言ってたよ」
「そうですか」
表情がほころぶ。
「ひとつ訊いていいか?」
「……はい」
一日しか来れなかったとは、どういう意味か?
言葉通りだ
医者に止められていたにも関わらず登校し
倒れた
それきりだった
ごく普通の学園生活を姉と共に過ごす
そんなささやかな夢すら、かなえられなかった
俺は、ある決意をしていた
百花屋にて俺はコーヒーを注文。
栞の注文は案の定……もう、何も言うまい。
ここは暖房が効いているから人間業の範疇 (はんちゅう)だ。
「舞踏会って、ちょっと憧れますよね」
「だったら、明日の舞踏会に出ようぜ」
「わ、わ、わたしは全然ダメですよー」
「どうして?」
「ドレスなんか、絶対に似合わないですし」
恥ずかしそうに自分のつま先をじっと見る。
「そうなのか?」
「身長と、胸が、その……」
言いよどむ。
「何とかなるだろ、背が低くても似合うドレスだってあるんじゃないか? それに、胸なら詰め物すればいい」
「そんなこと言う人、嫌いです」
「ごめん、でもさ」
「……?」
「オレは参加したい。栞とふたりでな」
「……え?」
バイト中……。
相沢が店に来て、ご飯と納豆を買っていった。
……勝手にするがいい。
学校中の廊下を納豆のプールにするがいい。
帰宅し、昨日の残りのビーフシチューを食べて、ベッドに横たわる。眠れるだろうか?
明日のために、体力を回復しておくために。
「潤〜? 起きとるか〜? 電話やで、美坂さんからや。……深刻そうだったで、早よ出えや」
閉ざされた校門の前に制服姿の美坂が立っていた。
「遅いわ」
「夜遅くに呼び出しておいて、いきなりそれか」
「……」
「話ってなんだ?」
「……」
「栞のことか?」
美坂はそれには答えず、手にした紙を広げた。
古い物なのか少々日焼けして、角は丸くなっている。
それに描かれた絵のタッチには見覚えがあった。
「これ、あたし……7年前のあたし。この頃は髪、短かったの。北川君が好きな子のような髪型だったのよ。妹が、あたしの誕生日にプレゼントしてくれたの」
ひと呼吸おいて続ける。
「あたしが貰った、妹からの初めての贈り物」
「……妹」
「そう。あたしの、たったひとりの妹」
妹。
今まで、かたくなに妹の存在を拒絶し続けていた美坂の口から出た言葉。
その言葉の重さ。そして、意味とは。
「妹は小さな頃から入院しがちで、学校にもあまり行けなくて。両親はそんな妹にかかりっきりで、妹が両親の愛情を一人占めしてるようで、あたしは妹に嫉妬して、避けて」
美坂はまるで物語を読むようにとつとつと話しはじめた。
「それなのに、妹は一生懸命にこれを描いてくれたの。入院中で、あたしにプレゼントを買いに行けないからって。体力落ちてて辛かったはずなのに、あたしの誕生日に間に合わせたいからって、苦しくてもベッドから起きて、笑って」
そう、これは美坂姉妹の物語だった。
「ようやく完成して、あたしがそれを受け取って」
ひと呼吸。
「あの時、あたしは生まれて初めて嬉しくて泣いたの」
美坂は自分が泣いたことを笑顔で語った。
だが、その笑みは、すぐに悲痛な表情に取って代わられる。
「あの子は、どんなに苦しくても泣かなかった。あの子が発作で苦しんでて、不安になったあたしが手を差し出したら、わずかな力で掴んで、微笑んでくれて。あたしも安心して、微笑む事ができて」
俯く。
「あたしがあの子を支えているつもりでいたけど、逆に、あの子にあたしが支えられていたの」
淡々と、だがかすかに震える声で語り続ける。
「面会時間が終わると、あたし、妹と離れたくなくってよく泣いたわ」
また、笑顔で自分が泣いたことを語った。
「妹はそんなあたしを慰めてくれた。あたしや両親が帰って、一人ぼっちになる妹の方が寂しくて辛いのに。だから、いつか元気になって、ずっと一緒にいようって、あたしたちは約束してた」
どんなときもクールに構えていた美坂が背負っていたもの。それはとてつもなく重いものだった。
