1月 30日 土曜日
「おはようございますっ」
元気な声で迎えられた。
恐る恐る、声のした方向に目を向ける。
「潤さん、どうしたんですか?」
思わず抱き締めたくなる。
昨夜、救急車のサイレンを聞いて、これ以上ないくらいに取り乱して、美坂になだめられて……不覚にも泣いて。
でも、どこかで疑っていた。
もしかしたら……と。
それが杞憂で済んだ証拠が、こうして目の前にある。
「変な潤さん」
お決まりの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、オレは変だ、変人だよ!」
そう言って、栞の頭をわしわしと乱暴に撫でる。
……恋も、変も、字は似たような物だ。
「ひどいですー」
「栞が心配させるからだ」
「私、何もしてませんっ!」
そんな他愛もない会話で、普通の……今日を含めて残り2日の、普通の日々が始まった。
放課後……。
HRが終わり、相沢がゆらり、と力なく立ち上がる。
今日一日、相沢は口を開くこともなく、ずうっとこの調子だった。
一階の廊下には大きな血溜まりがあったそうだ。
『何か』との戦いは壮絶なものだったらしい。
「……北川君、元気?」
美坂は少し疲れたような微笑みを浮かべていた。
栞のことで美坂だって疲れていただろうに、俺が取り乱して電話で叩き起こしたのに、優しい言葉をかけて、なだめてくれて……。
今も、こうして気を遣ってくれている。
「ああ、ありがとう」
「栞に本当に何かあったら、その時こそ電話するから。寝てたら叩き起こすし、バイト中なら店長さんブチのめしてかっさらってくから安心して」
叱咤するように、笑顔で力強く言う。
「ゆっくり寝て、体力を回復させて、楽しい思い出を作ってあげて」
感謝の気持ちは、言葉にならない程に大きかった。
「さ、行きなさいよ、栞が待ってるわ」
「……ああ」
ガシャ―ン!
ガラスが割れる音で会話が中断する。
「何……今の!?」
「……まさか」
『何か』かっ!?
割れる音は断続的に続く。
騒ぎ声が広がり、破壊音も絶え間なく続く。
廊下に出ると、階段を降りていく者が数名いた。
後を追い、一階に降りると角の当たりに人混みができている。
それを掻き分け、抜けると……。
川澄先輩!?
剣を滅茶苦茶に振り回し、周りの物を破壊し続けている。
誰も近寄れない、止められない。
汗か涙かわからない物を飛び散らせ、髪を乱し、鬼気迫る表情で暴れ続けていた。
だが……それでも川澄先輩だった。
栞が作った卵焼きを無愛想だが旨そうに頬張っていた、あの川澄先輩だった。
回りを見回すが、先輩のいないところでの破壊は見うけられない。
ここに『何か』はいない。そう直感した。
これは戦闘ではなく、ただの破壊だった。
昨日、何があったかは分からない。
もしかしたら、昨日の救急車が関係しているのかも知れない。
とにかく、先輩は自棄になっていた。
「通してくれっ……!」
相沢の声だった。
「このっ、どけってんだよっ!」
人ごみから飛び出した。
「舞っ!!」
相沢が叫んだが、先輩の破壊活動は止まらない。
再び、剣が窓ガラスに振り下ろされる……まさに、その瞬間。
先輩の真正面から相沢が飛びついた。
ドグッ!
鈍く、大きな音に思わず目を瞑る。
他の生徒のざわめきもなくなった。
破壊の音も止まった。
目を開けると……剣の柄が相沢の腰に当たっていた。
打撃は相当な物らしく、相沢はうめき声を上げ、崩れ落ちそうになるが持ち直し、先輩に何かを囁く。
先輩は息を荒くしたままうつむく。
相沢が先輩の顔を強引に引き寄せ、正面から向き合った。
相沢の言葉は続く。
「失いたいのかっ……!」
しばしの沈黙の後、相沢が先輩の手を離した。
先輩は、ふらふらとした足取りで俺の……いや、俺の周りに広がる人混みの前まで歩き、立ち止まり、深々と頭を下げた。
「……お騒がせしました。ごめんなさい」
異様な、どよめきがあがった。
そして、相沢が先輩の肩を支えながら去っていった。
一体、何だったのだろう……?
