1月 23日 土曜日
相沢は大人しく授業を受けている。
あんな事になって少しはへこんだらしい。
久瀬のことを話しておくか……とも思ったが、久瀬のシナリオがどのような物か、不謹慎だが楽しみなので放っておく。
久瀬は相沢の性格を見抜いたと言っていたから、アドリブでなんとかなるだろう。
変にバラせば計画が狂うかもな。
……。
俺の方が意地悪だな。
これから協力してもらおうとしている相手なのに。
放課後、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「こうやって空を見上げていると……時間が止まったように思えるのよね」
四角い窓に、美坂の姿が映っている。
「……本当に時間が止まるわけ、ないのにね」
美坂の表情からは、あの夜の面影を感じることはできなかった。
「美坂……」
「何? 北川君」
「午後から部活か? 昼飯食いに行かないのか?」
「……あんまり食べる気にならないの」
そう言って首をすくめる美坂は、少しやつれて見えた。
「北川君はどうなの?」
「昨日は苦しくなるほど食わされたけど、今日は程々になると思う」
「……そう」
「なぁ、美坂……」
「何?」
「……まだ、栞のことを避けてるのか?」
「……」
「栞は、今を精一杯生きてるんだ」
「……」
「残された時間があとどれだけか、なんて関係ない」
胸の前で組まれた美坂の手に力がこもるのが見えた。
「最後まで、栞のことを妹とは認めてやらないのか?」
「……北川君」
「……」
「あたしは……栞なんて子、知らないわ……」
「……分かった」
美坂が立ち去る。
今、追いかけても仕方ない。
少し待った後で廊下に出た。
廊下では、テロリスト予備軍の女と相沢が何やら言い争っていた。
女は『倉田さん』『懐柔』『デモストレーション』『暴挙』『糾弾』といった単語をわめき続けている。
どうやら久瀬の茶番は開幕したらしい。
「何もわかっていないのは、あんたたちのほうじゃないのか」
そう言い放ち、相沢は駆け降りていった。
「ちょっと、待ちなさいよっ!」
取り残されたテロリスト予備軍の女は、なおもヒステリックにわめいている。
さすがに、あの相沢も付き合う相手は選ぶようだ。少しは見なおした。
俺も相沢を追って昇降口の外に出る。
人だかりの大きさで久瀬の熱演振りがうかがえる。
「あ……あははーっ……」
久瀬の隣で、倉田先輩が戸惑いながら笑っていた。
さすがに、これだけの注目を浴びると平常心は保てないのだろう。
『生徒会に新しく……彼女を名誉会員とし……』
なるほど。議員のお嬢様である倉田先輩が生徒会入会と交換条件に、親友である川澄先輩の復学を迫った……という設定か。
久瀬の言う通り、怪物退治のためなんて誰も信じないと思うだろうし、生徒会の連中は自分自身の間違いを認めたくないのだろう。
議員のお嬢様の力があったんだから復学も仕方がない……そういう事にして納得させようとしたのか。
「もしかしてカップル宣言か?」
などと言っている奴もいる。
いいぞ、そういった下世話な噂が立てばそれだけ『何か』に関してはうやむやになる。
「佐祐理さん!」
お、ヒーローの登場か。
相沢は人ごみを掻き分けて飛び出していた。
「こいつは佐祐理さんを利用してるだけだぜっ」
まあ、利用はしているだろうな。
川澄先輩を助けるために。
「ほんの少しの間ですよ」
そう、ほんの少し、この茶番劇の上演の間だけだ。
周囲がざわめいた。
川澄先輩だった。
「舞、佐祐理さんは、おまえのために……わかっているのか?」
確かに川澄先輩のためだが……相沢もわかってない。
川澄先輩を見て、久瀬の演説が止まった。彼女の存在が気になって取り乱すのだろうか?
……と、思ったら、一旦深呼吸し、口を開いた。
「彼女の親友である川澄さん、あなたのこともこれで少しは理解できるようになりますかね」
凄いな。あれほど自分自身の色恋には取り乱していた久瀬が、役員の仮面を被ると、こうも冷静になるとは。
ビュッ!
空が切れる音がした。驚いて、音のした方を見る。
川澄先輩の何も持たない手が、水平に薙がれていた。
赤い……血!?
川澄先輩の目の下が切れていた。カマイタチか?