「そうして、妹は入退院を繰り返して、進学する年、両親は凄く反対したけど」
途切れ途切れに、でもこみ上げてくるものを必至で堪えて語り続ける。
「あの子、どうしても、あたしと同じ、この制服が着たいって言って、初めて、両親に逆らったの」
制服のケープを固く握り締める。
「あたしと同じ制服を着て、あたしと一緒に、同じ学校に通って、一緒にお昼ご飯を食べる。そんな、本当にささやかな事を、あの子はずっと、切望していたの。……だけど」
「一日しか、学校に行けなかったんだろ」
小さく、よく見なければわからない程度に小さく頷いた。
「体が回復したから進学できた。あたしは、そう思っていた。でも、違った。学校も、制服も気休めだった」
「気休め?」
顔を上げ、俺に向きなおる。
「北川君、あたしに言ったよね? あの子の事好きだって」
「ああ」
「今でも?」
「ああ。そして、これからもだ」
お互いを叱咤するように、力強く答えた。
美坂は深く息を吸い、ためらいの後、口を開く。
「あの子に、『これから』はなくっても?」
「……どういうことだ」
「言葉通りよ」
俺の言葉を待っていたかのように、呟く。
「あの子は、医者に次の誕生日まで生きられないだろう、って言われている」
その言葉に、世界の全てが凍りついた。
『こう言うのってドラマでよくありそうなシチュエーションですよね?』
スケッチする時の栞の言葉が蘇る。
栞の明るい表情。
元気な仕草。
そして、雪のように白い肌。
残された時間……2週間もないじゃないか。
「でも、最近は体調も少しだけ持ち直してる。だから、次の誕生日は越えられるかもしれない」
「……それなら」
だが、俺の言葉はあっさりと遮られた。
「でも、それだけ。弱っていくペースが予想より少し遅かっただけ。何も変わらないのよ。あの子が、もうすぐ消えてなくなるという事実は」
悲痛な声で吐露する。
「そのことを、栞は知ってるのか?」
「知ってる」
「栞はいつから知ってたんだ」
「去年のクリスマスに、あたしが栞に教えたのよ」
俺が初めて栞に出会った、ずっとずっと前から……。
「どうして、そんな話をオレにするんだ?」
「あなたのこと好きだから」
俺の目を正面から見据えてそう言い、付け足す。
「……あの子は」
「どうして、栞に本当のことを教えたんだ?」
「……ばれた。秋に、あの子の容態が急変して、倒れて、その時に思わずこう言ってしまった。まだ誕生日じゃないじゃない! って」
秋、その頃から栞は自分の運命に気づいていたんだろうか。
「でも、その時はなんとか持ち直した。そして、妹がクリスマスに退院してきて、家族でお祝いして、あたしと一緒に寝て。その時に、あの言葉の意味を訊かれて。ごまかすこと……できなかった」
姉妹がともに寝る光景、傍から見ると温かい光景。だが、その中で告げられたものはとてつもなく重いものだった。
「どうして、栞のことを拒絶したんだ?」
「……笑うんだもの」
いつも気丈にふるまっていた美坂の姿は、そこにはなかった。
崩れ落ちそうになる美坂の体を支える。
「自分の運命を知っても、それでもあたしに笑うんだもの」
美坂の涙を見るのは初めてだった。
「泣かれたり憎まれるならまだ楽だった。あの子が笑うたび、あの笑顔が見られなくなる日のことを考えて、あたしは辛くなる」
もう、話すのも精一杯のようだった。
「大好きだから……あの子のことが大好きだから……」
俺の服をつかんだ両手が震えているのが分かった。
「こんなに辛いなら、最初から、妹なんかいなければよかったって……」
美坂の嗚咽の声が、夜の校舎に響いていた。
流れる涙を拭うこともなく、ただじっと泣き崩れる。
妹の前では決して見せることのなかったであろう姉の涙。
「北川君……あの子、何のために生まれてきたの……」
夜風にさらされながら、俺はその場所から動くことができなかった。
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