今日は土曜日なのに栞は弁当を作って来た。学食で栞とその弁当を食べる。
他愛の無い会話。
好きなドラマの話。
弁当のおかずの解説。
友人の話。
これからどこに行くか。
『これから』
栞には、明日までしかないのに。
悲壮さは追い出して、どこにでもいる恋人同士の会話を続ける。
「あ、チョーサクさんです」
栞の目線を負うと、カウンターに相沢がいた。
訂正する機会も、その必要も、もうないだろうな。
相沢は牛丼を2杯、トレーに乗せて、ゆっくり、慎重に歩いて行った。
栞が相沢に会う事はないだろうな。
……もう、これっきり。
あの時、転校してきたばかりの相沢と話して、電話番号の件で謝罪して……。
あゆに出会って……。
あゆに引きずられて行った相沢を追っかけて……。
栞と出会った。
俺は、相沢とあゆが居なかったら、栞とは出会えなかったんだな。
そう言えば、あゆの背中には羽がついていたな。
まるで天使のような羽。
……あゆは、俺と栞の、恋のキューピッド……。
滅茶苦茶恥かしい想像をしてしまった。
「潤さん、どうしたんですか?」
「いや、その、相沢とあゆには感謝しなくちゃな……って思ってさ」
「……そうですね。ふたりのおかげで、私たちは出会えたんですから」
「そうだな」
栞の顔は深刻なものになる。
「チョーサクさんと川澄先輩、どうしたんでしょう?」
「……見てたのか」
「はい……心配です。私が作ったお弁当、美味しいって言ってくれた人ですから」
入院しがちだったから、人との出会いは限られていたんだな。
だから、少しでも関われば、すぐにここまで心の中に入り込んでしまうんだろう。
「大丈夫だよ。相沢が傍に居れば、大丈夫だ」
「……そうですよね」
他愛もない話をしながら商店街を歩く。
どこか遠出をすればいいとは思う。
だが、それは明日だ。
最後の……朝からずっと一緒に居られる最後の日のために、体力を温存させてやりたかった。
それに、今日はバイトがある。
「……潤さん」
俺の腕にしがみつくようにして歩きながら、栞が俺の顔を見上げる。
「私たち、立派な恋人同士に見えますよねっ」
「立派……か、どうかは疑問だがな」
「そうですね」
特別なことなんて何もない。
他人が見れば、どこにでもいる人目をはばからずいちゃつくカップルにしか見えないだろう。
だが、人それぞれ、沢山の物を背負ってるのだと気付く。
他人ならくだらないと思うような事でも、俺たちにとっては大切な時間。
そして……。
「栞、楽しいか?」
「楽しいですよ。すっごく。でも、私が楽しいだけではダメです。側に居てくれる人が、 同じ時間を一緒に感じて、一緒に楽しんで、それで初めてかけがえのない思い出になるんです」
「そうだな」
「潤さんも楽しいですか?」
「ああ」
栞は深く息を吸い、ためらいの後、口を開く。
「……後悔、していませんか?」
その問いかけを無言で否定するように、栞の細い腕を掴み直す。
「え……わっ!」
そして冬の喧噪の中、商店街を走る。
最後の最後まで、普通に……。
バイトに行く。
明日、本当に一日中栞と一緒にいるためにシフトを変えてもらったのだ。
もうそろそろ上がり、という時間だった。
相沢は来ない。
いつもの時間に、夜食を買いに来る事はなかった。
戦いがないわけがない。
相沢に説得された川澄先輩は立ち直り、いつもの先輩に戻っていた。
だから、今夜も戦っているはずだ。夜食が必要なはずだ。
それとも、別の店で調達しているんだろうか?
川澄先輩は牛丼が好物のようだった。
だから、また牛丼を夜食にしたのだろうか?
だが、前に相沢が牛丼を買っていた店は、今夜は店舗の改装のために休業だった。
などと考えていたらドアが開いた。
「いらっしゃいま……」
反射的にそこまで言ったところで視界に異様なものが飛び込んできた。
惰性で挨拶が続く。
「……せ!?」
相沢だった。
「お、おい! どうしたんだ?」
今夜は比較的寒い方だ。にも関わらず上着は羽織っておらず、着ているセーターはボロボロになっている。
更に、血や胃液と思われる液体で汚れていた。
顔はあざだらけで、口には血の痕が付いている。
「……」
満身創痍だが、それでも相沢は力強い微笑みを浮かべた。
「……やったか! 戦いは終わったんだな?」
「……ああ」
そう言って、足を引きずりながら弁当のコーナーへ歩いて行く。
膝はざっくりと切れていた。
「……おい、ちょっと待ってろ! 救急箱がある。手当てを……」
「……待っているんだ、あいつが」
カウンターに牛丼弁当を2パック置いた。
「……分かった」
レジを通し、相沢は去っていった。
バイト帰りに見知った顔があった。
真琴だった。
「おーい……」
……!?
一瞬透けたような気がした……が、幻影でも何でもなく、普通にそこに居た。
「今日は肉まん買いに来なかったな。さすがに飽きたか?」
「あう……?」
……!?
何か様子が変だ。
「ぴろ……どこ……?」
ふらふらと、足取りがおぼつかない。
足の動かし方を忘れ、歩き方を必死に思い出そうとしているような、ぎこちない足取りだった。
「うーっ……ゆ……いち……」
「大丈夫か? 熱あるんじゃないか?」
そう言って、額に手を当てようとした時に雪混じりの突風が吹き、目をあけると……そこには誰も居なかった。
真琴……一体どうなったんだ?
不安になり、水瀬の家に連絡を入れるが留守電だった。みんなで探しているのだろうか?
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