「……許さないから」
さっきの手刀が拳になる。
「佐祐理を悲しませたら、絶対に許さないから!」
悲しませたりはしない。久瀬はそんな奴じゃないし、そうする理由がない。
周りは水を打ったように静まり返っていた。
やがて、川澄先輩が身を翻した。
そして、相沢がそれを追っていく。
「……主演女優さん、お疲れ様」
久瀬がそういった後、小声でよく聞き取れないやり取りが始まる。
「はい。久瀬さんもお疲れ様。色々とありがとうございました」
倉田先輩が咳払いしてはきはきと答え、久瀬に頭を下げた。
そして……。
「あ、待ってよ、舞っ」
倉田先輩も、相沢たちの後を追った。
久瀬は、ため息をつくだけで精一杯のようだ。
川澄先輩のためにここまでしたのに……彼女は事情を知らないようだが、これでは報われないな。
久瀬は、失恋ってことになるのかな。
……そっとしておいてやるか。
久瀬は難儀な立場である。
後で聞いた話では、倉田先輩とは親同士が親しかった事と、彼女が一時的に生徒会に所属していたために、あらぬ関係を噂されていたそうだ。
その上に、反生徒会の連中が川澄先輩を反体制の英雄に祭り上げたのと同時期に倉田先輩が生徒会を辞めたため……。
『倉田先輩が川澄先輩をかばうスキャンダルが元になって辞めた』ということになってしまったそうだ。
それを反生徒会の連中が余計な勘繰りをして、今に至るらしい。
この茶番劇は久瀬自身の立場を益々厄介な物にしてしまうだろうに、川澄先輩のためにあえて、汚れ役を買って出たのだ。
漢である。
いや、そもそも久瀬が生徒会に入ったのは川澄先輩を護るためだったのではないだろうか?
昨日、久瀬はこう言っていた。
『これまで僕がやってきた事を川澄さん自身の手で台無しにされてしまった』
あの時は、こつこつと準備を続けてきた舞踏会を川澄先輩に台無しにされたのだと思っていたが、久瀬がやってきたこととは川澄先輩の弁護だったのかもしれない。
魔女狩りのように犯人と決め付ける連中を生徒会内部から抑え、川澄先輩を護っていたからこそ、停学程度で済んでいたのかもしれない。
売名行為のために栞を利用したのも、川澄先輩を護るために内部での更なる発言力を求めての事ではないだろか?
俺は、そう思うのだ。
ちなみに、倉田先輩の生徒会脱会の真相は……。
『あははーっ♪』
『あはははーっ♪』
『あははははーっ♪』
倉田先輩の、あまりの善人さと天真爛漫さ(早い話が能天気)に、生徒会は調子を狂わされまくったらしい。
川澄先輩の素行など関係なく、『倉田佐祐理は役員として不適格なので辞職した』それだけの事だったそうだ。
余談だが、あれから久瀬は、倉田先輩……正確には、倉田先輩といつも一緒にいる川澄先輩と廊下で出会っても、逃げるように足早に通り過ぎてゆくらしい。
久瀬の話では、川澄先輩は相沢が転校してきて共に行動するようになってから、心から嬉しそうな顔をするようになったそうだ。
そんな表情は、これまで見ることは出来なかったらしい。
しかし、嬉しそう……なのか? 俺にはいつもの無表情にしか見えない。
分からん……。
まあ、川澄先輩に想いを寄せる久瀬にはわかるのだろう。愛の奇跡とか言うやつに違いない。決定。
とにかく、久瀬はそう言うわけで、川澄先輩には相沢の方が似合いだと割り切り、きっぱりと身を引いたのかもしれない。
久瀬はやっぱり漢である。
いや、案外……久瀬は前々からあんな態度だったのかもしれない。
自分自身の色恋に関しては奥手な久瀬は、それこそ高嶺の花のように遠くから見ているだけで、一歩間違えばストーカーと誤解されるような行動しかできなかったのかもしれない。
俺は、そんな不器用な久瀬をとりあえず応援している。
「潤さんっ」
衝撃を感じ、振り向くと……栞だった。
「ふう……やっと会えました」
「何だ、今頃来たのか」
「何だ、は酷いです。人ごみに阻まれて動けませんでした」
「それはご苦労さん」
「……で、何だったんですか?」
「ま、色々とな。でももう終わった」
「そうですか。よく分かりませんが、よかったです」
昼飯は……。
幸い、予測通り手作りの弁当ではなかった。
今日は土曜日、午前だけだから当然ではある。
百花屋にて、恐らくパフェと思われる大げさな名前の物を注文する栞。
無難にコーヒーを注文する俺。
下手すれば、女の子と1つのパフェを食べる恥かしい状況になる。
カランッ
店内にドアベルの音が響き渡る。
「あたし、やっぱり帰るわ……」
「わ。いきなり出ていかないでよっ」
「あんまり、こういう店に入りたい気分じゃないのよ……」
「今日はわたしがおごるから、ここのイチゴサンデーが、すっごくおいしいんだよ」
「知ってるわよ。何度も来てるんだから」
「この頃お昼も食べてないでしょ、何か食べないと体まいっちゃうよ」
美坂を引き止める水瀬は、悲痛な表情だった。
頼まなくても、ここに連れて来てはいたんだろうな。
「……分かったわよ、そこまで言うな……ら」
そこで美坂は視線をこっちに向けた。
「……お姉ちゃん」
栞が、ぽつりと言葉を漏らす。
誰にも届かないような、消え入るような声だった。
よし、ここまでは計画通りだ。
「よっ、水瀬と美坂じゃないか。こっち空いてるけど、一緒にどうだ?」
「……あ」
「……」
美坂は沈黙を保っていた。
「うん。わたしはいいよ」
「美坂は?」
「……」
なおも沈黙を保つ。
「……」
栞もまた、不安げな顔で姉を見ていた。
今度こそ、うまく行ってくれ。
俺は、酷い事をしているのだろう。けど……。
美坂の顔がゆがむ。
栞のためなんだ、頼む。
「……分かったわ」
美坂は抑揚のない声で頷いた。
良かった。本当に良かった。
「えっと、初めまして……かな」
「……初めまして」
「わたしは水瀬名雪、北川君のクラスメイトだよ。で、こっちは、美坂香里」
「……」
沈黙を保つ美坂。
「私は……栞です」
栞は名字を言わない。そして水瀬は何かを察したのか何も訊かなかった。
「注文したらどうだ?」
「あ、そうだね」
水瀬の注文は……案の定イチゴサンデー。
学食では、イチゴのデザート目当てにAランチにこだわるだけはある。
美坂はオレンジジュース。
水瀬は、食べる物を注文しない美坂を心配そうに見ていた。
水瀬は他愛もない話題を栞に振る。
最初は緊張気味だった栞も、いつの間にか馴染んでいた。
水瀬を間に挟んで正解だった。
「あ、来ましたよ」
そう言った栞の明るい表情は凍りつく。
バケツサイズの巨大なパフェ。
元々数名で食べる物なのか、パフェにはスプーンが4つついている。
水瀬と栞は意を決して取りかかるが……。
美坂は手をつけない。
いなくなる辛さを味わうくらいなら、最初から妹なんていなければいい。
美坂にとって、栞を妹として認めるということは、逃れられない悲しみを受け入れるのと同じことだった。
悩んで、苦しんで、そして……絶望した先にあった答え。
俺とは反対の選択をした美坂。
今、その心の奥にある感情はなんだろう……と、ふと考える。
無理やり栞と同席させた俺を恨んでいるだろうか?
でも、本当にそうならば、美坂はここにはいないだろう。
パフェは全然なくならない。
残りは俺が片付けることにする。
お袋のしつけが厳しかった俺には、残すことなど本能的にできない。
バケツほどもある器を抱えて戦闘を開始する。
俺の体温を容赦無く奪って行くアイス、フルーツ、生クリーム、シロップ、etc……これらが喉から侵入してくる。
「減ってきたよ……」
「凄いです……」
水瀬と栞の感嘆の声もはるか遠くの世界の出来事に思えた。
頭が痛い、胃が冷たい。もう、味覚を感じない。
だが、意地で食べ続けた。
女の子と一緒にひとつのパフェを食べる……。
想像するととても恥ずかしい姿だったが、実際に体験してみると恥ずかしいと言っている余裕さえなかった。
弁当といい、この氷の塊といい、栞と居ると俺はいつか太りそうだな。
……太るくらい、何てことないか。『いつか』があるなら。
「あと少し」
と、水瀬。
「あとふた口です」
と、栞。
「……あと、一口」
と、美坂。
「ゴールっ……」
と、俺。
視界が暗転する。
「北川君、凄い……」
「おめでとうございます」
「……呆れた食欲ね……」
賞賛……か、どうかは分かりかねる言葉でようやく意識が回復する。
「ふっふっふっ、恐れ入ったか」
顔を上げて勝ち誇った。
「顔にクリームついてる」
「シロップも2色ついてます……」
「顔……真っ青よ?」
「やかまし……」
と、そこである変化に気づく。
「……い?」
「ふたりとも、笑ったら……駄……目……あはは」
「ホントです……くっくっくっ……」
「北川君ったら……おかし……い……」
水瀬と栞に加え、いつの間にか美坂も笑っていた。
無表情だった美坂が笑っていた。
姉と妹が、ひとつの風景の中で笑っていた。
みんな笑っていた。
店を出る。
「楽しかったです。みんなで一緒に食事できて、本当に嬉しかったです」
「そうだ、今度一緒にお昼食べようよ」
「私でもいいんですか?」
「もちろんだよ。だって、北川君の彼女でしょ?」
「……え」
あっさりと言われた。
「あ、私たちは邪魔だったかな?」
「あ、あの……」
「可愛い子だよね。お似合いかな」
一年前のことを気にする事もなく、水瀬は素直に祝福してくれた。
「……見る目がないわね」
「……」
美坂の呆れたような声に栞は複雑な顔をしていた。
「余計なお世話だ」
俺は憮然とした声で答える。
「余計なお世話じゃないわよ。だって、栞は」
ひと呼吸置き、口を開く。
「あたしの妹なんだから……」
「……え」
一度も栞と目を合わせようとしなかった美坂が、妹の顔を温かい目でじっと見つめていた。
「じゃあ、名雪に付き合う用事は済んだからあたしは帰るわ」
そのまま、すたすたと歩き出した。
「……」
「ほら」
呆然としていた栞の背中を押す。
「……」
こく、と頷き、美坂の後を追い駆けていった。
「待って、お姉ちゃん!」
が、途中で立ち止まり……。
「また明日……」
途中で言いよどむ。
「は、ずっとお姉ちゃんと一緒に居たいんで、明後日です」
そう言って、改めて美坂を追い駆けていった。
「こういう事だったんだ。授業中、祐一からこんなメモ渡された時は何かと思ってたよ」
水瀬はそう言ってポケットから紙片を取り出し、広げた。
『名雪は香里の親友だな? それなら香里を連れて百花屋まで来てくれ』
相沢は、俺の頼みを聞いてくれたんだな。
あいつも大変だったのに、こんな俺の頼みを。
……。
『親友』……か。俺にとって相沢って……。
「北川君、どうしてこんな回りくどい事したの?」
「オレは美坂から警戒されてたからな。前に直接話して失敗したんだ。だからオレの差し金とは気付かれたくなかった」
舞踏会の前日、美坂から栞の話を聞いた時に舞踏会に誘ったのだ。
「そうだったんだ、祐一を挟んで正解だったね。わたしに直接話してたら態度に出てばれちゃったと思う」
水瀬は、ちゃんと自分を理解しているんだな。
「水瀬は知ってたのか? 美坂……香里と、妹の栞のこと」
「ううん、妹がいたって事も知らなかったよ。香里は、自分の事あまり話さないから」
「そうだったな」
「でも、香里が何か悩んでるのは気付いてた。祐一も気付いてたみたい。前に祐一と百花屋に行った時、中庭に来る栞ちゃんと香里のことを訊いてきたの」
前に百花屋から相沢と悲しそうな顔の水瀬が出てきたのを見たっけ。
「そして、最近は北川君と香里が、香里の妹のことで言い争っていたから、祐一から香里を呼び出せってメモ貰った時は、もしかしてって思って」
「……そうか」
「妹は居ない……なんて悲しい事言っちゃうくらい深刻なケンカだったみたいだね」
「……ああ」
「あのふたり、これからは仲良くできるといいね」
「……だといいがな」
美坂が栞の運命を知ってから今まで続いたわだかまりがそう簡単にほぐれるとは思えない。
後で俺を恨むかもしれない。
だが今は、美坂が栞を妹と呼んだ、それだけでも十分だ。
そう思っていたら、水瀬は遠ざかる美坂姉妹に羨望のまなざしを向けて言った。
「でも、ちょっと羨ましいかな」
「……何でだ?」
ふたりとも、あんなに辛い思いをしているのに。
……って、水瀬は栞の病気の事とかは知らないか。
「わたし、妹が欲しかったから」
ポツリと呟く。
「でも、お父さん……わたしがまだお母さんのお腹の中にいる間にいなくなっちゃった」
……!!
「会いたくても絶対に会いに行けない、遠い、遠い所に行っちゃった。だからわたしはずっと一人っ子だったんだ」
そう言って寂しげに笑った。
「……そうだったのか」
以前、相沢と呑気な会話をする水瀬を見て、軽々しく『お気楽な人生送ってる』などと考えた自分を恥じた。
俺こそ、何も分かってなかったんだな。
母子家庭は辛いという決め付けこそ傲慢だとは思う。
水瀬の素直さと優しさは、母親からの愛情をふんだんに受けることができた幸せな家庭の証なのだから。
でも、苦労を知ってるからこその強さとも思えるのだ。
「だからね、わたしの家に真琴が来てくれて嬉しいんだ」
弾んだ声で言う。
「妹ができたみたいで楽しいの」
「そうか、真琴はいい子みたいだからな」
「うん、とてもいい子」
満面の笑顔でそう言った。
血が繋がっていても拒絶してしまう姉妹。
姉妹のように接していても他人同士。
……家族って何なんだろうな。
「本当は、こんなこと考えちゃいけないんだけど」
水瀬の笑みが消える。
「ずっと真琴の記憶が戻らないで、いつまでもわたしの家に居てくれたらなって考えちゃうの。真琴の本当の家族は、今でもすっごく心配しているはずなのに」
「なぜ、そう考えるんだ?」
「記憶が戻ったら、真琴は本当の自分の家族の所に戻るから……会おうと思えば、会えるんだろうけど。記憶を失っている間の、わたしたちの事を逆に忘れちゃうんじゃないかって、そう思うと」
記憶が回復すると、記憶を失っている間の経験は本来の記憶に上書きされるように失われてしまうと聞いたことがある。
「大事な思い出を忘れられてしまうのってとても悲しいことだから、祐一みたいにケンカするほど仲良くしたくてもできないんだ。お別れが悲しくなる……そう考えちゃって、どうしても距離取っちゃうの」
再会はできても、自分が知っている真琴ではなくなっている。
相手が自分のことを忘れて、共有してきた時間の全てを失ってしまう。
それは、この世からいなくなるのと変わらないのかもしれないな。
「……これじゃ、お姉ちゃん失格だね」
水瀬も、美坂と似た悩みを抱えていたんだな。
「そうでもないだろ」
「……え?」
「それだけ、真琴のことを大事に思ってるんだろ?」
「……うん」
「もっと素直になってさ、今の真琴がいなくなるまでの間だけでも、楽しい時間を作ってやるのは決して無駄な事じゃないと思うぞ」
それは、栞と俺の関係にも言えることだった。
「それに、忘れてしまうとは限らないだろ。それだけ大切に思われているんだから。真琴は、そんな優しい『お姉ちゃん』のことを忘れてしまうような、薄情な子じゃないんじゃないか?」
「……ありがとう」
水瀬はそう言って照れていた。
一年前、俺は水瀬に告白した。
あの時に俺が水瀬に抱いていた想いは誤解で、すぐ寝る水瀬を不安に思っていたのを恋と勘違いしていた……と思ったが違った。
やはり、あの時の俺は水瀬に惚れていたんだ。こんな優しさを持っていたからこそ、俺も他のみんなのように水瀬のことが気になっていたんだ。
このことに気づいてようやく、水瀬への想いに完全に整理がついたような気がする。
そのとき、水瀬はふと、視線を遠くに向けた。
そこにいたのは相沢とふたりの先輩だった。
三人はこちらに気付く事もなく立ち去って行った。
「祐一、お昼をあの先輩たちと食べるようになってから夜遅くに出かけるようになったの」
悲痛な顔で続ける。
「そして、よく怪我してくるの。わたし、祐一の力にはなれないのかな?」
相沢は水瀬に『何か』の事は話してないのか。
「水瀬を巻き込みたくないだけだろ」
「そうだね……」
よかった、変に食い下がられ、真相を知ったら水瀬が巻き込まれることになる。
「きっと、近いうちに決着は着くさ。だから相沢を信じて待つんだな。7年も、あいつの事を待ってたんだろ?」
「……うん、ありがとう」
信じて……か。
俺は、相沢のことを疑っていたのにな。
バイト中、相沢が来た。
煎餅のバーコードを読み取る。
「……百花屋の件、ありがとうな」
「俺を挟んで正解だったな。名雪に目的話してたら、態度に出て香里にばれてただろう」
「やっぱり、そう思うか」
そう言って笑い合う。
扉を抜ける相沢に一言。
「頑張れよ」
それに対し相沢は力強く答えた。
「お互いな」
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